ギミー

「あ」

「あ?」

「猫、あそこ、ほら」

「ああ、猫」

「可愛いなあ、トラ猫だ。……何か餌ないか餌」

「ないよ」

「ちくわしか持ってねえ!」

「十分だろ」

 

 

 

 

 五月の第四土曜日である。

 優しい人? 優しい人。誰が評そうと、筋の通らない気がしてならないバノッサは、しかし自分の分のお茶を勝手に自分で淹れて飲むトウヤを追い出しはしないし、テーブルに置いた彼のソフトパックの中身が乏しいと見るや、買い置きを一つ余計に置いた。テレビは見もしない昼下がり、二時間ドラマの再放送で、トウヤも其れを見ては居らず、開いたノートパソコンにバノッサには全く興味のない難儀な文字列を書き連ねている。先進国における社会保障と我が国の問題点、左手に開いた二冊の資料にしたって、バノッサに理解出来る固有名詞がほとんど載っていない。そんなもんテメェの家でやれよ、言ってしかるべき科白も言わないまま、もう一時間が経過していて、ドラマの中の連続殺人もそろそろ落ち着いた。

 カノンは仕事で居ない、バノッサは午前中は食料品の買い物に出かけ、昼飯は簡単に蕎麦で済ませた。洗濯物も溜まっていないし、前日が休日だったカノンが丁寧に部屋中を掃除して清めたからやるべきことは何も無い、「一人でお休みの日はのんびりしてください」、一緒にお休みの日にはちっとものんびりさせてあげられませんから、カノンは毒の無い微笑でそう言う。しかしやることがない一人の休日は寂しくて持て余す。だから何の前触れもなくトウヤがやって来たことは歓迎すべきことなのかもしれない。

 ソルはハヤトの処に遊びに出かけたのだと言う。キールに借りたい本があるからと。キールはまた風邪を引いたらしい、季節の変わり目ごとに律儀なものだとバノッサは思う。そんな訳で退屈なのでと、トウヤはにっこり微笑んで上がり込むと、後はノートパソコンを開いて作業を続けている。

 本当ならばあのテレビも切ってやるべきだ。しかし、部屋を浸す沈黙は居心地が悪い、そもそも俺様の部屋だ何でテメェなんぞに気を遣わなきゃなんねェんだと、無理に付けっぱなしにしている、「適度な音が在った方が集中しやすいね」、トウヤがちらりと目線を向けて微笑んだ。

 トウヤの湯呑茶碗は少し前から空だ。おかわりを入れてやろうかどうしようか、少し前からバノッサは迷いながら、今一つ考えていることがある。「湯呑茶碗」という言葉に、トウヤが以前少しく考え込んでいたのを思い出している。

「湯呑茶碗、という言葉を見て居るとね、落ち着かないというか、……それこそ湯呑茶碗が安定感の無い台の上でぐらついているように思える」

 そんなことを言っていた。

「茶碗の『碗』という字、ね。其れ自体がそもそも食器を意味する字で、茶碗というのは要するに『茶を盛る碗』という意味だ。『茶碗』という言葉でそれだけ凝縮されている。更に『湯を呑む』という、専用の行為を冠して成り立っているのが『湯呑茶碗』、でも、お湯は呑まないよね、というか、『茶碗』でお茶を飲むということは余りしない、もちろん『ご飯茶碗』なんて言ったりもするけれど、してみると此れは僕ら『湯呑茶碗』なんて呼んでいるけれど、じゃあ『茶碗』と『湯呑茶碗』と『ご飯茶碗』にどんな差が在るって言うんだろう。例えば僕らは『お碗』と言えば味噌汁やお吸い物を注ぐ漆器の碗のことを指すと相互諒解している。此処に至るまでに、恐らくは言葉の使い方に関して大層曖昧に遣り過ごそうとしている姿勢を垣間見ることが出来るんじゃないのかな。極論だけれど、納豆は豆腐で豆腐は納豆、……だってそうだろ? 豆を腐らせて納豆になる、豆を器に納めて豆腐になる、内包する矛盾に合理的な説明だって出来るのだろうけれど、其れが何処まで理性的な歴史に基づいて今に至るかどうか、僕はまだ知らない」

