アースシェイカー

エブラはダレンと、相変わらず枕を並べて寝ている。今ではもう、それがあたりまえのこととして定着してしまった感がある。コーマックも何も言わなくなったし、クレプスリーも、自身の手下が誰と寝ようがどうでもよいことらしく無関心だ。だからエブラはダレンを、正々堂々と自分の部屋に招き入れられるようになっていた。エブラにとって「夜」は、眠るだけの時間ではなくなったのだ。
 十時を過ぎたら一応明かりを消す。けれど、まだ寝ない。夜光の青色に染まった部屋の中で、布団に寝そべって、とりとめもない話をいくらでもする。昼間だっていっしょに仕事をしているのだから、その時だっていくらでも話せるのにだ。昼間からつながっている話や、何の脈絡もない話をする。他愛も無い会話を、楽しんでいるのは決してエブラだけでなく、ダレンもまた、時にこんな言葉を漏らす。
「眠くなってきちゃった。もったいない」
 エブラを嬉しがらせる。
 エブラは毎夜が楽しかった。夜が来るのが待ち遠しかった。昼間いっしょにいるときから、もちろん楽しいのだけど、夜、二人きりで自分と話をするためだけにいるダレンを見つめるのは、幸せだった。
 二人とも、思いついた順に話を始める。エブラが買ったポータブルテレビで見た、プログラムの話、二人で行った街で立ち読みしたコミックの話、もちろん、シルク・ド・フリーク内での小事件や仕事の話もする。特に、変わり者ばかりが集まったサーカスの話題は尽きない。二人とも、自分もまたその「変わり者」の一員として数えられていることを忘れて、笑う。なかでも槍玉に挙げられるのはいつもクレプスリーで、あの朴念仁が時に漏らす、異様に人間的な一言を、ダレンはとても可笑しそうに言うのだ。しかし、心が狭いと自覚するエブラはどこかで自分の話をいっぱいして、同じように笑ってほしいと思ったりするのである。
 実質、寝るのはいつも十二時近くになってしまっているだろうか。翌朝は早起きして、リトルピープルの食事を探しに行くのだが、そのときは眠くて仕方が無い。多くの場合はエブラのほうが先に目を覚ましてダレンを揺り起こす。が、時にその立場が逆転して、エブラは目を開けて最初に見るものが、ダレンの顔だったりする。そうするとその日一日がいい日になるような予感がする。ダレンに一日中ついてまわりたくなる。生まれたての雛鳥のような心境。
 幸せな日々を続けて、エブラは確信していた。改めて確認するのは面映いが、しかしもう、どうしようもないことだ。
 おれはダレンが好きだ。
 あたりまえのように、その気持ちはエブラの中にどっしりと根を生やし、たくさんの青く固いつぼみをつけていた。
 しかし、この気持ちを自分で理解できているわけではない。ダレンが好き、というのはあくまで漠然としたものに過ぎず、厳密に考えたらどの程度の問題なのか、まだ図りかねている。「ダレンと共にいると楽しい」「ダレンが笑ってくれると嬉しい」という事実から推し量って、はたしてどの程度のものなのか、まだ解らないのだ。「友達」として? それとも、ダレンがデビーに対して抱いた感情と同じ、「恋人」としてなのか。……想いの正体はまだ、明らかにはならない。しかし、エブラは、「ダレンが好きだ」という気持ち、それが、自分でとても誇らしいものと感じていた。自分の中にその気持ちがあることが、とても喜ばしいことだと思えるのだ。
 だからと言って、ダレンに面と向かって「おまえのことが好きだよ」と言った事などほとんど無い。恋人同士だったら、きっと、ただそれだけを伝えるために言ってもいいのかもしれない、しかしダレンと自分は恋人同士というわけでもないから、それだけ言って話を終わらせては、ダレンを困惑させるだけで、別にそういう結果を望んでいるわけではないうえに、そもそもそんな勇気も無いから、エブラは言わない。ただ、胸の中ではいつでもどんなときも、ダレンのことが好きなだけだ。寝顔など、許される限りじっと見つめていると、なんだか胸が苦しくなってくる。口の中が乾いてきて、しかも涙まで込み上げてくるのだ。理由はダレンが好きだからに他ならない。しかし、好きな相手を眺めているだけで、何故こんなに物悲しいような反応を自分の身体がしてしまうのか、エブラにはさっぱりわけがわからなかった。
「はーあ……、疲れた! エブラ、何か飲む?」
「うん、欲しいな。……適当に。ダレンと同じ物で良いよ」
「OK、じゃあ取ってくるよ」
 サーカスの形成する、ほんの小さな集落に背を向けて野原を眺めて座る。ダレンは軽やかな足取りでテントに駆けて行く。その足音をじっと聞く。
 自分が同性愛者なのではないかという疑念も自然と、エブラの中には沸いていた。自分の思いの正体はいまだ不明だが、間違いようも無いことは、もし自分がダレンを「恋人」を思うように「好き」なのであれば、それは自分がゲイ、もしくはバイであることの証明に他ならないということ。エブラはこれまでの人生で、少数派ゆえに特殊とされる性嗜好の人たちを蔑むことを思いついたことは無いし、そういう自己表現の形があったって何の悪いことは無いと考えていた。その見た目で少数派に属する自分にそんなことの出来ようはずもない。しかし、いざ自分がそうなのかどうなのかという際に立ってみると、どこかで抗うように「いや、おれは違う」と一歩引いてしまう。ダレンのことは、「友だち」として好きなんだ、そう自分を納得させようとして。エブラは自分の心の狭さに呆れてしまう。
 しかし、ダレンは可愛い。可愛いという言い方がおかしいなら、愛しい。「友だち」や、あるいは「弟」としての感情だろうが、「恋人」としての感情だろうが、それに差は無い。
 さらさらの髪、大きいひとみに長い睫、小さな耳。一時期エブラを苦しめた顔色も、今はバンパイアのくせにとからかってしまうほど、良くなっている。細い手足も、長い指も、片っ端から身もだえするくらいにエブラにとっては、可愛い、のだ。可愛い宝物が、毎日こうして自分の側に在る、自分の隣で寝息を立てる。周りがもう何とも思わなくなったようなこと、もう自然になってしまったこと、しかし、その幸福さ加減に、エブラは時々圧倒される。
「コーラでよかった?」
 宝物が自分のためだけに、冷えた缶を持ってきてくれた。
「ありがとう」
 心底の感謝を篭めて缶を開き、並んで座って在れることにまた感謝して、黒色の炭酸水を飲んだ。
 そして、まだ昼になる前から、エブラは夜のことを考えている。早く夜にならないか、早くダレンと眠る時間が来ないか……、と。




