デスクロー

必要とされているのは幸福なこと。そう噛み締める。おれはだって、そうでないところからはじまったのだから。ひとりぼっちで泣いていた自分を考えれば、今時分がどんなに幸せかと思い知る。誰かには不幸に見えるかもしれないこの状況も、大好きな人と共にいられるだけで、自分は幸せなのだ。どんな理由であれ、自分は必要とされている、これは単純に、嬉しい。価値がある。
 だからエブラは決めたのだ。もう、いいよそれで十分、おなかいっぱい、おれの騎士様が俺のとなりで眠っていて、おれの必要なこの人が同じように俺を必要としてくれる。こんなふうに思う。おまえと知り合えて、ほんとうによかったよ。
 探そうと思えば幸せは、本当にあっちにこっちに散らばっているのだ。無意識のうちに通り過ぎて見落としているだけで。ゆっくり歩いていると、いろんなものが、綺麗なかけらが、見つかるものだ。一つ一つ拾い上げて、じっくり見つめて、ああこんなところにいたんですかと、すいません気付けなくってと、頭を下げて感謝したくなる。日々の生活の、なんとも思わないようなところに、たくさんの宝物と喜びがあることを、エブラは知った。
 ダレンの一言ひとことを、笑顔を、ちょっとしたことでも、それが全部、エブラにとっての喜びとなる。なんと幸せなことだろう。ただ、感謝と、たまらない恋情が溢れて止まらなくなる。自分は本当にほんとうに、幸せなのだと、心底思う。
 どんなときでも、おれはダレンを愛している、大好きだ、本当に。願いの叶う日の来ないことを、おれは嘆いたりはするまい。手のひらの爪痕をおれの誇りにして、これからも生きていく。ただ、その爪痕の手のひらで、うろこ色の性器を握って、妄想の中でおまえのことを穢す、ただそれだけはどうかなんとか、許して。
 トレーラーの夜は時間の性格の悪さと自分のみの弱さがもどかしい。もっと長く、お互いおしゃべりしていたいと思うのに、十一時を回ると、まぶたが重くて仕方なくなる。総長から懸命に働いた結果だから、仕方の無いことではあると理解してはいるのだが、納得はいかないのである。
 暗くした明かりに照らされた、お互いの顔を見る。自分と相手だけがまっすぐ立っていて、世界が全て横に寝そべっているみたいに感じられる。だんだん声が鈍くなり、返事が遠くなり、夢へと落ちていく。何て素敵な寝方だろう、エブラはこのひとときが大好きだった。ダレンの言葉に返事がおざなりになってしまうのは、大変心がいたむことではあったが。
 小窓から差し込んでくる光が晧々と明るい夜である。冷ややかな空気が静かで、布団の中が暖かくなってくると、天国にいるような気持ちになった。こういうときは、すんなり夢に逝くことが出来る。ダレンの言葉が聞こえなくなって、エブラも目を閉じた。
 真っ暗なまぶたの中の目は、ダレンを見ている、今日一日に見せてくれた彼の表情を、見ている。そしてその耳はダレンの言葉を聞いている。そうしているうちに、瞑目した向こうの世界は現実味を失い、短い夢を見始める。いろいろな形へと発展していく。
「……エブラ、寝た?」
 エブラは目を閉じてからしばらく経ってから、ダレンの声に気付き、すぐ目を開けた。三十秒ぐらい夢を見ていただろうか、それとも十分くらいは寝ていたか、判然としなかった。ダレンは青白い光の中で、じっとエブラのことを見つめていた。
「どうしたの?」
 眠気をこらえて、微笑んだ。
「眠い? 眠りたい?」
 ダレンは躊躇うように言う。起こしちゃってからそれはないだろうと内心で思いながら、エブラは半身を起こした。
「ううん。どうしたのダレン、ダレンも眠くないの?」
 ダレンも同じように身を起こして、うん、と頷いた。
「……エブラ、もし眠いなら、寝ててもいいよ」
「いや、大丈夫、平気だよ。なあ、どうしたんだ?」
 ダレンはじっとエブラを見つめた。エブラは静かにダレンの言葉を待つ。見つめられても、平静を保てるようになったのは大きな進歩である。
「手を、握ってても、いい?」
 おずおずと言ったダレンに、エブラはもちろんと微笑んで頷き、右手でダレンの左手を握り締めた。少し汗ばんでいて、あたたかい手のひらは、傷のあるヘビの緑色の手のひらに、いとおしく甘やかな柔らかさを与える。
「……あの……」
 ダレンは言いにくそうに口篭もる。
エブラは、
「いいよ、やんなよ」
 と優しく言う。
