ダークブレス


 「恋人同士」という言葉の守備範囲がどれほどのものなのかダレンには判らない。恋人同士の気分でいる自分とエブラではあるがその実、「友だち同士」にキスとセックスが加わっただけのものなのかもしれないとも思う。キスをしたり、裸になって互いの身体に触れ合うことは幸せだが、それだけが恋人同士の証明になっているとも思えない。他に何か決定的なものの存在に縋りたいものだが、ダレンにはそれが結局のところなんなのかはまだ判らない。とりあえず、自分はエブラの隣りをホームポジションと思っているし、エブラが言ってくれる「好きだよ」がきっと他の誰の言う同じ言葉よりも幸せだと解釈しているから、現状に満足してはいる。

 もちろん恋人同士という関係の定義をセックスですることも出来ないはずで、ダレンはエブラと、一応「恋人同士」になってすぐにセックスをしたが、殆どの場合はそうではない。キスよりセックスが先に来る場合だってあるし、いつまでもセックスをしない場合も存在する。何が普通で一般的かなどとは言えないことのほうが多い。これはどのような恋人たちにも当てはまることで。

 ここでダレンはコーマックとハンスを見る。焚き火を挟んで向こう側、スープを並んでぎこちなく啜っている二人は間違いなく恋人同士だとダレンは信じているが、その理由が何処にあるのか、特定することは出来ない。コーマックとハンスはまだキスだってしていないに違いない。それでも彼らは恋人同士だ、自分とエブラよりももっと、恋人同士だと、ダレンは勝手に思う。ハンスが飲み終わったらしいスープのボウルをコーマックに渡す。コーマックはうんと頷いて、中に残っていたベーコンをフォークで刺して食べる。ハンスはベーコンが嫌いなのだ。

 そんな二人を見ていると、なんだか、はぁあ、いいなあ、そんな気になる。

 ぼくとエブラもちょっと前までそんな感じで初々しかったよ……。

「ダレン?」

「んー?」

「どうしたの? ぼーっとして」

 好きって気持ちは少しも褪せない、どんどん煮詰まって良い色になっていくんだろうと思う。でもねエブラ、見てごらんあの二人、すっごくすっごく、良い感じ、可愛い、羨ましくない?

「……へへ」

 得体の知れない微笑を浮かべてエブラを不安がらせ、ダレンは立ち上がる。……このところ、セックスの回数が増えている、ひょっとして疲れてるのかも……、エブラは俄かに悩み始める。

「ぼく、あした街行ってサンポしてくるけど、何か要るものある?」

「……」

 エブラも考え込むタイプだ。焚き火をじいっと見ながら、寂しげな眼をしている。ちょっと悪いことをしてしまったなと思いながら、ダレンはその髪をくしゃっと撫でる、エブラははっと顔を上げ、繕ったように笑う。

「何か買ってくる?」

「いや……、おれはいいよ。おまえの好きなもの買っておいで」

 じゃあ、ぼくはおまえの好きなものを買って来よう、そう決めて、トレーラーに財布を取りに行く。

 

 

 

 

 ダレンが想像している通り、まだキスだってしていないコーマックとハンスである。もちろん、二人は「していない」自分たちのことを意識している。ダレンが思っている以上に、二人は自分たちの関係が「恋人同士」であることを認めている。しかし、コーマックはそんなことを口に出す勇気はないし、ハンスは癪だから、それはナアナアで出来た事実に過ぎず、二人の間の確かな共通認識としては薄弱なものに過ぎない。二人とも焦りを感じていないわけではないのだが、唇は遠くにある。

「寒いから……、ハンス」

「……うん」

 結局同じ布団で毎夜眠るのも、それは建前の理由が無くっては出来ない。本当に温かくて幸せなことであっても、詰まらないプライドが邪魔をするハンス、ハンスに嫌われるのが怖いコーマック。心底からセンシティブな二人の関係が発展することを、月日の流れが待ってくれるとは限らない。だから二人としては多少の焦りも在る。二十七歳、若々しい幸せの、いつまでもあるとは限らないことは理解しているつもりだから。

