エクスペリエンセス

 背中にほくろが一つ。

 自分だけがそれを知っているのだ、その点の持ち主さえ知らぬことを、宇宙で自分だけが知っている、嬉しいから、そこにキスをする。されるバノッサは、何故カノンがいつも、そんなどうでもいいようなところに唇を当てるのか、判らなかった。

 部屋の明かりを最低限にまで落すと、バノッサの体は浮かび上がり、ぼうっと妖しい光を帯びたように見える。色白なカノンよりなお色の白い理由を探り、ぼくが守ってあげなくちゃ、そんな大それたことをいつも考える。

「バノッサさん」

 物憂げに煙草を吸っては吐く、その口元に、火が頬に当たっても熱くないと言うように、無謀な角度から唇を寄せる。バノッサの体が強張り、その指先が突っ張って煙草をカノンの顔から遥か彼方へ遠ざけんと努める。薄開きの唇から紫煙が舞って、それをカノンに味あわせるべきではないと思って、無理矢理に飲み込んで、意識が遠のく。

 バノッサは勿論カノンを、必要の無い程愛している。が、愛している相手の深くまで知っているわけではない。未だにカノンは、今のようにバノッサの想像も付かぬことをしてみせる。行為ひとつひとつの理由は自分へ向けられるやや乱暴なほどの愛情だと言うことは判っても、しかし果たして自分は愛される価値があるものかどうか覚束ない。恐れさせているつもりで、時に恐ろしく思いながら、カノンを膝に乗せているわけだ。

「……煙草吸うのの邪魔だ」

 不貞腐れた態度を取るのは、それが最後の一枚だから。

「今吸わなきゃ駄目なんですか?」

 カノンはいつもの如く、にこにこ微笑んで言う。この純粋な微笑の正体が未詳なだけに、バノッサはカノンを測り切れない。尻の穴の中まで知っているカノンを、まだなお把握しきれていないことは、気短なバノッサを苛立たせるには十分すぎる。恐らく、これからまたセックスをするのだ。相手が一番裸になっているのに、それが全部までは判らないとはどういうことか。

 ……カノンは可愛い。

 その真理をバノッサは勿論知っている、誰よりもよく知っている。その少女的な輪郭に目に唇だけを選び取って並べてみたなら、誰もが皆、カノンを十七歳の少年であると思いはしないだろう。そもそも十七歳であるかどうかは、バノッサも決定的な事実として持っていることではなかった。未だに変声期をはじめとする二次性徴を迎えず、幼い高い声で鈴を鳴らすように笑う顔を見て、その裸を見て、陰茎を口にしてもなお、「あア……?」、バノッサは迷う時がある。

 だったら少女を抱けばいい? 馬鹿か。

 バノッサがカノンを好きな理由はカノンがカノンである理由へと帰結する。それ以上でも以下でもない。たまたまカノンが自分より年下であっただけで。

「……わ」

 枕頭の明かりを灯した。裸に剥いたカノンの淡い姿が照らし出された。

「眩しいですよお……」

 男、だよな、うん……、当たり前じゃねエか。

 カノンが女だったらバノッサは少し、困るかもしれない。

 女に感じるのが男である、こう定義づけるならば、バノッサは既に男ではない。無論、同性愛者の自己認識もあるわけではない。恋愛は面倒臭い。結局のところ、今のバノッサはカノンしか琴線に触れるものが無いのだ。そのカノンは、バノッサの認識する性を超越していた。確かに少年の体はしていよう、が、性徴の現れぬ体は女にもなる。だからという訳ではないが、バノッサはカノンに両義性を与えるように、女にするやり方で抱く。拘るのも馬鹿らしいが、拘ってしまう、カノンはカノンであり、男でも女でもない。そして、強気に、「仮に女に感じないというだけで男でないと言うなら」、こう考える、「俺様は男でなくてもいい」――