「……ごめんね、いつもいつも……」
「気にするなよ。男だって言う証拠じゃないか、いいことだよ」
 ダレンは恥ずかしそうにうつむいた。それから焦るようにパジャマを下ろして、目を閉じ、し始めた。
 ダレンが果てるまで、エブラはただ待つ。
 例えばの話だ。「俺もさみしいよ」と、「いっしょにしてもいい?」と、言ったらダレンは拒まないと思う。が、それは言えない事だ。自分の決めたことに反する。いま、幸せなんだからこれでいいのだ。こんなに嬉しいことはない、大好きなダレンが、どんな形であれ、おれの存在を求めてくれている、他に何を求めると言うのだ。それは、過ぎた贅沢と言うものだ。
 甘酸っぱいような声を上げ、爪を立て、射精に至る。うつろな、せつなげな目で、はあ、はあ、少年は掠れた息を吐く。エブラはダレンの頭を撫で、それからティッシュを取って、その身体に、パジャマに、付着した精液を拭う。そして、その律動する性器に滴るものを拭うのも、エブラの役割だった。したあと、ぐったり脱力していたいと思うらしいダレンが、何をせず、エブラがその名を呼んだら、震えた声で「なにもしたくないんだ」と言ったから、いつしか、これがエブラの、一日の最後の仕事になっていた。
 エブラにとっては苦しみを伴う仕事だ。慣れたとはいえ、今も変わらない。その弛緩していく性器をそっと包めば、薄い髪を通して柔らかな感触が冷め遣らぬ体温が、はっきり伝わってくる。辛く、苦しい仕事だ。ダレンのためを思わなければ、出来ない。
 ダレンはその間中、エブラのことを陶然と見つめていることが多い。もしくは、目を閉じて呼吸が収まるのを待っているのだ。
「……終わったよ、ダレン」
 ティッシュは丸めて、ごみ箱に投げ入れる。右手はダレンの左手を握ったまま、ダレンが放してと言うまでそのままだ。だからちりちり痛んでも、エブラはその手を放さない。
 露出したダレンの下半身を見ないよう、そっぽを向いて、エブラは覚めてしまった眠気をどうやって取り戻そうか、考えていた。その右腕に、心地よい重さがかかった。
「大丈夫?」
 ダレンが身を預けて、こく、と頷いた。
「そう?」
 ダレンは、呟くように、「もうちょっと」と言う。何がもうちょっとなのか、エブラには計りかねた。風邪をひかないか心配になったが、臨む通りに、腕を貸したままにする。
 ダレンの右手が、不意に伸びて、エブラの前に差し出された。エブラが左手でそれに触れると、ぐいとつかまれて引き寄せられた。エブラはその腕に従って、右腕を軸に百八十度回った。気付いたときにはダレンの頭が、エブラの胸板に押し当てられていた。
「ダレン……?」
 両手をつなぎあって、向かい合い、胸の中にいる好きな人、ああ、本当に好きな人。誰より今おれは、きっと優しい気持ちになっている、エブラはそんなことを考え、更にダレンを大切に思う気持ちが増した。ずっとこのままでなくてもいい、そんな大それたことは望まない、単純に、今がとても幸せ。
 胸の中から、ダレンが起きた。そのままダレンは、エブラに顔を近づけて、キスをした。一瞬どきりとしたのは正直なところだったが、別にはじめてでもないのだし、いつかのように狼狽することはなかった。
 はっ……、と離れたダレンの唇から吐息が漏れた。エブラはただ微笑んで、
「落ち着いた?」
 と聞いた。ダレンはうつむいたまま、頭を一度、上下に動かした。
 何でキスされたのかな……、エブラは当然そう考える。考えてもすぐには出てこなかったが、恐らく「ママがしてくれたキス」、つまり、魔法のキスなんだろう。欲しかったのだ、きっと、と、一応結論付けた。余計な欲望は持たないに越したことはない。
 やっと、手を解いて、ダレンは再びエブラにキスをして、今度はしっかり抱きついてきた。これにも慌てかけたが、エブラは冷静を保って対処した。片手をダレンの背中に回して、もう片方で頭を撫でてやる。自分がそうされたらきっと、嬉しいだろうから。
 二分か三分か、定かではなかったが、ダレンは「ごめんよ」とひとこと謝ってから自分の布団に入って、エブラに背を向けた。
 少し不安になったが、ダレンはきっと今夜、悪い夢を見ない。
 そう考えて、嬉しくなる。
 そして、ダレンと交わした二つの口付けの、湿り気を、匂いを、思い出して、微笑んだ。満たされた気分だ。
 そんな感じの自分でいいのだ。