 生臭い考え方ではあるが、「本当にこれでいい」なら決めてしまいたいのだ。こう言うことの出来るうちに。いつまであるか判らない、鮮やかな色の刻に。

 ハンスがコーマックを、コーマックがハンスを、互いに好きだと思っているのは確かなこと。それを証明すれば、二人はもっとスムーズに、同じ布団に納まることが出来るはずだと判っている。そうして、もっと大きな力強い頼もしいよろこびに触れることが出来ることも、目星がついている。過去に二人が経験した何度かの恋愛と同じように、この恋の行く末がどんなものなのか、自分たちはどこへ行くのか。期待と不安でも期待のほうが大きいと思うから人は恋をするのであって、今回もそうであるに決まっていると信じている。

 真っ暗闇のすぐ側に温かさを感じるから自分が一人でないのだということを知るのは、恐らく母親の胎内がこんな感じだからだ。誰かとともにいたいと、温もりが嬉しいと、思うのは結局のところ人が一人では生きていきづらい生き物だから。だから、生まれて親から離れて一人になるとすぐ友だちだ恋人だと側に人間を求めるようになる。手を握られるだけで安心するのだ。セックスの効能はそのあたりにいちばんあるのだろうとコーマックは何となく考える。自分の遺伝子を残したいが為にセックスをする人間は今更いるまい。そうではなくて、今は、もっと単純に、ぬくもりが欲しい。握り合うばかりか、中に入る。何より濃い接触、接続をとることが出来るから、セックスが幸せなのだ。ついでに言うならば、セックスは間違いなく気持ちの良い行為であり、自分も相手も、理由としては「愛」によって気持ちよくなることが出来るということを考えたなら、それは何とも幸福なことと言えるだろう。自分の好きな相手を気持ち良くして上げられるのならば、したいものだと考える。コーマックならば、ハンスのことを。セックスをして肌を重ねあうことによって、ハンスが気持ち良くなれるのであれば。そして、もちろんの事、自分だって気持ち良い。ただセックスは話が下半身に及ぶモノであって、どうしても上品に片付けることは出来ない。だが、それでもコーマックはその行為を、人間が唯一しても咎められない罪悪と認識していた。だから、結論から言えばハンスと、とりあえずキスだけでもいいからしたいと思うコーマックである。

 ハンスも同様に、コーマックとそういう事をすることに対して反対姿勢をとってはいない。しかしながら、コーマックほど単純なこととは受け止められていないのもまた事実だ。ハンスにとってコーマックとのその行為は、どうしたって痛みを伴うものになるはずだという目測があったから。

 早い時期からコーマックとエブラの関係を知っていたし、ある程度の幸せがそこに在ることも認めていたから、ハンスの中にアンチ同性愛の考え方は皆無である。やりたいようにやっていればいい、他の誰かに迷惑を掛けず本人たちが幸せになれるんであればそれはどんな形であろうと。それがこうしていま自分の身に起きようとしていることに、戸惑いは無いが、躊躇いはやはりある。どういう形でセックスをするのか、知っているからだ。性行為は快感ばかりではないことをハンスは知っているが、それはあくまで異性間での問題で、同性愛の場合、自分の想像の範疇を越えている。当然のことながら、自分の味わったことの無い種類の痛みなのだろうとは思うが。

 自分とコーマックがセックスをするとして。と、そんなことを前提に考えていることに苦笑したくなるがとりあえずそれは置いておいて。

 自分とコーマックがセックスをするとして、その関係は、……やはり、自分は「ネコ」なんだろうなと思う。コーマックはエブラを抱いていて、「抱く」という形が自然だという認識が自分の中にあるはずだ。自分はどんな男ともしたことはない、コーマックがはじめての男だから、消去法的に自分が抱かれた方がスムーズなように思える。それに、コーマックよりも自分のほうが根性据わっているつもりだ、痛みにも強いつもりだ。自分のほうが適正がある……と、勝手に考えている。

 しかし、今宵も窮屈な布団に入って眼を閉じて眠る。

 キスもセックスもしたくないわけではない。恋人のような形になってから間もなく一月、してもおかしくない。というか、しないのが不自然なほうかもしれない。キスの喜びはハンスも知っているし、相手がコーマックであって男であって時折あごの下にひげが一本残っていたとしても好きになっているのだから気にならない。

