アクアブレス

 ハンスはまだ、エブラとダレンに対して何かアクションをとるということは無く、ただ彼はぼんやりと、コーマックの部屋を訪れたり、その帰りに小さな恋人たちが戯れあう様を見たり、散歩をしたりコーヒーを飲んだり煙草を吸ったり、コーヒーを飲みながら煙草を吸ったりして日々を過ごしている。コーマックが気付いたように、ダークブラウンの髪が伸びて、視界に入るのを少しうるさく感じはすれど、わざわざ床屋に行って揃えるのも億劫で、フリークに戻ってきてからもまだ放置。

 コーマックが髪の毛を揃えて帰ってきたのを見て、爽やかに上げた金の前髪、それなら目も悪くならないだろうなあとやや羨ましくは思っても、寒くなってきたし春になったら、そんな理由で、また先延ばし。

 春になるまで待っていたら、きっと後ろ髪を結ばなきゃならなくなる、視力も落ちる。だけれども、

「おまえは長いほうが似合うんじゃない?」

 コーマックが何となくそう言ったのが頭に残って、それでもいいかと。コーマックとしては、どうせおれ怠け者と自分を卑下するハンスを弁護するつもり以上の意味はなかった言葉だったのだが、真に受けている。しかもコーマックはそんな言葉を本当に言ったのかどうか定かではない、適当な気持ちで言ったに違いない。それでも、今更うざったいから切れよなどとも言えないで、友だちの髪の伸びていく様子を眺めている。

 彼らの近況はそのようなもので、これから如何様にでもなろう。少なくとも、コーマックのもとへ、心置けない友が戻ってきたのは、彼にとって間違いなくプラスに働くようだ。彼自身も、そう感じていた。そして、ハンスもまた、自分はコーマックの友だちとして、一緒にいてやるべきなのだということを強く思っていた。

 現時点では、まだそれだけだ。

 

 

 

 

 ダレンとエブラの関係は相変わらずだ。ベースラインと、ハッフェルベルのような関係。彼らの毎日に訪れる小事件に、若く幼い彼らはまだベルガーの名曲という訳には行かない、しかし、揺らぎながら、惑いながら、結局落ち着く場所に戻ってくる。

 彼らの相性はいい。ミスター・トールの人物認識の明るさと確かさが、彼らの関係を見せるだけで証明できる。ただし、良すぎて困るという部分も併存していようが。しかし、コーマックがハンスという友だちの存在によって、その柵から脱出出来つつある現状を踏まえて、周囲に問題を振りまくようなことはまず無い二人であると考えても良かろう。

「……ふっ……う……」

 あてがわれた小型のトレーラーの密閉空間に、雄の匂いが澱んで、エブラの漏らした声さえも、気体と言うよりは液体に近いような中でどろどろ絡まって浮遊する。

 その中でダレンが、ぶるりと震え、空気を波立たせる。エブラは口にしたキャンディの中から放たれた蜜のような灰汁のような、甘苦く卑猥な味の精液を零さぬよう飲み込む。そうして、また、自らの太股を小さく震わせる。

「い、いいよ、ダレン、や……休んでも……、ん……」

 聞こえていないようなふりでダレンは、実際その右目から涙が毛布へ零れ落ちるのを、無視するように、健気にと言うよりは、意固地になって、エブラを口に咥え続ける。その小さな口一杯に、深々と入れて、舌を鱗の無いところへ動かす。

「……あ……」

 射精へ至るプロセスは、どうしてこうも判りやすいのか。それまでの快感の上にもう一枚セルを重ねるように、それはまるでモノクロが色を帯びる瞬間だ。

 尿道へ、精巣から幾千万の音符の集団が流れ込もうとする、小さな管を押し広げられる痛痒感。なるほど、人間は狭いところを広げられるとイイ生き物なのだ。射精のみならず。排泄交合、嘔吐にも、特有の、異様な開放感が併存している。終わった後に「すっきりした」と思うのも同様で。

「ダレン……、ダレン、出る」

 名を呼びながら、そんな科白を言ってしまう自分が、なんだかすごく申し訳なく思うエブラだ。

 そんなエブラの手が、ダレンの髪に当てられる。ダレンは、自分の稚拙な口合でエブラが溢れてくるのを、心の底より生ずる純性でもって、嬉しく思う。嬉しい以外、何とも思えない。強いて言えばもう一種の喜びに、感謝の気持ちがあるくらい。ありがとうエブラ、大好きなエブラ、ありがとう。

