ダークフォース

 冬だったのがまずよくない、そして夜だったのがよくない。突き詰めて考えれば好きだったのが一番よくないのだが、仕方がない、それについては触れたくない、そう思うハンスである。

 冬だから裸だと寒い、服を着ているべきだった、しかし、肌を重ねたら相手のほうが温かくて、相手も自分のことが温かいと言う。これは互いに嘘ではなくて、温もりが増幅するのを自分たちの身体で証明しているのだと思う。ただし、重なる前に聞いた。

「コーマックおまえ、何キロ」

「体重? 七十四」

「生意気な」

「訳判んないよハンス」

「……おまえ、乗れよ」

「へ?」

「おれ七十五あるんだよ。おまえ乗った方がスムーズだろうが」

 たった一キロの差なのに、とコーマックはハンスのちっともスムーズでない優しさに感じる。微笑んで、布団の中のハンスに肌を重ねる。もちろん、両手を敷布について体重を軽減することを忘れない。

「……で?」

「ん?」

「……で?」

「……ああ……。うん、……触るよ」

 ラブラブという語があるが、こういう状況を言うのだろうか。だとしたら、なんと言うか、むさくるしいものだ。歌に出てくるようなものとは程遠い。しかし、もう何年も前からそういう歌と縁遠いハンスは問題にすること自体に何の意義があるのかと苦笑する。意義は、そんな歌に背を向けて生きる自分たちを輝かしいものと錯覚する、そこにある。

 コーマックの手のひらが、探るようにハンスの下腹部へと至る。

 無論、ハンスは童貞ではないから、これまで何度だって、自分以外の人間にそこを、直に触られた経験がある。十五歳のときから数えて、数え切れぬほどに経験している。しかし当然のことながら――今の彼にはそれが「当然のこと」などとは思えなかったが――相手は全て女性である。この、ある種の聖域に触れて良いのは女性だけだと思っていた。思うと言うよりは、信じていた。自分はアダムであり触れて良いのはイブだけだった。それが、こんなことに。

「痛かったり、イヤだったりしたら、ちゃんと言いなよ」

 コーマックの声に、声もなく頷く。顔を見ていられない。目を瞑って、下半身にあるコーマックの手のひらが触れることだけを考える。余計なことは考えない方が良い気がした。いっそ、触っている相手がコーマックだとも思わぬほうがいいと。

 なぜなら今は夜。光を失っても構わない時。

 上手だなあ……。

 そんなことを考えたっていい。服を脱ぐ間に大人しくなっていた情がまたむくむくと起きて活動をはじめた。

 コーマックがいつの頃からゲイだったのか知らない自分にハンスは気付いた。ハンスがコーマックと、このフリークで知り合ってからもう十年以上が経っているが、果たしてこの男がどこでどうそうなったのかを全然ハンスは知らないのだ。互いに、別のサーカスに出たり、放浪したりしていたから、一緒にいない時が少なからずあった。エブラが来たときには既に同性愛に入っていたはずで、だとすればそれ以前のことか。としたら、エブラ以前にも何人かの男としていないとも限らない。だとすればこの手のひらにも納得するが、どうでも良いことだった。上手で、だから、気持ちがいい。それがあればいいようなものだった。

 コーマックも、さほど心配はしていないのだろう。ハンスが目を閉じて、胸をどきどき言わせているのを聞きながら、反比例して落ち着いていた。

「……おまえは、いいのか?」

 ハンスは喋った。喋らないと、ほんとうに何もないまま、この手のひらに陶酔してしまいそうだったからだ。

「いいって、何が?」

「おまえ……、いい」

 喋り出してすぐに、喋ると言う行為に無理があることに気付き、自らコーマックの性器に手を伸ばし、触れた。男に触れられるのが初めてならば、男に触れるのももちろん初めてだ、正直、少し怖かった。女の膣に噛み千切られると思ったことが何度かあるが、男の鎌蛇をこんな風に怖く感じるのは初めてのことだ。怖いと感じたとしたらそれは、何かこう、それが人間の持ち得ない危険を孕んでいることに対してで、物理的に、触ったら火傷するのではとか、あとで手のひらがかぶれるのではとか、あるいはもっと直接的に、不潔じゃないのか臭いんじゃないのか、そんな風に気にしたのは初めてだ。そういう事を気にする場所に身を置いていると言うことだろう。

 初めて触れる他の人間のそれは、同じだった。同じような温かさで、同じように硬い、同じものだった。その事が、ハンスの胸を思いのほか苦しくさせた。しかし飲み込んで、それを、手のひらで包み込む。いつだったか、誰だったか、思い出せないが、乱暴にした相手がいて、それに酷く腹を立てたことがあった。ちょっとのことでも物凄く痛えんだよ此処は、この馬鹿。おれは馬鹿じゃないから、ゆっくり、そっと、そこを、撫でた。