 しかし、時々耳元で誰かの声がする、「汝、手淫するものよ」と。これは誰の声だか知れない。クレプスリーの声に聞こえたり、コーマックの声に聞こえたり、時にダレンの声にも聞こえるが、自分を蔑んだ声音でそう呼ばれるのだから気分が悪い。また、それが非情にも的を得ていることだけに、反論のしようが無い。その声の言うとおり、エブラは手淫をする。決してそれは不自然なことではなく、十五歳の少年としては尤もなことである。これはだから、自分でも仕方が無いことと割り切って、している。夜遅くに起き出して、普段誰も近寄らないとある檻の影に隠れて。夜ともなればクレプスリーがうろうろしていないとも限らないし、その「臭い」を嗅ぎ取られる危険性もあるが、まさかクレプスリーが好んで自分のそういう場に近寄るとも思えないし、自分以外の男、それこそ、コーマックや、クレプスリー自身すらもそういうことをするはずだ。自分だってそれに干渉する気は無い、この空間「場」だけは、非干渉地帯である。
 エブラは手淫して快感を得る。しかしその一方で、し終えた後には辛い罪悪感に苛まれる。いつのころからか、エブラのセックスシンボルは、ダレンになっていた。これが同性愛者のすることだと解ったうえで、しかし良いじゃないか同性愛者だって、やけっぱちに手淫をして、冷静になった頭で「違う、違う違う違う、違うっ」と首を振る。しかし下半身に残った快感の消えるまで、エブラは煩悶する。しばらくはダレンの隣には戻れない。
 何て悪いおれ、何て汚いおれ。
 握った手の中をむずむずとこすり合わせ、うろこを傷つけながら、そう自虐する。
 ダレンの隣で眠る権利なんてないような気になってくる。しかし、あの甘美なひとときは、もう手放せない、決して。
 しかし、こんなことダレンに知れたらどう思われるだろうな。きっと蔑まれるだろう。ダレンは自分のことを「友だち」だと思っているのだ。まさかおれがダレンを「恋人」にしたいなんて、いや、違う、違う、違うっ、おれは、ダレンの友だちだ、おれも……。
 しかし、見たことも無い異性の裸を夢想するより、見知ったダレンの裸を思い描くほうに、より強い快感を覚えている自分に嘘はつけない。バスタイムや水浴びをするときに、無意識のうちにその白い肌を自分の目に焼き付けようとしている自分がいることは否めないのだ。そうして、それがごく普通の、異性愛者の所業ではないということも。
 津波に掬われ、レーザーで焦がされ、竜巻に巻き込まれて、エブラの心はもみくちゃにされっぱなしだ。ダレンはしかしエブラを、そんな魔力で苦しめていることなど露ほども知らない。
 ダレンの身体は、エブラの目にドラスティックな変化が見られるような事は無い。エブラの何倍も時間をかけて、ゆっくりと大人になってゆく。ダレンは自分のことを、きっと、純粋なる「大親友」として見てくれているのだとエブラは思う。しかし、それだけじゃない想いが彼の中に芽生えるとき、ここに自分がいられるだろうか、自分がまだ生きていられるだろうか、いや、そんな日が本当に、来るのだろうか? あてのない後悔にかられ、ここ以外のどこかでダレンと出会っていたかったと痛烈な想いに悶える夜もある。
 しかし、どうしようもない事実なのだ。頭の中でどんな道筋を辿っても、最後には一つの結論に辿り付くのだ、すなわち。
 おれは、ダレンが、好きだ。
 前夜に、だからその思いを少しでも鎮めるために、二夜連続で自慰をした。以前はこのようなことは無かった。自慰をしなくても平気な場合の方が多かった。夢精するまで抛っておいても、精神的ストレスがたまるようなことなど、無かったのに。今では自慰のペースが、自分でも不安になるほどに増えている。横顔を見ていて寝付かれなくて一度し、罪悪感に駆られてベッドに戻っても、ダレンの唇の青白い月光に照らされているのを見るだけで、またしたくなってしまう。何をやっているんだ自分は、何をやっているんだ、自分は。問うたところで答えは出ない、ただ、そうだ、「汝、手淫するものよ」、ほんとうに。
 そうして、少し疲れて昼の仕事を終えて迎えた夜のことだ、ダレンが、こんなひとことを言ったのは。

 

 

 

「もう、いっしょに寝るのはやめない?」
 エブラは唖然として、ダレンの顔を見た。ダレンは苦笑いして、「だってさ」と。
「エブラ、もう一人で寝られるだろ? あれから半年も経ったんだよ? 傷だって塞がったし、怖い夢なんてもう見ないだろ。それに、いつまでもこんな風にしてさ、子供じゃないんだから」
「いやだよ」
 ダレンの言葉の尻を遮って、エブラは言った。一挙沸点まで上り詰めそうになった気持ちをどうにか堪えつつも、隙あらば吹き零れようとするものを抑圧するのは、非常な苦労が要った。エブラは、布団の上に座って困ったように笑うダレンを、じっと見下ろして、もう一度言った。
「いやだよ」
「いやだって……、だってエブラ、いくつだよ、十五歳だよ? ぼくはそりゃ、見た目は変わらなくたって、でももう、大人の入り口じゃないか。それなのにこんな風に、二人で寝るだなんて。赤ちゃんみたいだし。ぼく、それにクレプスリーに言われたんだ。『いつまでも子供じみた友達づきあいの法はいい加減にしろ』って」
「でも、……そんな、……おれはいやだ」
「でもさ、ぼくも思う、こんないつまでもいっしょに寝るなんて。エブラもそう思わない?」
 自分より身の丈も幅も小さなダレンが、自分のことを子供を諭すような口調で、宥める。エブラは堪らなくなって、自分も布団の上に座った。
 いや、正確には、エブラの足は震えていた。立っているとそれを見咎められるのではと不安になったのだ。
「なあ、ダレン、おれはいやだ。まだ怖い夢を見るし、独りのときにどうしようもなく不安になることがあるんだ。怖くて泣きそうになる。だけど、おまえが側にいてくれたら大丈夫なんだ。ダレンが守ってくれるから。それに、約束しただろう。ダレン、おれのこと守ってくれるって。夢の中でも助けてくれるって」
 しどろもどろに詰まりながら、エブラは思いつく言葉を次々に並べた。到底重みは無い言葉だが、今のエブラにはそれが真実であり、ダレンをつなぎとめるためにはどんな言葉が効果を持つか解らないから、とりあえず言っておかずにはいられなかったのだ。
「でも、……大人だろ? エブラは。もうぼくがいなくても……」
「だめなんだ、おれはおまえがいなかったらだめなんだ。おまえがいなかったら怖くて眠れない」
 愚かしい考えだが、もっともっと続くはずだと、いっしょにいられるはずだと、いまこの瞬間もエブラは考えている、死ぬのがまだまだ先だと信ずるように。ダレンといっしょの甘い夜が、終わるとしてもそれはずっとずっと先のことなんだと。いま、こんな会話をすることには、何のメリットも無い。
 かんしゃくを起こしては何にもならない。エブラは息を一つ飲み込んで、胸の奥を冷やしてから、続けた。