 口に放出された、エブラ特有の味――恐らく、そうなのだろう。ダレンはエブラ以外の精液を口にしたことはなかったが、他の誰の精液の味も、エブラとは異なるだろうと信じているのだ――を、舌に載せて、口一杯に行き渡らせ、それから飲み込む。エブラの、口から抜いた直後の濡れて光る性器の先から、ぬるりと溢れ出す後零れすら、勿体無くて拭き取れないで、

「ん……!」

 エブラが悶えるのも我慢してもらうつもりで、唇で吸い取る。まだ足りないような気もして、根っこのほうから優しく扱き上げる、最後の一滴までも、飲み下したいと思う貪欲さは、きっと自分がバンパイアだから?

 性欲も、ダレンのほうがあるだろう。今日、このとき、こうして、セックスをしようと言い出したのも、ダレンが始めだ。少年は、自分の身の奥底にある、夜属性の交合欲求が、エブラと共にあるとついつい好き勝手に動くのに、気付いていた。しかし、それは悦び以外の何を自分に齎すものでもないので、それに甘えていた。エブラは、それに喜んで付き合う。ダレンがエブラに甘えかかり、その耳元に「だいすき」と囁いて、裸の胸にてのひらをぴったりとつけると、エブラは何も言えない。エブラだって、十七歳相応の性欲があり、そのベクトルの向かう先は今のところエブラしかいないから、そうする。そうするしか、考えられない。

 ふーっ、と長い溜め息を吐いて、エブラは寝転がったままダレンを見上げる。ダレンはじっとエブラを見る。そうして、不意に覆い被さって、キスをして舌を入れた。

「んっ……」

 エブラはびくりと身を震わせる。自分の精液の味の残る、ダレンの舌が入ってきたから。しかし、エブラの口の中にもダレンの味がしているはず。ダレンはそれを気にせず挿入した。エブラは困惑し途方に暮れ、冷たい床に頭を擦りながら、ダレンの深い口付けを、仕方なく味わった。甘いような塩辛いような苦いような、苦しいような、そうでないような、興奮するような、弛緩するような。

 上唇にお互いの息が交じり合うまでそうして、ダレンが唇を離した。暗がりの中で見ると、ダレンの目はうっすら潤んで、その唇と同じように艶を帯びて光る。それは、少年であり、つまりはまだ子供であるはずのダレンの内側に、十代半ばの少年が持つ、濡れたナイフのような卑猥な、しかし清冽な光が存在し、滲み出ているかのようにエブラには思える。自分の中にはもう摩耗して消えた光が、ダレンは当に満開の状況で、少年の外見にも、フィルタを浸透して溢れ出てくるのだと思った。そうなると、存在そのものが罠のような罪のような。

「……エブラ」

 ダレンの唇の、名を呼ぶときに擦れ合うほんの微かな音に、心の弦を弾かれる。

「……ん?」

 エブラは、本人無意識の、罪の無い邪気の無い優しく穏やかな微笑みを見せる。ダレンは、もっと罪深いエブラであって欲しいと思うときがたまにあるのだが。

「……しようよ、もっと、……しよう」

 エブラは、気圧されたように怯んだのを否定して、うん、と頷く。

 可愛いダレン、可愛いダレン、おれの大好きなダレン=シャン。そんな相手が、自分を求めてくれることへの驚異が、エブラを緊張させる。

 しかし、ダレンがずっと触れていたおかげで、その茎が柔らかになる暇はなく、いつものように、ダレンを横たえて、キスをする。

 キスをしている間、下半身は見ない。ダレンが自分で入口を広げてくれるのを、つとめて見ないようにしている。ダレンが見られるのを嫌ったわけではない。いつも、いつの間にか、自分に優しいダレンでいてくれる喜びをより強く味わうためにだ。

 耳に舌を差し入れる。ダレンがか細い声を上げる。器用な舌の先で、耳の入り組んだ窪みを優しくなぞる。背中にダレンの両手が触れる。エブラはその小さな耳にだけ届けばいいボリュームで、「愛してるよ」、それから起き上がる。枕元に置かれた小さな袋を切って、中身をエブラに使い、潤んだ目でエブラを見上げる。エブラは再度、ダレンのほの赤い身体を、緑の身体で覆い隠した。

