イビルゲート

 ハンスもコーマックもエブラもダレンも同様に器用な人間ではないが、恐らく一番心の小回りが効くのはコーマックだろうとハンスは思い、ハンスだろうとコーマックは思い、エブラだろうとダレンは思い、ダレンだろうとエブラは思っている。この背景にこの二組の恋人同士が、口には出さないことが多いが互いを尊敬しているという共通点を指摘できるだろう。

 尊敬しあう恋愛関係ほど理想はないだろうとコーマックは思っている。尊敬できる人間が側にいて、その相手が自分を尊敬してくれているというのは、理屈でも説明できることはできるが、理屈を抜いても幸福なことだ。自分がハンスに尊敬されているとは思わないし、逆にいつも馬鹿にされてはいるのだが、それでも片側一方通行の尊敬ではハンスを自分に留めおく力にはなりえないような気がするので、やっぱりどこかでおれのいいところも見てくれているに違いないと信じている。

 ともあれ、互いのことを尊重しあうのが一番いい。

 尊重しあう結果、二人はいまだにタンスの中にしまわれた青春の夢を開こうとはしない。そうすることで、どこか、自分たちの関係に現状には無い別のエッセンスが加わってしまうような予感があるのだ。

 現在の彼らの関係は言うまでも無くハンス上位である。一応互いに「恋人同士」という認識が完成したから、コーマックも以前ほどハンスに対して臆病ではなくなったが、相変わらずの部分も多々残っている。ハンスとしては、コーマックに怖がられたところで、自分は魔王でもないのだし、怖がられたところで何の得も無いのだから、いい加減にして欲しいと思うのだが、いい加減にしろと言ってしまっては恐らくまた怖がられる結果になろう。葛藤がある。

 ハンスは、もう覚悟など決めているのだし、どういう風な具合であるものか、自らの身で人体実験した。その結果として、非常に非常に苦痛を伴うが、相手によっては、即ち相手がコーマックであるなら、我慢してやらないこともないではない、少なくとも、我慢してやることによって何らかの利点が自分にも生じる可能性は否定できないのではなかろうかという、遠回りの結論に至っている。しかし、彼も頑固であって、自分から誘うことは絶対にするまいと思っている。コーマックが我慢しきれなくなるのを待っている。しかしコーマックも臆病であるから、「こんなことを言ったらきっとハンスは怒るだろう」、そんな余計な気を使って、未だに言えずにいる。結局こんな二人のすることといえば、相互手淫、或いは口淫の範囲を超越できない。

 互いに悪いところはある。臆病なコーマックを気にするハンスにも、臆病なコーマック自身にも。

 しかしながら、二人がしているのは恋愛行為であり、いい部分も悪い部分も併せて飲み込んでしまいたいと互いに思っている。キスのときの唾液も、或いはフェラチオのときの精液も、愛撫のときの汗も、全て含め、苦しくとも苦くとも愛しい相手のものであるという自覚があるから、我慢しているという自覚も無く我慢できるのだ。

 無論、ハンスもコーマックも、いつまでもこのステップにいてはいけないとは思っている。両者とも、相手の身体に触れたいという欲求は日を追うごとに強まっている。エブラとダレンがいま、溺れるように愛し合っているのを知っているから、自分たちもそうしたいような気になるのだ。このまま同じようなことを続けて、「マンネリ」の状態になるのは好ましいとはいえない。時は既に満ちている。するならば今が一番いいと判っている。そして、機を逸してはあとはぐずぐず煮崩れるばかりだということも判っている。

 といって、プライドの、妙なところで高いハンスのことだから、彼から動き出すことは彼自身も考え難かった。どこまでも受身で、しかし攻撃的というのが、この男の欠点だった。ハンスは一方で同様に受身で、それでいて攻撃することなど、少なくともハンスを相手には考えつかないような人間だから、現状を打破するためには、相当なパワーが必要であることは目に見えている。

 コーマックはもちろんハンスの肉体を求めている。愛することによって当然の如く募る欲求として腹の中に渦巻いている。それは一時的には相互手淫などで発散出来はするだろうが、満たされるのはその瞬間だけ、いや、満たされてもいない。究極的には肉体の性愛は繋がりあうことで昇華するものであるという考えは、コーマックもハンスも同様に持っていたから。

 どうせだったらなあ、一緒にいるんだったらなあ……、繋がり合いたいよ。

「……煙草」

「ん……、ああ」

 いつもの岩くれに、ハンスは座って、コーマックは寄りかかって、だだっ広いだけの草原を見つめながら、二人は煙草に火をつけ、薄ぼんやりした空に寒い冷たい風の下、恋人同士なのだからおおっぴらにくっつきあって暖を取ることも可能なのに、小さな薄い壁を作り出して。

