遠くの街角

 ひとりぼっちのままだったらどうするつもりだったんだ。

 もしもここではないどこか違う街で互いに別々に暮らしていたならどうだったか。

 今日、昼間、なんでもないことでカノンとすれ違う羽目になったバノッサは、連れて帰ってきたカノンのことを抱きながらそんなことを考えた。それは何気に確かに不安を催させるには十分な話題で、考えずに済むのなら考えないでいたいようなものではあった。しかしそういう話題に限って、一度考え始めると止まらなくなってしまうものだ。誰もが不安や恐怖とは距離を置いていたくて、しかしそういうわけにはいかないということを知っているから、考えては捕らわれてしまうのだ。

 本当になんでもないことがきっかけ。互いに互いの言っていた約束の場所を自分のいいように解釈してすれ違ってしまった。もちろんカノンは腹を立てなかった、詫びる言葉さえ口にして、自分の信じた場所から一歩も動かなかったバノッサの元へ走った。バノッサはこの俺様を待たせやがってとカノンをきつく怒鳴りつけた。

 カノンが自分のいるこの場所へ時間通りに来ることを信じていたからだ、それが当たり前のことだと。

 だが、よく考えるまでもなく、当たり前のことなどこの世には一つとして存在しないのだ。何もかもが移ろうアヤフヤなものに過ぎない。習慣はある日突然途切れる。唯一当たり前のことがこの世に存在しているとすれば、それは当たり前のことはこの世にはないということくらいだろう。

 いつ、なにが壊れて果てるか判ったものではないこの世界なのだということを、ふとしたきっかけで知り、また、だからこそ掛け替えのない世界なのだということを知る。バノッサにとって「世界」とは、すなわちカノンを意味し、カノンにとってはバノッサを意味した。

 雨戸を叩く雨はいつか止むけれど降っている間だけいつまでも続くように単調な音を立てている。

 どんな風にでも失ってしまえるから掛け替えがない。

 自分たちが今ここでこうしてとりあえずは幸せでいられることは、当たり前ではない。

 ――今まで一度でも誰かのことを本当に殺してやりたいと憎んだことはあるかい?

 ――ただ包まれた暗闇の中でひとりぼっちで寂しくて泣き出してしまった経験は?

 ――笑えないで笑えないで笑えないで笑えないで笑えないで暮らしたことは?

 血と汗と涙は何もかも流れるのが当たり前。それがいつ止まるか判らなくても、一年も流れつづけたらもうそれは「当たり前」。

 フェンスや有刺鉄線が、エイズや癌やその他もろもろの疫病が、なぜこの世界に存在しているか、その理由を考えたことはあるかい?

 太陽だっていつかは滅ぶのだ、不変なものなど何もないのだ、それをどうだ人は、自分の望む何もかもは全て永久に在り続けると思い込んでいる。

 自分の極端さ、性急さを判っている。しかしバノッサは射精してもなおその思考を続け、気付いたときには眠ってしまっていた。いつものようにカノンの腕の中。甘い匂い。気付けば眠っている。しかし無意識のうちに行なわれる連続は決して当たり前ではないのだ。

 

 

 

 

 茫洋とした頭の朝に不機嫌なのは、バノッサは怒りっぽい割に血圧が低いから。肉体的にはカノンの腕の中で、十分すぎるほど充足を摂っているにもかかわらず、精神は低いところに埋もれ刺のある上目遣いでカノンを睨む。カノンの血圧は平常だから、すんなりと目を開き、腕の中の愛しい者へ、

「おはようございます、バノッサさん」

 と、甘ったるく微笑んでそのプラチナの髪へ接吻する。バノッサはうるせエよと呟いてその胸を押す。上手く力が入らないし、カノンを力でどうにか出来るはずも無く、カノンが自ら腕を解いてバノッサを解放する。まだ十分にだるそうな顔でバノッサは立ち上がり、用を足して戻ってくる。それからまたベッドに横たわる。そのバノッサの髪を撫でてから、カノンも用を足して戻ってくる。バノッサが起きるまでは、カノンも行動を起こすのを遠慮する。それは放置すればバノッサはまた眠ってしまうからという実務的な理由もあり、いなくなったらなったでバノッサはまた怒るだろうという感情的な理由もある。何よりカノンは自分の肉体に問題が無ければ、どんなときだってどんな風でだってバノッサの半径一メートルにいたいと思うからだ。

