ブラックレイン

「な、な、なんでぶつんだよう」

「うるせえ」

 起き抜け、まだ半覚醒の状態で、思い切り後頭部を張られたコーマックのあげた声も当然と言えた。一気に目が醒めてハンスを見ると、ハンスはいつも以上に不機嫌な表情で、散らばった服を一つひとつ着て行く。シャツに袖を通そうとして、自分の胸部に点々と、コーマックが吸い付いた跡が散らばっていて、そこだけ肌に薄赤の絵の具を落とされたようで、しかし洗っても落ちないのだと気づき、涙目のコーマックを一睨みして、トレーラーから足音荒く出た。外は雨だったが、ハンスは戻ることはせず、つかつか雨脚の強い中を、トレーラーを出るという以外目的のないままに歩き始めた。

 コーマックはどうしてもぶたれた理由は判らない、しかし、判らなくてもぶつような人が自分の一番そばにいる人なのだと納得して、自分も脱ぎ散らかしたままの服をのろのろと着始める。そして、扉のところに立てかけておいたはずのものを確認して、立ち上がる。

 前夜、コーマックはハンスを抱いた。とうとう、ついに、ようやく、やっと、いまさら、どうにか、抱いた。何ヶ月か前に買って来て、そのまま引出しの中で封も切られることなく眠っていたコンドームが、長い時間を経て日の目を見たわけだ。コーマックの陰茎を包んで「今更」、ハンスの直腸を穿って「今更」、ゴムの中へ命が吹き込まれて、「今更」。溜め息も漏れる。二人のしたこと、その内容を秘す必要もなかろうが、あえて記す必要もまたあるまい。どこの二人組とも変わらないような行為であって、それはエブラとダレンがした行為とも変わらない。コーマックもハンスもそれが判っていて、よく判っていながら、自分たちのこれほど神聖な行為はあるまいと思った。二度、三度と繰り返し抱き合ったことがその証明になるはず、息絶えてゴミと共に袋の棺に眠るコンドーム。

「……何をしてるんだ? こんな……」

 エブラが窓からちらりとハンスを見つけて、声をかけようとして、やめた。どうせ得なことは無いだろうと思ってしまった、ハンスには悪いけど、さわらぬ神にたたりなしだと。

「どうしたの?」

「いや、……ハンスが外歩いてたから」

「……トイレでも行くんじゃないの?」

「叢とは逆の方向にだよ」

「ふーん……、そっかあ」

 ダレンは裸のまま、ハンモックに乗った。

「やっちゃったんだろ」

 エブラは裸のダレンを見て、鱗の下の頬を少し染めた。それから、え? と聞き返す。

「なにを?」

 ダレンはにぃと笑って、顔だけエブラのほうへ向けた。

「決まってるだろ、セックスをだよ。コーマックとしちゃったんだよ、ハンスは」

「……えー……、ほんとに?」

 ぽかんと口を開けて、それから窓にへばり付いて、いつも二人が煙草を吸っている岩に座って、雨に打たれびしょびしょになっているコーマックの背中を見た。降りしきる雨がフィルタになって、その背中からはどんな表情も伺えない。

 ダレンはハンモックから身を乗り出して、危うく転げ落ちかけて、それからバランスを整えて床に降り、敷かれた布団にエブラを招く。

「あんまりね、エブラ、そういう無粋な真似はしないほうがいいよ」

 エブラはきまり悪く仕方なく、ダレンの前に座った。

「いいんだよ、彼らは彼らのやり方がある。ぼくらがここに来るまでと同じかそれ以上か、とにかく長い時間とたくさんの経験して来たんだから、ほっておけばいいよ」

「……うん。……いや別に、鑑賞しようとか干渉しようとかそういう気があるわけじゃないよ」

「でも、多少の感傷はあるでしょ」

「うん、まあ……、それはな、確かに」

 エブラは微笑んで、はあ、と溜め息をついた。

「やっと決着ついたか、よかったなあ」

 ダレンは同意するように頷く。

「よかったね。とにかくハンスにコーマックはぴったりだし、コーマックにもハンスはぴったりだよ」

 そして付け加えるように、「ぼくにはおまえがぴったりで、おまえにぼくがぴったりなようにね」

 

 

 

 

 岩くれに体中濡らしながら座ってハンスは縦に微細な縞のフィルタを通して霞む地平線を見ながら、ポケットを探った、煙草が入っていた、しかし、取り出してみると早く濡れていた。マッチ箱を開けばその中には多少の乾きを得られたが、擦った所で火がつくとも思えない。

 煙草が吸いたい。

 イライラする、イライラする、イライラする、そして頭痛がする、煙草を吸えば全部治る。少なくとも、胸がむかつくイライラはどうにか出来るような気がする。

 コーマックに抱かれた。言葉にすればそれだけのこと、コーマックとセックスをした、たった、それだけのことなのに。どうして自分はこう、困惑しているんだろう、納得済みのことだったはずなのに。どこがそれを疑ってるんだろう? 何が気に入らないんだ? なぜ全部飲み込めない? コーマックのことなら精液だって飲み込める、それくらい好きなはずなのに、間違いなく愛している、何年かぶりに心地良い幸福感を抱けるはずなのに、どうして全てのスイッチが入らない?