「なんで……、なんで急にそんなこと言い出すんだよ。今までずっといっしょにやってきたじゃないか、おれたち」
 ダレンは、初めてはっとしたように言葉に詰まった。エブラはそれに気付いたが、しかしそれが何を意味するかはわからないまま、ダレンの言葉を待った。ダレンはやがて苦笑いをして、同じ言葉を繰り返す。
「大人だからだよ。ぼくもエブラも、もう大人だからだよ。エブラ、きっと駄目なんだよ、エブラが怖い夢を見たくないって言うのはわかるし、独りが怖いっていうのも、わかるよ。だけど、大人になんなきゃ。大人はそんなことでわがまま言ってちゃだめなんだよ」
 やたらと物分りのいいダレンの言葉に、胸の中が再び熱くなる。何故この子はこんなことを言うんだろう? ヒステリックな思いが破裂しそうになる。それを危うい所でまた飲み込んで、声が震えないように気をつけながら、エブラは問う。
「ねえ、……ダレン、おれのこと嫌い?」
 ダレンはすぐに首を振った。
「嫌いじゃない。大親友だよ」
 エブラは今にも掠れてしまいそうな喉を声を、叱咤して言った。
「じゃあ……、いいじゃないか、大人だろうが子供だろうが関係ない。友だちは友だちだろ、いっしょに寝るくらい、なんだよ」
 興奮しながら、エブラはどこかで冷静に自分を眺めていた。ああ、なるほどな、この男はダレン=シャンのことが本当に好きなのだ。この子と離れたくないのだ。そしてこれは、この男、建前でこそ「友だち」と言ってはいるけれど、望んでいるのはそんなものではなく、ただひたすらに、「恋人」。ダレンと共に寝る機会を失うことで、ダレンを抱きしめる機会の、永劫失われることを恐れているのだ。手淫するものよ、この男は、ダレンを愛しているのだ。
「エブラ、落ち着いてよ。ねえ、昼間はいつでもいっしょだろ? いっしょに仕事してるし、遊ぶ時だってさ。だから、別に夜寝てる間くらい離れてたって問題ないだろ?」
「大問題だよ。ダレン、お願いだから、……なあ、これからもずっと、おれの側にいてよ、おまえとずっといたいんだよ」
 何を言っているんだろうな。冷静な自分が自分を指して苦笑する。悪夢に対してではなく、ダレンと過ごす時間が少なくなることへの恐怖心に震えながら、……すごいこと言ってるよ。ダレンが上手にかわすから、自分の言葉はもう、ほとんど用を為さないことには感づいているけれど、しかし、まだ、言わないではいられないのだ。言いながら、エブラはダレンにすがり付いているような気持ちだった。
 夜の冷たい空気に、口の中が乾く。
 ダレンはごまかすような微笑を浮かべる。
「なあ、エブラ。聞き分けの無いこと言うなよ。……ぼく、本当のところ言うとさ、ひとりの時間も欲しいんだよたまには。エブラはそうじゃないの? いっつも顔つき合わせてさ、ひとりじゃなかったら出来ないようなことだってあるじゃない。エブラのことはもちろん、嫌いなんかじゃないけど、でも、こんな風に年がら年中いっしょにいると、やっぱり息が詰まるって言うかさ」
「おれは平気だ。ダレンとずっといっしょにいたって、いられればいられるほど嬉しい」
「エブラはそうでも、だよ。ぼくはそうじゃないんだ」
 くっきりと線を引くような言い方で、ダレンは言った。
 話はこれまで、とでも言うようにダレンは立ち上がった。
「今夜からはクレプスリーのテントで寝るよ。あそこなら夜の間は誰もいないし」
「駄目だ」
「駄目って、なんだよ。……なに、エブラ、何でそんな」
 泣きそうになっている自分を情けなく思いながらも、ダレンを泣くほど求めているのかと、エブラはその想いの強さを場違いにも誇らしく思う。
「エブラ……。変だよ」
 呆れたような、途方に暮れたような、ダレンの言い方に、充血した目を見開いて、ダレンを睨んだ。
「変でもいい……、おまえはおれの隣で寝るんだ!」
 気付けば、絶対に事態が好転しないような声で、怒鳴っていた。




 やっていることは監禁なのかな。そんなことを考えながら、暗い部屋の中で月明かりだけを頼りに、ダレンの顔を見つめ、エブラはじっと布団の上に座っていた。
「……わかったよ」
 温厚なエブラが、何故あれほどまでに怒ったのか、ダレンは読めなかった。ただ、ここにおいて、敢えてこれ以上エブラを説得しようとするのが益の無いことだということは解っていたから、今日はここで一緒に寝る、と確約をして、エブラよりも先に眠った。エブラはダレンが向こう向きの寝息を立て初めても、ただその寝顔を見つめて、この子がおれの寝ているあいだにいなくならないようにと、見張っていた。そうして徐々に、そうすることの愚かさと眠気がこみ上げてきて、今にいたる。
 ……だけれど、やっぱり離したくないんだ。おれはおれの自由よりも、ダレンと共に在る時間が欲しい。
 大人になったって、子供のままでだって、ダレンのことを好きな気持ちはきっと変わらないだろう。これはもう、ちょっとやそっとの考え方でどうにかなる類の気持ちではないのだ。この気持ちを抱えるのは、正直苦しいことだと、考えればすぐにわかる。恋心と呼ぶにしたって、その形が正しいかどうかは甚だ疑問だ、まず、ダレンも自分も、間違いなく男なのだ。倫理的に言えば、おかしい形である。しかし、道徳や常識など、恋心の前でどの程度の意味があるというのか、そんな風に開き直る気持ちもまた、ある。互いの気持ちが最優先されるべきじゃないか。……しかし、「大人だから」なんて言葉を振りかざすダレンが、エブラが望むように、常識を超えて自分を好きになるようなことがあるとは、悲しい哉、考えにくかった。
 明日、ダレンが目を覚ましたら、何て言おう。
 あんな風に、ダレンに高圧的な態度を取ったことは一度も無かった。いつもダレンを尊重しているはずの自分だったのに。思い起こすと、悲しくなってくる。何て自己中心的でわがままで酷いおれなんだろう。仮に、ダレンがこれからもずっといっしょにいてくれると言ってくれたとしても、ダレンに嫌われてしまっては何にもならない。そうだ、それこそ自分が一番恐れているはずのことなのに。
 身体が少し冷えてきた。エブラは毛布を身体に巻きつけて、相変わらずずっと、布団の上に座ったまま、ダレンを見ていた。




 薄曇の翌朝、エブラはダレンに揺り起こされた。身体に毛布を不器用に巻きつけたまま、膝を抱えて眠ってしまったらしい、立ち上がろうとすると、あちこちの関節が強張っていた。
「何で横になって寝なかったの?」
「……べつに」

「ちゃんと仕事できる?」
