マジックハンマー

 若い二人はそろって血圧は平均的で、だから早起きは普通に辛い、それでも、どちらかは先に起きて、もう片方を揺すり起こして、約束されたキスをする、しかしその約束もいつしか当たり前のものへとなっている、起こして目を開いたら唇を重ねるのが習慣になっているので、難しく考える必要の無い関係にまでなったのだと嬉しく思う。

 透き通るような朝、白い息で温ませながら霜柱を踏んで、この時間は誰に憚ることなく手をつないで、リトルピープルの餌探し。身体は末端から冷たくなる、エブラは身体のヘビの部分がすぐがちがちに冷たくなってしまう、ダレンが案じて手のひらで包む、目覚めの良い朝などは口に含んでくれたりもする、そうして、餌探しが全く捗らない。その朝もそうだった、エブラの戸惑うのを面白がって水かきに沿って指を舐め、エブラがその気になる寸前でにっこり微笑んで「探しに行こう?」、その無邪気な微笑みに秘めたる小悪魔の素質、流石に吸血鬼。

 と、不意に開いたドアの音に、二人は身を強張らせ、咄嗟に歩き始める。まるでずっと普通に歩いていたかのように、ちょっとした距離感を醸したりなどしつつ。自然なふりをして振り返って見れば、開いたドアはコーマックとハンスが寝泊りするトレーラー。眠そうな目を擦りながらふらふらと、あくびをしながら、暗い目で煙草を咥えるハンス、目の下に濃い隈が出来ていて、顔色の悪いこと甚だしい。

「……おはよう、ハンス」

 エブラの挨拶にも、憂鬱そうな顔で小さく頷いただけ、ほとんど眠っていないらしいことは説明されなくとも判る、トレーラーのドア口に腰掛けて、不機嫌そうに吸い込んでは吐き出す。コーマックはどうしたのだろうと思って見ていれば、トレーラーの中から、「さむいよ」と寂しそうな弱気な声で言った、コーマックの声も少しく粘り、濁っていて、寝不足を感じさせる。

「布団かぶってればいいだろ」

 ハンスは棄てるように言って、また煙草を吸い込む。あまり関わるべきではないらしい、エブラとダレンはそう判断して、大人しく近くの街道沿いの林へと足を向けた。

 その後姿、わざわざ微妙な距離を作って歩いていくのを、ハンスは忌々しく思う。気が立っているからそう思うわけで、二人には申し訳ないと思うが、今は仕方が無い、激しく睡眠不足なので。

 馬鹿なことをしてしまったと後悔している、さっさと寝てしまえばよかった、つまらない感傷に浸っているうちに寝る機会を逸して。寒い寒い、お寒い朝だ、自分が思いのほか馬鹿なのだということを思い知って、ハンスは益々とげとげしい気持ちになる。煙草を足元に棄てて親の敵のように踏み潰し抉り込む。

「……コーマック、二度寝するのか?」

 尖った声という自覚があるが、今はどうしても丸くはなれない。

「……いや……、起きる、今寝たら逆にしんどいから。おまえは?」

「おれは」

 早くも次の煙草。頭ががんがんする。

「もう一度寝る。……ベッド借りるぞ」

「あ……、うん、わかった。おれ出るから」

「……うん」

 いいじゃないか一緒に寝れば、もう、何も遠慮することなんて無いだろう? おまえはおれが好きなんだろう? おれが必要なんだろう? おれだっておまえのことは嫌いじゃない。

だったら、十分じゃないか。

「コーマック」

「あのさ」

 同時に喋りだして、また空気が微妙に変化する。

「なに」

「なんだよ」

「……」

「……いいよ、おまえから言えよ、なんだよ」

「いや、あの……、朝飯、食う? 食うなら用意できたら起こすけど……」

 ハンスは憮然として、頷いて煙草を消すと室内に入った、入れ替わるようにコーマックは立ち上がり、出て行った。

「それであの、おまえの用ってのは?」

「……知らん」

 朝飯できたら起こせと、言おうとしていたのだ。

 嬉しいと、思うことが腹立たしく鬱陶しい。

「じゃあ……、おやすみ」

 コーマックの言葉に返事をしないで向こうを向いて、とても温かい布団に入る。

 コーマックに包まれている。

 こういう形を望んでいるのだろうか。おれが抱かれる側なんだろうか。コーマックはエブラを抱いていたから、スムーズに行けばそうなるだろう。抱かれるという行為は未経験だ、どうなるんだろう、痛いのかな、苦しいのかな、正直、ちょっとだけ怖かったりする、絶対にそんなこと、言いはしないつもりだが。