 しかしそれを絶対自分から口になんてするものかと思う。そう思うことが事態解決の先延ばしの最大の力となっていることは判っているのだが……、二十何年もこうして生きてきた男にそれを変えろというのは難儀な話。

 となるとやはりコーマックの側から動かないことには事態は少しも動かない。頑固と臆病なら臆病の方がまだ余地があるというもの。コーマックはハンスが自分を嫌っていないから一緒の布団に入ってくれているのだという悠長な考え方を捨てていない。一歩進んで、自分が好きだから一緒に眠りたいと思ってくれているハンスの存在に対してはいまだ半信半疑なのだ。

これはハンスにも秘密のことだが、コーマックは深夜、ハンスの顔をじっと見つめていると、どうしても堪えきれなくなってしまうことがたまに在る。自己発散して空しくなる。寂しくなる。世界で一番穢れた存在になったようにすら思える。エブラがいつか感じていたように、そしてエブラが感じる以前に自分もまた感じたことがあった。

 馬鹿みたいだ。

 素直になればいい、素直になったなら、色いろなことが上手く行くはず。自分とハンスは本当にありがちな恋人の仲になれるだろうに……。

 しかし、臆病者は踏み切れない。ハンスに「おれたちって恋人同士だよね」なんて確認したら鼻で笑われるか本気で怒られるか、そのどちらかのリアクションしか考えられないのだ。そうなったとしたら。あとは転落だ。このセンシティブな関係は脆く崩れてしまうだろう。ハンスはその次の夜から一緒に眠ってはくれなくなるだろう、「おまえがそんな馬鹿な誤解してるとは思わなかったよ」、自分は一人寂しい夜を過ごすようになる、もうハンスは自分に近づかなくなるだろう、「馬鹿じゃないのか、おれがおまえの恋人?」、その期に及んでおまえが好きなんだとやけくその勇気を振りかざしたところで、「なにか勘違いしてるんじゃないのか?」……。

 そんなこと、あるはずないのに、考え始めると止まらなくなってしまう臆病者だ。

 ハンスのことが心底好きになっている、心は求めている、身体だって求めている。ハンスが殴るような言葉で自分にエブラを諦めることの意味を教えてくれてから、泥沼から脱し切ったのだ、新しい毎日を歩くことが出来るようになったのだ、自分にとっては救世主も同じ。

 「苛めてやろうか」、ああ、「あれ」がお前の言う「苛め」ならば、おれは喜んで。苛めてください、おれの好きなハンス。苛めて欲しいよ、おまえになら。

 おれはそれに従う準備はもう出来てる。おまえが創り出した傷をおまえ自身の手で癒すその時の痛みを、おれは想像してエクスタシー。

 そうなればこの夜も少しは短くなるだろう。こんな風に、眠いのに眠れなくて、おまえの寝顔を見ながらいつまでもだらだらしていることもなくなるだろう。

 しかし臆病なほどに優しいコーマックは思う。ハンスだって痛いのは嫌だろうなあ。おれだっていやだ。いやだと思うことを共用したくは無い。だったら自分がネコに回った方が。しかし、それにしたってスムーズに行くようなものではあるまい。痛いものは痛いに決まっている。ハンスだってそれは判っているはずだ、判っているから、きっと嫌がるだろう、怒るだろう、嫌われてしまうだろう。

 となると、やはり繋がらずにすることまで念頭においた方がいいのかもしれない。例えば、手だけ、口だけ……、空しいが、相手がいれば温かいことには変わりない、愛があれば嬉しいことにも変わりはない、いっしょにいけたなら。

 それに至るまでは、まずキス。まだ一度もしたことがない。コーマックだって健全な青年ゆえに、「キスをしたい」という不思議な感情が胸に渦巻く。いま彼の目の前で眠るハンスは、うっすらと唇を開いて、顎に少しだけ無精ひげ、伸ばすのかと聞いたら、面倒臭いから剃ってないだけと答えた。ひげがあればあったで似合うものだ。ただ、髪は相変わらず切っていないので、浮浪者とは言わないまでも、清潔感のあるものではない。しかし、そんな顔でもキスをしたいと思う。言うまでもなくハンスのことが好きだから。

