ブラスター

ウニとか栗とか、とにかくそういった、針が一杯生えた危険な球を手の中に収めたようなものだ。そうっと手のひらに乗せておくだけなら、「握ったら怪我をする」、そのことを予測してぞっとしているだけでいい。しかし、その手に力を篭めたら、予測じゃすまない、血を見る、泣きを見る。
 エブラの願ったとおり、いや、願った以上の現実が、彼の目の前には在る。その刺だらけの現実を目の当たりにして、幸福と辛苦の同居する相部屋で、彼は何かに思い悩むよりは、すすんでその肌を刺の前で晒すことを選んだ。誰かにとっては下らないことでも、誰かには疎まれるものでも、自分にとっても痛みを伴うにしろ、幸福であるとして、その針だらけの球を強く握り締めて、血まみれになったほうが潔い。エブラはそう考えた。
 しかし、そんなロマンチックな考えはさておいて、この状況は問題ありと、冷静になる。自分はダレンに、ひょっとしてすごくいけないことをしちゃってるんじゃなかろうか? 根強く残るその不安に、解答が出ないことこそエブラの「夜」に向かう力に対する抑止力になるはずのもの。だが、エブラは自分の行動への背徳を確かに感じつつも、なぜ後ろめたいのか、その解答がわかるまでは、いわば執行猶予を与えられているような気になり、「夜」を重ねる。そうして、だから、ダレンの言葉に素直に応じてしまう、弱い蛇少年なのであった。
 暑い、暑い、夜に、
「エブラ」
 と言って、自分を見つめるダレンにどきりとするのは多分、この世界で自分ひとり。
 ダレンはきっとさほど、見栄えのする顔じゃない。エブラはそう思う。だけれど、おれは知っている、たくさんの、この子のいいところを、ほかの誰よりもたくさん。
「聞いてるのか?」
「うん、聞いてるよ」
 世界ではいまどんなことが起こっていて、世界を動かすひとたちはどんなことに悩んでいるんだろう。ニュース・ショウを見ながらそんなことを考えている時間帯。もう、夜の十時半だ。エブラはテレビを切って、タオルケットの上に座るダレンのほうに首を向けた。
「あれだろ?」
 エブラは普段着を装って、微笑む。邪気の無いダレンにはその普段着の下のよそ行きを見破れないから、かちんと来る。しかし、憤るのは子供っぽくてプライドが許さないし、憤ったって「あれ」だということがばれることに差は無い。ダレンは素っ気無い風を装って目をそらし、
「ああ、そうだよ。いいだろ」
 と、無愛想に応じる。エブラは内心で、心臓を握りつぶされるような思いを味わいながら、外見はダレンからの絶大な信頼を勝ち取ることに成功しているさわやかな微笑みをたたえたまま、寛大に請け合う。きまり悪そうにそっぽを向いたままのダレンの頭を、まるで弟にする風な空気を纏った手のひらで、くしゃくしゃ撫でる。その手をうるさげに追い払う、強気で負けん気の強い表情を、ああ、なんて可愛いんだろう、胸が痛くて死んでしまってもいいくらいに激しく、思う。
「いいよ、もちろん」
 さみしいのだと、ダレンは言っていた。自慰に耽った後、現実に戻ってきたあと、味あわなければならない寂寥感がいやだ、と。だから、自分は言うなればダレンの、ぬいぐるみのようなものだ。一人で眠りにつけない子供にあてがわれた、醜くってこっけいな蛇人間のぬいぐるみ。どんなにきつく抱きしめたって壊れないし、もしも中の綿が飛び出したって、ぬいぐるみだから痛くない。
 少し前まで、ダレンがエブラの、可愛い半バンパイアのぬいぐるみだったように。いまはまるでその逆。ダレンが自慰行為を知り、その快楽と孤独を知ってから、入れ替わったのだ。
「じゃあ、明かり消すからね」
 一人で終えても、一人じゃない。エブラが隣に居てくれると確信できたなら、安心できるのだと言う。だから、こんな風に暗闇で手をつなぐ。どうして安心なの? なんで一人だとさみしいの? エブラは何度も「ひょっとしておれのこと好きなの?」、そんな期待を篭めて聞いた。しかし、実際にはエブラはダレンにとって、本当にぬいぐるみでしかない。この時間にエブラは、ただそれだけで、それ以上でも以下でもない存在なのだ。
 「エブラにしか頼めないよ、こんなこと」、おれは喜ぶべき? それとも。
 激しく同情する、と言ったのは、エブラのかつての「ぬいぐるみ」だった、コーマックである。
「おれも、おまえのことを、おまえがダレンのことを想うように想ってたなら、気が違っちまうだろうなあ」
 心底の同情をコーマックはエブラに向けて、苦く笑う。
「でもおれはダレンのことが好きで、それで、ダレンのために出来ることがあるなら、どんなことでも、片っ端から、拒まないでやっていきたい」
 そう言ったエブラに、若干気圧されたように、コーマックは肩をゆすった。言葉を捜して、出てきたのは、
「すごい、偉いな」
 そんな間の抜けた科白だった。
 すごい、偉い、か?