 ダレンは昨夜のことを深く気にしている風は無かった。エブラはぎこちなく、ふて腐れたように頷く。彼らの毎朝の仕事となっているリトル・ピープルの食事のための獣探しを、別々の方向ではじめた。幸運にも、すぐ側の道路に一体の轢死体が転がっていた、エブラはそれを担ぎ上げて戻った。ダレンはどこから拾ってきたのか、長い首をざっくりと抉られた馬を両手で引きずって来た。聞かれてもいないのに「放牧場の端っこで、もう立てなくなってたから」そう答えて、血に汚れた口の端を拭った。
「エブラ」
 リトル・ピープルたちの食事が済んで次の仕事へと向かう間、ダレンはこびるような口調で呼びかけた。
「エブラってば」
「なんだよ」
 ダレンが「エブラ」と、自分の名前を呼ぶのを聞いたり見たりするのは、嬉しいことのはずなのに、昨夜のことが尾を引いて、そっけない応対をしてしまう。ダレンが思いのほか、エブラが怒鳴ったことを気にしていないようだから、エブラは安心もしているのだが、どこかで、何故自分と寝たくないのだと悲しく思うような気持ちが、まだ胸の奥に痞えているのだ。損をするぞ、エブラは内心で自分を咎める声を聞く、こんなことでは損をするぞと。
 立ち止まったエブラの顔をじっと覗き込んで、ダレンはぎこちない笑みを浮かべて、言った。その笑みは、エブラが決して見たいとは思わないような種類のものだった。
「昨日はごめんなさい」
 ダレンは、そう言って頭を下げた。エブラは、安堵しているくせに、ぶっきらぼうに、
「べつにおまえは何もしてないだろう」
 そんな事を言う。
「ううん。エブラを怒らせちゃったのはぼくが悪いからだ。ぼくの言葉が足りなかったからだよ。ちゃんと説明すれば……」
「要らない」
 エブラはまた歩き出して言った。こんなことを言っていては、何にも解決しない、望むようにはならないと解っていながらも。
「説明なんて要らないよ。おれはダレンといっしょに寝られてればそれでいいんだ」
「……でも」
「おれのことどう思ってもらっても構わない。だけど、おまえはおれといっしょに寝るんだ」
 はね付けるように言って、エブラはたまらずダレンから目を離した。声も足元も震えている。
 胃にとげの刺さるような沈黙に耐え切れず、エブラは歩き出した。その背中に、ダレンのものではない声がかかる。
「よう、おはよう二人とも」
 コーマック=リムズの声だ。エブラは構わず、歩きつづけた。
「エブラ。……どうしたんだアイツ、けんかでもしたのかい?」
「……」
 コーマックがダレンに声をかけたところまでは聞き取れた、しかし、ダレンがどう答えたかは聞こえなかった。あるいは、何とも答えなかったのかもしれない。エブラはまずいことをしたと自覚しながら、もうダレンの場所に戻る気持ちにはどうしてもなれなかった。
 言い争うことはあっても、喧嘩して仲違いになったことは一度も無い。お互い、友だちでありつづけることを願って、相手を傷つけるようなことは口に出さずに、相手を最大限尊重すると、内心で固く決めていたからだ。互いを思いやるそんな決心が、互いを「大親友」と呼び合える最高の関係にしていることを、理解していたはずなのに……。悔やんだが、エブラはダレンよりも、自分の心がダレンから離れようとしているのかもしれないと思い至る。ダレンのことは好きだ、大好き。恋人にしたい。だけれども、そうは出来ないことは知っている。なのに、わずかな望みを抱いて、共に在り続けることを望み、例えば別々に眠るのを拒むような自分の気持ちが、鬱陶しく思えてくるのだ。
 しなければならない仕事はある。しかし、ダレンと顔をつき合わせる気にはならなかった。きっとダレンはさっきのように、理由を説明しようとするだろう。しかし、今のエブラにはそれが言い訳にしか聞こえないし、もうどうでもいいことだ。もう、どうでも、いいことだ。エブラは、ゆっくりそう反芻した。
もう、しょうがないよ。
 呟いて、ダレンを開放することを、決める。ダレンのことは好き、大切な大切な友だちだ、その思いを、願いを、尊重することが、自分たちを友だちたらしめているのだ。望むのは、ダレンの気持ちを矯めて、自分の思いを果たすことではなくて、これからもずっと友だちでありつづけること。そっちのほうが、ずっと重要だ。
 そう、決めて、しかしどっと疲れてトレーラーの影に腰を下ろしたエブラの目前に、人の手首が落ちてきた。
「……!」
 息を呑んで、しかしすぐ、その手首に黴が生え始め、まもなくボロボロの塊になってしまうまでの間に、誰の仕業だかわかった。
「……コーマック、なんだよ」
「やあ、エブラ=フォン。ダレンと喧嘩でもしたのかい?」
 いつの間に追いつかれていたのか、トレーラーの荷台の影からコーマックが顔を覗かせた。今しがた切断されたはずの右手は、もう新しいものが生えていて、彼は握ったり解いたりして、新しい手の使い心地を確かめている。恐るべき再生能力を持つ身体、切っても切っても生えてくるパーツ、これがコーマック=リムズの「見せ物」だった。見た目はさわやかな青年なのに、持っている技術は非常にグロテスクというギャップが、彼が観客に屈指の人気を誇る理由だ。
「……関係ないだろ」
 エブラはそっぽを向いて、答えない。コーマックは許可も取らず、エブラの隣に腰を下ろした。
「って言われても、悪いなあ、ダレンに聞いちゃったんだよ。それになエブラ、一応おれもおまえたちの友だちのつもりでいるんだ。ここにいる連中は、相手がどう思おうとおれにとったら仲間だからな。仲間内でのトラブルは解決しなきゃいけない。……それに、おまえとおれの仲じゃないか、腹の底まで知ってる。そうだろ?」
 もっともこういうのはミスター・トールがするべきことなのかも知れないけどさ、あの人はそういうことするタイプでもなさそうだから。コーマックはサーカスを取り仕切る男の名を出して、そう付け加えた。
 コーマックのことを嫌いだと思ったことは無いし、確かに言われたとおり、大切な友人であるとは思っている。サーカスに入ってから今日これまで、一番に世話になった人間であると確信を持って言える、心から。しかし正直、誰であっても、この件に関して足を踏み入れられたくない、とエブラは思った。
 そんなエブラの内心を慮ることなく、コーマックは言った。
「なあ、違ってたらごめんな? でも確認しておきたいんだ、おまえ、ダレンのことが好きか?」
「……、何?」
「いや、だから。おまえ、ダレンのこと好きなのか?」
 エブラは魚が喘ぐように口を一度ぱくつかせてから、それからようやく答えた。
「好きじゃ、ないよ」
「そうだったのか? 友だちじゃないのか?」
「友だちだ」
「じゃあ好きなんじゃないか」
「……ああ……、ああ、うん」
 フッ、とコーマックは笑う。
「純情だねえ、エブラ」
「な……、何がだよ」