 バノッサに直接言ったのではない、酒が入ったとき、彼がハヤトのことを後ろから羽交い絞めにして、嫌がるのを無理矢理耳元で延々考察を述べ並べるという迷惑なことを、「周知の事ながら『わん』という字には二種類在る、かたやは木偏、こなたは石偏、これは即ち其の素材によって使い分けられているのだけれど、『お碗』と、さっき口にした僕は慣れに従って石偏で口にして居たことには勇人も気付いただろう」、しているのを傍らで聞いていただけだ。人生にはもっとたくさん考えなければならないことがあるようにバノッサは思う。しかし其れが何であるかバノッサは知らない。とりあえず勇人は顔を覆ってぐすぐす泣いていた。カノンは暗い眼を据わらせたキールに口説かれていて、ソルはバノッサの膝を枕にもう寝ていた。二ヶ月程前の夜のことで、覚えている。お陰様でバノッサは湯呑茶碗を見るたびにトウヤが並べたごたくが右から左へ流れていく。

 こうやって酒も入らず黙っている間は、聡明な少年にしか見えない。アルコールの力によって人格は如何様にも豹変するが、それはトウヤに限ったことではないし、評価の範疇に置くべきではないだろう。此方の世界へ来て少し経って以降、バノッサの中でトウヤの評価というのはあまり変わっていない。頭は本当に良いと思うが、年齢によってしか得られないものが幾つか欠如していて、何処となく不安定である。其処に気付かない人間というのは、恐らく一番間近でその顔に見惚れている者と、彼の作り出す世界の規律に順応してしまう者であろう。バノッサのようにその世界の外に在って、また特別彼のことを見上げることもしない男からすれば、あちこちに抜けている処だってあるのがトウヤだった。

 それでも以前に比べれば余裕も出てきたか。親子関係と受験を苦に――正確には、其れを目の当たりにして自責する恋人のために――リィンバウムへ逃げると言い出した頃のように、きつい縛りの中に在る訳では少なくとも無い。

 いい傾向であると、バノッサも考える。

 何故だか良く判らないが、同じ銘柄の煙草を吸うトウヤを見ていて、そう思う。本当はテメェ未成年だろうが、ってかテメェら酒飲んでんじゃねェよと叱ってやりたいような気もするが、其れよりも同じ味を共有してそれなりに楽しく騒がしい時間を共に過ごすことのほうが、今のバノッサには重要に思える。「バノッサさんはとても優しいお兄さんです」とカノンがいつだか言った、その言葉通りの自分であることは、ずいぶん厄介なようで、しかしそれなりの安定感を持って居る。

 ずっとキーボードを叩いていた手が止まる。ノートパソコンが低くことことと何かを転がす音を立てている間、トウヤは瞼を指で押さえる。その手を離して少し紅くなった眼で今一度画面を見て、それから緩やかな手付きでパソコンの電源を落とした。

「今度の水曜日に演習発表があってね」

 訊かれてもいないのに、しかしバノッサが聴いていることを前提にトウヤは言う、「年に二回発表しないと単位がもらえない。演習の授業はそういうところが面倒臭い。勇人も同じことを言っていたけど、演習は幾つか取っておかないと卒業させて貰えない、そういう意味では二重に面倒臭い」。ソルはトウヤの父親の会社でパート事務員として働いていて、その事が親子関係を円滑化することに最大の助力と成っているであろうことは想像に難くない。やるべきことを一つずつきちんとこなしていく、その結果が未来であるし、今までだって紆余曲折を経ながらやってきたから、今が在る。

