愛の歌

 街に着いたフリークの面々がすることは、彼らの顔同様十人十色、コーマックは雑誌を買いに本屋へ行った。ハンスが憮然として、喋りかけてもあまりリアクションを返してくれないようなときには、一先ずはハンス以外に意識を傾けた方が彼の気分を害する危険が少ないということを学習したからだ。そんな次第で、彼はさほど雑誌を、全く興味の無い分野から一冊、比較的明るい分野から一冊、適当に選んで購入して、ひとまずはトレーラーに戻ってきたところ、昼寝をしていたはずのハンスが居なかった。昼寝をしているところを起こすとまた怒られるので、そうっと出て行って、そうっと帰って来たのだが。

 どこへ行ったのだろう? 自分の為だけの紅茶を持って来て、ふうと吹いた。元々、コーマックの感情など無視して平気に動くハンスであり、逆に言えば何処へ言ったってコーマックの気にする必要も無いのだが、自分の居ないところでのハンスがどうかということには、恋人の自覚があれば当然、興味がある。ハンスはコーマック以外の人間に対しては、基本的には悪い人間ではない。無愛想で、無表情で、そのくせ愛想笑いは得意で、……だから、総じて衆人受けは悪くない。しかし、身近な人間になればなるほど、愛想笑いは必要性を失うわけで。

 もう少し優しくたっていいよな、とは、マゾヒストだって思う。しかし、そのままのハンスでいてくれていい、ハンスの楽なようにしてくれていればいいと、思うからこそマゾヒスト。手持ち無沙汰なままで、雑誌も開かない。そもそもこの雑誌はハンスが相手をしてくれないときのためのものだ、今読んでしまっては。とは言え、何もないまま紅茶を飲むのもぎこちない。ハンス、早く帰ってこないかなあ。そうしたら無視してもらって、雑誌が読めるんだけどなあ。

 外から近付いてくる足音がして、嬉しい、と思う。どうせ無視されたり、虐められたりするだけなのに、お帰りを言える喜びを味わう。がちゃりとノブを捻られて、寒い風が入ってきても、頬が綻んで、一つ凍る、「ハンス!?」、素っ頓狂な声を、コーマックは上げた。

「……何だ、その声は」

 飛び切りの不機嫌で、コーマックの恋人は言う。つかつかつかと散歩で部屋を横切ると、コーマックとはまるで無関係な角度で腰を下ろし、煙草を咥えて火を点けた。コーマックは開けたままの口が塞がらないまま立ち上がって、紅茶のカップを倒した。ハンスに怒られて、悄然と床を拭き……。

「……どうしたの、その、髪」

 びくびくしながら、髪をさっぱりと切って帰ってきたハンスに、訊ねた。無精髭も綺麗に剃って、ついさっきまで見慣れていた不潔さは影も形もない。最も、「不潔」などとは思ったことは無い、悪っぽくて格好いい、そんなハンスが大好きだ。

「見て判らないか」

 煙草の煙を噴き上げるたびに揺れていた前髪も額を隠すほどに、ばっさりと切られている。後ろで束ねていた髪も、肩にすら掛かっていない。

「いい加減ウザったくなってきたから切っただけだ。……何か文句があるのか」

「文句なんて……」

「だったら、黙ってろよ」

 暴君はそう言い放ち、煙草を灰皿に押し潰す。そして、前髪のうるさいコーマックの金髪を眺めて、

「……表通りに床屋があった。気が向いたから入った。どうせ同じ金払うんだったらそれなりに短くした方が得だろう、違うか」

「うん、あの、おれもそう思う」

 ぶくぶくと言葉を、泡のように噴出して、ようやく冷静になったコーマックが言ったのは、

「短いのも、似合うね、ハンス」

 適切かどうかは、その次のハンスの目付きを見れば判る。剣のような光を帯びて貫く目線、掛かっていた前髪がないものだから、ダイレクトにコーマックを射抜き、萎縮させる、正解だった。コーマックは引き攣った笑いを浮かべたまま、

「あの、ほら、おれたち、初めて会ったとき、ハンス、そんな髪型だったよ、ね?」

 懐かしむような余裕もないままで、言う。ハンスはフンと顔を背けて、ごろりと横になった。

 こういう時に雑誌を読めばいい、そのために買って来た。コーマックは心の中で一つ大きく深呼吸をして、書店の茶色い紙袋から雑誌を取り出して、興味の無い方を開く。がさがさと袋の立てる、慣れぬ音に顔を向ける。

「何だ、それは」

「え……? これ? 雑誌……、ファッション雑誌」

「そんなことは見れば判るに決まってんだろ」

 何か言われるたび、びく、びく、肩が震えてしまう自覚がある。ハンスは、どうしようもなく怖い。必要以上に怖い。だが、それでもなんて可愛い人だと思っている。可愛いなどと言えば一体どんなことをされてしまうんだろうと、想像して、恐怖が募り、それでも本当に好きなのだから、これはやはりマゾヒストの在り様である。ハンスが虐めるのが自分だけという事実は、優越をコーマックに齎す。もっとも、そんな優越を抱くのは彼の他居ないはずだが。

「ハンスの邪魔にならないようにって」

 声の底辺は震えている。

「こう、ほら、本、読んでたら、おれも黙ってるしさ、頁捲る音もあんまり立てないようにするからさ」

「それで、その間おれは暇を持て余していればいい訳か」

 ハンスの言葉に「はい?」と聞き返す。ハンスはとびきりつまらなそうにコーマックを眺めていたが、やがてそうすることに飽きたように、元の通り、背を向けた。「ハンス」とコーマックが遠慮がちに呼んでも、返事はしない。ただ、目は開けていた。