「なあ。男同士で、好きかどうか聞かれて『友だちとして』なんて但し書きが要るかい? ……まあ、わかってたけどなおれは。おまえがダレンのことを、ただの友だちじゃない、ましてやおまえたちが口をそろえて言うような『大親友』なんてもんじゃないって思ってることくらい」
「……あんたには……」
 コーマックに操られているような気になって、エブラは低い声でうめいた。熱くなった顔はどうしようもないから、下を向いて、降りてくる長い髪で隠す。
「関係ないことだ」
「確かに。無いって言えば無いんだけど。まあ、安心しろよ、おれ、知ってのとおりそういうの偏見ないから。……いやいや、そうじゃなくってな、エブラ。おまえ、ダレンの事が、何でも良いよ友だちでも何でも、とにかく好きって思うんだったらさ、心の狭いこと言ってやるなよな。一人で寝るのくらい、我慢しろよ、何ならおれがいっしょに寝てやってもいい。わかるだろ? ダレンにだって一人になって考えたりする時間も必要だぜ」
 コーマックは決して説教口調になることはなく、軽く笑いながら言った。エブラは不機嫌な声で、
「解ってる。もう、……決めたんだ、ダレンとはもう、いっしょに寝ないよ」
「まあ、別にそう極端である必要もないけどな。ダレンは別に、おまえと一緒にもう金輪際寝たくないなんてことは言ってなかったぜ、ただ、一週間とか三四日に一度くらいは一人の時間が欲しいって。……つまり、おまえも、ほら、わかるだろ」
 そこまで滑らかだった舌が、急に油が切れたように言い淀んだ。コーマックは照れくさそうに笑って、
「何ていうか、あれだな、やっぱこういう話をするのはおれ苦手だ……、男同士でもさ、恥ずかしいや」
 と言った。
「何だよ」
「だから……、うーん。その……、エブラ、ダレンは大人になったんだよ」
「何言ってるんだ?」
 コーマックはポリポリ頭を掻いて、うーんと唸る。そうして、はっと息を吸って、一息で言い切ろうという意思がありありとわかる口調で、結果的には何度もつっかえながら、言った。
「ダレンはあの、ほらあれだよ、思春期でさ身体が大人になったんだよ、ほら、あるだろあの、おれたちにも、あれが出るようになったんだよいわゆるひとつのアレが」
 あまりに舌足らずの言葉で、エブラは首を傾げる。
 コーマックは、長いため息をついて、呟くような声で、言った。
「……ダレン、精液出たんだって」
「え?」
 それまで、不機嫌の体を続けていたエブラが、思わず素の声を上げた。
「……あの子、いくつだったっけ。今まで、出たことなかったんだってさ。で、……その、ああもう恥ずかしいな、昨日の朝、夢精したんだってさ。すっごい恥ずかしそうに教えてくれたよ、聞いてるおれも恥ずかしかったけどな!」
 やけくそのようにハハッと笑って、コーマックはまた顔を赤らめて咳払いをした。
「……そういうわけでな、おまえといつでもいっしょだと、ダレン、出来ないだろ。だから、一人の時間が欲しいんだって。一人で、その……、アレする時間が欲しいんだって。ほら、おれたちならさ、慣れてるから草陰とかでパッとやってパッと戻って来れるけど、ダレンはまだぜんぜんウブなわけだし、まあ……、やっぱり一人でしたいだろうよこういうことは。な、だから……、まあ、そういうわけなんだ」
 コーマックは立ち上がってズボンの土ぼこりを叩いた。ぼうっとしているエブラを見下ろして、
「一応、ダレンに……、さ、教えてやったらどうかな。やり方解らないなら、エブラに聞けよって、おれ、言っちゃったから」
「な……! ちょっと、ふざけるなよ」
「しょうがないだろ。言っとくが、おれはやだよ。……おまえに教えるのだって恥ずかしくて死ぬかと思ったんだから……」
「……! ……で、でも……」
「いいか、ダレンのことが好きなら、ダレンのこと考えてやれ。人生の先輩として、ちゃんと教えてやれよ。……その代わり、ダレンのこと悲しませるなよな、解ってるだろ? いくら好きでも、やっていいことと悪いことがある。おれも相当後悔したし……」
「……っ、うるさい! もう、あっち行けよ!」
 益々もって、ダレンの顔をどう見たらいいかわからなくなったエブラだった。しかし、もう五分ほど、トレーラーのタイヤに背中を当てて考え込んでから、すっくと立ち上がり、エブラは友だちが一人でしているこまごました仕事を手伝いに、戻った。




 真っ先に言った「ごめん」という言葉に、ダレンも頷いて、「ぼくもごめん」と応じた。たった一往復のやり取りで元に戻れるのだから、「友だち」というのがどんなに素敵な形か解る。エブラは抛ったらかしでダレンにやらせていた仕事を急ピッチで進めながら、ぽつり、言葉をかけてみた。
「ダレン、夢精したって?」
 ダレンはぴたりと動きを止めて、
「……コーマックに聞いたの?」
 平静を装って言うが、頬がほのかに赤く染まっている。エブラは笑って、
「よかったじゃないか、大人になったんだものな」
「うん、ぼく、だから……」
「一週間に一遍なら、いいよ」
「え?」
 ダレンは顔を上げてエブラを見た。エブラは優しそうに微笑んで、自分を見ている。昨夜、あんなに頑なだったエブラと同人物なのかと、訝りそうになるくらい。
「一週間に一遍。それ以外のときは……、ダレンがそれでもいいって言ってくれるなら、おれの隣で寝てくれる?」
 見る見るうちに笑顔になって、ダレンは「うん」と頷いた。
「それでいいよ、それが、いちばんいいね」
 ダレンが手を差し出した。エブラは仕事の手を止めて、握手する。うろこは肌の柔らかさを、肌はうろこの硬さを、共に心地よいものとして受け止める。
「それで……さ」
 再び仕事に手を戻して、エブラは言った。ダレンは一休みして、傍らの缶に手を伸ばし、額の汗を拭いた。エブラはちらりと覗き見て、訳もなく可愛い、ほんとうに可愛い、やっぱりおれには無理かもと、躊躇した。
 しかし、おれはダレンの友だちなのだという誇りにも似た思いが胸の中のあるから、自分の気持ちうんぬんよりも、ダレンの今後を案じるのがずっと正しいやり方だろう。
「ダレン……、知らないん、だってな? その……」
 照れ隠しに、仕事の手を無駄なほどに早める。
「……一人で、する、やりかたを」
 ダレンは空になった缶を、力が余って思わず握りつぶしてしまってから、決まり悪そうにうなずいた。エブラは内心、もう一度自問自答した。
 コーマックのほうが、やっぱりよくないか? おれにそんなことさすなんて、基地外に刃物もいいところだろ。なあ、だって、その、ほら。
「あー……、なんだ、その」
 歯切れは非常に悪い。
「もし、あれなら、おれが教えてあげるよ?」
「え……?」
「い、いや、もしあれなら、だよ、ダレンが、知りたいなら……」