 嫌じゃないはずなのに、全部を受け容れられたはずなのに、どうして自分はコーマックに優しく出来ないんだろう。あれだけ幸福に抱かれた、その朝(これはハンスの錯覚で、今は実際には午後になっているのだが)でまた、ああして腹を立てる。ああして乱暴をする。たいした事などないはずの気恥ずかしさをガマンできないで暴力的になって乱暴をして、そうすることで自分を更に腹立たしくさせる、おぞましいことにはそこに快感が多少なりとも伴っていることをハンス自身自覚しているという。更に言えば、コーマックはハンスを全部容認する。肉体的にハンスがする以上にコーマックはハンスを受容している。その見た目も、その言葉遣いも、その性格も――とりわけコーマックを窮地から引き摺りあげたあの不器用な優しさを、乱暴な優しさを――、そしてその暴力的な部分も。コーマックはコーマックなりにハンスと言う人間を都合よく理解し、例えばアイツがあんな風に乱暴したり苛めたりする相手はこの世界でおれだけなんだと思って嬉しくなる。ハンスはおれを愛してくれていないのかもしれないけれどおれはハンスがおれを愛してくれていると信じている、というか、信じたい気持ちがある以上信じてしまう、そんな考え方の持ち主がコーマック=リムズ。そんな相手に全てを許されるからハンスはますます腹が立つ、腹が立つ背景には、許される・認められる・愛される喜びが間違いなく存在していること、それが判るから、腹が立つ。

 煙草が吸いたい、煙草が吸いたい。煙草吸えばガマンできるんだ、きっと……。煙草を吸えば素直に部屋に戻って、……。煙草がなければダメな自分の弱さが悔しい。自分はそうじゃないコーマックより強いんだあんなヘタレよりもおれのほうが、そう思っていながら、例えば煙草と同じようにコーマックがいなかったらダメな自分を理解している。

 馬鹿みたいだ。

 自分は弱い、とコーマックは思った。自分こそダメだ、コーマックは思った。雨に濡れて独りでなんだこのザマはせっかく出来た恋人なのに自分を包んでくれる恋人なのにどうしておれはあんな風なんだこんな風なんだ素直に好きって言い返すのにどうしてこんなに胸が捩れる苛めるみたいな言い方でしか言えない、愛せない。

 おれこそヘタレだ。

 素直になれないったって、おかげさまで二十八歳そんな可愛いもんでもなくて。

 雨が止んだ。自分の上だけ、雨が止んだ。

「……風邪ひいたらどうするんだよ……、馬鹿だな……」

 自分のことではないのに困惑した声が隣りに立つ。

 ハンスは掠れた声で、

「……煙草、持ってるか」

「ああ、持ってるけど……、吸うのか?」

「そうでなきゃ聞くか」

 尖った声で。

 口に煙草を咥えて、火をつけてもらって、深く吸い込んで、頭に血が上らないようになる。

「……それ吸ったら戻ろうな」

 ハンスの濡れた肩を見て、心配で落ち着かない口調で、コーマックは言った。ハンスはうんともすんとも答えないで、ただ煙草を吸っていた。髪の先から滴がぽたぽた落ちて、煙草の火を消してしまいそうだった。

 短くなるまで存分に吸ってから、岩に押し付けて火を消す。

 それから最後の煙と共に、言葉を吐き出した。

「……なんでわざわざ追っかけてくるんだよ」

 コーマックは不意の言葉に惑ったが、スムーズに答えた。

「待ってられないよ、雨の中出てったんだもの、カサもささないで。おれ、気短かだから」

 嘘をつけ、と思いつつ、黙っていた。

「でも、出てきたかったんならおれ構わないし。別に好きなことしていいし。ぶってもけっても、おれおまえだったら平気だからさ。……おれも、おまえはおれ相手でなかったらしないだろうって思いながら、いっつもされてるから。勝手にな、そう考えてるんだよ。だから何してもいい、平気だよおれなら。すぐ追いかけていくから」

 ハンスはゆっくりと立ち上がって、トレーラーのほうへ歩き始めた。コーマックは自分の方が半分濡れるのは構わず、ハンスがこれ以上少しも濡れないようにと傘を掲げて、ついていく。トレーラーに入って座って何もしないハンスの服を脱がせて身体を拭いてやり、新しいシャツをちゃんと出してやり、それから温かいお茶を出してやる。全部をコーマックは幸せな気持ちで行なう。そのコーマックをぼんやりと見ながら、おれはこいつにどんなことをしてやったからこんなことをしてくれるんだろう、ハンスは考えていた。

 どうしても、ケツの穴以外くれてやったものは、ないんだけどな。

 そうではないんだということは、コーマックの動きを見ていれば判るが、こんな自分のどこにそんな理由と価値があるのかは、判らなかった。しかし同じように、誰より一番ハンスの「害」を被るコーマックが、おれなんか苛めてくれるなんてと幸せに思っていることを、ハンスは知らない。

 すなわちこれが、少年たちの言う「ぴったり」であり、少年たち自身と同列に扱われている関係なのであるが、二人は気付かぬ。当分は気付かないほうがいいのかもしれない。ハンスの乱暴とコーマックの容認との関係がこの男たちには自然だから。いっそ死ぬまで気付かぬのが幸福かもしれない。

「ハンス、……着ろよ。着ないと風邪ひくだろ」

「……おまえは」

 相変わらずの尖った声を、ハンスは出す。

「『恋人』が裸で座ってんのにそういうことを言うのか、下らん野郎だな」

 そして、また夜になって服を着る頃には不機嫌になっている。

 嬉しい自分に不馴れなんだよ要するに。言うほど不幸だったつもりもないけれど。嬉しいと、心が躍る、心が感じる、そんな自分が恥ずかしい、……当然腹が立つ……。


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