 コーマックの性器は、ハンスの手のひらの中でぴくりと一つ蠢いた。

「……嫌じゃない?」

 触れられたコーマックは、無理に微笑んで訊ねる。ハンスは答えず、その代わり、そこを優しく掴み、動かした。

 コーマックも、同じようにした。

 指の背に、相手の性毛の存在を感じ取る。触れているものが何であるか自覚できなくとも、その縮れ湿っぽいような強い毛の存在が教えるような気がした。

「ハンス……、勃起してる」

「うるさい……。下半身に血液が溜まってるだけだ」

「それを普通、勃起と呼ぶんだったと思うけどな」

「黙れ。じゃあおまえはどうなんだ」

 ハンスの悔し紛れを甘く優しく受け止めて、

「勃起してるよ。おまえとこうしてると勃起するんだおれ、これからいっつも、ずっと」

 と、用意していたかのようにすらすらと言う。

 ハンスは急になんだか物凄く、この男のことを憎らしく思った。

「ね、だから、うん、おまえの下半身に血液が溜まってるのを感じるとおれも、そうなるんだ」

 しかしそう言うコーマックに額の髪を退けられて其処にキスをされて、……忌々しく見たコーマックの額にうっすらと汗が浮かんでいて、そう言えばかすかに震えているのにずっと前から気付いていたことを思い、到底憎むことなど無理なのだと理解する。この男を憎んではいけないのだとハンスは学習する。手のひらの上のおもちゃ、好きなときに好きな目を出せるさいころのような存在だったはずが。自分は今、ころころころころ、ころころころころ、翻弄されていて、自分では自分がどんな表情をしているのかも判らない。翻弄されている。しかし、それがとてつもなく不快かと問われれば、そんなこともない。

 恋をして変わるケースはたくさんある。それをハンスは知っている。しかし、自分はそうではないはずだと思っていた。なぜなら第一に、自分は恋をしても変わらないはずだから。第二に、恋をするはずがないと思っていたから。悉く打ち崩されてしかしいま充実した気で男にこの男の身を委ねんとしている自分は、心の水面にどう映るかはおいても、底ではちっとも悔しくも癪でもないのである。結局、変わってしまったのだ。どこの誰とも変わることのない愚かしくも小さくそしてだからこそ愛すべき恋人になりたいと願ってしまったのだ。

 勃起した性器を互いに愛撫しあいながら、言いようのない寂しさがハンスの背後に迫る。それは、自分がホモ・セクシュアルに完全になるための最後の扉を開く勇気だ。この扉の向こうは寂しい。しかし、コーマックが其処にいる、コーマック=リムズは、他のどの場所にもいない。

 正直、ちょっと、怖い。

 ハンスはそう認める。

 でも……。まあいいさ。卑怯かもしれないけど、いまおれは酔っ払っていて時は夜。酔っ払いの夜にはその扉、フリーパスなのだ。どうせ後で戻りもしないつもりだが。そう考えるのもアルコールのせいかもしれないが。

「コーマック」

「うん?」

「……いかせてくれよ」

 掠れた声でそう言う。

「……判った」

 扉を開けた、コーマックがそこで待っていて、ハンスにキスをした。

 布団の中に頭を沈め、コーマックはハンスの性器を順手で支えた。

 何をされるか察しがついて、ハンスは目を閉じた。

 亀頭の先端を、指より柔らかく指より温かく指より滑らかで指より気持ちいい、舌が円を描いた。続けて、右手が優しく扱く茎まで、口腔に納められ、舌が蠕動した。ハンスは息を飲むようなその口戯に、酔いが急激に醒め、俄かに戻った理性で以って、改めてコーマックのくれる感触を味わっていた。

 ……ほんとに上手だなあ……。

 事実、ハンスの知っているどんな女の口戯よりもそれは巧みだと言えた。繊細な舌の動きも、微妙な吸い方、力の入れ具合、決して早漏ではない――少なくとも本人に「早い」などと言えば激怒して否定するので「早漏ではない」――ハンスの息は、呆気なく上がった。男に舐められているのではなく、人間に舐められているのだと言うわけのわからない納得の仕方で理性はあっという間に役目を終えて消えた。そうして再来した情は、いやこれは男だろ、男だからいいところ判んだろ、だから気持ち良いのさ、なあ、ああ、そこ、そこいいんだよなあ、女はそれに中々気付いてくんなくってなあ、とりとめもないことを、ぶつぶつと呟く。

 しかし実際に口から出るのは、

「……コーマック……」

 震えそうになる声、実際、膝が震えている。

 コーマックは何も言わず、布団の中で、二十七歳同い年自分より一キロ重く二センチ低い十年来の元友人の性器を咥え、口で扱く段階に入っている。

 気持ちいいという色に頭の中が徐々に染め上げられている。

 堕落の扉を開く鍵を既に鍵穴に挿入した後だ。

 あとは心地よい音と共にそれを右に回して開錠し、手に伝わる小気味良い感触を楽しみ、余韻に浸れば良いのだ。何も考えなくともいいと、コーマックの舌が言う。それはさながら悪魔のようで、しかし、悪魔だけに魅惑的な誘いであると言えた。

 Why don’t you try my love, baby?

