夢の中へ白い朝へ

 不器用ながら、それでもバノッサは大人である。だが、彼の精神年齢は事がカノンに関わることとなるとティーンエイジャーのそれにも等しくなる。バノッサは鼈甲色の小瓶に入ったどぎつく黄色い液体と、かれこれ五分は睨めっこをしている。彼の眼力によって瓶にヒビが入ってしまうのではないかというくらい、強い目線を瓶の中の液体へ送っている。

 こんなものの必要性について今まで、一度だって考えたことは無かったが、しかしそう思うチャンスは幾度と無くあったはずだ。それは、幸福と身の危険とが並存する状況でありながら、幸福に甘えていたが故の結果。実は自分はもっと早くこういった手を打つべきだったのではないかと、今になって、今更になって、考え始めている。きっかけがふって沸いたように手の中に転がってきたものだから。

 北スラムの不良集団オプテュスは不良集団であるから不良行為を働く。それはいわゆる強請、恫喝の類がほとんどであるが、稀に、ごく稀に、その「不良集団」というレッテルを超越した行為に手を染めることがある。

 薬物製造。

 免許を持たない者が薬剤を調合し、薬物を精製することが法に触れるのはリィンバウムも同じであって、これは立派な犯罪行為である。しかしその薬物自体は市場で手に入るものから調剤されるものでしかなく、薬効も甚だ怪しい。さらにその薬物をどういった形で扱うかといえば、流通及び利益取得が目的なのではなく、仲間内で、その「調合」及び「実験」という行為に愉楽を見出だすのみ。出来るものはたかが知れている上、街人に迷惑をかけることもないので、兵士たちはこれを放任しているのだが、何を作り出すかわからない危険さは孕んでいる。そのトップに立つのが一大問題人物のバノッサであり、ナンバー・ツーがカノンであるということが、兵士たちの不安を濃くしている。

 その実バノッサもカノンも、そんな「実験ゴッコ」には興味を持たず、小屋に篭って妖しげな道具を持ち寄って空き瓶使って調合している弟分たちは無視して、外をブラブラ歩いている。どういったものが出来ているのか、そもそも何を作ろうと思っているのか、聞いたことも無かった。ただ、火を漏らして小屋焦がしたらブチ殺すからなとだけ、忠告してある。

「どうっすか、兄貴、コレ」

 弟分が、喜色満面でバノッサに瓶を掲げた。

「また怪しげなモン作ってやがんな……」

「いや、何言ってんすか、全然怪しげじゃないすよ! これ、スッゴイんすから、ちゃんとね、効果もはっきりしてるし、副作用も無いし……。兄貴、せっかくだからコレ」

「いらねえ」

「いや、とりあえず持って帰るだけ持って帰ってくださいよ、使う使わないは別にしても、ねえ」

「……しかしだな……、俺様は別にどこも具合なんて悪かねエし……」

 困惑顔のバノッサに、一瞬弟分はきょとんとして、それから「ああ」と再び微笑む。

「これはね、別に何かを治す薬じゃないんすよ、そうじゃなくて、何て言えばいいのかなあ、……ええと、うん、あのね、これはフツーのものを、フツーよりもっと元気にする薬なんですよ」

「……フツーのものを、もっと元気に?」

「そうですそうです。まあ、とりあえず試してみてくださいよ。この薬、原材料はね……」

 と言ってくどくど説明を始めた部下の言葉を聞いているうちに、バノッサはうすぼんやり、この薬がどういった目的に作られたのかということを判り始めていた。医者か薬剤師にでもなったほうがいいんじゃないのかと思うようなこの弟分の難解な単語の中にいくつか聞いたことのある言葉、「ガラナのエキス」とか「マカ抽出液」とか「赤まむし」とか――

「……バカか」

 それを、のうのうと受け取って、自室へ持って帰ってきてしまったバノッサである。バカは多分自分だろうなと思う。そして今、飲むかどうか迷っているのである。

 カノンがまだ、もっと、フツーに大人しいごく当たり前の少年であったなら、こんなものに頼る必要など無いのだ、もっとフツーにアプローチすることも出来るだろうし、もうちょっとフツーに対処することも出来るだろう。