 

 


 とりわけ寒い。三月になってだいぶ経つとき、まだまだ俺はいるぞと、冬の精霊が俄かに勢いを取り戻すのは、さほど珍しいことではない。厚着と手袋で、午前の仕事を白い息を流しながらする。ごわごわの手先が、普段と勝手が違って、もどかしい。しかし外してしまえばかじかんでしまう。不景気な色の空を、ダレンは見上げて言った。
「雪が降るかもしれないね」
「雪かあ。雪かきするのがなあ……。止むまで仕事が減るのはありがたいけど」
 そう言った矢先、目の前に凍りの粒が零れ落ちて来た。
 あっちのトレーラーの窓から、風邪っぴきのコーマックが顔だけ出して、雪を見ているのが見える。コーマックはエブラたちに気付いて、何か言いかけて喉が掠れて声が出せず、一回引っ込んで、「休んでいいんじゃない?」というメッセージをマジックで書き記した手首を投げてよこした。それがどんどん崩れていく、そこに氷の粒が溶けていく、スプラッタな光景に、二人は顔を見合わせて、
「……じゃあ、もういいか。コーマックもやられてるし、風邪ひいたら仕事どころじゃないしな」
 エブラの言葉にダレンは頷いて、広げたこまごました仕事をかき集めて、
「じゃあぼく、これ片付けてくるから。エブラは部屋で待っててよ。……ついでに飲み物持ってくるけど」
「ほんと? じゃあ、……あったかい紅茶がいいな」
「OK、じゃあ言ってくるね」
 白い息を流しながら、小さな背中は走っていった。エブラは部屋に入り、ポータブル・テレビの電源を入れた。普段仕事をしている時間のテレビはどんなプログラムなのだろうかと、興味をそそられたのだ。
 ぱらぱらと切り替えている所に、缶をあたたかそうに胸に抱いたダレンが入って来た。
「何か面白いのやってる? ……紅茶」
「サンキュ。ダレンも紅茶? ……あんまりめぼしいのはないなあ」
「おいしそうだったから。……きっとこの時間はあれだね、ほら、家で留守番してるお母さんが見るんだろうね」
 エブラはスイッチを切った。
 二人揃って缶の蓋を開ける。暖かいミルクティの匂いが漂う。飲み下して、芯が暖まっていくのを味わう。
「風邪ひかないようにしないと。さっきちょっと部屋覗いてきたけど、コーマック、大きいくしゃみして指飛ばしてたよ」
「おれたちも気をつけないとやられるよ、ちゃんと暖かくして、休むときは休まないと」
 ダレンはちょっと表情を曇らせた。
「あの、……昨夜はごめんね、やっぱりエブラ、寝てたでしょ?」
「いや」
「寝てたよ」
「……うん、寝てた。でも……、気にするなよ、おまえの頼みなら聞くよ。友達だろ?」
「……うん、ごめんよ」
 はー、とダレンは息を吐く。
「一人で出来るようにしなくっちゃ、だめだよね」
 エブラは苦く笑う。本音を言ってしまえば、そりゃ確かにそうだ。一歩間違えたら、相当異常に映ることもあるかもしれない、他の誰かの目には。
 エブラの目にはそうは映らなくとも。
「まあ……、気にするなよな、あんまり。おれは気にしないから」
「うん……」
 ダレンも、少し力なくだが、エブラに誘われるように笑った。
 紅茶を一口飲む。
「……エブラは……、あのさ」
 そして、やや聞きにくそうにダレンは尋ねた。
「エブラは、女の人と、……したこと、あるの?」
 缶に口を当てかけていたエブラは、噴き出した。口にいれた後でなくて良かったと思う。ダレンは少し頬を赤らめている。
「なんだよ急に」
「……いいだろ、もしあったら、ぼくだってそのうち、するチャンスがあるかもしれないから、……そういうとき、どうだったか、とか、知っておいた方がいいかなって……」
 エブラはくすくす笑いながら、「ないよ」と首を振った。可愛いなあ、そんな風に、身もだえしそうになるのを堪えながら。
「なんだ……、ないのか」
 ダレンは拍子抜けしたように言う。
「ないよ、まだ、一度もない。多分これからもないだろうなあ。ヘビに抱かれたい女の子なんているもんか……」
 これは、少しさみしいことではあるが、事実だともうずっと心に決め込んだことだ。仮に自分に抱かれてくれるような子が居たとしても、彼女の中には「エブラ・フォン」という人間ではなくて「蛇人間」という意識が残るに違いないと。そうなれば、愛されるなんて不可能に近い。だったら、ないほうがいい。