 歌の文句。それもいいよねって、ハンスは思った。

「……ッ……、……」

 コーマックは飲み込んだ。ハンスを飲み込んだ。飲み込んで、布団の中から顔を上げて、抜け殻のような目で見上げるハンスを見下ろして、微笑んだ。

 ハンスは心を明渡した相手を呆然と見上げて、その微笑を、やっぱり悪魔みたいだなどと遠いところの意識で思う。

「……気持ちよくなってくれたな」

 コーマックは濡れた唇を指で拭って、ハンスの匂いのする息を、ハンスにはかけないように吐き出した。

「……」

 男の口戯で射精してしまった後ろめたさと、それ以上に新しく知った遊戯の味に、ハンスはしばしの間そのままだったが、やがてゆっくりと半身を起こし、

「……今夜はもうおまえとキスなんかしないからな」

 そう言って、煙草に手を伸ばした。

 射精をした後の煙草というのは、食後のそれと同じく、何故こうも違う味を醸すのだろうか。

 コーマックは苦笑して、

「判ってるさ」

 と応じる。

 ハンスは煙を口からもやもやと吐き出し、解放されて軽くなったような下腹部を自覚する。そして、コーマックの下半身を見た。そこはさっきまでの自分と同じくきつく勃起している。こうして直に目にしてみると、本当に自分が手にしていたものなのだろうかという気になる、忌まわしいような気にもなる。しかしその鎌首は形は違えど自分のものであってもおかしくないのだと思う。

 とすれば、その物体の持つ熱を自分は知っているし、触れられる悦楽の味を知っているし、その先に在るものならば今見た。とうの昔にコーマックはそれを見ているはずだ、しかし今も飽くことなくその色の世界の中に身を置いているのだ。

 ハンスは一杯になった灰皿にようやくの余地を見つけて火を消し、グラスの中で蕩けた氷をかけた。

「……してくれるの?」

 コーマックは少しだけ恥ずかしそうに聞いた。きっと本心からだろう。ハンスは何も答えず、前髪を上げて身を屈めた。鼻を近づけて、無意識のうちに鼻に届く匂いは、丁度夏に自慰をするとき、裸になった自分の下半身からかすかに上がってくるようなもので、「同一性」をとても強く感じる。

 金色の陰毛が根元を覆うコーマックの性器は、本当に、実際問題、自分と違う点を指摘せよと言われて、殆ど上げることが出来ないと思った。

 自分よりも色が薄い。しかしこれは人種の違い以外の何でもない。恐る恐る手に触れた熱も硬さも生々しさも血管も匂いも握りごこちも変わることなどない。

「……口でしたくないなら無理に……」

 ハンスはそれを口に入れた。

 味は……、どうということはない、人間の味がした。

「ハンス。……、ありがと」

 コーマックの手が、ハンスの髪に置かれた。

 ハンスもコーマック同様、男性器の気持ちよくなるところは熟知しているつもりでいた。しかしそれを実践しようとするのだが、口に入れてみると思っていた以上に苦しいもので、喉が詰まる。咥えて、舌を不器用に動かし、おまけに頭をぎこちなく上下させるのが関の山だ。

 こんな行為でいけるはずがないなと思う。しかし、自分はいかせてもらったのだ、ハンスとしては是が非でもコーマックにいってもらいたい気になる。口の中に出された蜜は一滴残らず飲み込むつもりでいた。そうして、その口でならばと、キスをするつもりでいた。

 しかし、こんなのでは無理だ、そう確信して、悲しくなる。

 口から抜いて、手で扱いた。

 手で扱いて、袋を舐める。扱きながら、舐め上げる。時折先端に舌を這わせてみる。そこは少し塩辛く、コーマックが確かに自分である程度以上の快感を覚えているということが判り、嬉しいような情けないような気になる。

 コーマックは戸惑ったように、そしてあやすように、ハンスの髪を撫でている。

 終りは呆気なくやって来た。ハンスの口から、コーマックが一瞬身を引こうとした、一際硬く熱くなったように感じられたペニスに、何が起こるかをハンスは知っていたから、そこに逆に、口をつけて、されたように吸いながら扱いた、