 然るに、カノンとバノッサの関係はそうではない。カノンの方が、(性的能力以外では)圧倒的にバノッサを凌駕しており、またバノッサもカノンに局部や胸部を触られてはどうにもその誘いに乗らないわけにはいかなくなってしまう(カノンに「誘う」意図がなくとも、あれはバノッサにとっては「誘惑」以外の何ものでもない)。肉体的にあまり余裕がないような時に、単純に愛情表現のつもりでカノンが触れてきただけでも、バノッサの理性は立ち行かなくなってしまう。すなわちバノッサという男も大概感じやすいタイプなのだが――

 今日は、南の連中にちょっかいを出したついでに街を歩いていたら運悪く兵に尋問され、うだうだ答えていたら連行されそうになった為逃走し、大回りをしてから北スラム安全地帯へ戻ってきたため、結構な疲労が身体を包んでいる。

 しかし、カノンは帰ってきたら、にっこり微笑んで、「疲れているから眠る」というバノッサを抱き起こして、「お風呂入んなきゃダメですよ」と言うに決まっている、そしてそれに逆らおうが逆らうまいが、「ぼくが洗ってあげますから」と。前回以降、クリーンアップされた部屋だから、バノッサとしてもあまり汚して洗濯物を増やすのも気が引ける。となると、恐らく今後一時間以内にカノンは帰ってきて、そして自分はカノンとセックスをすることになるのだ、という大方の想像が付く。想像が付いてはいるが、肉体は先述のとおり疲労している。

 幸福な回廊に追い詰められているのだと思うと、悪い気はしないが、不愉快だ。

 もう日はとっぷりと暮れている。ついさっきくだらないもので腹を膨らましたから、眠気は刻一刻と迫る。そして、カノンはもうすぐ帰ってくる……。

 バノッサはもう思考を停止して、身体だけを動かした。瓶の口蓋を開けて、口をつけて、一気に呷った。当然の如く、

「っ、……ぶっ、うえ」

 味などトンでもないもので、しかし、飲み込んでしまった。凄まじい後味の悪さに、目がしゃっきりと醒めてしまった。一頻り噎せて、水を飲んで口を濯いで、息を整えて。思わず下半身を見る。いくらなんでもそんな反射的に反応するものでもあるまいと思いつつも、やはり、何となく、見てしまう。「フツーのものをより元気に」、果たしてその元気というのは、どの程度の元気のことをさしているのだろうか。自分でも普段は年齢相応に元気なつもりがあるが、それを更に、著しく上回るものということだろうか? それこそ、カノンが音を上げるくらいに。

 実際、バノッサはカノンを抱いているわけだが、その細身の内部に棲む鬼の為か、カノンは早漏の癖に体力がある、それはあの身体あの顔からしたら詐欺に遭っているようだとバノッサは心密かに嘆くほどに。いくら抱いて揺さぶって鳴かせて出させてを繰り返しても、終わった後はけろりとしてバノッサに引っ付いて、まるで堪えていない。バノッサは睡魔に負けていつも墜落するように眠ってしまう。そうして目覚めたときにはなぜか、カノンの腕の中にいる。

 そんなカノンを、今夜くらいは支配出来るのだろうか。

 そう思い至って、バノッサは俄かに心が躍った。そうか、いつもは出来ないことも、今夜は出来るのかもしれないな、と。

 バノッサの方が体力的に劣ることが原因で、彼の望みはいくつか叶えられていない。

 例えば、カノンを腕枕に乗せて、その寝顔をいつまでもいつまでも見ていること。膝はカノンが許可なく枕にする為、珍しくもないが、腕枕というのはそうない。そんな甘ったるい恋人同士みてえなこと出来るかと、バノッサが格好をつけているからに他ならないが、眠る寸前の、もう何も判らないようなカノンを腕に乗せて。