 コーマックの布団が温かい。

 和みそうな自分が煩わしい。

 意地でも自分は、自分からは、言わないのだろう。ハンスはそう想像する、絶対に自分からコーマックのことが好きとは言わない、それは、何の得にもならないし、いつか自然消滅するのかもしれない、けれど、自分は言わない、言わないのが自分のプライドであり、意地である、損な事になりそうだけれど、ハンスは自分がそういう人間であることをよくわかっていた。

 目を閉じてしばらくする、コーマックの匂いが鼻の奥に馴染んでくる、このところ、ずっと同じ部屋で生活していても、これほど近くに感じたことは一度もなかった。

 眠りに落ちた。

 

 

 

 

 約束どおりにコーマックはハンスを起こした。はじめ、声をかけ、それでもノーリアクションだったので、揺すって。向こうを向いて眠りに縋りつくので、腕を引っ張って起こした。とても眠そうな顔で、コーマックを見て、――寝不足故とコーマックは判断したが――不機嫌に、起き上がった。

「お、おはよう」

「……ああ」

 ハンスには「無い物」がいろいろあるなとコーマックは時折、絶対口には出せないが思うことがある。少なくとも、ちょっとした優しさを自分に向けて出してくれることはまずない。表面的にでも出してくれたならずいぶん楽なんだけど。しかしそんなことを言ったら口をきいてもらえなくなるかもしれない。友だちとして側にいてくれるだけで十分幸せなのにだ。

 ハンスは布団の上に座って、ぼんやりと、俯いている、相変わらず無愛想不機嫌。最近コーマックといて笑っていないなと思った。

 中途半端な眠りのせいで、なおさら頭がずしんと重たく感じられる。

 そして、血液がどろどろに思える。

 なのに、何で自分は勃起しているんだろうとハンスは訝った。余計に疲れるような気になる、実際、身体のほかの部分がどろどろなのは、そんなところに血が溜まっているからだろうと思う。二日前にした、しかし、この身体はまだまだ若いのだということを、ペニスが教えているような気になる。

「……朝飯いらない」

「え?」

「……なんだか気分悪い。食欲無い。……仕事無いだろどうせ……、昼まで寝る」

「そんな。……トラスカがもうおれたちの分よそって」

「知らん」

 ばたんと倒れ、向こうを向いて、

「あっちへ行け。起こすな」

 髪の毛で耳は隠れているから、恥ずかしいなんて自分らしからぬ気持ちがコーマックにばれることは無いだろうと安心した。コーマックは呆然と座っていたが、やがて諦めたようにゆっくりと部屋を出て行った。

 これで嫌われないのは奇跡だろう。

 ここまで自分勝手に振舞って。――コーマックがそれでもハンスが側にいることを喜ぶのは、言うまでもなく、彼がコーマックにとってプラスになるとコーマックが考えているからだが――自分から終わりにしようとしているようなものだ。

 絶対に自分からは言うものか……、そう思っている。

 しかし、言われることもないかもしれない、永遠に。そのうちコーマックが自分無しでやっていける日は遠からず必ず来るだろう、そうなれば自分は棄てられる、棄てるはずだった自分が棄てられるのだ。そして――冷静にハンスはこう想像している――自分は途方にくれるのだ。その時に至って、コーマックを心から恋しく思うんだろう。

 布団に包まれているうちに、恍惚とした気分になる、のっそりと起き上がって、トレーラーを降りて、仲間たちが食事をしているまるで反対方向にしばらく歩いて、叢の中で一人、信じられない気分で用を足した。何だ、何だ、おれ、コーマックのことがそんなに好きか? 好きなのか?

 笑いたいような泣きたいような気持ちになったが、今はまず眠かった。部屋に入ると布団の匂いがする。埋もれて眠りたいという欲求を、即座に果たした。

 

 

 

 

 コーマックがしょんぼりして一人ぼっちパンを齧っているのをエブラとダレンは焚き火の反対側でじっと見ていた。いつもハンスと二人で並んで座っている丸太にスペースが空いていて、真中に座ればいいものを、ハンスがひょっとしたら起きて来てくれるかもしれないその時に真中に座っていたらきっと怒る、そう気にして、端っこに座っている。こうしてみるとコーマック=リムズという男は、そのすらりとした身長とは裏腹に、小さく見えるのだった。トラスカに手振りで、ハンスの分はとっておいてくれるようにと頼んで、食後のコーヒーをもらって、輪から外れて煙草を吸いに行く。