「ハンス……っ」

 コーマックが焦った声を上げる、しかしもう遅いことは判っていた、ハンスの舌の上に口の中に、未経験の味が広がった。

 その匂いが喉から鼻へと一気に抜け出て、しかも無理に飲み込んだために、ハンスはコーマックのものを一滴残らず飲むことは出来なかった。しかし口を抑え、噎せながら、苦しみながら、口の中に出された分だけは、絶対に飲み込むのだと決意し、その通りにした。

 そして、しようと思っていたキスをしようと、顔を上げて、ハンスは心底心配し申し訳なさそうなコーマックの、余韻も何もあったものではない顔と正面から相対し、一瞬戸惑う。しかしすぐに、気持ちよくしてやったのにそんな顔するんじゃねえ、内心でふつりと怒りを覚え、唇を押し付けた。コーマックの強張った身体を無理矢理抱きしめて押し倒し、唇を乱暴に押し付けた。自分が勃起しているのが、悔しく嬉しいと、もう馴染んだ感情を覚えながら。

 ハンスからの急襲が一段落して、ハンスのことを抱きしめて、コーマックは溜め息を交えた声で。

「ありがとな。ありがとう。……ハンス、おれ、おまえのこと、大好きだ」

 言ってろよ、と憎まれ口を叩くハンスのことをコーマックは本当にいとしげに、小さな命にするように撫でる。

「そうするさ。許されたような気になってるんだ今、今すごく」

 そう言って、またハンスの下半身に触れる。

「……あと一回くらいは、出来る、よな?」

「……たぶんね」

 あとで大変だ、明日は死んでいる、ぼんやり考えながら、もう既に死んでいる。

 

 

 

 

 信じられないことに腕枕で眠っていたハンスが目を覚ましたに気付いてコーマックも目を開ける、二人して顔を見合わせて何かを言いかけて何も言えず、とりあえず鳴らなかった目覚し時計を睨みつけて、同時に硬直する、午後一時二十分を少し回ったところだ。

「……あ……ああ」

 コーマックは呆然とそんな声を上げる。朝飯はもちろん、昼飯ももはや終わっている。

 ハンスはむかっ腹が立ち、夕べ自分を疲れさせた直接の原因はコーマックにあると思い、どんな風に詰ってやろうかと考える、が、むかっ腹は彼自身の思っているほど立ちはしない。悪いのは夜だ、夜だったんだと思って、心が和らぐ。

 溜め息を吐いて。

「……おかしいな……、誰か起こしに来るのが筋ってもんだろうが……」

「起こしに来たのかもしれない。あんまりおれたちが起きないから、呆れられたのかもしれない」

「……まあ、おれたちが飲んでたことは他の連中も知ってるだろうしな」

 実際には状況を推測したダレンとエブラが放っておくよう、回りの者たちに願ったのであったが。

 ハンスは起き上がり、身体に染み付いた煙草の臭いと朝を遠く過ぎた目覚し時計に、駄目人間の烙印を推されたような気になっていた。このうえ何を気にするものかと、寝起きに早速一本火をつけて、吸い上げる。

「……夕べ」

 そして、自分から話し始めた。

 夜が悪いんだ、うん、悪いのは夜なんだ。

「すごく疲れる夢を見た。……おまえとオーラルセックスする夢を見た。おれがおまえのコレを咥えて。おれもおまえの咥えて。男の性器があんな味するとは思っていなかった」

 コーマックはハンスの顔をまじまじと見ていた。やがて、笑って、

「ああ、その夢ならおれも見た。奇遇だなあ」

「おまえ、そういう願望が在るんじゃないのか?」

「あるよ」

 素直にコーマックは答えた。

 二人とも下着姿、そう言えば下着着て寝たんだっけな風邪ひくとか言って。

 いつ寝たのだか覚えていない。

 屑篭の中身にティッシュが入っているかどうかを確認しなければあれが「本当」かどうかの察しもつかないので、現時点ではまだ「夢」だ。確認する気もない、きっと夕方になって怒ったトラスカが入ってくる、この汚い部屋は何だというような意味の言葉を言って、じゃあしょうがないわかったよ片付けるよと屑篭の上から色いろなものを捨てて判らなくしてしまう。だから、おれとコーマックはまだキスだってしていないんだ。

「……コーマック」

「なに?」

「……キスしようぜ……、おはよおのキス、いいだろ?」

「もちろん」

 しかし、今度は「朝」だったのがよくなかった。まだ若い二人の身体、置きぬけの下半身は、熱く硬く滾り、「夢」の感触を求めて勃ち上がっている。


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