 薬の効果だろうか、行為に対して積極的な姿勢を、バノッサは持ち始めていた。

 しかし、妙に心の優しいところのあるこの男は、そのカノンに好かれる優しさの部分で、性欲へ傾いた心を引き戻す。

 可哀想じゃねエか。

 単純に、そういうことだ。普段がどうであれ、フツーがどうであれ、薬で自分を偽って、カノンをどうこうするなんて、フェアとは言えない。別にカノンだって普段、悪気があって自分に触れてくるわけではないだろう、あれは単純に、何らかの気持ちを自分に告げたいと思っているに違いない。そう思ったなら、自分のやろうとしていることが間違っているのではないか、間違っているに違いない、とバノッサは急速に考えはじめる。

 バノッサは舌を打った。下が脈を打った。薬がバノッサの中を行き渡り、奥深くまで届き、宿り、バノッサを支配し始めたのだ。

 「どうしよう」……、そう困惑した途端、ドアのノブがガチャとひねられて、カノンが帰ってきた。

「バノッサさん、ただいま。遅くなってごめんなさい」

 バノッサは少なからず顔を引きつらせ、……どう反抗も出来ないままで、見っとも無くも誇らしくも膨らんでしまったズボンの前を、カノンの平面的な瞳にとらえられた。

 バノッサのその場所を見て、抱えて持って帰ってきた紙袋――中には焼きたてのフランスパン――を、ひとまずは机の上において、

「しつれいしました、邪魔でしたか」

 まさにその事のために薬を飲んだくせに、一瞬の躊躇いが、バノッサを弱くする。

 カノンはこれといったリアクションを見せないままに、踵を返し、部屋を出て行こうとする。

「まっ……待て! 待てカノン、コラ!」

 慌ててカノンの腕を引っ張って止める。

「なんですか。……一人でするところだったんじゃないですか? そういう時はちゃんとカギを……」

「ち、違うっ、これは、これはだな、……お前も男だったら判んだろうが!」

「……だから、一人でするんじゃないんですか?」

「だから、そうじゃねエッて言ってんだろうがバカ!」

「あー、ばかって何ですかあ。何も悪いことしてないのに」

 普段「する」となるとあれだけ積極的なカノンが、今日はそうではない。確たる理由のあってのことではなく、カノンも普通の少年であり、その性欲には波がある。たまたま今はそういう気分でないというだけ。あと何時間かしたら、すなわち、バノッサを風呂に入れる段になれば昂揚するのだろうが、今はバノッサにとっては不運なことに、そうではない。

 カノンはふうと溜め息を吐いて、

「……したいんですか?」

 普段、あんな風にインランじみた誘い方をしてくるようなカノンに、しょうがない人だなあと言わんばかりの態度でそう言われるというのは、バノッサとしては非常に非常に非常に、屈辱的なことではあるのだが。

 外から帰ってきたカノンの、髪に、首に、纏わりつくようなカノンだけの香りは、近くに立ってはじめてほのかに感じられるようなもので、それを感じてしまっては。

 あの白い頬を、明らかに判るほど赤く染めて、上手く回らないような口で、

「……したい……ッ、何だ、文句あるのか!!」

「文句どころか、……望むところですけど」

 カノンは平然と言ってのけて、にっこり、嬉しそうに微笑む。

「基本的にぼくはバノッサさんとするのいやだとは思ってませんし。でも、どうしたんですか? 普段はいやそうなのに、今日にかぎって」

 と、バノッサの座っていた足元に転がる瓶が、カノンの目に入る。

「ああ……」

 反射的にその身で遮ろうとしたバノッサが、なんだかとても可愛らしく見えた。

「変な薬、飲んじゃったんですね? ぼくも勧められましたよさっき。断ったけど。……てっきりバノッサさんも断ったんだと思ってたけど」

 やはり圧倒的に自分よりも強いのか。

 自分は弱いのか。

 バノッサはさすがに凹む。しかしこの上に凹んだ素振りなど見せては沽券に関わる。くっと唇を結んで、カノンの腕を引き、抵抗しないカノンの身体をずるずるとベッドへ押し倒す。

「乱暴だなあ……」

 さすがに難癖をつけはしたが、バノッサが決して余裕のある状態ではないということはカノンも重々理解している。

 ふう、と息を吐いて、手を広げ、

「どうぞ、バノッサさん」

 と迎え入れる……。

 