 そう言ったエブラを、ダレンはじっと見つめる。エブラは内心で、「それにいまのおれには、おまえしかいないし」と付け加える。
「ぼくは」
 ダレンは言う。
「ぼくはエブラがヘビでねばねばでも、気にしたことないけどな。そりゃ最初は、『すげえ』って思ったけど、……ぼくはどっちかって言ったら、おまえのその肌を、クールだなって思った。……でも、今はすごいともクールだとも思わないし、何も特別だと思わないよ。慣れてきたら、どんな女の子だってそう思うんじゃない?」
 ダレンはそう、簡単に言った。エブラはにっこりと笑って、
「おまえは優しいね」
 と言った。
「参考までに言っておくと、おれが女の子としたことは無いけど、聞いたことならある。どういう風にするか、とか。でも、大体の所はダレンも知ってるだろ? こう、あれを、あそこに、何ていうか、入れてさ、動かすの」
「……うん、知ってる」
「でも、聞いた話だとさ、実際に女の子とするのより、一人でしたほうが、気持ちいいんだってさ。自分のリズムで出来るからとか、相手のことを考えなくていいからとか、いろいろ理由があるんだろうけど」
「ふうん……、そんなもの?」
「なんじゃないかなあ。……でも、何でそんなこと聞くの、ダレン。……あ、わかった、あれだろ、トラスカ」
「ま、またそれかよ、違うよ」
「いいんだよ隠さなくっても、なあ、トラスカ美人だし、いいよなあ」
「エブラが好きなだけだろ」
「んー? おれは違うよー、おれが好きなのはねえ、うん、ダレンが好きだなあ、おれはダレンが大好き」
 エブラはケラケラと笑いながら言った。冗談めかしていっても、本当の気持ちだ。伝わらなくていい、最初からそれは考えていないから。ただ、自分が勝手に思っている気持ちを口に出して言ってみただけだ。冗談だから、ごまかせる、傷つかない、大丈夫だよ、弱っちい臆病者の、蛇人間。
 ダレンは一瞬、ひるんだような顔になった。エブラが「冗談だよ」と笑おうとする寸前に、にやりと笑って、
「ああ、そうだよ、ぼくだって、好きなのはトラスカじゃない、おまえのことが大好きだよ」
 と言って、破裂するように笑った。ああ、この子、冗談分かってる、最高の友だち、エブラも笑った。
「おれたち、愛し合ってるんだもんなあ?」
「うん、そうだよ、ぼくたちは愛し合ってるんだ」
 心に爪が食い込む。
「誰にも邪魔できない、ぼくたちはずっと一緒だ」
 そう言って、抱きついてくる。楽しそうに嬉しそうに笑いながら。そうして、ところ構わず、キスをしてくる。
「ダレン、ゲイなんだ」
 笑いながら言ってやる。そうするとダレンもおかしくてたまらないと言った様子で、
「そうだよ、ゲイだよ」
 と応じる。エブラは笑いすぎて涙をこぼした。
 はーあ、とようやく落ち着いて、エブラの上に寝そべって、ダレンが一息ついた。
「お腹痛いや」
 油断するとまた、笑ってしまいそうだ。クックッと喉の奥で殺す。エブラはダレンにキスされすぎて、濡れた顔を手で拭って、笑う。腹筋がピクピクして、上に乗るダレンも連れて震える。
 何度かため息を吐いて、ダレンはエブラの上に、しっかりと乗っかった。仰向けの友だちの上に、うつ伏せで身体を重ね、その顔を覗き込む。うろこだらけの、緑色の顔を覗き込む。
「ずっと友だちでいてくれる? エブラ。大人になっても、ずっと友だちでいてくれる?」
「もちろん。約束するよ」
「大好きだよ、エブラ」
「おれもだよ」
 もう、それが当たり前のことであるかのように、ダレンはエブラの唇に唇を押し当てる。どうしよう、エブラはにやにやして悩む。ああ、もうどうしようもないんだけど。参っちゃったなあ……、弱ったなあ。おれ、泣きそうだ。もう、だめだ。
 だが、何も望まないとエブラは心に決めている。ダレンの望むままでいいのだ。ずっと友だち、仮に遠く離れていても、相手のことを最優先で考えあう、友だちのままで。それがきっと一番、自分にとっても、幸せな関係に違いないと思うからだ。大好きなダレンと、これからもずっといっしょにいられる、友だちと言う関係、それを幸せと呼ばずして何と呼ぶ? 自分はその願いが叶うだけでも果報者だ。
 ダレンは本当に、親愛の情を篭めてエブラにキスをする。エブラにはだから、その生ぬるい感触が、とても優しく感じられた。これから先、おれはもう二度と、怖い夢なんか見るものか。一生分のキスを、今日してもらったのだから。