「バノッサさん、寝ちゃダメですよ?」

 向こうを向いた裸の背中にそう語りかける。まるで陶磁の裸像が横たわっているような、冷たさがそこにはある。自分が触れたら指紋がそのまま、べったり、付着してしまうのではないかと危惧する。こんな美しい人が自分に触れてはその手が汚れてしまう、と。

 答えないでいたバノッサは不意にカノンへ寝返って、その肩に手をかけ、ベッドに仰向けにした。ひんやり冷たいような、ぼうっと熱いような手のひらから、じんわり、カノンの中へ浸透してくる。バノッサはゆっくりと身を起こし、カノンを覆った。「する」体勢だ、とカノンは気付いて目を閉じる。バノッサの唇が優しく降りてきた。

 どうしてだろ?

 カノンは訝る。さっき立ったときは、立ってなかったのに。急に。……したくなっちゃったのかな。

 だったらぼくは嬉しい。

 自分がどういうものかを誰も知らないのと同じように、カノンも知らない。自分の身体の何を何処をバノッサが求めてくれるのかが判らない。理由が無いままにこんなに沢山の悦びをもらえるのは幸福すぎて申し訳ない気もする。

「……咥えろ」

 活性化した感情、しかし低血圧の不機嫌を引き摺っているような口調――即ちいつもどおりの口調――で自分のペニスを指差し言う。カノンは身を起こして、当たり前に口へと入れる。一際嬉しく感じられるのは、バノッサが自分を抱きたいと思ってくれたことであり、自分を弄りこうして勃起してくれたこと。だからカノンは自覚出来うる最大限の愛を篭めてバノッサを口に含み、施す。自分のものより大切なものと思って、舐める舌の先まで神経を通わせて。

 白い陰毛が頬を擽った。

 カノンにとって裸とは白いものである。他の誰の裸も見ないで育ったから、バノッサの白銀の裸こそが全てであって、しかし他の裸は裸と認めるのも汚らわしい醜いものに違いないという屈折した思い込みも並存していた。況や自分の。バノッサの裸に比べたら色も悪く不完全な形で。なのにバノッサはその自分を欲しいと言う。嬉しくて嬉しくて嬉しくて嬉しくて嬉しくて嬉しくて泣いてしまいたくもなる。感謝と愛情を篭められるだけ篭めて、慈しむのだ。

 唾液が絡んで、滑らかに光る亀頭に、思わず見惚れる。赤く艶やかに腫れて、夢想の産物のように美しい。まだ包皮の捲れ切らない自分には無理だし、仮に自分が露茎であったとしてもこう美しくは無いはずだ見惚れる価値は十分にある、ぼんやりと、カノンはそう耽った。

 バノッサに、ぐっと髪を捕まれて我に返る。

「あいたたたた」

「見てねエで口動かせ」

「痛いですよう……、判りましたから。……だって綺麗なんだもん」

 罪無き口調でバノッサは口を尖らせて言う。

「いるかよ、そんな事言うやつが」

「いますよ、ここに。……綺麗ですよ?」

 にこやかにそう言われて、いろいろな角度からしげしげと見詰められ、ゆるゆると手を動かされると、何だか妙な気分になってくるバノッサだった。

「……インランが……」

 うめくように、バノッサは言った。

 カノンは微笑を絶やさずに、

「バノッサさんも、僕の気持ちになれば判りますよ。僕はもう積極的にインランになりたいです。ほら」

 カノンは膝で立ち、自分の淫らな裸を、バノッサに晒してみせる。ただの少年の裸が、バノッサには狂おしいほど淫らなものに映る。

「バノッサさんのしゃぶってるだけなのに、ぼく、どうしようもなくなっちゃう、こんなになっちゃうんですよ? でも、嬉しいです。バノッサさんにしてるだけでこんな風になれてぼく、幸せです」