 でも、ハンスのような相手にどうやってキスを願えばいいのだろう。

 困ったものだ、本当に、困ったものだ……。

 ……と、とっくに寝ているはずのコーマックが溜め息を吐くのを、ハンスは聞いている。こちらも相変わらず似たようなことを考えているから眠れないのだ。おれだって溜め息吐きたいぞと、イライラしながら目を瞑って身を固めている。どういった理由の溜め息だったのだろうと思い巡らす。恐らく、自分と同じ事を考えているに違いない。どうしたらこの先を見ることが出来るのだろうかと、そればかり。この先に行くのが幸せであることは判っているつもり、あと一歩踏み出せばいいのだ、だから、踏み出せよコーマック、おれはここにいるんだ、ここでおまえを待って……るわけじゃ、ないけどな多分、でも、待ってやらないことも、ない、ぞ。だから、来ればいいじゃねえか。そう考えるのなら、何も人任せにしないで自分から行けばよいものを、ハンスも同様に臆病者。判っている、自分はプライドが高いのではなく、コーマックと同様に臆病者なのだということを。

 

 

 

 

 自分が想像していたよりも遥かに遥かに不器用な自分の存在が苛立たしい。恋人同士や新婚夫婦が寝不足なのは合理的解釈が出来る、しかし、恋人と言っていいのかどうかわからないような自分たちが、何故こうも寝不足な日々を送らねばならないのか、全く納得が行かない。

「……ハンス?」

 ダレンが買い物に行ったから暇を持余しているエブラは、傾ぎながら煙草を吸っている後姿に、恐る恐る話し掛けた。のろのろと振り返った顔が、非常に不機嫌でケンの在るものだったから、エブラは話し掛けてしまったことを激しく後悔した、しかし、話し掛けてしまったものは仕方がない、ぎこちない笑顔を浮かべながら、

「おはよう」

 と挨拶する。

 ハンスは「うん」と短く答えると、地平線の更にもっと彼方を見ているような目で吸い込む。

 そして、俯いて吐き出す。少し噎せて、吐きそうになる、目を潤ませて、咳を治め、息を整える。

「……大丈夫?」

「ああ……」

 それでも煙草の火を消さないで吸い込み吐き出す。エブラは煙草を吸わないが、コーマックもハンスも吸っているのを見るたび、どうして苦しいものをわざわざ吸うのだろうと不思議に思う。

「ダレンは? 一緒じゃないのか?」

 顔ほど不機嫌な声色ではないことに、エブラは少しほっとして、頷く。街に買い物に行っているんだと答えると、ハンスは唇の端をくっと持ち上げて、

「コンドーム買いにいったんだろう?」

 と言う。エブラは一瞬その言葉に威圧されたが、すぐに首を振る。

「残念でした。違うよ、何買いに行ったのかは判らない。でも、コンドームなんて買って来ないよ」

「ってことは、まだ残ってるんだな」

「……」

 内心の「しまった」を顔に出すまいとする努力がありありとわかるエブラが可愛くて、ハンスはくっくっと笑った。

 全く持って釈然としないことで、いまやコーマック以外の誰かのことならば手にとるように判るハンスでありながら、それまであれほど単純に読むことの出来たコーマックが判らない今日この頃だ。本当にあいつはおれのことが好きなんだろうか、そんなごく初歩的な問いも答えるのに躊躇いが要る。信じることが出来なくなっている。

 エブラは口を尖らせて、

「ハンスは……どうなんだよ」

「……どうって?」

「こ、コンドーム、一箱、あるんだろ、コーマックのところに」

「……あ?」

 しまったつまらないこと言ったああやばい怒らせた、エブラは軽率な自分に青ざめた。

 一瞬鋭い視線で睨みつけたハンスは、しかし、すぐに俯いた。そして、どこか寂しげな声で、

「おまえの首突っ込む話じゃねえよ」

 と咎めるに止まる。

「ごめんなさい」

 エブラは心から謝った。

「……大体、おれたちは、別に付き合ってるわけじゃ、ない……」

 そう、言いながら、胸の中身が無理をしているせいで、捩れた。またいくつか咳して吐き気を覚える。

 エブラは何とも反応できずにハンスの横顔を見ていた。不健康そうな色の目の下。ハンスは何故眠っていないかなんて判らないだろうがおまえには、喉の奥で毒づいた。なんだか、ひどいくらいにむしゃくしゃして、つまらないナイフを振り回してしまいそうになっている。