 エアポケットのように会話が途切れる瞬間があった。茶碗の中は空になっていたが、立ち上がるのが億劫なような、休日午後の気だるさが在って、バノッサがしたのは寝そべって、足を伸ばしてテレビの電源を押すことだけだった。平べったい座布団を二つ折りにすると、やや低く寝心地は悪いが、それだけに短時間の昼寝には適した枕となる。午後三時、カノンが帰ってくるまで約三時間。

「寝ちゃうの?」

 トウヤが鞄に荷物を仕舞いながら訊く、「僕の勉強が終わったのに」、少し唇を尖らせ加減の言葉に背を向けて目を伏せた。瞼を浸透する光が眩しいが、劈くように感じたのは耳だった。

「……て、め、ェ……」

 開いた目は、大層嬉しそうに、だから憎たらしく、笑うトウヤの顔を間近に捉える。外耳道では極めて不快な生温かい雑音が未だこだまして、右手で擦ってもなかなか去らない。「お喋りしようよ。折角僕だって来たんだ、別に暇を潰したくて此処に居る訳じゃないんだよ?」

「誰が頼んだ。寧ろ俺が暇じゃねェんだ、用が済んだンならとっとと帰れ」

「用って、昼寝するぐらいじゃないか。明日だって休みだろ」

 肘を突いてすぐ向かいに寝そべって、端正な顔を無邪気に綻ばせる。互いの間の現実的な距離は、到底こんな間近なものではなくて、間に最低二人は挟まった程のものである。

「……先月泊まりに来たときにさ、勇人がカノンと裸で寝て待ってたじゃない」

 バノッサは眠るのを諦めて起き上がり、トウヤに背を向けて煙草を咥えて、火を点けた。

「勇人はカノンが可愛くて仕方がないんだね。実際、カノンはすごくすごく可愛いけどさ」

 トウヤも起き上がると、バノッサの隣に正座して煙草を吸い始める、「あの子のお尻は驚くほど軽い」、其れをテメェが咎めるのかと訊きたい気で見た顔は、その視線が痛いと言うように背けられた。せめて其れぐらい言わないでは沽券に関わると思ったのか、

「其れはもちろん僕だって、水に浮くぐらい軽いお尻を持っていて、この頭の中からは貞操観念が欠落している」

 開き直るようにそう言った。

「……誰が」

 灰皿の縁で煙草を叩いて、「持ってんだ、そんなもん」、伸びた灰を落として、窓の外に満ちる世界と遮断された密空間を支配する価値観に思いを馳せる。

この世の中心が此処だとしたら、此処以外に蔓延しどんな小さな路地にまでも充満するガスのような倫理が意味を持つとは思えないし、持たなくっていいと考えるから彼らは六人なのだ。確かに先月、ドアを開けたバノッサは一つ布団に仲良く並んで顔だけ出して「ダブル布団虫!」とほざいたハヤトを責めはしなかった。その代わり踏ん付けて乗り越えて、傍らでこんな風に煙草を吸っていた。そのうちキールがやってきて、「……寒くないの? そんな格好で」「くっついてたら温かい」「そういうもの? ……もう少し布団が広ければなあ」。特急を使わず「だって勿体無い、一回でも多く此処へ来たいから」やってきたトウヤはバノッサの隣で今と同じく煙草を吸った。最後にソルがやって来て、「何やってんだお前ら」大人っぽく呆れたフリをするには童顔が余りに不利で、「そろそろ出ましょうか。カレー作らなきゃ」、布団から立ち上がった全裸のカノンとハヤト、恋人ではない二人の裸をちらちら盗み見る素直さまでを隠すことは出来なかったし、其れを誰も責めはしないのだ。そしてカノンが裸にエプロン一つだけ巻いてカレーを作った。ハヤトは寒さに負けてジーンズを穿き、キールの上着を膚にかけた。「お前の奥さんすげえな」、イヤラシサの微塵も無い笑顔でハヤトはバノッサに言った。当たり前だと言ってやりたい気が在る。其れがどんな棚の評価であれ、自分の恋人を褒められれば優越を感じる。「ハヤトお兄さんだってすごいですよー」、挽肉を炒めながらカノンが振り向いて言う。キールが同じ気持ちになるのをバノッサは想像する。もちろん狭隘な心の中に一分の嫉妬も無いかと言えば嘘だが、其れ無しでは居られない体に、もうなっているのだ。