 とても、満たされた気分だ。弱りきっていても、幸せな気分だ。
「約束だよエブラ。ずっとぼくのことを嫌いになったりしないでね」
「誰がおまえのこと嫌いになるもんか」
「……うん」
 ダレンは複雑そうに頷いて、起き上がった。
「……ねえ、エブラ」
 さほど重くはなかった体重から開放されて、エブラも起き上がる。
「なに?」
「……あのさ、いつもエブラは、一人でしてるんだよねえ?」
「……なにを?」
 ダレンは少しく言い難そうに、目をそらした。
「教えてくれたやつ、あの、一人で……」
「ああ……、うん、そうだよ」
 エブラはあいまいに笑った。
「ひとりで、トレーラーの陰に隠れてしてる」
「……そうなんだ……。あの……、どんなこと、考えてしてるのかなって、思ったんだけど。……教えてもらってもいい?」
 ぐっ、とエブラは答えに詰まった。
「それは……、あれだよ、ほら」
 おまえのことだよ……、と、
「まあ、その時々によって」
 言ってしまったらおしまいだと飲み込む。言い繕う術はあまりないけれど、適当なことを言ってごまかすに限る。
「適当に、女の子の事を考えて、してる。……たぶん、他のみんなもそうだと思うよ。まあ、何ていうか、そのほら、エッチな雑誌とか、買いに行く勇気はおれにはないし……。年齢聴かれたりするんだよああいうの買うときは。……コーマックなら持ってるかもしれないけどさ、おれは頭の中で適当に考えてる」
 ダレンは、興味深そうに聴いている。エブラはこの嘘は悪い嘘ではないと信じながらも、強い罪悪感を感じた。頭の中でダレンのことを穢していることなど、素直に言えるはずもないが、人に言えないようなことをしている自分は、何よりも穢れていると感じられてならない。
 ダレンはしばらくうつむいていた、何かを考えているようだ。
 こんな、自慰行為にまだ免疫のないような子を捕まえて何をやってるんだろうか。エブラは今からでも謝りたいような気になる。
 ダレンが顔を上げて、続けて尋ねた。
「エブラの好みのタイプって、どんな子?」
「おれの? ……うーん……、難しいな。あんまり詳しく考えたことはないや。胸が大きくて足の綺麗な子がいいかな」
 思ってもいないことをつらつらと並べてみせる。ダレンは納得したような顔になる。そして、ちらとエブラを見て、
「ぼくは、デビーのこと、すごく可愛いって思ってた」
 と呟くように言った。エブラは思わず、これは正直に、噴き出してしまった。申し訳ないと思いつつも、堪えるのには一苦労だった。そして、心底ダレンが愛しくなって、抱き締めた。
「そうかあ、好きだったんだもんなあ。分かるぜ、可愛かったもんな、彼女」
「うん……。いや、でも、いいんだよ、もう。ぼくは楽しかったし、楽しかったってことをちゃんと覚えてるから」
 エブラはダレンを放してやった。ダレンはそのまま、腕の中にいた。
「でもぼくは、彼女のことを思ってしたことは一度しかないんだ。その……、なんだか申し訳なくって。その、一度したあとに、すっごい罪悪感があってさ、彼女のことを汚しちゃったような、そんな感じになっちゃって、どうしようもなくって」
 さみしそうな顔でダレンは言う。エブラは心の中で何度も何度も、「ごめん」と頭を下げていた。おれは何度おまえを……。
「じゃあ、ダレンは、どんなことを考えてしてるの?」
 話を転換させたいと思って、エブラは尋ねた。ダレンは少し考えて、
「……誰のことも考えないようにしてる、かな。考えたら、そのひとに申し訳ないような気持ちになるだろうし。気持ちよくなって、すっきりすればいいんだったら、誰のことも考えないで、ただ気持ちよくなることだけを考えてたほうがきっといいだろうし。誰にも迷惑かけないしね、……って、ああ、エブラには、かけちゃってるけど」
「おれはいいんだよ。……っていうか、偉いね、ダレン。そこまで考えて出来るひとなんて、なかなかいないと思うよ、おれ、すごい偉いと思う」
 ダレンは少し陰のある微笑みを浮かべた。
「だけど、自分のことだけを考えてしていると、本当にやっぱり、さみしいんだ。エブラが側にいて手を握っててくれるから、ぼくは何とか平気。ありがとう」
「どう致しまして。……照れるよ、なんだか」
 エブラはおどけて笑う。柔らかい髪を、撫でてやった。

