ダークハンド

 ハンス=ハンズが久しぶりに戻ってきたフリークで、誰より一番喜んだのはコーマック=リムズだった。ハンスが帰ってくるまで、フリークのコミニュティの中ではコーマックと同年代の仲間というのはトラスカくらいのもので、しかしトラスカと話をする際にはエブラの助けが必要となり、何かと億劫だ。気の置けない友だちであるハンスが戻ってきてくれたのは、コーマックにとっては喜ばしいことだった。

 しかし、例えばエブラとダレンがするような、非常に親密で熱い友情の関係が彼らの間にあるわけではない。フリークの中で重宝がられるのはどこへ行っても人気役者のコーマックのほうなので、ハンスが帰って来たといえば、確かにみんなは間違いなく歓迎するけれど、コーマックのときのように、回りに人だかりが出来てどうしたどうしたということには、ならない。しかしハンス自身そんなことを気にしないで、ミスター・トール、それから何人かの仲間と挨拶を交し、すれ違ったエブラとダレンとも握手を交わしてから、コーマックの部屋に向かった。

「よう」

「ああ……、なんだ、びっくりした」

 久しぶりに会う相手ではあるが、見た目は最後に会ったときと殆ど変わらない、少し髪が伸びたか、それでも会っていないうちに一度は床屋に行ったに違いない、こざっぱりとした頭をしている。濃いブラウンの髪は柔らかそうに、喋るたび動いた。コーマックは煙草に火をつけながら、クッションを指差した。ハンスはうんと頷いて座った。二人の身の丈は殆ど同じで、顔の造作も同類の系統、違うのは髪の色くらいのもので、コーマックのそれは金色をしている。

「相変わらずかい、こっちは」

 ハンスは自慢の手で、軽い音を立ててオイルライターを擦って、くわえ煙草に火を点けた。

「うん、まあ……、相変わらず、かな」

「の割に、歯切れが悪いじゃないか」

 コーマックは曖昧に笑った。エブラとダレンが仲良くいつも微笑んでいる、それを、幸せな思いで見ようという努力を、日々しているから、最近少し疲れやすくなっている。こんなことがエブラたちにばれては事だから、いつも元気に振る舞ってはいるけれど。

 そう、黙っていよう、思ったところに、

「エブラとダレン、仲良いんだな」

 ハンスが無意識の先回りをした。床に置いた自分の手を見つめている。俊敏なことだ。

「そうだね」

 コーマックは心の振幅を隠そうと、無表情になった。ふーっ、と吐いた煙の、揺らぎ方にそのままの動揺が映っていた。ハンスは静かに煙草を二三度吸い込んでは吐き、まだ大分長い煙草を灰皿に押し付けた。コーマックは自分の手を齧ったり千切ったり粗雑に扱うが、ハンスは手がなかったら仕事にならない。共に手が商売道具であるという点では共通しているが、その認識は全く異なるものだった。そんな二人では在るが、年が近く、お互いさほど毒のある性格もしていないはずだから、気が合うのだった。

「付き合ってるの? あいつら」

 ハンスはコーマックのほうに灰皿を押しやって、そう訊ねる。僅かにグレーがかった目は、ダークブラウンの前髪が少し邪魔をして、コーマックにははっきりとは見えない。コーマックの青い目は、ハンスの前髪で視線が止められる。

「そうみたいだね」

 コーマックはなおも平静を保ちながら言ってから、しばらく続いた腹の内を探るような沈黙に嫌気が差して、自分から、

「エブラはダレンのものだよ、いまはもう。いや、もともとおれのものなんかじゃなかったんだよ」

 心の箱の底のほうにあった隠匿すべき気持ちを、箱をひっくり返して一番上に持って来て、ハンスに見せてやった。ハンスは少し戸惑ったようだったが、「ああ……」と一言だけ言って、硬い自分の手のひらを少し見つめた。

「まあ、そうか。ああ、長く続くはずはないっておまえ自身が言ってたしな」

「そう。だから、十分予想の範囲内、傷ついてないからがっかりしたろう」

「うん」

 ハンスはコーマックをじっと見た。コーマックは乾いた表情を取り繕って、黙りこくった。最低限機能のトレーラーの、内壁をじいっと見つめている。

 やがてコーマックの手をハンスが取って、がぶりと一つ噛み千切り、床にぺっと吐き出した。

「おまえらしくないね」

 ハンスは立ち上がり、にっこり笑ってコーマックを見下ろした。

「まあ、おまえがおまえらしかった例はないけどね」

 そう言われて、コーマックは一人置き去りにされたような気分になった。

 エブラに対しては相変わらず、考えると寂しくなるくらいに好きな気持ちが消えない。しかし、「好き」をいくつも飲み込んで、ずるい考えをして、誰かにこの気持ちをあげるくらいなら自分に送ってあげたほうが得かもしれないなどと、などと、考えて、しかし、自分にこの先、果たしてこの気持ちをどうにかする相手が出来るかどうかは覚束ない。二十六歳。そういつまでも蛇少年に縛られつづけることがいいこととも思えない、しかし、少年ぽい、純な純な純な気持ちを喪失したくないとも思う。ただ、そんな甘ったるい思いだけでどうにかなるとも思えない。