 

 

 

 首輪をつけているのはカノンであって、そのアクセサリには特段の意味はないのだが、それの象徴するところが独占だとか飼育だとかそういう方向へ辿られるのであれば、それは寧ろバノッサにこそ巻かれるべき皮の環。

 ベルト式のものであるから、セックスの時にはわざわざ外さない。今夜のようにバノッサの余裕がないときは尚更。しかし、抱いているバノッサの目には、自分よりも健康的でありながらしかし色白のカノンの首に巻きついた首輪は、たまらない所有の証に見えた。そうさ、そうだ、そうだよ、コイツはやっぱり俺様のものだ、俺様がコイツのものなんじゃない、そう信じる拠り所となる。

 首輪が所有のしるしと映ることは、カノンも承知している。承知していて、首輪を填めて外さないのだ。

 ともすればカノンのほうが上位になる。肉体的にも、精神的にもだ。しかし少年の内部にははっきりと、自分はバノッサのものなのだという思い込みがある。この少年がバノッサの杞憂を知ったら、眩暈を起こすだろう、あるいは、図太いから起こさないだろう。

 事が終り、どうにかバノッサの薬物依存性性欲は発散され、二人はいつも以上の疲れによって、ベッドに崩れた。特に薬の効力が抜けたため、一気に疲労が畳み掛けてきたバノッサは、身体を拭くのも億劫に、天井を空ろな目でほんの短い時間眺めていたかと思ったら、次にカノンが見たときにはもう眠っていた。まだ胸や腹にカノンの放出した精液の残滓があるというのに。カノンはしょうがないなあと、自身も十分に眠気を感じていながら、バノッサの身体を丁寧に拭う。

 綺麗な身体。

 こんな綺麗な身体なのに本人、全然そういう自覚がなくて、だから無頓着。

「……こんなに綺麗なのになあ……」

 拭い終えて、カノンはその心臓のあたりにキスをして、それだけでは満足せず、首、肩、それから腰、一つずつキスを残した。綺麗な身体、綺麗な顔、大好きなバノッサさん、ずっと眠らずに見てたい、そんな風に思いつつ、カノンはバノッサのことを起こさぬよう、その頭をそっと持ち上げて、腕を敷く。

「うう……」

 バノッサがうめいて、カノンの首の下へ頭を潜らせる。カノンはその頭を柔らかく抱きしめる。

 可愛いなあ。

 寝ているとは言え、バノッサに対してそんなこと、とても言えない。

しかし事実だ、とカノンは思う。

あんなに強くて、乱暴で気が短くて、偉そうで、言葉が悪くて。でも結構打たれ弱くて不器用で、我儘は聞いてもらったことがないような人。それがバノッサという男、それが、バノッサさん、ぼくのご主人様。バノッサが立てばそこに影が出来る、例えばその影の中だけは、自分の安心していられる場所。バノッサの形の影の中に自分は在る。バノッサがいなかったら影も出来ない、自分は生きていけない。だから、自分はバノッサのもの。

 しかしこうして、抱きしめて眠るのは、小さな子供が私有物のぬいぐるみを抱いて眠るようなものではあろうが。それでも、こうして抱くことで初めてカノンは、甘く深い眠りへと落ちていけるのだ。依存しているのはカノンのほう。そして、カノンはバノッサのもの。

 ねっとりとした泥のごとく纏わりつく疲労と睡魔に、カノンは目を閉じる、そして、鼻と口をバノッサの髪に当てる。バノッサの匂いがする。鼻から吸うと頭の中へと直接バノッサの要素が流れ込んで来るような心地がする。そして、頭の中がバノッサに染まるような。今更もう染める余地もないだろうとも思いつつ。

「……バノッサさん、大好きですよ、ほんとですからね」

 カノンの手のひらは無意識のうちにバノッサの髪を撫でる。撫でられている意識などなくても、バノッサは安らかな夢を見ているのだった。その幸せな夢は幾度か途切れつつ、カノンに流し込んだ分の多いだけ分厚い疲労にだるさを感じる白い朝まで、滑らかに続いてゆく。


back