 だが、それを堪えてハンスは笑った。

「おまえたちはいいな」

「え?」

「おまえとダレンはいいな」

「……」

「楽だろ、幸せだろ? きっと……」

 それはそうだが、エブラはハンスの意図が何処にあるのか計りかねて、黙りこくっていた。

 少しの間考えて、ハンスの笑顔が心細そうだと勝手に思って、言った。

「ハンスも楽して幸せになればいいのに」

「……楽して? 幸せにって。……何?」

「コーマックと幸せになればいいのに。おれは確かにダレンといるとき、楽だから幸せだし、ダレンもそうだと思う、おれといるとき楽してくれてると思う。だから……、ハンスも、そうすればいいのに」

 エブラはまた怒られるかもしれないと思って、

「ごめん、おれ、仕事あるから戻るね」

 そそくさと立ち上がって、足早に立ち去った。寒い中一人残されたハンスは、次の煙草に火を点けた。

 楽に。

 コーマックに対して楽な気持ちでいるはずの自分だ。エブラとダレンとあいつの件も、おれは楽な立場にいたから、好き勝手なことを言って、コーマックとエブラを引き裂いた、その方が幸せだって、無責任にでも友だち程度には責任を持って、いろいろなアクションをした。楽だった。

 いま、自分に降りかかると、ちっとも楽じゃない。

 おれの言葉に脅えて、おれに気を使って、おれを尊重するあいつが可愛くて好きだ。おれだって楽がしたい、あいつといればそう、おれは、楽が出来るはずだったのに。

 いまはちっとも楽じゃない。楽になりたい。ついでに出来れば……、恋人としての幸せを味わいたい、と、思う。

 とりあえずキスがしたい。

 楽にしたい。だけどそれが無理なことはもう判ってる。苦しまなくてはいけない、楽になるためには。

 頭が痛いと言ってコーマックは寝ている、風邪をひいたのだ、遅かれ早かれ、おれもひくんだろう、となると、日長一日今の苦しい状況で二人で向き合って咳をしたりクシャミをしたり。それにはちょっと耐えられそうにないハンスだ。逃げを打つなら、誰か違うトレーラーに移るか、テントを組むか。しかし、一緒に入る布団の温かさに慣れた体を自覚している、それだって、耐えられそうには無い。全く持って弱くなったものだ、と微笑む自分が、変わっていることに気付く。

「青春しちゃってるよ」

 馬鹿みたい。

 独り言……、熱が出てきたのだろうかやはり風邪だろうか。

 青春の夢はサイドボードの中。封を開けられることを待っている。誰に? 出来るならば、コーマックに。自分の手では、汚してしまいそうで、怖くて。

 戻ることも行くことも出来ず、長いこと、岩くれに腰を降ろしていた。寒くて、震えが始まった。日が傾き始めた、寒い寒い。

「……ハンス」

「……コーマック!? なに……」

 びくりと振り返って、そこに顔色の悪い優男一人、愛想笑いを浮かべて立っている。

「風邪ひいてるんだろ、おまえ、帰って寝てろよ」

「ああ、うん……、解ってる、いや、午前中一杯寝たから熱下がったんだ、もう七度少ししかない」

「七度はあるっつうんだよ、馬鹿かおまえ、こじらせて死にたいのか」

「死にたくはないけど」

「だったら早く戻れよ」

「ああ……うん」

 心配しているのだ。柄にもなく。なのに、こんな言い方をする自分は馬鹿みたい、楽をしてない。ただ、楽をしてる自分はどんな風に言うのだろう、ひょっとしたら、これが楽をしている言い方なのかもしれない、好きなように言って、苛めて、虐げて、これが自分の「楽」なのかもしれない、楽だという認識はない、仮に、優しい言葉を掛けたときにそう感じるかどうかは判らない、結局「楽」って何なんだ?