 

 


 雪は積もった。この分では明日の午前中は雪かきで終わってしまうだろうと、エブラはため息を吐く。すぐに窓が白く曇った。草原を覆った雪に音は失われて、怖いくらいに静まり返った夜だ。真っ暗な中で、底が冷ややかに光っているようにも見える。半端な寒さではなくて、エブラは布団に潜り込んだ。何となく、鼻のあたりが湿っぽく感じられる。ひょっとしたら風邪をひいてしまったのかもしれない。
「ごめんダレン、今日はもう寝てもいいかな」
 ダレンはこくんと頷いた。
「いいよ。眠い?」
「んー、うん、ちょっと」
 風邪っぽい、などと言ったら、要らぬ心配をかけてしまう。明日の朝には元気でいられるよう、早く休むに越したことはない。
「おやすみ、ダレン」
「おやすみ」
 目を閉じてからしばらくは、午後にダレンと話したいろいろな言葉を反芻している。
 いいやつだよな、ほんとうに。ほんとうにダレンはいいやつ、おれの大切な友だち。おれも出来るならば、少しでいいから、この素敵な友だちのように、誰かを幸せにして上げられる力を手に入れたい。その力を手にし、そして使うには、おれの心はちょっと弱すぎるかもしれないけれど。側にいる誰かの心を、とても上手に暖める術は、綺麗だと思うのだ。
 幸せな気分になっていく。今日はたくさん話をしたしキスもしてもらったし、大満足だ。小さな心が一杯に膨らんで、ゆっくりと眠気に酔う、いつもながら、なんて贅沢な時間だろう。
 それから見た夢はあまり内容を覚えてはいないが、何と言うこともない夢だったように思う。ディテールは判然としないが、コーマックが出てきた、クレプスリーや、ミスター・トールも同様に。ただダレンがいなくて、コーマックの髪の毛が今より少し短かったことから察するに、ダレンが来るより以前の過去を夢で見たのだろうと思う。自分はコーマックと同じトレーラーでダレンとするような話を無邪気にしていた。エブラの身体は今よりもずっと小さく、もっと痩せていて、彼の記憶する所によれば、今より更に臆病だった。しかし、自分にかまっていろいろのことを教えてくれるコーマックと、出来る限りいっしょにいたような記憶がある。いまでも覚えているのは、ダレンと時々するように、冗談めかしてのっかったりのっかられたり、くすぐりあったり。あれは、楽しかった。
 人からもらえる重さと言うのは、悪意さえなければ幸福の漂うものであると、エブラは考える。
「……ん……」
 目をこすって、開ける、雪の夜は明るい、そして、自分の身体の上には、正体の判然とした重量がある。
「ダレン……、どうしたの?」
 髪の匂いが鼻をくすぐる。髪の毛の先も、鼻をくすぐる。ダレンは暗闇の中でもよく見える目で、エブラを見つめている、エブラには暗くてそれが見えない。エブラはただ、そこにダレンの息遣いを感じ、ダレンのさせるがままにしておいた。やがてダレンは、頭を少し傾けて、キスをしてきた。
 もう驚いたりはしない。
 怖い夢を見てしまったのだろう、そう思った。
 だから、その髪を撫でた。エブラは、ダレンには見えるだろうと微笑む。
「エブラ……」
「大丈夫だよ……、おれは」
 ここにいるから。その言葉も、キスで飲み込まれた。それでもまだ、かまわないと、好きにさせてやろうという気持ちになる。ダレンの身体はさみしげに震えていて、よほど怖い夢を見たのだろうと思った。
 そんな気持ちが翻ったのは、口に入ってきた滑りを帯びた、舌の存在。
 エブラは目を見開いた、舌と舌とが触れ合った、独特の、滑らかでしかし、ざらりとした感覚に、思わず息が止まった。続いて、布団の中に入ってきた冷たい手が、エブラの蛇のうろこのへそを胸を、ずっ、と撫でてゆく。
 ダレン?
 エブラは唇をふさがれたまま、息を止めたまま、気が遠くなっていく。
 ダレン? ねえ……、ダレン。
 何してるの?
 唇が離されても、エブラは息をするのを忘れていた。そうして、目を丸く見開いたまま、ダレンに、胸にキスをされ、
「……ダレン……?」
「エブラ……。……エブラ? エブラ? ねえ、エブラ、大丈夫? ねえ!?」
 失神した。