 脱力したダレンの頭を撫でながら、エブラはそんな風に思い、苦笑する。もう、撫でても反抗されない。エブラは優しく優しく、その髪を撫でていた。……偉かないだろ、別に。
 おれはただ、ダレンがいつの日か、おれが死んでからでもいい、おれがダレンのことを好きなんだよってこと、気付いて欲しいだけのこと。そのために、ダレンの前ではとにかく、どんな風に、自分に嘘をついてでも、「最高の親友」でありつづけること。
 ああ、ちっとも偉かない、誉められたもんじゃない。
「……エブラ……」
 つないだ手から、爪痕の消えることは、まだ当分に渡ってないだろう。右手ばかり、うろこが厚くなっていく。いつの日か、丈夫な右の手のひらが、自分の誇りになればいい。
「なあに?」
 ダレンは居心地悪そうに、もぞもぞと身を動かして、左手でタオルケットを顔まで引き上げた。「ありがとう」とも聞き取れるような言葉を、タオルケットの中から言った。しかし、付加価値は何も無いものだ、エブラはそう断じて、何も聞かなかったことにする。そうした方が楽だと、彼の心がそう決めたのだ。
 熱帯夜、とうぶん、眠れない。




 ところでクレプスリ―は、ダレンがこうして自分に、性欲の処理の場に居合わせることを頼んでいることを、知っているのだろうか、エブラは以前にふとそう思いつき、彼の「手下」がこのような言ってみれば「ただの友だち」である自分と必要以上に近しくすることを彼がどう思うだろうかと、考察してみたことがあった。
 クレプスリ―は怒るだろうか。まさか、とエブラはそのアイディアを自分で一笑に伏した。そんなことはありえない。クレプスリ―が怒るとすれば、怒るにしたって、それは自分に対してではなく、ダレンに対してだろう。いや、それすらも、ないかもしれない。この問題の相談に乗れるのは、ダレンにとっては「家族」とでも換言できそうなクレプスリーよりも、「ただの友だち」の自分のほうが相応しいにきまっている。
 と考えると、やはりダレンの頼みを聞いて、このような役回りを演じるべきなのは、自分を置いて他には無いのだ、という決意にいたる。エブラは、ダレンを好きだと思う一人の男として、心がどんなにきしもうとも、これを幸福と認識しなければならないのだと、決め付ける。
 いっそのこと、自分の欲だけを満たすにはどうしたらいいだろうか、出来もしないくせに考えたこともある。そうして、すぐにやめてしまったのは、どんなに辛くっても、嘘をつかなくてはいけなくっても、この生活の、長く続かんことをと、自分が願っていると知っていたからだ。いつかは必ず終わる、この苦い蜜のような日々を、いまは少しでも続けることだ。そのためには、自分は欲を殺そう。
欲を叶えるのは、いまこのとき限り。
一人のとき、トレーラーの裏手で、自慰をするときだけでいい。そう、そのときの自分は、普段以上に醜い。欲望に血走った目をしている手淫するもの。緑のうろこをぎらぎらさせて喘ぐ手淫するもの。その頭の中でどんなにか少年を汚しているのだろう……、汝、手淫するものよ。