 ダレンが大好き。

 その気持ちは本当に変わらない、本当に強いもの。

 しかし、この期に及んで存在する柵から抜けることで、もっとダレンを愛せるはずと、エブラも思っていた。腰を動かしながら、舌を絡ませながら、本当にこの子のことだけを想うことも出来るはずだと、エブラは思っていた。

 掌の傷はまだ消えない。相変わらず射精の瞬間、ダレンが爪を立てるから。

 

 

 

 

 まだハンスはエブラに対して何かを言ったりはしなかった。無論、「どうしたっておまえが先に死ぬんだ、置いていかれるんだ」などと言えるはずも無い。コーマックもハンスも、自己中心的な性格ではあろうが、優しすぎた。エブラが前夜の交合の疲れを引き摺ったまま、岩くれの下にぼんやり座っているところに、ハンスが煙草に火をつけに来た。コーマックはその後姿をちらりと見たが、馬鹿な真似をするはずがないと、近くの街まで散歩に出かけた。

 好機を探していただけなのかもしれない、しかし、そうだとしたら、それは自分のためにもならないし、もちろんコーマックのためになることでもない。

 煙を吐き出したハンスを見上げて、エブラは「やあ」と疲れた声で挨拶をした。ハンスは頷いて、また深々と煙を吸い込む。

「……コーマックに、何か言われた?」

 少しの時間を置いて、エブラはそう訊ねた。ハンスはじっと黙ったまま、躊躇う素振りを見せずに考えて、

「何かって……?」

 静かな声で聴き返した。

「知らないの? コーマック、おれのこと、何も言ってない?」

 心底意外だと言うように、エブラは聞いた。ハンスは、煙を吐き出しながら、

「ダレンとのこと?」

 と、見下ろしながら聴いた。エブラは、うんと頷いた。

「言われたよ。まあ、大半があいつの愚痴みたいなもんだけど。あいつ弱いよな。好きになったり嫌いになったりするのが人間なのに、どうしてそう、固執するのかな。ティーンエイジャーのガキじゃあるまいし、もう少し大人になれよな。おまえもそう思わないか?」

 ハンスはずけずけと言って、地平線を、皮肉げな笑いと共に見た。エブラは黙ったまま、ハンスを見上げる。ハンスはその視線の、少し強いことに気付いてはいるが、反応するには値しないと断じて、向こうに見える森から、鳥の一羽二羽が飛び立つのを見ていた。

「いいんだよ、おまえは好きにして。逆に、おれにコーマックの事なんか聞くなよ。関係ないだろ。おまえはダレンのことが好きなんだろ? コーマックよりも好きなのさ、なら、もういいじゃないか。コーマックのこと気にするの、馬鹿みたいだぜ」

 馬鹿、と言われて、

「でも、おれはコーマックのこと今でも好きだ、大切だ」

 反射的にそう答えて、

「じゃあ、ダレンと別れたら?」

 一蹴される。

 ハンスは煙草を岩に押し付ける。エブラもダレンも、コーマックも、尻を乗せる岩で煙草を揉み消す。

「いいんだよ、幸せになればいいんだよ。それによって誰か傷つく、それはさ、でもさ、しょうがなくない? 傷つくのは悲しいけどさ、その悲しいところにいつまでも固執してるほうが悲しいと思わないか? 今のコーマックとおまえは、お互い、幸せになること放棄して、いつまでも固執してるのと違うか?」

「それは……、違う、おれは、……違う」

「じゃあ」

 コーマックは次の煙草に火を点けた。

「好きにしろよ。ただ、中途半端にコーマックのこと好きとか言うなよ。大切な友だち、それ以上でも以下でもないんだろ、おまえにはダレンがいるんだろ、なら、なあ、怖がってるんじゃない、間違ってるかも知れないし卑怯かもしれない、けどさ、おれ思うに、おまえたちの現状、やっぱりすごく不幸だ。すっぱりさ、整理つけろよ。愛するべき相手を愛してあげなよ。ダレンだって、つまんないだろうさやっぱり」

 

 

 

 