 おれ、いま、みっともない。
 自覚しながらエブラは、上目遣いにダレンを見た。ダレンは恥ずかしそうにうつむいて、ぽつり、
「……知りたい」
 そう、呟いた。
「……そう、……そう……。わかった。じゃあ……、うん、今夜にでも、教えてあげるから……。ま、まあ、あれだよ、そんな恥ずかしがることないってば。おれも……、思い出したくないけどさあんまり、コーマックに教わったんだ。二年、いや三年前、かな? 男なんだし、しょうがないよ。ね?」
「う、うん……」
 異様にぎこちない雰囲気に包まれて、仲直りをしたばかりの二人なのに、それからその仕事を終えるまでの間、休憩もせず、顔を上げて話をすることもなく、黙々と下を向いて細かな作業をしつづけた。コーマックはトレーラーの陰から覗き込んで、嬉しそうに微笑んでいた。




 これはダレンのためにすることなのであって、自分はただ、教えるためにいるだけ。余計なことは絶対にしない。そして、必要最低限の知識を与えたならさっさと終えて寝る。ダレンが求めたなら、ダレンをクレプスリーのテントで一人で寝かせるのもいい。自分はとにかく、教えるだけ。そう心に誓ったなら、そしてその誓いを誇りにかけて護るのなら、自分にはコーチをする資格がある。
「あー……と」
 しかし、気恥ずかしさと緊張と、隠し切れない興奮に、エブラは今ひとつ背筋が伸びないような物の言い方だ。
「こういう、トレーラーの陰とかさ、あっちの藪の中とかさ、サーカスの連中が絶対来ないような場所、あるだろ。おれはこういうところでしてる。昔はおれ、コーマックのトレーラーで寝てたりしてたし、おれに教えてくれたコーマックもそうだったんだって。だから、テントや車の中じゃなくて、こういうところのほうが安心なんだ」
「……ふーん……。寒くないの?」
「うーん……、まあ、そりゃちっとは寒いけど。でも、何ていうの、……興奮、してるから、大体寒さは気付かないよ」
「……そういう、ものなの?」
「そういうものなのだ」
「エブラは、コーマックに教わったんだね」
「ああ……。いや、うん、その話は止めよう。ダレンは、でも何で? どうして知ってたの? 夢精して、それがすぐ夢精だってこと、何でわかったの?」
 遮って、逆に質問で返した。ダレンは少し懐かしむように、
「学校で習ったよ、保健の授業でね。男子と女子別れて。男の先生の話を聞かされた。その日からさ、みんな変に目の色変えたりして、……時々はそういう話もしたなあ」
「へえ……。じゃあ、周りの友だちの中にももういたの?」
「うん、いたと思うよ。面と向かって聞いたことはないけど、多分いたと思う。……ぼくはバンパイアになっちゃったから、大人になるスピードが遅くなったでしょう? だからそれが来るのはもっとずっと先だと思ってたんだけど……」
「ダレンは、ダレンが思ってるよりずっと大人だったんだね」
「そう、なの……、かな」
 二人は、トレーラーの影に腰を下ろした。夜風は、ダレンの肌を冷やし、エブラの肌を冷ました。エブラは体育座りをして、ダレンの顔をちらりと覗き見る。少なからずの緊張に、頬が強張っている。世間話をして解きほぐそうとしても、なかなか上手くはいかないようだ。エブラはため息を飲み込んで、意を決した。
「……じゃあ……、ダレン、はじめようか」
「……」
 一瞬、脅えて逃げ出しそうな目をして見られた。エブラは安心させるように微笑んだ。
「おれも……、あんまり話したくないんだけどこのことは……、コーマックに教わったとき、すっごい恥ずかしかった。教えてるコーマックも恥ずかしそうだったしさ。な、しょうがないよ、男なんだから。大人になるためにさ」
「……うん」
 ダレンは頷く。
「我慢するよ」
 コーマックはエブラに、「……だから、そう、その、何ていうんだ、それを、そう、握ってだな、いわゆるこう、動かすって言うか」、そんなしどろもどろな説明で、顔を真っ赤にしたり真っ青にしたりしながら、自慰を教えたのだ。いま、その気恥ずかしさは、エブラにも非常に理解できた。気も狂うほど。だからコーマックはきっとおかしくなっちゃったんだろうと思ってしまった。あんなことさえなければ……と。しかし、「こんなことしたくないんだよおれは」とコーマックは泣き声を漏らしたけれど、信頼しあえる仲間、友だちへの友情、そして、人生の先輩としてのプレゼントをするのは悪いことじゃない。コーマックも、以前誰かに教わったのだというが、これを詳しく語るような男ではない。が、連綿と受け継がれていく男としての儀式のようなものだと、コーマックもエブラも解している。
 しかしエブラにとっては、一般的な、やや踏み込んだ友情としてのみ扱えるようなものではない。喉から心臓が飛び出しそうな勢いなのに、平静を装って、優しくコーチしてあげなくてはいけない。ましてや、ダレンの信頼を失うようなことは絶対に絶対に、してはいけない。
 これを終えたらダレンを部屋に返して、苦しい自慰をしようと決める。
「……じゃあ……、ダレン、ええと……、下、脱いで」
「……うん、脱ぐ」
 ダレンは頷く。月の下で耳まで真っ赤な顔が、エブラはどうにかなりそうだった。いや、いっそどうにかしてくれと、エブラは思った。
 するり、とズボンを下ろし、躊躇いつつも下着を脱いだダレンの方を、見ないようにしながら、エブラは一層しどろもどろになる。なんだか、酷く罪深いことをしているような気になる。ダレンのためだとしてもだ。ひょっとしてコーマックもこんな気持ちだったのだろうか。だとしたら、彼にはほんとうに感謝しなければならない。
「え、えっと、ダレン?」
 声が裏返る。
「そうしたら、……ええと、その、そこ、そこがだな」
 そっぽを向いたまま、その周囲と思しき場所を、指差す。だいたい、このへん。
「……うん」
 ダレンはちゃんと解したように、応える。
「そう、そこが、あの、硬くなるときがあるだろ」
「いま、硬い」
「え? あ」
 思わず振り向いてしまったエブラは、なるほど、ダレンが確かに「硬」くなっているのだということを視覚的に確認し、絵画表現ならば鼻血を噴くくらいに沸騰しかけた。ちょっと恥ずかしそうに、唇を噛む横顔が、堪らなく可愛い。ほんとうに、堪らない。エブラは不自然な沈黙が生じてしまうのを承知で、ダレンの横顔と下半身を二度ずつ見つめてしまった。
「あんまり……、見るなよ」
「あ……、あ、ごめんよ。……なあ、何で……硬くなったの?」
「……興奮、したから」
「……」
「教えてもらうの、興奮したから……。変?」
「いや、いや、変じゃない。おれもそうだったから」
 むしろ、それを見て下半身に鋭いとげの刺さったような痛みを感じるような自分が変なのだ。