 彼の湿った身体にべったりとまとわりつく夏の草の香り。精液と同じ匂いだ。間近でかぐことを強いられている、ダレンの精液と、同じ匂いだ。胸一杯に吸ってもなお、満たされないところも、よく似ている。
 ああしたい、こうしたい、そういう欲求は、間違いなくある。いまなお、ダレンが自慰をしている、その手を握っているときに、あらぬ考えを抱いてしまうし、もちろん勃起する。しかし、ぐったりとトレーラーのタイヤに寄りかかって頭に浮かべるダレンは、裸で自慰をしている姿ではなくて、タオルケットをひっかけて、安らかな寝息を立てている。
 もう、「どうしたらいい」とか考える必要は無い。ダレンのことが好き、ただその気持ちに正直でありたいのなら、我慢すればいい。そう決めて、汗を拭いて、立ち上がる。トレーラーの陰から出てきた所で、コーマックとぶつかった。
「おお」
「ああ……」
 何て嫌な所で鉢合わせてしまったのだろうと、お互い顔をしかめる。
「居るなら居るって言えよ……」
 コーマックが言う。
「なに、大声で叫びながらしろってことか?」
「そうじゃないけど……」
「そっちこそ、いきなり来るなよ」
「ノックでもしろってのいうのか、『入ってますかー』って」
「そうは言ってないけどさ……。……するんだろ、どうぞ」
 コーマックはチッと舌を打って、
「やだよもう、なんだかすごい、気分悪くなるなあ」
「おれのせい?」
「……たぶん違うよ。……もういい」
 友人と顔を突き合わせて冗談を言った直後に、自慰をする気になる男はそういないだろう。コーマックはばりばりと頭を掻いて、ため息を吐く。
「またにするよ。……ダレンはもう寝てるのか?」
 うん、と頷くエブラに、そうか、とコーマックは少し笑う。
「手のひら、どうなってる。見せてみろよ」
 エブラは、いつもダレンに傷つけられる手のひらをコーマックに見せた。そこだけうろこの損傷がひどく、一部、うろこの下のピンクの肌が覗いている。コーマックは痛そうな顔をして、のぞきこんだ。
「……大変だな、おまえも」
 コーマックはダレンの寝ているテントと、エブラがしていたトレーラー裏を交互に眺めて言う。エブラは首を振る。
「何も大変じゃない。心配してくれなくても大丈夫だ」
 強がるエブラに、コーマックは友だちだからね、おれも、と笑った。そうして、ごしごしと頭を引っかくように撫で、
「頑張んなよ」
 と。
「……どっち? 頑張れってこと? 頑張るなってこと?」
 相反する意味に取れる言葉だったから、エブラは聞き返した。コーマックは苦笑いをして肩をすくめて、
「どっちも。頑張って、でも、無理はしすぎるな」
 と、引き返していった。




 ああいう風に言われたら頑張るのが自分なのだろうなとエブラは自己分析をする。ああいう風に言われたら無理をするのが自分なのだろうなと、そう考える。コーマックの助言は的を得ていた。しかし、自分には無理だろう、頑張るしかない、それしか出来ない。他に何が出来る?
