Callin' Callin'

 俺の語る俺自身ほど信憑性のある存在もないものだ。

 地獄の奥底からの、俺を犯罪に誘った呼び声が、まだこの耳の中で踊り、聴覚神経に障る。正しさも正しくなさも、同じ程の揺らぎで存在する小さな世界の居心地は、ソファではなくベッド、悪くはない。

 ただ、あの朝からずっと、俺の身体は疲れきっている。朝目が醒めた瞬間から、ぐったりと身体が重く、起きるのが億劫、まず何より一番に粘つく口腔、今日はどこへ行かなければならない? 外に火の雨降るならこのソファは言わば防空壕。だから、真剣に物事を思考するのも厄介と感じられるこの境遇の、理解者求め共感得られぬなら直球の感情で全てを一蹴。幸いにして俺にとって最大の障害であるティファは、俺の望んだまま、倫理を超越して俺と離婚したから、もう俺はほとんど自由と言っていいはずなのに、どうしてだろう、俺の指先まで、血は滞り、俺が今、こうして在ることを否定しようとするベクトル全てに顔を顰め、蹴っ飛ばして砂をかけるような真似をしたくなるのは。

 知りたくないこと、見たくないもの、多すぎた。裸のままで生れてきた赤ん坊と同じで、赤ん坊よりも厄介なのは、俺の側にいたヴィンセントに、或いはティファに、バレットに、俺を大人として扱い、俺をある色に染めようという恣意が存在したからだ。そして、俺もまた何らかの意図を持っていたからだ。赤ん坊だったら何も知らないでヴィンセントの側にいただろうし、ティファとそれまでの生活を続けることも出来ただろう。厄介なことに俺は思考も肉体もバランス悪くとも大人なのだ。

 これからどうなりたいか、ヴィンセントは聞いた。どんな風にしていきたい? 俺は答えられない自分をあまり情けなくも思わなかった。腹の底には俺の内に巣食い、俺を操作した存在に対する苦しみがあって、その苦しみが怒りや憎しみであることに気付くのにそう時間はかからなかった。

「憎しみに駆られる時間は」

 恐らくはそういう時間の過ごし方をしたことがあるはずのヴィンセントは言った。

「一分でも、一秒でも、短いほうがいい」

 それでも、俺はあいつらを憎いと思う。俺に罪を作らせた存在、俺を誰かから憎ませた存在だ。

「怒りは内に向かい、生身のお前を苦しめるだけだ」

 ヴィンセントは俺を気遣う。

 ああ、そうか、と思う。

 ヴィンセントとセックスをした。既に何度かセックスをした。俺たちにはそれが多分必要だった。恐らくは、一番最初のあの日から。早いうちにしておけばよかった、ヴィンセントもそれは思っているに違いない。セックスをすることによって、俺たちの周囲にある幾つかの物事が、とてもスムーズに回転するようになったのだから。「俺がティファと離婚するまで」、そんな綺麗事を並べる必要なんてなかった。もしティファが俺と別れないなどと意地を張ったならどうするつもりだったのだろう。同性愛者と両性愛者が側に性欲の対象を置いて長い時間耐えられるとも思えない。だからこそあの時ヴィンセントは、少し乱暴なやり方で俺にキスをしたんだろうと思う。

 セックスをして、何が変わったか。別段、変えなければならないものでもないだろう。俺たちのコミュニケーション手段がちょっと増えただけだ。俺はヴィンセントのことが好きだから、セックスをするのは、入れてもらえるのは、まあ、嬉しい。だけれど、ヴィンセントの底にイイ感情があるかどうかは知らない。「少年」を抱いたことがあって、俺の肉体が彼にどういう影響を与えるか知っているから、或いは、「悪魔」に強姦されていて、同じ顔をした肉体に同じ思いをさせているから、……動機が何処にあろうと、関係なかった。

 何リットルかの精液を遣り取りした後には、もっと成長した関係性になるかもしれないし、プツリと途絶えるのかもしれない。それは未来の話で、誰にも規定など出来ないことだ。ただ夢想することだけは全面的に許された幻想の話だ。例えば十年後、俺がどうなっているか。……今と同じくヴィンセントと共に在るのか、他の誰かと一緒にいるのか、或いは一人でいるのか。そういうことは、今自分で決めたって虚ろなことだし、誰かに決められる問題でもない。だから、俺はただ、夢想する。例えばどんなに願っても俺は子供を産むことは出来ないし、女じゃ勃たないから俺の子供を作ることも出来ない。そういう全否定される話以外のあらゆることがらが、この先待ち受けている可能性がある。それだけの時間が俺にはあり、道の途中で何匹ものライオンが息を潜めて俺の喉笛を狙っている。

 そうまで判っているのなら、もう少し余裕の生れそうなものだが、俺は時として、恐ろしいことを考える、憎悪に駆られる。

 これからの俺を規定することは誰にも出来ないその一方で、これまでの俺を規定してきたのが常に他人だったことに腹立たしさを覚えるのだ。

 俺の中にいた二人が、ティファが、ヴィンセントが。

 そして、今ある俺にしても、こうしてヴィンセントと共に在るのは、ティファが離婚届に判を捺したからだと。

 俺は決定的に被害者だったはずだ。俺の知らぬところで俺の望まぬ未来を規定され、ほんの僅かな期間にしろ俺の意図の届かぬところで生きなければならなかった。なのに周囲は俺を加害者として扱い、バレットは俺を殴ろうとしたし、ユフィは俺の胃痛の原因になった。そして誰よりティファは倫理を後ろ盾に俺を苦しめた。いや、今も苦しめている。俺の責任ではないはずのことで俺は加害者に仕立て上げられ、責められたのだ。

