歯車無くても


 命が走って躓いて転んだ。

「バノッサさん、すぐケンカふっかけたらダメですよって、言ったじゃないですか」

 カノンは細い足、滑らかなステップを踏んでいるかのように歩く。時折バノッサの身体に纏わりつき、粘り糸を引くような指を這わせたかと思えば、またぬるりとその指を離して、宙に躍らせる。

「俺様のすることに口出しすんじゃねえ」

 バノッサの口調は書いて字の如く邪険なもの、しかしその声色はカノンの指で撫ぜられる度に切れ味を失い球体に近くなる。カノンはバノッサ曰く「ヘラヘラ」の微笑みを絶やさずに、バノッサを追い抜いたり、先に行かせたり。

「あのくだもの、食べたかったんですか?」

「……お前には関係ねえ」

「食べたいんなら、言ってくれればぼくが買ってあげたのに」

「っ、うるせえよ」

「ぼく、バノッサさんが今日お金持ってないの、知ってるんですから」

「うるせえって言ってんのがわかんねえのか!」

「ほら、怒らないで、笑って笑って」

 頭が弱いかに見えるこの少年に、「笑って」などと言われて、バノッサとしてはますますもって、素直に笑うことなんか出来ないようになる。心が和んでしまっていても、ここで笑えばカノンは更に調子に乗る。絶対に笑ったりなどするものかと、拳の中を爪で傷つけてまで、バノッサは努力する。

「ぼく、笑ってるバノッサさんのこと大好きですよ」

 自分が世界で一番愛らしい笑顔を持っているくせに、邪悪な微笑みしか浮かべられないバノッサに、平気な顔してそう言って退ける。

「だから、怒ってばっかりいないで、笑って下さいよ」

 「ヘラヘラ」笑ってそう言うカノンの顔を見ようともしないで、舌打ちをする。強く握られた拳を、カノンのひんやりした両手が包み込んだ。

「怒ってばっかりだと、幸せなんて来ませんよ。笑う角には福来るって言うでしょう?」

 カノンは左の手のひらを拳に添え、右手でバノッサの腕に、しっかりと纏わりついた。

 細い体に秘められた豪力に、多少怯んで、バノッサはカノンの赤い瞳を見下ろした。

「どうしたら笑ってくれますか? あ、そうだ、ねえ、あれしたらバノッサさん、笑ってくれるでしょ?」

「……あア?」

 カノンはにっこり笑って、背伸びをして、バノッサの白い頬に口付ける。

「気持ちよくなれれば、笑顔になれるでしょう?」

「……色ガキが。誘ってんのかよ」

「いいえ? バノッサさん、誘われたいですか?」

 ここで「ああ」なんて言えばどんなことをこのスラムのど真ん中で始めるか判ったものではない。何せ相手はカノンである。その危険性を常に念頭に置いているから、バノッサはその腕を解き、引っ張って、自室の鍵を閉めた。

「あのなあカノン、俺様は別に、笑う事に必要なんて感じねえんだよ。イイだろそんなのは別に、人好き好きなんだよ。だいたい、俺様の分までお前がいっつもヘラヘラ笑ってんだからよ」

 「ヘラヘラ」に多少の傷を負うものの、カノンはその笑みを消さない。

 無垢すぎて怖い笑みだ。

「ダメです。だって、笑ってればきっといろんなことが上手くいく。『笑って誤魔化す』って言うでしょ? 笑って誤魔化せるようなことがこの世界にはいっぱいあるってことですよ! 笑うだけで上手くいくことが、少なくとも『ある』ってことなんですよー」

 何が嬉しいのか、バノッサには飲み込めない。けれど、カノンは一人で納得したように、微笑んで、バノッサがベッドに、火のついた煙草を咥えたまま座った、その膝の上に、何の躊躇いも無く座る。