 恋人同士ってどんな関係なんだ?

 なあ、エブラ、ダレン、おまえたち、どんな風に楽してるんだろ。

「いや、……ハンスも、眠いんじゃないかなって」

 微笑を絶やさないコーマックに、ハンスは無性に腹が立つ。何でおまえなんかのせいでおれが腹立てなきゃいけないんだよ。

「眠ぃよ、眠ぃけど、おまえ、寝てんだろ、病人寝てる横で寝られるかよ」

「うん……、ごめん、そうなんだけど……、ハンス、おまえも顔色悪い。多分、おまえも風邪ひいてるんだよ」

「……ひいてねえよ」

「ひいてるよ、きっと。顔色悪いし、目の下クマすごいし。おまえも寝た方がいいんだ」

「大きなお世話だ」

「寝ようよ」

「寝ねえよ」

「寝よう。ハンス。一緒に寝よう」

「……しつこいな、何だってんだよ、このホモ」

 ハンスは言って、その言葉がやけに快い響きを孕んで自分自身の耳に届いたことを意識した。

 コーマックは柔らかな微笑を浮かべたまま。

「うん、そう、おれ、ホモだよ、だから……、ダメ? 一緒に寝ようよ、おまえと一緒に寝たいよ」

 ハンスは唇を歪めて笑いながら、

「この肛門愛好者、変態が。どっかおかしいんじゃないのか」

 全ての言葉が、ハンス自身の頭の中に反響して、心地よさを与えた。

「うん……、ごめんよ、全部当たりだ。うん、おれ、『だから』ハンスと一緒に寝たいんだ」

 コーマックはにこにこ笑いながら言う。

 ハンスは、自分のいった言葉は自分にも当てはまり、それはコーマックと自分の共通項であり、だからこそこんなにも心地よいのだと合点が行った。

 コーマックが長い足を目一杯伸ばして「こちら」側へ来てくれた事を、ハンスは感謝する。

「さっきね、エブラに怒られたんだよ」

 立っているのが少し辛いハンスはコーマックの岩くれに寄りかかった。

「……おれ、勇気ないって。おれ思い切り悪いって。エブラと別れた時点で、……すごい生臭い言い方だけど、おれにはハンスしかいないのに、何も躊躇うことないのに、いつまでもウジウジしてて、格好悪いって。なあ……、恥ずかしいことにさ、おれのことを、おまえのことを、エブラとダレン、心配して見てるんだってさ。恥ずかしいよなあ……、あんな子供たちのショウやってたんだよおれたち……」

 コーマックはちっとも恥ずかしげではなく、寧ろ愉快そうにそう言った。

「ハンスだってかわいそうだって、あんたの臆病に付き合わされて待ってなきゃいけない。あんただけ寝不足ならまだいいけどハンスまで寝不足、青い顔して可哀想だ……。確かにな、うん、おれのせいだ」

 風邪ひきに出来る精一杯の爽やかな笑顔で、ハンスは言って見せた。

「ごめんね、ハンス。……おれのこと、嫌いにならないで居てくれるかな。おれ、おまえの苛める言葉、大好きだ。おれのためになることばっかりだからさ」

 ハンスは喉の奥が熱くなるのを飲み込む。

 コーマックは微笑んだまま言った。

「だから、これからもおれのこと、存分に苛めてくれよ」

 楽なわけないじゃないか、エブラの馬鹿!