「僕らには、足りないものなんて何一つ無い」

 トウヤは断定的に言った。

「恋人が居て友達が居て、皆のことを愛してる。日々この心の満ちることを、喜んで生きている。ねえ、だから、バノッサ、僕とキスをしよう、煙草臭い君の息を僕に頂戴」

 たまにはカノンがどんな風に思うかを精密に分析してみるのも悪くない。

 トウヤは真摯な顔でそう言う。分かり合えない部分だって在っていいはずの人間関係で、互いに判らないところが在ることを容認しながら、しかし何処かで悔しがっている。

 だって僕らは互いの体の内側のことまで知っているのにね。

「……ハナからそのつもりで来やがったのか。俺にケツの穴穿られたくて」

「君の側に居るのはみんな君に穿られたくて来てるってことに気付いた方がいいね。そして追い返さない君にも、僕らへ向かう欲が当然のように在って」

 だから、穿らせてあげる。まだシャツのボタン一つ外していない、ベルトも緩めていないままのトウヤは全身から卑猥な粒子を一斉に解き放つ。殺到する群れを躱すために身を捩る労力も払わなかった。

アパートから程近いところにある小学校の、六時間目が終わるチャイムがかすかに聞こえてくる。外界からの干渉を塞ぐように、組み敷いたトウヤがバノッサの髪に指を潜らせ、唇を耳朶に当てた。

「ソルがね、『俺も煙草吸ったほうがいいのか』って」

 いとおしむようにトウヤは言う。

「君と一緒に吸ってるのが羨ましいのか、君のことを羨んでいるのか」

「似合わねェって言っとけ」

「君が直接言ってあげてよ。何なら味を教えてあげてもいい……」

 其処は其れ、君の優しさにしゃぶりつこうとする糞餓鬼な僕らだ。どうしてこんなに冷たいのか、シャツの中にもぐりこんできた掌に、バノッサの腹筋は一度強張った。組み敷いていながら制圧している感じがしていないのはカノンと同じで、ただずっと縦に長い身体が、自分の趣味とは違ってもカノンの悦びと常人には理解出来ない回路で繋がる。苦い匂いを閉じ込めた裸を乱暴なつもりで扱う指は、悔しいくらいに大切な力を篭めて動く。

いいんだよ傷付けたって。

 其れもまた一つの証となる。

「……誰だ?」

 トウヤの携帯電話が、足の後ろに脱ぎ捨てられたズボンのポケットで震える、錆びつかせた外界とのリンクが少し、息を吹き返す。独善的な物思いの中でも、恋人たちが外に居ることを忘れては居ない。

「誰だろう」

「……出ろよ、うるせぇから」

 身を起こして、バノッサは痒くも無いのにばりばりと髪を掻く。廃品回収のトラックが表の道を行き過ぎた。

「ああ、どうしたの?」

 乱れた前髪を掻き上げて、裸のままバノッサの背中に凭れてトウヤはソルと話を始めた。電話の相手が誰であるかぐらい、その口調と声の滑らかさで判る。

「……ああ、うん、そうだよ、バノッサのところ。いや、大丈夫。……それで?」

 以前のソル、を含めリィンバウム組の四人は携帯電話の使い方に慣れぬ頃には無駄に大きな声で受話器に向かってがなり立て(そうしないと離れた相手に声が届かないような気がしていたのだ)電話の相手を閉口させていた、その癖が一番治らなかったのがソルだが、深崎父の元でビジネスマンのように働いているうちにさすがに修正されたと見えて、漏れ聴こえる声は僅かだ。