 更に俺以外の人の目には、ティファと結婚した俺から少しも変わらず繋がっている俺がティファとの関係を引き千切るようなやり方で清算し、自分勝手に同性の相手と同居したと映るのだ。ティファが俺の望みに従って、本来だったらあるはずもなかった関係を無に帰したのを見て、ティファを可哀想と言う、彼女を被害者にする、つまり、……俺が加害者になる。

 それはヴィンセント以外の誰も、俺の気持ちを理解しようとしないことからも明らかだった。

 俺は悪くないのに。

 俺は悪くないのに。

 嘆くだけ、俺の夢想を現実にする時間は減っていく。こういうときの俺の成分を分析したら、八割方憎しみで、そんな自分では誰にも愛されない。ヴィンセントと俺の間にあるのが愛情ではない以上、本当に俺は一人ぼっちを意識する。

 俺は安寧が欲しい。誰かの攻撃感情で傷つかない環境が欲しい。出来ればそれをヴィンセントに創って欲しいと思ってはいるが、それが叶うかどうかという点には懐疑的にならざるを得ないから、どうにかして一人でそれを創る努力をしなければならない。若しくはヴィンセントがそれを創ってくれるような俺に成らなければならない。しかし、その為にどんな努力が必要か俺にはまだ判らない。努力次第でどうにかなる物なのかどうかも判らない。

 ヴィンセントは俺を抱く。

 抱かれ始めたら終わるまでは、厄介なことを考えなくても済むのがいい。頭の中を白くして、流されていればいい。もちろん、俺一人善くなればいいとは思わない、相手のことを考えて、一緒に気持ちよくなれたならと思う。しかしそれは結果と理想の話にすぎない。

 冷静な頭で考察したなら、する行為される行為に大差がある訳でもなく、その相手が誰であれ、仮令ヴィンセントでなくてティファであったとしても、ティファにペニスさえ生えていれば解決するような瑣末な問題に過ぎない。いや、ティファの指でも満足出来るかもしれない。俺の身体を求める性欲が嬉しいなどという女性的な考もさほどなく、ただ俺は直腸壁を刺激されたいだけなのかもしれない。だからされている最中、し終わった後、俺は酷く憎らしく映るはずだ。ヴィンセントも、スイと立ち上がって水を飲んだり、煙草を吸い始めたり、俺が隣りにいることを忘れたような行動をとり、俺もその後ろ姿を観察するばかりで、特に寂しさも感じない。一人でシャワーを浴びはじめているのを知っても、気にしない。まず一番に自分を拭い、トランクスを上げる、そういう男でも構わない。とりあえずヴィンセントの顔容は綺麗で、それは俺の審美眼を満たし、上品な猫のように、その毛皮の美しさに悦べるという、ただそれだけで結構と思える。バスタオルで髪の毛を拭いながら戻ってきて、水分補給をして、俺が煙草を吸っているのをちらりと見る。もちろん俺ももう自分の身体を清めた後で、落ち着いた気持ちになって、喫煙している。シャワーの音を聞きながら立ち上がって水も飲んだ。膜に閉じ込められたヴィンセントのいのちにも、あまり興味を感じず、靄のかかったような頭の中心に近いところで、綺麗な顔をしているな、改めてそう思う。ただ、欲しいものが手に入って抱く感慨がその程度のものであることに、俺は欲望を思う。交合の後に体温が疎ましく感じられるのは、とても当たり前のことだなどと。

 俺の世界でティファやバレット、ユフィが死に、ヴィンセントだけが生き残っている。そういう環境でするセックスがこれでは面白くも何ともない。幾つか理由があるに違いなくて、最初にぶち当たるのは、俺が殺したつもりになった人々にはまだ息があって、これからとどめを刺しに行かなくてはならないということだ。彼女たちが死なない限り俺の安寧は永遠に訪れない。いつまた、攻撃を受けるか油断出来ないからだ。俺を悩ませ、泣かせ、脱力させる、「倫理」とか「道徳」、或いは「伝説」とか「運命」とか、耳触りの良い単語を散りばめることで無遠慮に大きなパワーを持ったつもりの彼女たちから、自分を護らなくてはならない。

 俺がこうして本当の快感を知れないのが、俺の責任とは思いたくない。宝石のように美しいヴィンセントの側において、俺がこれほど乾いた気持ちで在る、奇跡的な悪夢を払拭したい。

 そしてこの期に及んで俺は幸福を待ち望む。殺伐としていない、それゆえ、より深い快感を味わえるセックスが、出来るならしたい。所謂「愛し合い」をしたい。今夜も俺たちがしたのは構造的な繋がりに過ぎない。心が通う様を、俺は生身で感じたい。―この期に及んで、俺は少女のようにそう思う―


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