 キスもするしセックスもする。ネコにしては可愛くない雑種の野良猫との自覚がありながら、ハンスはコーマックをどうにかしてやろうという欲は無い。コーマックに対してのサディスティックな振る舞いゆえに、エブラとダレンは「あの二人どんな風にしてるんだろうね」、「……縛ったりムチで叩いたり?」「そういうの好き? 今度やってみようか」、好き勝手に想像し、ひょっとしたら想像以上かもしれないと結論付けているのだが、実際にしていることといえば、エブラとダレンがしている行為を平行移動させたようなもので、穏やかで、且つ、ある程度以上に激しいセックス、特筆すべき点など無い。ハンスがこれだけ無愛想に見えてコーマックが「可愛い」と評するのは、その場におけるハンスがそう思わしめる要素をそれなりに持っているからに他ならない。無愛想、素直でない、優しくも無い、顔はそれなりに見られた方だが、それを理由に何がどうなるという程でもない。一方のハンスとて、コーマックの顔は美しいと思うが、それを理由に全てを許し、また彼の望むがままに虐めるようなこともない。要約すれば二人は恋人同士なのであって、其処には他者不可侵のルールがある。

 一般的な規律に則って動いていくのが幸福への近道である。コーマックは勇気が無くて、どうしてもスムーズに出来ない。背を向けて寝そべる恋人に、なけなしを、振り絞って、寄り添うぐらいのことをすれば、ハンスだって悪い気はしない。「うざってぇな」とか「寄るな」とか「そんなにおれに嫌われたいか」とか言うには言う、本音を棚に上げて隠す為に、腕を伸ばして、攣りそうになりながら。

 コーマックは、ハンスに迷惑をかけまいと、怯えながら雑誌に眼を落す。しかし、どんないい服を纏ったところで、ハンス以外の人間に振り向かれたいとはもはや思ってはいない。そして、どんないい服を纏ったところで、ハンスは決して似合うとは言ってくれないだろう。

 分かり合えない恋人同士は互いの欲を押し通し、益々互いの間を広げてしまう。

 悪気がある訳ではないのだ。ただ、緊張の一線を超えられない、意地を崩すことが出来ない。……おれに此処までさせるかと、苦々しい思いを募らせるハンスだが、本人がその決心をする程まで臆病なコーマックを作ったのは、もちろん他ならぬ彼であって、またそういうコーマックだって好きと思っている。要するに相互い性質悪い憐れみ合いで愛し合い。この頼りない風情の男の、震える指でなぞられるときに、どんなに美しい女を抱くときよりも興奮を覚えるような自分を、ハンスは渋々ながら認めるのである。緊張感の漂う一メートルを、ハンスが壊したのは、彼なりに最も清らかで、且つ欲深い部分に従って。仕方がない、触られて勃起してしまう相手に、究極的に怯えられて快いはずもない。

「放っておくのか」

 背中を向けたまま、ハンスが言った。

 コーマックは、雑誌を床に置いたまま、数十秒前より、ハンスのすっきりとした襟足を見詰めていた。綺麗な首。綺麗な首。今はこんなに遠く感じるあの首に、夜毎おれはキスをするんだ。そんな勇敢なおれが居て、それを許す寛大なハンスが居る、嘘みたい、物語みたい、でもノンフィクション、そんなことを考えていた。

「はい?」

「灰皿を寄越せ、煙草とライターもだ。こっちへ持って来い」

 何様のつもりで言うのか、ご主人様のつもりで言うのだ。そしてメイド、お手伝いさん、いや、奴隷か下僕の立場に於いて、コーマックは言うことを聞くのだ。慌てて一式取り揃え、ハンスの側に置く。ハンスがむっくりと起き上がり、じいっとコーマックのことを見詰める。あああ、何怒られるんだろう、余計な言葉を発することは逆効果でしかないと知りながら、何かを言わなくては苦しすぎる。

「なあ、おれたちは」

 自分の声が、思いのほか、腹に力の篭った厚味のあるものになってしまったことに、ハンスはたまらなく焦る。そんなつもりは無い、どんなつもりが有ったのか、説明出来ないくせに、おまえが一人遊びしてるのは気に食わないなどと、……奴隷/恋人なのだろう、おれの、おまえは。煙草を咥えて口を塞いだ。

 そこまでされてなお、ハンスのことを脅威としか捉えられないで、恋人の自認もない。それでも、指の震えるのはどうしても止められない。「ハンスっ」、水から、僅かに唇を出して、ぱくぱく、酸素供給、運動したわけでもないのに、ひゅっと喉が鳴り声に混じる。

でも、こんな聞き苦しい声でおれは「好き」って言う。

「……ああ?」

「すすす、好き、ハンス、好きっ」

 刹那と呼ぶには唇の強張りの解れるまでの数秒は、長い。言葉を掴み直す手が、切り刻む為の誰かさんのそれと同じように震えるなら、三十間近と証明するものは何一つない気がした。

「おまえ、……きめぇよ」

 “YOU SUCK”は言ったもん勝ちのつもりで、勝って手にするものが一体どれぐらいあるだろう? 言われて嬉しいほうが勝っている自覚で、ハンスの細い首に手を回す。襟足が軽く指の背を遊び、……もういけない、「好き」、其処の味が、知りたい、知ってるけど改めて、また何度でも、知りたい、知りたい、思い出したらもう止まらない。ごめんなさいごめんなさいごめんなさいと、震えながら、謝りながら、コーマックはハンスを組み敷く。丁度ハンスの右踵が、雑誌の上に落ちた。幼児のように不器用に彼が踵を擦り付ける音を聴きながら、益々震えて「好き」、コーマックは何度でも言う。


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