「エブラの身体は冷たくて気持ちいいね」
 その背中には頬がある。柔らかで滑らか、おれの指で乱暴にこすったら、傷をつけてしまうようないとおしい、ほっぺたが。
 エブラは目を閉じて、静かな気持ちで、ダレンのするに任せている。ダレンに鼓動を聞かれても問題はない、とくん……、とくん……、とくん……、血液は静かに彼の身体を歩いている。
「おれ、変温動物だからね」
 身体の表面を被う、薄い粘膜も、体温の上昇を防いでいるのだ。夏場には便利な身体だと、エブラは自分でも思っている。
「ヘビもどき」
 ダレンはくすくすと笑って、汗ばんだ上半身をその背中に押し当てた。
「ああ冷たい。いいなあ、エブラの肌、うらやましいよ」
 エブラも笑った。
「そんなこと言われたの、生まれて初めてだよ」
 ダレンはエブラにおぶさるように、手をその首に回した。
「ぼくはいいと思うけどな、おまえの身体、ちっとも嫌いじゃないよ」
 そうして、冗談でその髪にほお擦りをする。エブラは苦笑いして、
「そう言ってくれるのはおまえだけだよ、ダレン」
 と、手を後ろにやって、うなじのあたりにある髪を、優しく撫ぜた。ダレンは、何も言わずに、喉の奥で無邪気に笑っている。
 こうしているときが、おれ、すごく幸せだ。大好きなダレンと、一緒にいる時間。大切な、友だちのダレンと……。
 おまえのことが、大好きだよダレン。
「なあ、エブラ。ぼくの布団で一緒に寝てくれない?」
 タオルケットの縁を捲り上げて、ダレンが誘う。目が、いたずらっぽくきらきらと輝いている。エブラはニヤリと笑って、
「へええ、ダレンは一人じゃ寝られないんだ?」
「ああ、子供だからね!」
「そうだったんだ? じゃあおれは大人だから、いっしょに寝てあげよう」
 自分も頭からタオルケットをかぶって、ダレンに襲い掛かる。そうして、その脇腹を腋の下を足の裏を、思い切りくすぐってやる。けたたましい笑い声につられて、自分まで笑ってしまう。
「やめろよ、降参、降参」
 涙を流すほど笑い、ダレンが白旗を揚げた。汗びっしょりになった二人は折り重なって、荒い息を交互に漏らす。
「重たいよエブラ」
「うるさい。一緒に寝てやるんだからありがたく思えよ」
 エブラはクックックッと笑う。
「本当はね、エブラの身体、冷たくって気持ち良いから。ほら、こうしてるだけでも涼しいよ。普通は誰かと一緒に寝たら、暑くって仕方ないのにね」
「おれの身体でも役には立つんだ……」
 言葉の尾で目を上げると、トレーラーの扉にクレプスリーがしかめっ面で立っていた。
「なんだ。おはよう、何の用?」
 エブラの下から、ダレンが横柄に首だけそちらに向けて、たずねる。
「……寝静まっている連中もおるんだ、もうちょっと静かに出来んのか。子供ではあるまいし」
「子供だよ。ねえ、エブラ?」
「ああ……、いや、違うぞダレン、おれは大人だ」
「あっ、ずるい!」
「おい、我が輩の話が聞こえんかったのか。もう夜は遅い。とっとと休まんか」
 びしりと言いつけて、クレプスリーは出て行った。さすがに怒られてばつが悪くなったダレンだったが、懲りずにすぐ、クックックッと笑いはじめる。
「ねえ、クレプスリーもさあ、参加したかったんじゃない?」
「参加って、何に?」
 エブラがダレンの身体から起き上がって、たずねる。ダレンは唇の端をゆがめるようにして笑い、
「こういう風にさ、ぼくらがはしゃいでるの、うらやましいんだよあいつ」
 と言う。
「ああ、それはあるかも。こういう風にして遊ぶの、楽しいもんな。おれ、大人だけど思うよ」
 エブラも笑った。そして言った。
「あのさ、ダレン、ダレンってゲイ?」
「え?」
 ダレンはすぐ聞きなおした。
「いや、だってさ、おれと一緒に寝たいんだろ? それってゲイなんじゃないの?」
 ダレンはきょとんとしていたが、先にエブラが笑い出した。その笑い声に、ダレンが憮然となって、今度はダレンから襲い掛かる。
「冗談だって、冗談! くすぐったいってば!」
 ひいひいと、笑いながら泣きながら。そう、
「わかった、わかりましたよ! ダレンはゲイじゃない!」
 そう、ダレンはゲイじゃない。
 ゲイなのは、おれ。


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