 

 


「う……」
 唸り声と共に、エブラがぱかりと目を開けた。
「エブラ? ……エブラ、大丈夫……?」
 泣きそうな目で、ダレンが覗き込んでいる。額には冷たいタオルが乗せられて。はっと息を呑んで、エブラは置きあがった。そうして、ひとこと呟いた。
「死ぬ」
「……え……?」
「……あ……、いや……、……あれ?」
「……大丈夫そうだな……」
 見れば、トレーラーにはマスクをしたコーマックもいる。
「驚いたぜ。血相変えてダレンにたたき起こされたかと思ったら、おまえが気絶してるんだもの」
 コーマックはひとしきり咳をして、肩を一度上下させる。
「じゃあ、おれは戻るよ。まだちょっと熱っぽいみたいだから……」
「うん……、ごめんねコーマック、具合悪いのに……」
「気にするなよ。……っていうか、多分エブラも、そうだろ? 風邪ひいたんだろ?」
 エブラはぼうっとした顔でコーマックを見る、何か言いかけて、頷いた。コーマックはエブラとダレンの頭を一度ずつ撫でて、立ち上がった。
「じゃあ、おやすみ。ダレンも気をつけろよ」
「うん……、ありがとう」
 コーマックが雪の中に出て行った。
 ダレンは息をひとつ吐いて、青ざめた顔でエブラに向き直った。
「……ごめんなさい」
「……」
「ほんとうに、ごめんなさい」
 エブラはダレンの目をただ見るだけだ。
「ごめんなさい。我慢できなかったんだ、ごめんなさい、ひどいことして、わがままして、ごめんなさい」
「……」
 ようやくハッキリしだした頭で、エブラは現在の状況を推測し、ダレンに慌てて首を振った。
「いや、いやいや、いいんだ、その。……うん、大丈夫だよ、おれは」
「でも……」
「ちょっと気が遠くなっただけだから、ほんとうに。大丈夫だから、心配しないで」
 そして、ダレンがしようとしたらしいことに思い至り、顔を青くしたり赤くしたりしながら、口調を淀ませた。
「いや……、うん、その……、おれも、ある、いや、そういうのは、わかるよ、うん……、ほら、おれたち、……まわりにいないし、だから、あんまり、気にしないでいいから……、うん」
 何を言っているのだろうかと自分でも訝ってしまいたくなるほど、言葉がふらふら泳いでいる。ダレンは鼻を啜って、もう一度、「ごめんなさい」と頭を下げた。
「大丈夫だよ、大丈夫、な。おれ、おまえのこと好きだよ、大切な友だちだと思ってる。これは変わらないから、大丈夫だよ、ダレン、だから、泣くなよ、ね?」
「……ん……」
 あまりにもはかなすぎて、苦しくなった。
「大丈夫、大丈夫」
 そうあわただしく口走りながら、抱き寄せて、抱きしめる。そうし出したら、もう動けなくなった。