「……ハンスとケンカでもしたのかな」

 ダレンがささやき声で言った。

「あれはそういう顔だな」

 頷いて、エブラは紅茶を啜る。焚き火に背を向ける格好で煙草を吸っている、その背中がなんだか傾いでいるようにすら見える。

「寝不足で不機嫌だったもんねハンス、なんか怒らせるようなこと言ったのかな」

「……さあ……、そこまでは。ハンスもああいう風だからね、コーマックは言い返さないっていうか言い返せないし……」

 ひそひそ声で噂話する二人を、トラスカが咎めた。エブラは気まずそうに笑って、

「ごめんよ、うん、でも心配なんだ」

 と呟いた。

 ダレンとエブラの分のコンドームは既に残り八包、きっと大人二人のはまだまだ使われていないのだと察する。

 無論、急発展をするとは思っていなかった。しかし、二人がゆっくりゆったり、彼らなりの時間を経て、幸せになっていってくれるに違いないという予測はあったし、十分にその余地はあった。自分たちがあの二人のどっちかだったらたまらないけれど、あの二人には間違いなく愛があるということは、ダレンもエブラも飲み込んでいた。だから、幸せになれればいいと思う。ただ、ひ若いダレンとエブラには、性交こそ現世最高の愉楽と断じている部分はあったが。

 ともあれ、二人が結ばれればいいと思う。そう思うことは自分たちの罪が軽くなるためと、二重に間違えた理由による。

 ダレンは食事が終わるまで、コーマックの寂しそうな背中を見ていた。食器の片付けを恋人に任せてしまって、ダレンは一人でコーマックの隣に行った。

「元気ないね」

「……ん、……そうかな」

「元気ないよ」

「……寝不足だからだろ」

 コーマックは笑って見せた。優しく爽やかな明るい笑顔、コーマックのような人を「好青年」というのだろう、そして、ハンスのような人のことを絶対そうは呼ばないんだろうなと、ダレンなりに解釈する。ハンスにはハンスなりの、カッコよさというか、魅力的な部分があるとはもちろん思っているけれど。

「エブラを手伝わなくていいのか?」

「うん。……あのさ、コーマック、ハンスと何かあったの?」

 単刀直入にダレンは言った。このあたり、エブラとは正反対の性格をしていると自分でも思うが、正反対でうまくいくのもまた真理で、だからコーマックとハンスも、とダレンは考える。

 コーマックは穏やかな微笑みを浮かべたまま、

「何も無いよ」

 と言った。

「元気ないように見えたかい? 単純に寝不足だから。それ以上の意味は無いよ」

「じゃあ何で寝不足なの?」

 ダレンはすぐに聞いた。

「……たぶん」

 コーマックは一定の間を置いて、滞りなく応える。

「昨日の夜、二人してコーヒー飲んだんだ、知ってるだろ? ガーサ=ティースがくれたいいコーヒー。だけど、ちょっとあれ、強いみたいなんだよカフェインが。ハンスもおれも、カフェインにはあんまり強くないみたいで、眠れなくなっちゃって。馬鹿なことしたなあって。だからあいつ不機嫌なんだよ」

「……そうなのかな」

「そうだよ。なんか気になる?」

「……」

 大人はずるいな、そう思ってじとりと睨んでいるうちに、コーマックは立ち上がり、ダレンの頭をくしゃっと撫でて、洗い物の手伝いをしに行った。取り残されたダレンは、当然の結果に釈然と出来ないで、エブラにことの顛末を話し、

「そりゃあ、何かあったに決まってるさ。でも……、仕方ないよ、おれたちじゃまだ判らないところに二人はいるんだ」

 ただ出来るのは祈ることのみ。

 昼になって、コーマックとハンスが一緒に煙草を吸っているのを見たとき、なんだかはぐらかされたような気になって、妙に悔しい気持ちになったダレンである。

 

 

 

 

 トレーラーのタイヤに凭れて煙草を吸う二人の間には、特有のぎこちない空気が蔓延していて、互いにそれに気付いている。コーマックはそれを恐れ、ハンスはそれを怒った。

「午前中……」

 しかし、珍しくハンスから沈黙を破った。コーマックが破るときには、いかにも耐え切れずにといった感じ、しかしハンスは特に考えもなく、聞くことがあったからといった趣。

「……仕事、忙しかったか?」

 コーマックは落ち着いて、

「いいや。寧ろ暇だったかな」

「……そうか」

「だから、大丈夫だよ」

「……そうか」

 ハンスはまだ眠気の抜けきらない顔をしている。あくびをする、目の下には青く隈が出来ている、瞼は重たげだ。

「……おまえも眠いだろう、午後はおまえが眠れ」

 珍しく優しい言葉をかけるハンスに、コーマックは内心、日が差したような気になる。

 自分がハンスの優しさに触れてたまらなく嬉しいと感じる、滅多に無い、希少な時、自分はハンスを好きなのかもしれないと思う瞬間だ。

「いいよ、おれ、なんだか午前中動いたら目が醒めた。逆に今寝たら夜眠れなくなりそうだからいいよ。それよりおまえが寝なよ、午後、仕事殆ど無いし、おれも散歩でもしようかなって。ハンス、今寝て明日の朝までゆっくりすれば、明日からまた普通の生活に戻れるよ」

