ハンスだってコーマックのことは好きなのだ。
初めから互いに単独同士で始まったのなら話はもっと楽だっただろうになと二人は考える。自分たち、決して恵まれているとは言えない。しかしどうにかすれば簡単に恋人同士になってしまえる距離にあるのだということを自覚している。そのことが、なんだか二人には気恥ずかしく思え、二十六なのにもうすぐ二十七なのに、十代後半の少年二人とやっていることが何ら変わりない、そのことに居心地悪くなる。自分たちにもまだ青春があるだなんて、くすぐったいことを考えて、鬱陶しくなる。
それでも彼らはまだ変わらず同じ部屋に寝泊りしている、その親密の度合いは以前よりなお増した、あとは二人、唇と身体さえ重なってしまえばその瞬間から恋人同士というところまで来ている。しかし、その一線を越えることはどうしても憚られる。互いに、相手のことを思いやるがゆえに、こんな狭い谷間も越えられない。
コーマックは、どこかハンスを怖く思っている。
「うじうじしてるなよな。うざったいよおまえ」
二十年以上の時の積み重ねが背景としてあるから、性格なんてそうは変えられないもの、口の悪さも同様に。もちろんコーマックは、ハンスの悪い舌は信頼する相手に伝えたいことを端的に伝えるために使われているのだということを理解しているから、それをありがたいとは思うのだけれど、やはり、
「邪魔だよ、どっか外行けよ」
などということを言われては、心は竦んでしまう。最近、ますますもって髪が伸びて、サイドの毛に隠れてもう耳は見えない、改めてみるとそれがとても落ち着いた雰囲気で、似合っているなと思うのだけれど、下手なことを言うとまた痛いことを言われるのかもしれないし、何より今そういうことを言うことの意味をよく考えてみれば、自重しておくのが賢明という結論に至るのは容易。
なかなか心が通わない。
「うん、わかった、……しばらく散歩してくるよ」
ハンスから見ても、コーマックという男は今ひとつ判り切れない部分が残っている。爽やかで素直で、しかしじっくり付き合っていると明らかに翳がある。何を考えているのか判らないようなところがある。毒を吐ける相手の数はごく少数、言ってやって、仮に凹まれても、その相手の心の中で結果的にプラスに転じると確信したときにしか毒は吐かないつもりのハンス、つまり毒は愛情表現である。しかし、時折コーマックはまるで判っていないのではないのか、本当に心から凹んでしまったのではないか、ハンスにそう心配させるような顔をする、ぶたれた犬のような、こっちにひどいくらいの罪悪感を与える顔を。
「晩飯までには帰るから。また後でな」
なるほどコーマックにはエブラはよく似合うだろう。似たもの同士で意外とうまくやっていけそうな。しかし、エブラがコーマックほど大人ではなかったこと、そして、コーマックが馬鹿なストイックさを発揮したことによって、現状に至る。
そこにハンスが戻ってきたのは、ある意味ではナイスタイミングと言える。これはハンスもコーマックも思っている。
いやらしいことに、ハンスが来て、自分にある程度親切な毒を吐きかける背後にハンスが自分のことを憎からず思っているのだとコーマックは思い、またコーマックがそう思うことを前提にしてハンスは毒を吐いている。最も、それがそのままうまくはいかないから、まだ二人は恋人同士ではないのだ。
ハンスは元々同性愛に興味は無かった。しかし考えてみると、さほど嫌悪感も抱かないことも事実である。深く顧みるまでも無く、身近にコーマックとエブラ、更に最近ではダレンがいて、彼らが当たり前の恋人たちと何ら変わることなく青臭い恋愛をしているのを見て、それがなんだかとても普通で、責めるべき非もなかろうし、そもそも友だちのことだから無条件に認めたいと思うもので、結果的にそれに対して非常に寛大な目を持つ結果となっている。