「……え? ちくわ? ……いや、うん……、ああ、そう、いや、僕は持ってないけど、多分此処にも無いけど……、ん、ごめんね、役に立てなくて……。勇人と一緒なの? じゃあ、うん、わかった、夜にね」

 電話を切って「ごめんね」と短く謝ったトウヤの、ソルと交わしていた会話の内容が気になった。

「……何だ」

「ああ、あのね、ちくわが」

「そうじゃねェよ。……夜に何が在ンだ」

 ぱた、とトウヤの黒い眼は、バノッサの顔を真っ直ぐに見詰める。

「あの、……夜にね、勇人たちのところで晩ご飯食べて泊まるんだよ。ごめんね」

「何で謝る」

「まだ聴いてなかったんだね、……勇人が『俺が伝えとく』って請け合ったから任せきってたんだけど」

「アア……?」

 理由が晴れた。「本当は夕べから二泊する予定だったんだけどね、カノンが今日仕事だって言っていたから」、トウヤにはバノッサの内奥で困惑が左右に揺れる音が届かない。

 トウヤは裸、バノッサもベルトを外したままだ。考え込むには相応しくない。

「……本当なら、僕も昼寝をしておいたほうが良いところだろうね」

 苦笑いが苦く見えないのは、同じように苦い舌を持つからだ。

 絡めたって同じ味、自分の中に潜む味。

「でも、……来た。来ればこういう事態になると判っていたし、当然僕は此れを望んでいて、だから、来た。……君は優しいから、僕の期待を裏切るはずが無い」

 気安く頬に触れた指を、反対側へ折り曲げる為の力は何処へ仕舞ってしまったか。バノッサはそのまま降りて膚に触れ、ベルトを外し、……彼が彼の恋人にすることで慣れた指の動きで下着の中から、男性器を取り出す。

 お前は何故「此れ」をする?

 自分が訊かれたって答えようのない問いを、トウヤに垂らしてみたくなった。自分が、ハヤトやソルが、時にはトウヤがキールが、恋人であるカノンと膚を重ねることを許し、そもそも自分がこうしてカノン以外の相手と行為に興ずる理由は何であるかを。想像し、恐らく彼自身がそう願うのは、理由とか答えとか、……そんなことでしか量れないの? 君はどうしたい?

 換言すれば、この愛しき世界の為に。しかし、一体誰が同意してくれるというのだろう。六人で作った小さな輪の中を世界と呼べば、背中に何が在るかなんて、判りはしないのだ……。

 享楽的と言うならば、それ以外の言葉を用意出来ないことを露呈するようなものだ。

 既存の言葉で括れなくたって良いじゃないかと、キールが言っていたのを思い出す。僕らは僕らだけだ……、僕が世界で一番愛してるのはハヤトだけど、君たちみんなのことだって僕は大好きだから。

 キールが紆余曲折を経てそう言い切るのは判る。その言葉を補強する者たちも、一人で言い切ることなど出来はしないのだ。

例えばトウヤは、肉の欲とは別にもう一つの欲を持って自分と二人きりになりたかったのかもしれない、バノッサはそう思う。そして止めない自分を、認める自分を、……甘い自分を求めているのだろうと。

 甘いつもりなど無い、優しいつもりなど微塵も無い、単純に此れこそが、バノッサの常態である。もちろん此れが常態となるには、他の五人の掌が不可欠だったけれど。

 僕らは、僕ら六人で居るから、強くなれますよ。

 恋人の言葉が生々しく甦る。逆に言えば俺たちは、俺たちで居なくなったらお終いと言い得るほど、弱いのだ。

 カノンの帰宅予定時刻まで一時間半を切ったところで、トウヤは座布団を枕に寝そべるバノッサの隣、自分の上着を枕に横たわり、目を閉じて間もなく規則正しい寝息を立て始めた。目を細めて笑う顔は知的で身長とも相俟って大人の男のような印象も在るが、無防備な表情は随分とあどけなく、薄く開いた唇など子供のようだ。そう思うのはバノッサがトウヤよりも年上で、また彼の角度からしか見ることの出来ない光景だって在ったからだ。トウヤにはそんな角度から見てくれる人間が必要だった。バノッサにも、苛立ちながらも見下ろす対象が必要だった。