 自分はエブラを諦めたのだ。とっくの昔に。そうして、ダレンの隣りにいて、嬉しそうに恥ずかしそうに笑うエブラを選んだのだ。エブラは自分には眩すぎる、ダレンが雲のようにそこにいてくれるから、やっとコーマックにエブラを見ることが許されるのだ。

 煙草をもう一本吸い終わったら、散歩にでも出かけよう。さっきからそう思っている。そう思っていたところにハンスがやってきた。行く機会を逸した。そうしてまた新しい一本に火をつけている。空気が動かないことには心も動かない、そんなこと、気付いてはいるのだが。背筋が重たく感ぜられるような、憂鬱、部屋を出たら出たで、嬉しそうな二人を目の当たりにするかもしれない。そんなことを怖がる自分が情けない。

 二人に会ったときに言うべき言葉を用意するくらいならば、一人でずっと煙草を吸っていたほうがいいような気にもなる。指を千切って壁に投げた。

 

 

 

 

 エブラとダレンの日々は充実しながらにして一つのペースが完成されていた。人目のつかないところで二人きりになって、おれたちには似合わないねといつもお互い思ったり、実際に口に出したりしながら、いまだ抜けきらない純情さで、キスをする。エブラにはダレンがたまらなく可愛かったし、ダレンにとってもそれは同じ事だった。

 自分の隣りには自分に一番似合う存在が座るものと信じられる喜びが存在する。

 満足げな表情を浮かべて仕事をする二人と、コーマックは鉢合わせてしまった。こっちにはいないだろうと思って歩いていたところに、いたのだからどうしようもない。お互い目線があってしまってから、無視して別の道を選ぶようなことはコーマックにだって出来なかった。コーマックは柔和な微笑を形作って、

「よう」

 と軽くてを挙げた。

「なにしてんの?」

 見れば判ることを、コーマックは聞いた。

 エブラもダレンも、コーマックに対してはもうなんの衒いも抱いていない。十も下の子供たちにすら簡単に捨てられる自分の存在の軽さを愁うる気持ちがコーマックの中にあった。しかしそんな気持ちを抱くこと自体が惨めであると、自身で判っている。どうしようもないのだ、容易には塞がらない、心も指と同じように、切ったところで生えてくればいいのに。

「じゃがいもの皮むき」

 エブラが答えた。その目にうっすら「見れば判るだろ」という生意気な色が滲んだ。コーマックは気まずい思いをしながらも、「そうなんだ」と微笑みを崩すことはなかった。

「コーマックは何してるの?」

 ダレンが、コーマックも確かに可愛いと思える表情で見上げてきた。子供らしい活発に良く動く目。エブラと殆ど変わらない年でありながら、肉体の成長が非常に緩やかであるために、本人の中にも「子供のまま」という意識があるのかもしれない。それでも本人の中に「大人でありたい」理想はあるようだが、しかし時折どうしようもなくあどけない仕草を見せる。それがエブラには、自分が感じている以上に甘酸っぱいものに映っているであろうことは、想像に難くない。

「おれは散歩だよ。やることもないしね。そろそろ公演するころだけど、ミスター・トールも徒然は嫌いじゃないんだろうな」

 じゃあねと手を振って、何気ない風を装って歩く。おれとエブラを繋ぐものはもう何一つないのだなと、今更思い知らされたような気になる。綺麗な青空が広がっていて、どうしてかまた煙草を吸いたくなった。寂しい気持ちに負けそうになる自分が悔しい。しばらく歩いて、部屋に置いてきた煙草の替わりに指を咥えて、がちりと噛み千切って吐き捨てた。数分も歩くと、根城にしている敷地の外までたどり着いてしまった。このまま戻るのも滑稽に思えて、転がっていた岩くれに座った。鼻先に土ぼこりの匂いが漂っていて、苦しくもないのに咳をした。コーマックの金髪が、匂いを運んできた風で少し揺れた。エブラの翠緑色の髪は、そういう質だからだろう、あまり揺れない。それでも、エブラの髪をひとふさ掴んで、ふっと拭いたとき、毛先がさざめくのを心安らぐ気持ちで見ていた自分がいた。