 ハンスは、ぎり、と歯軋りをして、立ち上がって、何か言いかけて、歩き出した、一歩歩いて止まり掛けて、しかし今止まるのはいちばん良くないと、妙に緩んだスピードをまた上げる、しかし、ああ、完全にこれは風邪だ、熱が出ている、ふらふらする、行きたい場所が在る、それは、

「布団行こう、ハンス」

 コーマックがハンスの肩に手を回した。

「おまえ、熱いよ、身体熱い。熱出てるんだ。やっぱり寝なきゃだめだよ」

 離せ、離せ、離せ。

 おまえのせいで風邪をひいたんだおれは、おまえのせいで。

 楽になりたい……、楽にしてくれ、誰か……誰でもいい、この際、コーマックでも。

「おれは」

「ん」

「おまえのことなんて、……どうだっていいんだ、本当におまえのことなんておれはどうだっていいんだ」

「……うん、そうだろうね」

「おれは苛めるのが楽しいだけでな、おまえのことなんて別に、好きじゃない、っていうか……、おまえみたいに、うじうじしてる奴、見てるのは、イライラする、だから、苛めるんだ」

「そうみたいだね」

「だから、おれは勝手にしてるんだ。おれは、勝手なこと言って、楽しんでるだけだ。おまえがおれの言葉をどうしようと、それは、お前の勝手だ」

「そのつもりだよ」

「だから、おまえも」

「おれは勝手にしてるじゃないか。な? おれは十分に自由にさせてもらってるつもりだよ、ハンス」

 悔しくて仕方がないが、楽にはなったような気がするハンスだ、熱は相変わらず高いけれど、コーマックが温めてくれて、汗をかけば着替えを揃えてくれて、こまめに額に濡れタオルを載せてくれるから、きっとそれももうすぐ消える。かさかさの唇に水を求めて、ちゃんとボトルを握らせてくれる。キャップ外せるかといちいち聞いてくる。当たり前だろうと掠れた声で怒鳴ると、苦笑してそうだよなと。

 恋人同士などということを意識した時点で自分はもう楽じゃなかったのだ。だったら、恋人同士だなんて意識しなくてもいい、ただ、側にいるだけ、いっしょにいるだけ。もし端から見られて、あるいは、片方が、もしくは辞書に載る意味で、自分たちが恋人同士だったとしても、ハンスはそれを意識しないつもりだ。意識しないでいれば自然体、自分は勝手にやっていくのがあっているのだからそれは仕方がない。但し、コーマックが「恋人」という言葉を振りかざして何を言おうが何をしようが、それはもうコーマックの中で勝手に行なわれることだから、自分にはどうしよう出来ないではないか。

 頭がぐるぐる回るような高さの熱だ。まだ、いまはしんどい。しかし、もう少し経ったら楽になるはずだ。いまが辛抱のしどころ。この熱が冷めさえすれば。

 一足先に解熱したコーマックは、ハンスの枕元、氷の入った洗面器でタオルを濯ぐ。

「……なあ、ハンス」

「……ああ?」

 よく絞ったタオルを額に乗せて、コーマックは立ち上がりながら言う。

「煙草吸ってくる。寝てるんだよちゃんと」

 何か言おうとした言葉を飲み込んだらしい気配。コーマックのことが再び少し判るようになってきた、あとはこの熱が下がれば。

 風邪さえ治れば……、伝染す心配がなくなれば……、口を近づけてもいいのかもしれない。間近で毒を吐きかけても、問題は無いのではなかろうか。

 なんてな。甘いことを考える自分も、少し楽になってきた。

 

 

 

 

「エブラさあ、……コーマックかハンスに、何か言ったの?」

 エブラは内心どきりとしながら、何気ない表情で、「いいや?」と。嘘をつくのが下手な蛇少年、しかし、ダレンの方に半信半疑の念があったから、その場は上手く流れた。

「そう?」

「うん。なんで?」

「いや……、コーマックとハンス、さっき、一緒に煙草吸ってたから」

「それがそんなに珍しい?」

「ううん。ただ、なんか、いつもより距離が近かった」

「……なにそれ」

「だから。いつも、何か隣りに座ってても離れるじゃんあの二人。そうじゃなくって、なんか、結構くっついてたの。恋人同士みたいに」

 最後の言葉を、ダレンは少し嬉しそうにはにかむように言った。

「ふーん……?」

 エブラは、今ひとつ判りきれない。

 ただ、誰かの幸せを思って幸せそうに微笑むダレンをいい子だなと思うし、心から愛しいと思う。コーマックに対して、身に余ることをしてしまったのかもしれないと思いつつも、しかし恋人がそれで充実してくれるのなら、エブラとしては結果プラスになったことと納得できるのである。

 


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