 ハンスは唇の端を持ち上げて笑った。

「ありがとうよ。でも余計なお世話だ、おれは平気だ」

「……でも、顔色悪いよ? 睡眠不足で風邪ひいたりとか」

「してないよ。おまえこそ白い」

「おれは……平気だよ」

「人の好意を受け取らないのかおまえは」

「……」

 ハンスは黙りこくったコーマックが何か言うまで黙っているつもりだった。

 コーマックは、……しばらく悩んで、仕方なしといった具合にようやく答えを出した。

「じゃあ、わかった、おれ寝るよ」

「そうしろ」

「でも、おまえも寝ろよ」

「なんだって?」

「駄目か?」

「……なんだって?」

「だから、おれ、寝るから……、お前もいっしょに寝ようよ。なんだか申し訳ないよ、顔色悪い人働かせて一人で寝るのは。さっきも言ったように、午後は仕事ないから寝ても差し支えない。だから……」

 ああ、そっちか。

 途端、ハンスは大笑いしたくなった。もちろん、そんなことをして怖がらせる必要は無い、陰険な笑みを浮かべて、

「じゃあ、一緒に寝ようか、コーマック」

「え?」

「……なあ? 一緒にさ」

 寝ぼけているのかもしれないなとハンスは思った。トレーラーの扉を開け、先に入り、布団に潜る。自分の布団を占領したハンスに、コーマックは何か言いかけてやめた。そして、部屋の隅っこで、ハンス用の布団に包まる。

「コーマックおまえ、マゾヒストだろう」

 横を向いてハンスが言う。コーマックはなんとも返答出来ないで、青白い顔を見ていた。

「自覚症状は無いのかもしれないけど、かなりのマゾヒストだと思うぜおれは。苛められると嬉しいんだろう。だから自分を駄目な方向へ持っていくんだろう。……それくらい見た目がよければ誰でもそうなるのかな」

 ハンスは眠気を堪え、いつもの軽い口調に戻って言った。

「そんだけさ。おれはサディストだから、おまえを苛めるのは愉快で仕方が無いけどな。……やっぱりフリークは居心地いいわ」

 ハンスはそう言って、幾分気が楽になって、目を閉じた。すとんと眠りに落ちる予定だったが、コーマックが気になって、うまくいかない。コーマックは布団に包まって、何かずっと考えているような気配だ。それが不意に立ち上がって、音を立てないようにしながらそっと出て行って、煙草一本分の時間を設けてから戻ってきた。それから、溜め息を吐いて指を千切ってサイドボードの取っ手に手をかけて動きを止めた。ハンスもそれが判った、そして、コーマックが考えていることも判った。

「コーマック」

 寝ていると思っていたハンスが語ったのだから、コーマックは当然驚く、ハンスが振り返ると、泣きそうな目をしていた。

「おまえ、苛めて欲しいんだろう? おれに……」

 コーマックは取っ手に手をかけたまま、固まっていた。

 真っ白な顔をして。

「質問させてくれコーマック。もうエブラのことは好きじゃないの? 忘れたの? 諦めたの?」

 掠れた声の返事は意外と早く帰ってきた。

「好きだ、忘れてない、だけど、諦めた」

「そうか。じゃあコーマック、おれとその中身を使おう」

「え……?」

「え? じゃねえよ。苛めてやるって言ってるんだ、おいでよ」

「……」

「来いって言ってるんだよ」

 コーマックは、操られるように布団に入った、自分と同じほどの身の丈のハンスが、愉快そうに笑って、すぐ隣に寝ている、これは同性愛の状況だとコーマックは思った。思ったが、どうすることもできないでいた。

「おれは優しくなんか無いからな、コーマック、誤解するなよ」

「……おまえは、優しいよ」

「誤解するのはおまえの勝手だが、おれは優しいつもりなんて少しも無い。単純におまえの右往左往する様見てて楽しいからさ。エブラを諦めてどうするかなあ、これからどんな風におまえがなってくのかなあ、いろいろな、考えて観察してるのが楽しいのさ。