陽気のいい日の空にぽかり雲が浮かんでいる、ああ、いい天気だ、なのにどうして自分は、こんななんだろう? いい加減、自分の女々しさに自分で愛想を尽かせてもいい頃なのに。

 自分の気持ちを文字にしたとき、エブラという名前が出れば出るほど胸は絞られるような痛みに悶える。忘れてしまえばいい。そうだ、またどこか遠くを回ってきてもいい。コーマックはその芸のおぞましさと見た目の爽やかさのギャップのために、どこへ行ってもすぐに人気者になれた。自分ならばどこであってもやっていけるはずだから、そうだ、どこかへ行ってしまおう。そう思い立って、しかし立ち上がらないで溜め息を吐いた。すぐに思いつきを打ち消す。自分が今いなくなったら、どう思われる? エブラは、ダレンは、どう思う? アイツらが逆に可哀想だと、自意識過剰気味にそう思い至り、コーマックは立ち上がれないで、足元の茶色い土の細かな粒に目を凝らした。蟻が一匹、せかせかと動き回り、コーマックを見上げるとおびえたように岩陰に見えなくなった。

 足音がしたような気がして振り返ると、ハンスが立っていた。

「フリーク一の人気者が、こんなところで腐ってるのか? あんなことくらいで?」

 嘲笑を含めた科白でありながら、口調には憐憫が含まれていた。

「忘れろよ」

「忘れられたら楽だよ」

「じゃあ、ここから出てったら?」

「それも出来ない」

「女々しいな」

「よく承知してる」

 ハンスは苦笑いして、髪をかきあげた。

「おまえ、どうしたいんだよ」

 コーマックは首を振る。

「わかんないよ」

「わかんないことあるか」

「わかんないんだよ」

 コーマックは泣きそうな声を出しているという自覚を持ちながら、力なくそう言うことしか出来なかった。ハンスは同情する気配を微塵も見せないながらも、突き放す勇気もなく、コーマックの腰掛けた岩に、同じように腰掛けた。

「方法はあると思うけどね、いくらでも」

 ハンスは両手を広げて言った。

「ダレンはバンパイアだ、エブラはただの人間だ。時を経れば経るほど、あいつらの時間は変わっていく。エブラが死ぬ頃、ダレンはやっと大人になるかならないかくらいだろう。そんな二人がいつまでも幸せでいられると思うかい? エブラはやがてダレンに飽きるだろう、ダレンだってエブラの側にいるのが苦痛になるだろう。もともと無理な、終りの見えてる二人なんだ。引き剥がすのは簡単さ」

 わざと悪魔のような声を出してハンスはそこまで言って、しかし無駄なおしゃべりをしてごめんよと言うように、優しい声色で、

「まあ、おまえには無理だね」

 一転、そう言った。コーマックは黙っていた。

 エブラが自分の下に戻るにしたって、ダレンを失うエブラの悲しみは容易に想像でき、その想像だけでコーマックを痛めつけたのだ。

「じゃあ、もう、諦めるしかないんじゃない? 忘れることも出来ない、奪うことも出来ないで、ただダレンの隣りにいるエブラのことを、くよくよめそめそしながら見てるしかないんじゃない? でもさ、そんなことしてたらおまえ、幸せになんか絶対なれないよ?」

 解かっている。大いに解かっている。しかし、抉るように言葉を繋げるハンスに、憤慨はすれど、それが何の言葉にも行動にもなることはなかった。ただ黙って、足元の土を見ているのが精一杯で。

 きついことを言った、そう自覚するハンスは、コーマックから何のリアクションも帰ってこなかったから、きつすぎたかと、不安になる。

「なんだろうな、まあ……」

 感情の緩急差、自分でも馬鹿馬鹿しいと思いながらも、一応は友だち思いのつもりのハンス=ハンズは、両手を合わせて、言葉を捜した。コーマックは何も言わない、何も言わないで足元の土を見ている。ハンスは長いこと言葉を捜して、結局見つからないで、

「頑張んなよ」

 そう、短く声をかけて、黙りこくった。敷地の中から、美味しそうなシチューの香りが漂ってくるまで、ずっと黙りこくったままだった。

 シチューの香りが契機になって立ち上がったお互いを、滑稽と笑いながら、だけど、大切な友だちの存在にコーマックは感謝していたし、ハンスも小さく笑ったコーマックに、安堵が胸を占める。

「いいよ、ハンス。隣りで飯食おう」

「ああ……うん、いいよ」

 焚き火の赤を挟んで反対側に、コーマックとハンスは並んで座って、言葉少なに夕食を済ませた。ぱちぱちとはぜる音と、エブラとダレンの無邪気な笑い声とが交じり合うたびに、ハンスは下らない話を唐突にして、コーマックを閉口させた。


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