だが、時折裸になって自分の下半身をまじまじと見詰めたとき、果たしてコーマックのこれをどうこう出来るかと考えれば、いましばらくの時間を要するという結論に至る。しかしながら、本気でそんなことを考え始める時期に来ているということもまた、事実である。冷静になってみて、コーマックが自分に対して何の感情も抱いていなかったら……? しかし、どう冷静に考えてもそんなことはありえないのであって、やはり、ハンスは前向きに同性愛の問題と取り組む時期にあるのだと自覚する。
コーマックのほうはどうか。コーマックは両性愛者である。しかし「だから」ハンスと恋人同士になれるというわけではもちろん無い。当然のことながら、そこには人間的な恋愛感情の芽生えが必要である。では、コーマックにそれはあるのか。
少なくとも、無くは無い、しかし、あると断定出来ない、コーマック自身、本当に自分はハンスが好きなのか、エブラの代替物を求めているだけではないのか。自分がハンスを求める正当な理由を探す。しかし、既にハンスのことを好きだと思う気持ちがあるものだから、結論を手がかりに理由を探そうとしている、行為の意義は無駄に始終する。二十代なりの性欲が、ハンスを求めだすのも遠くは無いだろうと推測するから、コーマックは早くちゃんと心に蹴りを付けたくて、焦りを感じている。
コーマックから見てハンスは――外見に限れば――まあ、ある程度、美形という認識である。ハンスがひねくれて言うほどじゃない、寧ろ、あの独特の陰影が好きという人は自分以外にもいるはずだと思う。折角いい顔をしているのだから前髪を上げればいいのにとも思うが、伸ばしているのは自分が言ったかららしいので今更変えさせるわけにも行くまい、しかし今の髪形もまた似合っているからいい。……「可愛い」と、思いたければ十分思える、そんな顔。
しかしティーンエイジャーではあるまいし。その顔を見たから勃起するなどということはない。しかし、先日買って帰ってきたコンドームを見て「おれと使う?」冗談と知りながらぎくりどきりとしてしまったことは否定しない。あの後眠ろうとして、しかしなかなかうまく夢に入れなかった。目の前に現実をぺろりと出されたような気になった。少なくともおれたちの世代、おれたちの生きる時代において、誰かに恋をするというのはどういうことなのかを。コーマックは目を閉じてハンスの裸を想像した。上半身だけは何度か見たことがある、ある程度の筋肉はついた体で、しかし自分より線が一本細いように感じている。しかし、その下半身がどういう形をしているのか想像もつかない。
いいよ、使っても、おれは……。
ハンスはそう言いかねなかった、恐らくは、コーマックに、それを最初から冗談と受け止められるだけの余裕があったなら、そう言ったに違いない。
そう言われたならどうなっていただろう。たらればの話ながら、煙草の煙を深々吸い込んでコーマックは空恐ろしいような気分になる。
「……ああ……」
ああ、と口に出してみた、実際に途方に暮れてみた、そんな自分を確認してみた。
間違いない。
自分はハンスを好きになっているんだ。
だってハンスはおれが駄目なときに側にいてくれておれを治してくれて。おれにとってかけがえの無い存在、今もいっしょに、変わらず側にいてくれて、おれを正しい方向へ導いてくれる。
出来ればおれもハンスの役に立ちたい。
もしもコーマックが単一的な異性愛嗜好のみを持ち合わせている男だったならば、それは親友という形の関係へと発展し、しかしそれ以上どういった発展も見せることは無いだろう。しかし、両性愛者ゆえに、関係の発展力は強い。男であろうと女であろうと、自分が「好き」と判断した相手はそのまま恋人へと発展する余地がある。
だが冷静なるコーマックは思う。迷惑がられないかな、嫌われないかな。
無論、ハンスが自分のことを好きでいてくれることは、よくわかっている、よく理解している、のだが。同性愛は想像以上のものがある。冷静で利巧なハンスの予想すらも、きっと越えるだろう。汚くて辛いそんなものに、好きな相手をつきあわせていいものか。