「ば、馬鹿! 危ねえだろ!!」

 慌てて口から吹き捨てて、床に落ちた赤を靴の踵で捻り消す。カノンは何が危なかったのかも判らないような目で、きょとんとバノッサを見詰めているだけ。

「馬鹿野郎が」

 首を傾げて、カノンは膝の上からバノッサを見て、そのまま、唇へ唇が降りる。脈絡無き行動にバノッサの抗う腕をそっと抑えて、カノンはベッドへバノッサを寝かせ、

「ぼくは、バノッサさんに笑ってもらいたいです。バノッサさんの笑顔が好き」

 そう言われて。

 バノッサは本人無自覚に口を尖らせて、それはとても子供っぽい表情になって、

「笑ってない俺様のことはお前には無価値なんだな!」

 と吐いて捨てる。

 カノンはにこにこ、へらへら、笑ったままで、

「そんなことないですよ? ぼくにとってはバノッサさん、全部、ぜんぶ、大好きですよ?」

 言って、首に、纏わりついて。耳の下に唇が当たる。

「……そんなこと、なあ、そんなこと、お前なんかに言われても嬉しかねえんだよ」

 途方無くしてだらりと下げられた、本来こういう時その細い背中に回すための腕の先、手が掛け布団を掴む。

「だいたいよお、……仮に笑ったとしてもだ、俺様の笑う顔を好きだなんて……、お前、やっぱり馬鹿だ」

 馬鹿でいいです、カノンの笑い声が、鼓膜を揺さぶり、そのまま細い糸の先についた針で、バノッサの心臓を引っ掻く。

「バノッサさんの笑顔を好きって思うのに、馬鹿である必要があるなら、ぼくは馬鹿がいいです」

 恐ろしいまでに損得勘定に秀でていて、あざとい。

 バノッサは眩暈に見舞われたように、ベッドから天井を見上げた。

 のろのろとその手で、カノンの背中に触れ、捲り上げる、さりげなく凹凸する背骨を指でなぞり、痩せてる、と思う。こんな体のどこにあんな力が溜まっているのか訝しく思うが、あれは嘘ではない、そして、この子供は、強いからこそ自分が護らなければならない命。

「……どんな理由であっても」

 カノンはバノッサの耳へ唇を掠らせつつ、

「誰が相手であっても、……形だけのものであっても」

 言う。

「ぼくはバノッサさんが笑ってるところ見るの好きです」

 はぁ……、と生ぬるい液体質の息を、バノッサの耳元へ吐きかけて、カノンは一つ身を振るわせた。

「……その笑顔を出すのに、ヒトがヒトの中を掻き毟るような気になってるっていうのにか」

「同じ事ですよ」

 カノンは捲り上げられたシャツから首と腕を抜き、バノッサの服も静かに解く。

「……ぼくは」

 かすかな金属の音、衣擦れの音を言葉の合間にだけ立てながら、カノンの細い腕がバノッサを剥いて行く。バノッサはカノンの赤い、眠たげに陶然とした目をぼんやりと見上げて、まだほんの小さなひ弱い子供としてのカノンと、鬼の子供として強靭なるカノン、両方を知り、両方を同様に抱擁する自分の身の程を知る。

「あなたの笑顔が、好きなんです」

 バノッサは少年の腰に手をかけて、そこから密やかにカーブを描いて登り、見た目にはただ小さな粒状突起としてのみ在って、何の機能も無いような乳首を人差し指の爪で弄る。

「……バノッサさん……」

 艶を帯び始めた目が、この上なく嬉しそうに笑った。

「笑ってますよ……」

 カノンの言葉に、そのままの表情で、

「知ってるよ」

 起き上がって、カノンの細い肩に軽く歯を立て、そこから耳へ舌を歩かせ、独特の形をした耳の中で転がるように回る。カノンの唇から漏れる声が湿り気を帯び始めた。

 嬉しいのだろうか、自分はこんなことで、見っとも無く笑えてしまうんだろうか。だとしたらそれは喜ぶべきことだろうか。

 カノンを守らなくてはならない。カノンを生かさなければならない。自分のしなければいけないことは、そしてしていることは、結局すべてがそこに行き着く。口には出さないが、バノッサの存在意義は、存在価値は、カノンにが持っている。カノンがいるから生きているのだという、極端に恥ずかしいようなことも時々、本気で考える。