おまえ、エブラのこと諦めたんだな、まあ、面白みの無い結果だけど、そうするのが一番賢明だろう。それで、どうする? これから、どうするつもりなんだ?」

 コーマックは青ざめた顔で、

「……判らない、判らない」

 答える。

「だけれどおまえは、多少なりともおれが側にいることを意識してこのところ過ごしている、おれの顔色を伺い、おれのことを考え……、違うか?」

「……そうだよ」

「おれがエブラの代わりにおまえの側にいてくれるかもしれないと思ったからだ」

「……そう、そうだ。おれはおまえがおれの側に……いや、違う、エブラの代わりじゃない、おまえはちゃんと大切なおれの友だちだから」

「ほんとうに?」

「ほんとうだ、おれはおまえをエブラの代わりだなんて思ってない」

「思えばいいじゃねえか」

「え?」

「思えば楽じゃないか、違うか?」

「……でも……だって、そんなの、失礼じゃないか、おまえに……」

「失礼? おれに対して失礼だなんて思うのかおまえは」

「だって、……だって」

「だって何だよ、ガキじゃねえんだから言えよ」

「……おれは」

「おまえは? なんだよ」

「おれは、おまえが側にいてくれると、救われたような気持ちになる。おまえに対して感謝してるし、尊敬してるから、だから、エブラと一緒にしたら失礼だし、おまえだって不愉快だろうし」

「おまえにおれの気持ちなんて判ってたまるか」

「……ごめん」

「……おまえにおれの気持ちなんて判ってたまるかよ」

「……うん」

 少し黙って、ハンスは静かな声音で言った。

「……エブラの代わりになって欲しいか?」

 コーマックはびくりとハンスの目を見た、グレイの目はくたくたに疲れているように見える。瞳の色の薄さがそのまま心の薄さのようにも見えるし、手の冷たい人が暖かい心の持ち主という噂のとおり、心の濃さの証にも思える。

 ハンスは何とも答えないコーマックに、内心ひどく焦れているのを隠す。隠せる自分の持つ建前を、少し呪った、こういうときは赤くなっていたほうが、よっぽど可愛らしいのかもしれないと思って。

「代わり……なんて、いらない。エブラの代わりなんておれには、いらない」

「……そうか」

「でも……、あの、エブラじゃなくても、エブラの代わりじゃなくても、おれはおまえには、側にいてもらいたいって思う。損得勘定で言えば、得になるからだ。ハンスがいてくれると、おれは……なんだろ、いろいろ、得をすることが出来るから。すごく、ずるいけど」

 ハンスはまた少し黙って、そして、笑った。

「なんだ、苛めて欲しいのか」

 ああ、きっとそうなんだろう、コーマックがそう思った時点で、二人の行く先はほぼ決まった。

 

 

 

 

 夜に少し目が覚めただけ、いつまでも続くような眠りの中で、二三度無意識に――と感じるということは十分意識的にだったということだが――向かい合わせで眠る男のことを蹴ってみたり、寝返りをして背を向けてみたりした。それでも翌朝目を覚ましたときには、また同じように向かい合って眠っていた。ハンスとしては非常に癪である。またもや不機嫌に戻って、しかし、朝食には並んで丸太に座る。少しくたびれた顔のエブラと、嬉しそうなダレンは、その二人を見て、大いに安心する。ハンスが何かを言ったらしいコーマックの頭を叩いたのを見て、大いに確信する。叩かれたコーマックが困りながら笑っているのを見て、もう、なんか、いろいろどうでもよくなる。

「よかったね」

 ダレンが言う、エブラも嬉しそうにうんと頷く。

「幸せになれるよ二人とも」

「そうだね。きっと……、必ずね」

「だから、ぼくたちもなろうね」

「もちろん」

 エブラとコーマックの間に、少しの齟齬もなくなることが、エブラと自分が、そしてコーマックが、幸福になるために必要なちょっとしたことで、ハンスがエブラとコーマックの間にかすかに繋がっていた細い橋を叩き壊したのだと、ダレンは思う。壊れることで幸せになってしまえるなんて、決して好ましい形ではないのだろうけれど、事実ぼくたちは幸せになったし、多少の傷を孕んでいるのはどんなケースにしてもそう。いまそしてこれから幸せで行くんだから、構わないことだろう?

 然し、コーマックとハンスはまだコンドームを使っていないように見える。いくらざっくばらんな人間であっても、セックスをすれば何らかの心境の変化が見られるものである。コミュニケーションの不器用さが少しも変わらない二人を見ればそれは瞭然としている。ダレンはいましばらく、悪趣味かもしれないが、エブラと二人で彼らが幸せになっていく様子を見ていたいと思った。何故って、見るのが幸せだから。

 誰かが幸せになる様子を見ているのが幸せだなんて……。


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