 それは、かなり確率の高い、多分。

「無神経でいた方が良い」

 トウヤが起きていたことよりも、自分がいつの間にか眠りに落ちていたことに、バノッサは驚いた。開いた目の先、「独り言だよ」、トウヤが背中を向けて煙草を吸っていた。

「おはようございます」

 傍らにはカノンも座っている。窓は赤く燃えていて、ゆっくりと眠ってしまったことに気付く。起き上がり、乱れたままの着衣を見てカノンがくすりと笑う。

「お二人ともお元気ですねえ。どうせ今夜もたくさん……」

「いつも君の方がずっと元気じゃないか」

「だって、僕が元気で居れば皆さんだって元気になるでしょう?」

 カノンは既にシャワーを浴びた後らしく、服も着替えていた。トウヤももちろん来た時と同じ格好を復元していて、事後の姿そのままで居るのはバノッサだけだ。今更恥ずかしがるような相手ではないが、それでも舌を打ってタオルを引出しから引っ張り出して、浴室に入る。寝足りないが、仕方が無い、行きたいと思う。ハヤトとキールとソルの顔も見たいと思う。

 愛しいと思う気持ちが在るのは事実だ。カノンを愛している、あのクソガキどもを愛している、今は側には居ないけれど、カノンの同輩の、あの鬼の子だって愛している。同じ言葉を用いても違う感情で、しかし強さには遜色も無い。

 陳腐さを自負して言うならば、「勇気を持って」斯く在る。得点も失点もまだ全て出揃ったわけではない四回表、三点ぐらいのリードじゃまだ、判らない。しかしどうせならこのまま護りきっていこうぜ、……締まって行こうぜ。

 湿った身体で出てきたバノッサを、床に座っていたトウヤとカノンが見上げる。

「ねえ……、本当に、溜め息出ちゃうくらい綺麗でしょう?」

「溜め息が出るかどうかは判らないけど、綺麗なことはもちろん認める」

「でも、トウヤお兄さんも綺麗です、キールお兄さんも綺麗です」

「君や勇人やソルは『可愛い』の方が似合うかな」

「僕も含めて下さってどうもありがとう」

「僕なりのお礼になっていればいいんだけど、どういたしまして」

 馬鹿な遣り取りと反射的に思うならばその神経の存在自体を切除してしまえば良い。

「……行くぞ、もう六時半過ぎてんだろうが」

 手早く髪を乾かし服を着るバノッサの横で、立ち上がりながらトウヤが携帯電話をなにやら弄くって「九時過ぎってところかな、向こうに着くのは」、時刻表を調べ終えて、即座に電話をかける。

「ああ、僕の可愛いソル、僕の大事な良い子。……勇人に代わってくれる?」

 だったら直接かけろよと、電話口でぶつぶつ言う気配を、バノッサもカノンも訊いていた、「俺? ……なんだろ、もしもし?」、ハヤトの声を聞いて、トウヤからバノッサへ携帯電話が移動する。

「今からこっち出る」

「うお……、バノッサか、びびった……、ってか遅くないか?」

「うるせえ。飯作って待ってろ、先に食ってやがったら……」

 ぽい、と渡されたカノンがにこーと微笑んで、

「トウヤお兄さんとバノッサさんが二人がかりでいーっぱい可愛がってあげちゃいますよ?」

 そして電話を切る。玄関先で靴を履きながら振り返ったトウヤが、「そんなことを言ったら嬉々として先に食べてしまうんじゃないかな」、極めて最もなことを言った。


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