 エロガキが、常套文句を言おうとして、亀頭を軟らかな唇で塞がれて息を飲む。

 瑞々しい唇があらぬところへキスをする。カノンの表情は見えないけれど、想像は出来る。その想像が外れていないことが確信できるから、幸福になる。

「……テメエの幸せは、別にそれでいいけどよ……、自己満足ばっかりしてんじゃねえ、俺様のことをちゃんと、感じさせろ」

 やっとのことでそう言ってバノッサは多少の優越を得る。カノンは素直にバノッサのペニスを、口一杯に頬張って、吸い込むようにしながら往復する。その淫ら過ぎる口の奉仕に、バノッサは度を越した幸せが痛みや悲しみを伴うものなのだということを判りかける。幸せすぎて嬉しすぎて今が十全だから一つでも失うのが怖すぎる。

「……クッ……」

 カノンの舌が裏筋を器用に辿った。バノッサは誇りを脱いで、その口へと射精した。平然とそれを飲み込むカノンは嬉しさで一杯だ。バノッサが自分で感じてくれた、たったそれだけで、カノン自身も熱くなるのだから。

 バノッサは草臥れたように、ベッドに横になる。カノンはそのバノッサをじーっと見下ろして、その裸の背中に肌を重ねた。

「……おしまい、ですか?」

 バノッサは、多少なりとも申し訳ないなという気持ちになりつつも、ぐったりとベッドに横たわったまま、動きはしなかった。

「……ぼくだって気持ちよくなりたいんですけど」

 何だか、急に胸の中で自分の幸福を扱いあぐね始めた。幸せすぎて、困惑している自分がいる。失うのが怖くて動けなくなったのだ。動いた途端、何か零してしまうような気になって。

 けれど、例えば今のまま動かなかったらそれはそれで、気の優しく、バノッサ全肯定の態度をとるカノンであっても悲しい気持ちになってしまうだろう。背中にカノンの幼根のが押し付けられる。自分なんかを咥えてこうも感じてしまえる子供。嬉しくて嬉しすぎて、幸せで、困る。

「……好きにしろよ」

「好きに、って……」

「好きにしろって言ってんだよ、バカカノン」

「……また何もしてないのにバカって……」

 バノッサは仰向けになるだけの労力を使って。

「好きにしろ」

 と言った。

 カノンは少しだけぽかんと口を開けていたが、やがて、嬉しそうに微笑んで頷いて、再びバノッサのものを口に含み、そこへ血を集める。熱く硬くさせながら、自分の股下に指を潜らせ、開く。

 淫乱そのもののような自分を疎まずにいてくれてありがとうございますバノッサさん。

 自分なんかにそんなイイもの見せちまっていいのかよ?

 共に思い込みが激しくだからこそ幸福に近づける。

「……あっ……、あっ……」

 カノンを綺麗だと思う。細い腰、すべすべの肌、淡い色の乳首も性器も、蕩けそうな声、潤んだ瞳、柔らかな髪が、滑らかな輪郭が、全部パーフェクトだと思う、一つとして零してしまいたくない。

 バノッサを美しいと思うカノンの気持ち同様に。

 跨って腰を振る、カノンの姿に、バノッサは嬉しくて、鷹揚に手を伸ばす。カノンがその手を握る、指を絡ませる。相手の指が指の叉に絡む感触に同じように感じながら、

「バノッサさ……っ、んっ、……あぁ、う、んっ、っ」

 同じように感じている。

 とてもよく似た生き物。目の前に、一人じゃないことを教えてくれる生き物。自分の代わり、自分の影、自分の光になりうる生き物。喜びの象徴、幸せの象徴。これを愛さずにいられるか。

 大好きだ。バノッサもつまらぬプライドが無ければ声を大にして優しく微笑んで言うだろう。この平凡な朝を迎えられることを同じ程に喜びと感じるのだから、同じように言えぬはずがない。

「バノッサさん……、大好きです」

 繋がったまま、手を繋いだまま、濡れた目で、濡れた身体で、カノンは言う。バノッサはそのカノンを見上げながら、何だか泣きそうになる。

 どこでどうなっても一緒にいたい。

 切実過ぎる願いが、まだ何も起こる気配のない時に、バノッサを襲う。


back