こんな風に気にするコーマックだから、ハンスに「うじうじ」呼ばわりされるのである。とりあえずこの点を治す事を、ハンスが奨励していることに、彼は気付く必要がある。
一方でエブラは、コーマックが思っている以上にコーマックのことを思いやって、心配しているつもりがある。無論、もう面と向かってそんなことは言えない。しかし、あの人が幸せになれたらいいなとはいつも思っている。ダレンと二人でそう話す。エブラとダレンにとって、コーマックにハンスという友だち以上が出来そうなのは、非常に喜ばしいことだった。ただ、エブラには懸念があって、それは言うまでもなくコーマックがその優しすぎる性格ゆえに踏み出せないでいるのではないかということ。
「うまくいけばいいのにな。二人、似合ってると思うんだ。ハンスはコーマックのこと引っ張って、コーマックはブレーキかけて」
エブラは布団の中ダレンの暖かさをたっぷり味わいながら、この体温と今は縁遠い二人の兄を想って言った。
ダレンは少し黙っていたが、
「うまくいくさ」
ぽつりと言った。
「いって欲しいし」
「うん、そうだね。本当に……、コーマックには幸せになって欲しいよ。こう」
ぎゅ、と少し強くダレンを抱き締めて、ダレンがきつがるどころかその背中に与える力をもう少し強くしてくれることを喜ぶ。
「おれたちがしてられるのは、本当に、あの人のお陰だし……、こう考えるのは、あんまり潔くないのかもしれないけど」
優しい人が幸せになれないケースの多いことをエブラもダレンも知っている。簡単なことだ、優しい人はとかく自分のことを後回しにしたがる、他人の幸せを優先する、あとに幸せは残らなくて、一人ぼっち淋しい思いをすることは判っているのに、他人の幸せのために動くことをやめられない。そして淋しそうに笑っている、一人ぼっちで笑っている。「こう考えるのは傲慢かもしれないけど」、そういう人が本当に満たされた微笑みを浮かべるのがほんとうだと思うのだ。そう思う所以は自分の幸せと余裕にあるのかもしれないが。幸福よ全ての人に雨のごとく降り注げ。太陽の光は世界のどこにでも降り立って人を暖める花を咲かせる同じように、いつでも雨のように柔らかく暖かく滑らかに降り注いで、おれの好きな人のことを濡らして。エブラは心からそう祈る。
エブラのその祈りが通じるにはまだ少しの時間を要することは、既に明らかだ。今日もコーマックの部屋の隅っこで毛布に包まって眠るハンスを、コーマックはじっと見ている。眠ったふりをしているのはよくわかっている、瞼が時折ひくりと動く、こちらをずっと伺っている。期待と不安を一緒くたにしてこちらを感じている。しかしコーマックはまだなかなか動けないでいる。必要なのは恐らく勇気と愛情であって、そんなもの少しの努力で出すことが出来るはずのもの、しかし、「それ」の在り処がどこにあるかが判らない。判っているのに判らない不利をしている、R指定の青春の夢はサイドボードの中、小箱にしまわれて、まだビニールのパッケージは破かれていない。
破かれるのを心待ちにしているのか恐れているのか、ハンスは目を閉じながら、こんな風に子供のように思う気持ちを久しぶりに感じ、滑稽な自分を、コーマックをそれでもいとおしく思う。
夜半まで、コーマックは布団の上で座って煙草を吸って時折所在なげに手をちぎる、その音をハンスは七つ八つと聞いていた、ハンスはまだ眠れない、コーマックもまだ眠らない、ただ黙って、二人で静かな息をこの部屋の中にさせているだけ、明日の朝が辛いのはわかっている、しかし、この敏感な時間を壊してしまいたくは無かった。不意に目の前に降りて来た青っぽい香りの下心を、どう説明すればいいのかは判っているし、そんなもの言葉に出せばワンフレーズで済むのに、憚られている。子供じゃあるまいし子供じゃあるまいし、ティーンエイジャーの子供じゃあるまいし。恥ずかしい。しかし同じ気持ちを抱いているすぐ側の同い年を、互いに可愛いなと思う気持ちがあって、それでも相手からそう思われているということを、ハンスは少しだけ癪に思う。