 カノンの体が自分を待っていた。滾るには十分すぎる条件が整っている、カノンが裸だ、自分が裸だ、肌を重ねればそれで始まり、終わるだけのこと。

 案外に面倒臭くもない青臭い愛情がある。

「……してくれないんですか?」

 二十代に入ってなお、ティーンエイジャーのごとき胸の高鳴り。

 初めてカノンを抱いたときのことはもう思い出せない。どうして抱けたのだろうと当時の、と言ってもそんな大昔ではないときのことを辿る。カノンはその時、自称を信用するなら十二歳だったはずだ。戯れだったはずだ。今のような感情があったはずもない。当時はちゃんと、女の恋人がいてしかるべきだった。思うままにならない寂しさと、アヤフヤな「稚児」というものの知識に基づいてのみ、バノッサはカノンを抱くことが出来たのだ。碌に慣らしもしないで、無理矢理に捻り込んで、散々泣かせたのだ。恐らくカノンが生れてからこれまで、一番ヒドイ目を見せたのは俺様だと、バノッサは今も悔やんでいる。

 だからこうして、今は、まず指一本入れるところからはじめる。最近ではローションを使うことも覚えた。シーツは確かに濡れるけれど、互いの幸せのため。互いの幸せ? ハッ……。

 あの時泣きじゃくるカノンを見て少しの罪悪感も覚えなかった、どころか、「テメエは俺様の為に居りゃいいんだよ」、ああ、カノンはよくそれを守っている、不気味なほどにそれを守っている、今もカノンは、間違いなくバノッサの為に、バノッサの一番側に居るのだ。よくいるよな、よくやるよな、馬鹿だよ、カノンをそう嘲笑すれば、透けるような微笑みで、「はい、だってぼくは、馬鹿ですから。こんな馬鹿のことを拾ってくれるのはバノッサさんだけですよ」、じゃあ何か俺様も馬鹿だってェのかよ。……よく判ってやがる。

 カノンの腰の括れに沿って手を這わせた。くすぐったそうに身を捩る動きも慣れたもので、まだ余裕のある目でバノッサを誘う。

 あの次の夜に、バノッサは謝らなかった。それでもなお、カノンは黙ってバノッサの側にいた。バノッサはそれを煙たく思いつつも、またああいう機会は巡ると、無邪気に思っていた。カノンが何を考えていようとも、その重さは今の数百倍軽かった。カノンが手ひどく扱われてもなお、バノッサの影の中しか居場所のないことを十分すぎるほど理解しているがゆえに、その場所に居つづけることを選ぶしかないその悲しみに支配されていることも、その頃のバノッサにはただの好都合な一点でしかなかった。苦しいくらいにきつい肛門の中へ侵入するときの愉悦は変えがたいものがあった。最も危険な年代に、最も危険な相手に出会ってしまった、悪条件が重なっていたことなど、バノッサもカノンも知らなかった。謝らないまま二度目三度目と繰り返すうちに、もう女など抱けなくなった。カノンが居心地のいい場所になった。やがて、感情が介在するようになる。あまり嫌がる相手を無理矢理押し倒すのは、快感が付き纏うとは言え、単純に手間がかかる。ならば……、しかし、溺れていた。

 今も、まさか口には出せない。しかし、愛していることは愛している。

「んっ……、はぁ……!」

 こうして、一定以上のスムーズさが付き纏うアナル・セックスだ。愛し合うことでしか生じ得ないものを確かにバノッサは知っていた。夜を重ねれば時が降り積もり、一息では言い切れない経験を重ねた結果、甘くて寂しい瞬間を幾つも味わい、――俺様とカノンは――少しずつ、関係を深めた。

 性から齎される快感は、悪質なものだ。重ねれば重ねるほど沈み浸り溺れる常習性を持つ。だから、カノンは徐々に毒され、勿論バノッサ自身も毒された。あれだけ泣いていたのが、誘うようになった。必要に駆られてではなく、本心から積極的に「バノッサさん大好きです」の合言葉を使うようになった。そういった傾向の結論が今だ。