「ええと。……じゃあ、教えるけど、精巣っていう器官に、精子、これはいわゆる、花のおしべから出る花粉な、どろどろした白いやつ、精子が溜まって、ある程度になると本人の意思とは関係なく、外に分泌されてしまう」
「うん、そのへんは……、保健で習った」
「あ、ああそう。……で、その分泌が不作為につまり、本人が意識しないうちに出ちゃうのが、多くの場合寝てるときだから、夢精って言うんだ」
「……」
 ダレンは、エブラがずーっと地平線のかなたの方を見つめながら言う横顔を見つめていた。先ほどから、舌をもつれさせたり、声を裏返らせたり、相当難儀な思いをして自分に教えているのが、はっきりと解った。
「でもさ、毎回そんな、夢精したりしてたら、パンツいちいち洗わなきゃいけないし面倒だろ? それに、射精するっていう行為は、まあ、いわゆるひとつの、こう、なんでしょうね、ええ……、つまり、気持ち良いんだ。だから……、その、おおお、オナニーするっていうか、まあ、あの、自慰だな、自慰行為、して、その快楽をだな、得て、まあ、気持ちよくなったり、するわけだ、うん。わかるな?」
「なんとなく」
「別に、オナニーなんてしなくても、いいんだよ。したくなかったらね。でも、やっぱり気持ち良いものは気持ち良いしさ。それに、適度な回数ならストレスの解消にもなるって聞いたことあるし。だから、教えてあげた方が、たぶんいいよね」
「うん、だから、教えてよ」
「……うん」
 大きく息を吸い込んで、吐き出した。
 熱くなった胸は、夜の気を吸い込んでもなお冷めない。
「……エブラ、心臓すごく早くない?」
 耳ざとく、ダレンにそう指摘される。どうにも応えられないでいると、ダレンはごめんね、と呟く。
「恥ずかしい?」
「……そ、そりゃ……」
「ごめんね」
「……いいんだよ、気にするなよ。おれはダレンのためなら……」
 口を噤んだ。
 しかし、ダレンのためとはいえ、これを終えた後で、心臓がくたびれ果てて二三日休みを必要とするかもしれない。
 胸が苦しい。
「おまえはつまらないこと考えないで、気持ちよくなることだけ、考えていればいいから。デビーでもトラスカでも好きな女の子のことでも、考えてさ」
 おまえがおれのことを考えることなんて、百万分に一つもないよな。
 ダレンの右手を取る、そうして、彼自身に、触れさせる。
「……熱いだろ?」
「……うん」
 まじまじと見てしまっては心がもっとおかしくなってしまうから、エブラは横目でちらりと見るにとどめる。それでも、邪まに何処かで目に焼き付けて後で使おうという魂胆がある。そんな自分の心を激しく嫌悪しつつ、この場に居合わせられる幸運に感謝している。
「それ、動かすんだ、上下に」
 もちろん、ダレンのそれが立っているさまを見るのは初めてだ。予想はしていたことだが、ダレンのそれはまだ、なるほど、これなら。大きくなくて、ひ弱で、涼しげに見える。陰毛が生えていないのはエブラも同じだったが、肌色、白、に近い肌は、見るだけですべすべだということが解り、そんな身体にこんな欲望を抱いている自分が、ひどく恥ずかしいものだと思う。
 いや、友だちなのだから……。
 そんな抑制も、今は嘘のように遠く離れていく。
「動かすって……?」
「握って、そう……。で、それで上下に動かしてごらん」
 ぎこちない手つきが、狂おしくエブラを締め上げた。細い指が細い茎に、戸惑うように絡み付いて、上下する。
「こ……、こう?」
「ん、うん。そうそう、……なかなか筋がいい」
「……な、……んか、変なかんじ……」
 エブラは努めてそちらから目を離す。しかし、そうすると聴覚が却って冴え渡って、ダレンの服が、肌と肌とが、擦れ合う音も、少し速い吐息も、ダレンがエブラの心臓の音を拾うように、一つ一つがリアルに解ってしまう。余計に興奮が高まってしまう。
「え……、エブラ……」
 俄かに、脅えたような声が、ダレンの唇から漏れた。
「なに、どうしたの」
 咄嗟に振り向くと、ダレンは今にもエブラにしがみついて来そうな目で見上げている。その右手は、性器を手放して、わなないている。
「何か……、いま、変」
「変?」
「何か、……上手くいえないけど、変だったんだ……、こう、ビクッてした」
 エブラは、細い目の端に、ダレンのものの先端に、清んだ蜜が浮かび上がっているのを見た。それに心底ときめいて、そんな自分を嫌悪する。だから、今はそうじゃないんだって。ダレンのためを思うなら……。
 つばを飲み込んで、言う。
「気持ちよくなってきた証拠だよ。その……、先っぽに、おつゆ出てるだろ?」
「え……? あ……、これ……、何……、な、なんで……、……おしっこ?」
「違うよ。その、なんだ、ダレンが気持ちよくなってくると、それがちょっとずつ出て来るんだよ。な、もう少し続けてごらんよ、そうしたらきっともっとすごく、気持ち良いから」
 なあダレン……、同じおつゆ、おれのからもたくさん、出てるんだよ。
 とは、言えず。天にせめて望むのは、この子が同性愛を否定するような心の狭い子ではありませんようにと。いや、しかし同性愛を否定するからこの子の心が狭いとは、エブラはやはり思えない。
 悪いのは全ておれだ。
「エブラ……、ぼく……」
 息を一つ呑んで、ダレンが言う。その声は緊張か興奮か恐怖か好奇心かで、揺らめいている。その手が、エブラの手をぎゅっと掴む。
「何か、……何だか、怖い」
 握られたことにびくりとしながら、人生の先輩としての余裕を何とか保とうと、エブラはぎこちないほほえみを、うろこに貼り付ける。何とも、可愛い、としか言いようのないダレンの顔を見て、そのほほえみはいっそうぎこちなくなる。「可憐」などという言葉が、その頭の中に閃いた。
 甘酸っぱい気持ちになる。
「……大丈夫だよ、おれ、いるだろ? な、もうちょっとしたら、気持ちよくなれるからさ」
 一旦、唇を湿らせてから、
「な? おれ、ダレンの手、握っててあげるから」
 勇を鼓して、言った。
「ほんと?」
 エブラの恐れたようなリアクションは一切せずに、ダレンは縋りつくような目で言う。エブラは二度も三度も余計に頷いた。
「もちろん。友だちだろ?」
「……ありがとう」
「どういたしまして。……さ、あんまり裸でいると風邪ひいちゃうからさ、早く終わらせよう。おれもはっきりいって、ちょっと、かなり、その」
「……うん。ごめんね」
 ダレンの手が、再び彼の性器にかかる。エブラは、そこから目をそらして、瞑った。ああそうだよ、友だちなんだ、恋人じゃない、だけどそれでもいいじゃないかだって、おれの願うことはおれの幸せじゃなくって、ダレンの幸せなんだから。
 なあ? そうだろ?