 コーマックの部屋に、ハンスはその夜もやって来た。エブラに対して言った事を、コーマックに並び立てて見せた。コーマックは慄然として声を荒げて、

「何で……余計なことを!」

 しかし、ハンスは悠然と煙を吐いて、

「まだエブラにご執心なのか? 無駄だぜ」

 と言う。

「何なら、覗きに行こうか。きっとエブラ、吹っ切れたような顔して、ダレンとしてるはずだよ」

「……」

 唇の端をゆがめて、しかし、良心的な笑顔でハンスは言葉を連ねた。

「見てらんないんだよ、おれは。おまえがさ、いつまでもウジウジしてるの。後悔するくらいなら、エブラの幸せなんて考えないで、もっと卑怯にエブラのこと奪うくらいすりゃよかったのさ。それを、何だおまえは、馬鹿みたいに、エブラとダレンの後押しまでして、今更悩んで、それでよりによって、今になってエブラをダレンに渡すのが惜しい。しかも、ケリつけた積もりで、まだウジウジしてる。潔くない、男らしくない、二文字で言えば馬鹿。見てたく無いなら出てけばいいんだ。なのに出て行かない。潔くない、男らしくないよなあ? コーマック」

 コーマックの目が憎々しげにハンスを見る。

「人間の心、トカゲの尻尾も、おまえの手も足も、同じように傷ついたところは切り捨てられるのさ」

 そう言って、その手を引っ張って、千切り捨てた。

「少しでもカッコよく生きたいんなら、エブラのことはもう忘れな。あいつはダレンのものだ。おまえのもんじゃない。おまえは他の誰かを見つけりゃいい。そうして、もっと幸せになればいいのさ」

 これでも、コーマックにとってハンスの存在はプラスになっている。マイナスにはなりえない。抉り取るような言葉を並べて、最終的に、幼い恋人同士の幸福をより確かなものとしたのも、そして、置いてけぼりを食らった男の歩く方向を修正したのも、ハンスだったから。

 溺れるように、息を吐く。コーマックは、言葉を吐こうとして、息を吐いて、咳き込んだ。器官に唾液が入り、激しく噎せた。膝を突いて噎せて、何度も何度も、喉の裂けるような咳をして、涙を浮かべた。ハンスは苦しむコーマックの手に生える新しい指を、そして、自分の千切り捨てた指の黴が生えていくのを、順に見て、煙草を消した。

 心の傷んだ部分を切り捨てて生きていけるのならば人間は苦しまなくて済む、しかしそんなことが出来るならば、人は人を簡単に殴って、ずきずきする拳を捨てて歩いていくし、殴ったことすらも忘れてしまう。心の自浄作用としてある痛みを、抱えて生くから人間は救われるのだ。

「泣いちゃった?」

 あれだけの毒を散布しておいて、しかし自分が傷むことを知っているハンスは、そう聞く声の、引きつって震えていながら無理に笑おうとしている自分のことを滑稽とは思わない。コーマックはのろのろと顔を上げる、泣いてはいなかった、しかし、泣きそうな顔をしていた。目が潤んで、おいおまえ二十六だろう、ええ? そんな風に茶化す情緒をハンスに与えなかった。

 しかし、言った事に後悔はしない。言わないよりは言ったほうがいいと思っている。痛いのは今だけだ。心の痛んだ部分が癒えたら、その後はきっとどうとでも出来る。とりあえずはその時の来るまで、自分はコーマックの側にいてやったほうがいいようだと考える。

 ハンスはそして、この情けない男が自分を好きになったり、あるいは自分自身が彼を好きになったり、結果的に愛し合うようになる可能性を否定しない。傷を作り出したのは当然自分で――しかし、その傷を癒すのも自分をおいて他に無く、転倒するように、感謝を胸に抱いたコーマックが、或いは、憐憫の気持ちから自分が、好きだという気持ちを抱くようになる自然を、十分に想定する。そうして、そうなったときにどうしようかと、うすぼんやり、不安と共に考えるのだ。何故だか自分は拒絶しない気がする。それは、ハンス自身、友だち二人に両性愛者がいて、さらにダレンが両性愛者となって、トラブルはあれど、結局幸せを目指せる状況を見れば、そういう愛の形も存在するものと思えるからだ。


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