 悪いことではない。

 バノッサのペニスを、その宿主の痛がるほどには締め付けず、しかし、悦びを与えるほどに締め上げる。褒美のようにカノンに回された手が扱く。指先にカノンの零したものが付着しても、寧ろ喜びのほうが上回る。

 そして到達して、身を重ねて横臥し、信じられないことに、おぞましいことに、キスまでしたりする。決してカノンからのものばかりではない。バノッサからも、不貞腐れたように唇をカノンの顔や尖った耳や肩や首に押し当てる。今度はカノンがバノッサの上に乗り、その白い身体に矢鱈と目立つ赤い斑を印す。鎧を身に着けても隠れぬところにまでも。

 本気を出されては、バノッサでも敵わないカノンだ。こうしてアドバンテージを握らせれば、恐らくなだれ込むように二回目が始まる。それでも勿論、バノッサはもう抗わない。

 ただ。……あれだけの力を持つカノンが、あの夜に自分を殺さなかったのは、奇跡なのかもしれないと考えるときがある。或いは、全く当然のことだったのかもしれないとも考える。要するにカノンが自分のことを、当時は必要と考え、今は尚更必要と考えるからだ。

「バノッサさんの身体、綺麗ですよねえ。ぼく、本当に羨ましいですよ」

 乳首に口を付けて吸う、息継ぎのタイミングでカノンはそう言う。褒められて嬉しいこととそうでないことの区別も付かないらしい馬鹿なカノンだが、その舌が気持ち良い。自分がカノンにするよりも上手いに違いないと容易に判断できるのが悔しい。敏感なカノンが声を震わせてくれるのがせめてもの救いだった。

「肌、白くて綺麗だし……、すべすべだし……」

 そう言いながら、男根へ指を這わせ、小刻みに丁寧に扱きながら、なおも乳首を吸うことをやめない。

 数ヶ月前までこれが嫌でたまらなかったような気がするが、気のせいだとも思う。自分が、カノンを女扱いして、していることをそのまま、その「女扱いして」いるカノンにやり返されるわけで、俺様は純然たる男なんだぞテメエとは違うんだと思いつつも、それは余りにも虫が良すぎるとも思い、言わないだけ。実際には、苦しい思いがいくつも浮かぶ。だが今、自分の唇から漏れる息が熱く、吸い付かれた瞬間に「くッ……」とか「あ……!」なんて声を上げながら、手淫に快感は募る。

「……バノッサさん、気持ちいいですか……?」

 言うカノンの声も震えていて、さっきから腰に当たるのは同様に勃起したカノンのペニスだった。

「……うるせエよ……」

 くすっと笑われて、痛々しい自分が居る。

「バノッサさん、本当に綺麗です。……ぼくが入れちゃいたいくらいに綺麗」

 ビクン、と身体を強張らせて、

「冗談ですよ。ぼくはバノッサさんにされるのだけで、すごい幸せなんですから」

 冗談でも、言っていいことと悪いことがあるのだ。

「……バノッサさん、大好きです」

 そして、乳首を吸い上げ、手のスピードを速める。バノッサは抗うことなく、そのままカノンの手で吐精した。

 ――ぼくのバノッサさん――バノッサさんのぼく――

 カノンは盛る。バノッサの精液を残さず舐めて飲み込みながら、激しい興奮を何とか抑える。既に緩んでいる穴を昂ぶらせるように広げ、間断なくバノッサに口で施して。

 そして、その身体に跨った。

「う、……はぁ、あ……っ」

 ……バノッサさんのぼく、多分こっちが正解だと、カノンは決めた。膝を支えに、腰を上下させる、バノッサは疲れたような目の色で、しかしギラギラ光らせて、カノンを見上げる。振り絞るような声で、ムリに笑って、下から強く突き上げた。

「インランが……。そんなに俺様のチンコが好きか」

 口汚く罵るには、繋ぐ手が確かすぎた。

 滑稽ですらあったろう。しかし、これが二人の流儀であり、積み重ねた時間の出した結論だから、酔うには十分なのだ。

 


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