 

 


 頭が全体的にぼうっと熱い感じだ。段差を降りるとき、膝が少し笑う。ひとしきり咳き込んで、トレーラーのドアを開けた。
「寒いよ、早く閉めてよ」
 コーマックが枕から頭も上げずに言った。エブラは後手にドアを閉めて、そのままふらふらとコーマックの布団に侵入した。
「……コーマック臭い」
「しょうがないだろ、風呂入ってないんだから。そういうおまえだって臭い。……ダレンはどうした?」
「雪かきしてるよ。もう立ち直ったみたい」
 コーマックは少し咳をした。
「まあ……」
 潤んだ目で笑う。
「あの子は強いからな」
 エブラは天井を見上げて、うんと頷く。
「おれの風邪がひどくなったのはあいつのせいだよ」
 鼻声で言う。
「なんだ、もうやられちゃったの?」
 コーマックはからかい口調で言った。が、三秒ほど流れた沈黙に、笑顔が固まった。エブラは爆発するようなくしゃみをしてから、
「やられてないよ。あいつがそんなことするわけないだろ」
 と言った。
「じゃあ……」
「あの子が寝るまで、ずっと隣で起きてたから。睡眠不足、一発でひどくなる」
 コーマックは起き上がって、枕もとにあるティッシュをニ三枚立て続けにとって、派手に鼻をかんだ。鼻まで千切れてしまうんではないかと心配になるくらい、豪快なやりかただ。
「どうなんだろうかなあ、あの子、おまえのこと好きなのかなあ」
「嫌われてないという自信はある。でも恋愛感情だって抱かれちゃいないと思う。ただ、……まあ、あれだよ、ほら、……おまえなら分かるだろ?」
「……」
「その、ほら、雛鳥が最初に見たモノを親だと……」
「刷り込み、な。……ああ、よく分かっているとも」
 エブラはなんとなくコーマックに背を向け、コーマックもエブラから目を背けた。
「だからおれはほら、ダレンが欲しいって言うならぜんぜんおれはもう身体的にはそんな問題も」
「ああもういい分かったからそれ以上言うんじゃない」
 嫌な沈黙が流れて、一分。途中、何発かの咳とくしゃみと鼻をすする音を響かせた。エブラがゆっくりと起き上がり、
「でも痛いんだよな。痛いのはいやだな」
 と呟いた。

 

 


 しかしおれは誰かに必要とされることを、こんなに嬉しく思うのだ。だっておれはそうでないところから始まったのだから。どんな形であれ、どんな風であれ、好きな人に、自分の何かを求められること、それは幸せなこと、素敵なこと。
「ダレン、……大丈夫?」
「……ん、……すぐ、よくなる。……ぼくバンパイアだし、平気だよ」
 必要とされていると思いたい、ちょっと愚かしい欲求を、しかし自分はこれからも抱きつづけていくのだろうと思う。ひんやりした体は氷嚢代わりになる、だから、そう、だから、裸で抱き合っているのだ。ダレンのために。自分は押し殺して。なんて愚かで馬鹿な、おれ。
「ダレンは、おれのこと、好き?」
 気弱な声で、そう尋ねる。
「好きだよ……」
 かすれた声がそう答える。
「……エブラは?」
 かすれた声は、そう尋ねる。
 風邪ッぴきのすがりつくような、自分よりも気弱な声だ。
「大好きだよ」
 そう答えて、思い切ってキスをしてみる。反応は無かった、素直に自分の唇を、目を閉じて受け入れてくれる。
「……だ、ダレンは……、おれを、抱いてみたいって、思ったの?」
 心音が丸聞こえだろうと思う、風邪をひいて鈍ったダレンの耳にも、届いているはずだ。ダレンがエブラの背中に手を回した。
「……そう、そうなんだ……」
 エブラは、心を落ち着けて、言った。
「……じゃあ、早く風邪治せよ。早く元気になってよ」


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