「……これ、いる?」

「……なにこれ」

「メンソール……こう、刺して……、炙って。……やってごらん」

「……こう?」

「そう……、で、吸う」

「……ああ、なるほど」

 恋人同士にしては、いやにぎこちない。しかし、もう友だち同士という言い訳の出来ない二人の距離が、そのまま「壁」の厚さになっている。

「……ハンス」

 コーマックは煙草を吸って吐く猶予を持った。ハンスはぼんやりと野原の彼方を見つめているだけで、返事をしない。

 それでもよくって、コーマックは言った、言葉を、ハンスに置いてくるように。

「大好きだ」

 ハンスはノーリアクションで、煙草を吸って吐いた。

 暫く経ってから、

「一応おれもだ」

 と反応がある。

 コーマックはその声に、言葉に、大いなる満足を得てしまう。その満足が、いけないのだ。

 

 

 

 

 しかしハンスはその痛みを既に擬似的に体験している。し終わって、ああ実際これは結構しんどいかもしれないな、そういった感想を得ている。だがその痛みを知ったところでイヤだとは思えない、したくないとは思えない。其処に快感が伴わなくとも、痛みばかりが先行するものであっても、其処が排泄のための場所であっても、したくないと言えない自分を自覚して、不愉快だった。

 しかし自分は決して性的な要素を帯びたものとしてコーマックと交合したいと考えているのではない。それは声を大にして、ハンスは言う。異なる幾つかの理由が併合して、コーマックとの接続を欲するのだ。それはつまり、体温であるとか、触感であるとか、もっと内奥の充足であるとか。それらを統合して一言に「性欲」と言って言えなくも無いのだが、その呼び名は誤解を招きがちだ。ハンス自身、性欲は決して悪いものではないと考えている、寧ろ、なかったら困るものだとも。しかしその呼称を使うと、自分が非常に堕落した人間であるように思われてくる。錯覚に過ぎなくとも、どうしても。

 例えばキス、あるいは愛撫、相互手淫だって、普段からしている行為である。そしてそれらの行為は別にコーマックばかりが求めるものではない。最初のときがそうだったものだから、いつだってコーマックが上に乗って。しかし最近ハンスは二キロほど痩せた。当時のままならコーマックのほうが今は重たいはずだ。それなのに、コーマックを上に乗せる。上に乗せて触らせる。自分がその体勢を気に入っているからかもしれない。そして毎回予行演習をしているのかもしれない。きっと、するときはこの体勢の延長線上でするのだ。胸と胸を、腹と腹を、重ねあって擦りあってするのだ、コーマックの汗が自分に零れるのを不快とも感じないような精神状態になってするのだ。そ

 思えばきっかけは其処此処にある。肌を重ねあった瞬間に自分がこの両腕を恋人の首に廻し抱きしめてキスの一つでもして、「使おう」と言ってしまえば、後はコーマックがこの身体一つくらい引き取ってくれるはずだから。

 だけど、なのに。

「……ハンス」

 風がひゅうと、襟元を駆け抜けて、ハンスは首を竦める。コーマックの鼻も少し赤い。ここでだって温めあう術はあろうに。

「トレーラー戻ろうよ」

 煙草を消して、ハンスは頷く。頷いて、何も言わずにトレーラーへ歩き始める。その半歩後を影のようにコーマックが歩く。同じ年、ほぼ同じ体型でありながら、ややコーマックのほうが小さく見られるのは、こう言ったときだろう。

 対等ではないのだろう。コーマックは思う、ハンスも思う。自分たちは、対等な関係ではないのだろう。

 しかし、下にいるコーマックは、それでもおれのほうが幸せなんだと感じるし、上にいるハンスは、例えばベッドではおれが下だと主張する。

 トレーラーに入り、扉を閉め、鍵をかちゃりと言わせると、コーマックはハンスのことを後から抱きしめる。冷えた身体を冷えた身体で温めなおすのは難しいことだ。ハンスは首を仰け反らせ、コーマックの肩に重さをかける。ハンスの冷たい耳を、コーマックは唇で挟んだ。いま温かいのは口だけだった。だからという理由は可笑しいかもしれれないが、コーマックはハンスにキスをし、口淫をしてやりたくなった。

 こういうときは、ハンスが誰よりも小さく思えるコーマックだった。

「ハンス……」

 好きだよ、という科白は、口に耳を咥えながら喉の奥でだけ。

 伝わらないはずがなかった。


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