 悪魔の顔の一枚裏に生暖かく粘っこい血は流れているのだ。鬼の膚の一枚奥に、人として人を愛する為の精液が生まれ出ずるのと同じに。

「変態の色基地外の馬鹿ガキが」

 嘲笑う。それでも、バノッサは、笑う。その事にカノンはたまらぬ喜悦の表情を見せる。

「……愛してますよ、……バノッサさん……」

「勝手にしやがれ」

「はい、勝手にします。こんなぼくでも愛してくれるあなたを、ぼくはこころから愛してます」

 体勢は逆になる。誘われたので乗ってやっているのだというバノッサの中に存在する言い訳、その割には、積極的にカノンを敷いているのだが、邪悪な微笑を浮かべたままでまだ、自分は奉仕してやっているのだということを上辺だけでも考え、自分を納得させようとする。

「あ……、あ、ん」

 太股を撫でていた指で、窪んだ後部をなぞり、カノンの幼砲の銃口に膨らむ滴を指で拭い取り、それを舐めるついでに濡らし、強く押し入れる。

「んっ……!」

 痛い、か?

 そう思って、怯んで、顔を見下ろす。赤い目が必死になって喜んでいる。

 痛いんだ、そう思って、しかしそれを隠す努力を無碍することなど、どうしても出来ないバノッサだ。

「もっと……、奥、……バノッサさん……」

 こんな風に思いながら悪魔のように笑う自分を滑稽だと、確かに思っている。

「……バノッサさんの大きいから、ちゃんと慣らしてくれないと、入らないですよ……?」

 何てこと言いやがる。

 バノッサはそう思いながらも、ますます悪魔の愉悦、溢るる喜色。

「で、お前はこれが欲しいんだろうが、ええ?」

「はい……、っん! ……はぅ、ぅ、……」

「言ってみろよ、俺様の何が欲しい?」

 バノッサの目を真っ向から、揺れながら見上げて、

「バノッサさんのおちんちんが欲しいです。太い、硬い、熱い、気持ちいいのが」

 嬉しげに、幸せそうに、そう言う。――何てこと言いやがる――

「そうかよ……」

 バノッサも、もちろん、嬉しい。

「……馬鹿だな、お前は……、ほんとに、いっつもいっつもヘラヘラ笑ってばっかりでよお……」

 最早この場においてカノンに「馬鹿」は褒め言葉だ。

「ん……、あっ……あ! はっ、……ん、っく……、あ、あ……」

 やべえな。

 ほんとに……、やべえな。

 カノンの体に溺れていく自分がいる。カノンの身体にまで溺れていく自分がいる。要するに、心にはもう溺死してすでに浮上して空っぽの目で空を見上げている状態で。ぶくぶく、ぶくぶく、口から見えない泡を吐く、その代わりに、悪魔のような笑いが消えない。

「……バノ……ッサ、さん、……?」

 溺れそうな心。

 余裕綽々の体で、バノッサは唇を歪め、

「心配してんじゃねえよ、ちゃんとくれてやるさ……」

 弾頭をカノンの入口へ押し付ける。

 カノンの眉間にひとつ皺が寄る。知らぬ間に伸ばして、髪を抑え額を開いていたから、それが良く見えた。後れ毛が、密やかな産毛が、一本一本で自分を擦っている。

「……バノッサさんの……、あったかいですね」

「ああ? 俺様以外のを知ってるみてえな言い方だな」

「そんなこと無いですよ? ……ただね、バノッサさんの、ぼくのお尻の入口であったかくっ……っ、きっ……」

 ああ、痛いのか。

 そう思って、それを耐えるカノンを見て、そして盛る自分を感じて。

「愛してる」

 ぽろっと、口から零れた。

「……え……?」

「あ……」

 興奮に、自分を支配する理性から逸脱した何か一欠けらが言葉となって零れた。

 何を自分が言ったのか自覚して、バノッサは掻き消すように腰を一気に置くまで進めた。

「んっ……」

 強く締め上げる。根元から先端まで、隙間無く、カノンはバノッサに、バノッサはカノンに、埋め尽くされる。カノンが空に伸ばした手を、バノッサが掴み取り、指を絡めて、腰を、強く振るう。一瞬前の情けない正直の発露を、無かったことにしたいのは二人共通の懸案だ。腰を振り、振られながら、どうにかして空白にしてしまおうと必死に思案する。しかし、カノンがバノッサの言葉に、ありえないほどに感じて、隠せない、曝け出してしまう。