 求めるべきはこれからもダレンといつづける日々。ダレンがいなくならないで、一緒に寝てくれるという、極上の幸せ。それが壊れない限り、おれは幸せ。それ以上のものを望むなんて贅沢を、する必要はない。いまが大事。そうだよ、友だちだからこんなときにだって、おれはダレンの隣にいられるんだ、その手を握っていることが、出来るんじゃないか。友だちでいられるからこその、偶然の幸せ。
 ダレンの強靭なつめが、エブラの手に突き刺さる。それとともに、ダレンの体が一つ、二つ、震える。
「う……、あっ」
 堪らず声が出た。ダレンの性器から、精液が散った。ダレンの浅い息に紛れ、エブラもため息を一つ吐いて、ポケットからティッシュペーパーを取り出す。
「どうぞ」
「……」
「拭かないと。乾くとベタベタになっちゃうから……、ダレン」
 余計なものを見て、余計なことを考えるのは真っ平ごめんだと、エブラはまた目を逸らす。ただ、耳の奥でダレンの声がわんわん響き渡っている。本人の願望とはかけ離れ、まだまだ大人にはなれない、変性期前の声だ。透き通っていて、歌を歌わせたらとてもいいだろう。そして、そういう声もまた、艶っぽい。ダレンはいつまでも握ったエブラの手のひらに、浮かんだ汗を感じながら、胸の詰まるような気持ちをどうにも棄てられないまま、ダレンの後処理が終わるのを、じっと待っていた。エブラは、ダレンの手を離した。
 それからテントに戻るまで、ダレンは何も言わなかった。エブラはとりあえず、自分を汚いものと定義して、自慰に行こうと思っていたのだが、ダレンが何とも憔悴しきっているように見えて、側を離れがたく思った。
「……大丈夫?」
 聞いても、こくんと頷くばかりだ。だが、不意に顔を上げて、
「気持ち良かったは良かったけど、……あれ、みんなしてるの?」
 そんな事を聞いてくる。エブラはやや安心して、
「みんなって言うか……、まあ……、そうだね、みんなしてるだろうな。でも、そう、念のために言っておくけど、誰かといっしょにやるなんてのは、まず、ない。これ一回きりだから。普通、自分のその……、そこをだ、誰かに見せることなんて、ないだろ? 社会的には勃起するって、恥ずかしいことだっていうのは、わかるよな? だから、やり方教えるって言うのも、ほんとを言ったら変なんだけど」
「でも、それはぼくが教えてって言ったから」
「うん、だから、今回だけだよ?」
 ダレンは少しうつむいて応えなかった。
「今回だけ。次回からは、まあ、三四日に一遍でも、いいよ、一人で寝る日に済ませるんだ。な? やり方はもう解ったんだからさ」
 もうやり方を教えるのは、どうしたって嫌だった。あんな風にこんな風に、自分の汚い部分を嫌というほど見なければいけないから。
 しかし、ダレンはうつむいたまま、じっと黙ったままだ。
「ダレン?」
「ぼく、やっぱり、一人で寝ない。毎日エブラといっしょにいる」
 ぼそっ、とダレンは呟いた。
「なに?」
 聞き返すとダレンはさらに小さな声で、
「これからもエブラと寝る」
 と。
 やっとそれを聞きとどめて、エブラは膝が震えた。
「……どうして?」
「ぼく、我慢できそうにないから」
「何が?」
「……いま、さっき、ひとりで、した後、何だかすっごい、寒かったんだ」
「そりゃ、ダレン、すぐに拭いてズボンはかないから……」
「ううん、そうじゃなくって……、なんか、寒いっていうのは、変な言い方だったかもしれない。急に、寂しくなって、震えてきたんだ」
「……」
 エブラはダレンの言葉を聞いて、何のことか理解していた。エブラがダレンを思い描いて自慰をした後に感じる、強い罪悪感は、その寂寥感が呼び覚ますものでもある。ダレンを夢想して耽っていたのに、理性的になるに連れて、ダレンの顔は消え、自分は世界でたったひとり置き去りにされたような気になる。ダレンが言いたいのは、その気持ちのことだろう。
 だからエブラは安心させるように言った。
「みんなそうだよ。すぐに慣れるさ」
「でも、ぼくは……」
 すぐにダレンは抗弁する。
「さっき……、エブラが手を握っていてくれたから、少しは楽だったんだと思う。あれが、本当に独りっきりでして、独りでテントに戻って、独りで寝るなんていうんだったら、ぼくはきっと……」
 縋りつくような、目。普段はあれほど意志力に満ちた目をしているのに、いまは雨の日の子犬のような、怖がりの目をしている。その目は、エブラの胸を辛く苦しめ、いとおしさを倍増させる。
「ねえ、エブラ、お願いだよ。あんなこと言って、悪かった。ごめんよ。だけど、お願い、これからもぼくの隣で寝ていて。ぼくが寂しい思いしてもどって来た時、エブラがいないのはいやだよ。ぼく……、エブラ、ぼくは……」




「顔色悪いな。いつものことだけど」
 翌日夕刻、エブラが斜めに傾いで、たまたま独りでいたところに、コーマックが神妙な顔つきでやって来た。エブラはうつろな微笑みを、彼にとっての「先輩」に向けた。蛇少年の薄笑いには、何だか異様な色があるように思えて、コーマックはややたじろいだ。
「……どうだったの?」
 エブラの隣に座って、顔を寄せる。
「……うー……、うん。教えたよ、ちゃんと」
「お、そ、そうか……、それは、ご苦労様」
「お陰様でね、ダレンともこれからずーっと、一緒に寝ることに相成りましたよ」
「何?」
「ダレンがそれを望んだんだ」
「……そ、そうなのか。それはまあ……、よかったじゃないか。いや、単純よかったと言うべきじゃなさそうだな、おまえの顔を見ればなんとなくわかる」
「ご明察」
 フッ、と乾いた笑いをして、エブラは、昨夜にダレンが言った言葉を、コーマックに包み隠さず、明かした。
「独りじゃ出来ないって? それ……、おい、どういう……」
「さあね」
 エブラは目の下にくまのある顔で、諦めきったような笑いをする。
「つまりは、こういうこと、なんじゃないかな」
 エブラは手を開いて、コーマックに見せた。ダレンのつめで引っかかれてうろこのはがれた跡も生々しい手のひらに、コーマックは息を呑んだ。
「おれはダレンといっしょにいつづける日々を手に入れた。だけれど、それよりももっと辛い日々を、ついでに手に入れてしまったんだ……」
 腰が痛そうに立ち上がると、
「昨日だっておれ、二回じゃ終わらなかったんだぜ? 良かったらトレーラーの裏、見てご覧、ティッシュいっぱい転がってるはずだから」
 言って、よろよろと歩き出した。コーマックは掛ける言葉も見つからず、笑顔のダレンに元気なく手を振るエブラを眺めていた。


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