「好き……っ、バノッサ、さん、好き、ぼく、っ……あん! っ、好き……ッ……、ひっ……あ! っ……」

 うるせえよ。

 思いながら、笑いながら。バノッサは腰を振るっていた。邪悪な魔物の微笑で。天使のような鬼の子を蹂躙する悦びだけで笑っているのだと思いながら。実際、その身体はたまらなく美味なものではあったろう。腰を動かすたび、肉が絡みついてくる。人間の後道というのはこんなにも奇妙に器用に蠢くものなのだろうかと空恐ろしくなるほどに。凄まじい速さで渦を巻いているようにも思うし、微細な蛇が絡まるようにも、細かな襞が吸い付くようにも、幾千の舌で舐め回されるようにも。感傷がその快感を何十倍にもしていることをうすうす感じながら。

 自分の言葉のミスに気付いた故の無理矢理な修正か、或いは、本能か。カノンが高い声で、揺れながら。

「か、け、て……っ、バノッサさん……っ、ぼくの、……っ、かけて、バノッサさんの、おつゆ……」

 腰を浮かせ躍らせ漂わせ請われた、そのままにバノッサはカノンの腹へ胸へ顔へ髪へ、荒く粗く掠れた息と震えと悪魔の笑顔とともに、精液をぶちまけた。びちゃびちゃ跳ね零れる音、カノンの唇に頬にぶつかって、精液が散る。

 自分はいつの間に手をかけていたんだろう?

 まもなく、バノッサの手の中から、カノンの精液が零れ出した。

「んっ、……あ……、はぁ……ん」

 青い匂いが鼻の周りを纏わりつく。手のひらにべっとり付着したカノンの蜜を見下ろして、漸くバノッサは顔から笑みを消した。

「……カノン」

 しかし、その蜜を舐めずにはいられない。

 カノンは目尻から一滴だけ涙を零して、にっこりと笑った。

「気持ち、良かったですよ。……ちゃんと、かけてくれて、嬉しいです」

 頬に付着して徐々に流れようとする精液を指で掬い取り、舐める。胸の、腹の、臍に溜まったの、全部、ぴちゃ、ぴちゃ、舌先で転がしながら舐めて飲み込む。美味いもんかよ、バノッサは思い、苦いと思っていても不味いと思っていてもカノンのだからと舐めてしまった自分の神経の異常さを思う。

「バノッサさん、笑ってくれたから……、ぼく、嬉しいです」

 自分の精液をひとつひとつ、幸せそうに舐めていく様を見るのは、喜ばしいとは思うが、半面、なんだか奇妙な屈辱をも感じる。バノッサはだから、塵紙を何枚も重ねて取って、乱暴にカノンの身体を拭った。まだ自分の匂いがするようで、気に食わない、が、バノッサの顔には再び笑みが表れた。

「エロガキが……。ケツに入れられて善がるなんてな」

 バノッサは言いながら、カノンの隣りに座る。

「エロガキ?」

「ああ……、いや、エロガキどころの騒ぎじゃねえな、ホモの変態だぜ」

「ホモの変態……」

 カノンはあははと笑って起き上がり、バノッサに寄りかかる。

「バノッサさんにしてもらえるんなら、ぼく、なんでもいいです」

「あんま寄るんじゃねえ、お前、臭いんだよ」

「いい匂いですよ、バノッサさんにもらったんだもの」

 顔を頑張って邪悪に顰めて、バノッサは脱がされた服のポケットから煙草を取り出し、火を点けた。

 無理をたくさんしたからか、煙草を深く吸い込むと心が深いところまで沈んでいくような、落ち着いた気分を覚える。

「バノッサさん、大好きですよ?」

 それも、突如として膝の上に乗ってきたカノンによって、一瞬にして乱れてしまう。顔を引きつらせ、怒鳴ってやろうとしたところ、頬に頬を重ねて、

「もう一回しましょう? 今度はぼくのお尻の中に、バノッサさんの精液出してください」

 俺様がそれを望むのは、それが気持ち良いからだ、体が望んでいるんだ。

 バノッサはそう、誰にとも無く断って、再びカノンの身体を敷いて、カノンに突き立てる。そんなバノッサはカノンで敷き詰められて、カノンとつきあっている。当たり前に、ごくごく当たり前にドラマティックな恋人同士のように。

 

 

 


back