Backdated Cigarette

 多くの嘘と裏切りに腰まで浸りながら、まだ胸から上は俺のものと主張する滑稽さを、少なくともヴィンセントは咎めない。俺はついていた嘘の一つひとつを暴かれて脆い裸を見せながら、それでもなお、強くありたい自分が消え去らず、差し伸べられた手に安易に縋ることも出来ない。

 風邪が治って俺の塒は元の通り、窮屈でも自分にしっくりするソファに戻った。少しも変わることなくヴィンセントは側にいる。それが単にエアリスや、「ソルジャー」を自認していた俺のまた別人格からの要請であるのか、それとも俺のかすかに望むとおり俺への何らかの愛の関わった情によるものか、まだ少しも判らない。それでもただ、無口に無愛想に、それでいて、器用に、俺の楽なやり方を探して実践してくれている。俺はヴィンセントを信頼した。

 俺という人間はそうなのだな。ティファは怖い、バレットは嫌い、ヴィンセントは好き。俺とはそういう人間なのだ。自分に優しくしてくれる相手が欲しい、周りを全てそれで固めてしまいたい、出来る限り大勢の相手に愛されたいし、自分の嫌いと言う奴は一切認めたくない。まだ幼い頃に複数の相手に愛される幸福を味わった反動なのだと思うが、端的に言ってしまえば俺の価値観は幼稚なのだ。

 狭いマンションの部屋で二人で暮らしていて、相手の貯金をあまり遠慮もせずに食いつぶすことに必要最低限の罪悪感しか伴わないのはよくないのではないかとさすがに思い始めた。ヴィンセントの買い物には早い段階からついていって荷物持ちを手伝ったりしていたが、最近は例えば、風呂やトイレの掃除なども率先してやるようになった。俺にとって今、家とはここを指す。ティファと暮らしていたらしいあの白い建物ではなく、煙草のせいで壁紙が少し色づいた此処なのだ。居心地の悪い場所に俺のような我慢の出来ない人間がいられるはずもないし、しかし出て行くことも出来ないのだから、此処を少しでも居心地のいい場所にしたいと思う、そのための努力なら出来た。ヴィンセントはあまり表情を顔には出さないが、喜んでいた。俺も満足した。

 バレットとはあの通り、決定的とも言える対立をした。ティファとの友情関係を取り戻したいと思えるほど俺は厚顔無恥ではなかった。他の連中との連絡は、まだとっていないし、これからも当分、とるつもりはない。ヴィンセントにはそう宣言した、彼は「ああ」と頷いて、「そうだろうな」と、俺を説得することすらもしなかった。その代わり「ここに置いておく」と電話の脇に連中の電話番号をずらり並べ書いたメモを置いた。番号よりもそう言えばこの人の書いた字を意識的に見るのは初めてだやっぱり綺麗な字を書くんだな、そういう方面に俺の意識は向いた。

 俺は新しく何かを作るのがいいのかもしれない、勝手にそう考えた。俺みたいな記憶喪失というか記憶が分断された者が、今更澱んだ過去を引き摺って生きて行くというのは無理なのだ。そもそも経験した者がいる訳ではないのだ、教科書など存在しない、俺がやりたいと思ったことをやっていけば良いはずだ。道徳倫理よりも自分が何をしたいか何が欲しいかを優先したって、それくらい俺の抱えた苦しみでオツリが来るはずだ。バレットやティファや他の連中はそうは思うまい、でも、俺が思うのだ、俺が。

 今、二十五らしいから、俺。いくつまで生きられるんだろうな。判らないけれど。ヴィンセントは「お前みたいなのが長生きしないはずがないだろう」と言っていた、なら、八十くらいまでは生きられるのだろうか。だったら、寿命五十五歳でいいから、今から生まれ変わって赤ん坊からやり直したいな。嫌なことがあったら泣いて、甘えて、小便するだけで褒めてもらえるような赤ん坊で、しばらく在りたい。

 最初からミルクと砂糖の入ったコーヒーを飲んで、ぼんやりとそんな何の得にもならんようなことを、考える。

「既に消滅してしまった『少年』の考えていたことを、今更私が推測するのも馬鹿げているが」

 それでも俺の腰までは赤く染まっている。嘘と裏切りと、偽りばかりだったのかもしれない愛情。腰から下は、そこから上と同じくらい重要だから、簡単に切り捨てて行くことは、出来ない。

「……少年はお前の人格の一つでありながら―自分がそうであることを認識していながら―本当の、今私の目の前にいる『クラウド=ストライフ』の覚醒の為に言わば自己犠牲的な尽力を惜しまなかった」

「……自己犠牲的って?」

「簡単な話だ。『自称元ソルジャー』即ちお前自身と、『ソルジャーになれなかった男』及びお前を私に委ねた……仮に『少年』と呼ぼう、この両者は同時に存在することが出来ない訳だ。そもそもお前が意識を失わなければ『ソルジャーになれなかった男』も『少年』もお前の身体を動かすことなど出来なかったわけだ。『お前』が意識を取り戻せば、当然『少年』は表層の人格と共に消滅する。それを承知の上であの少年は、お前のその身体からお前を演じる人格を追い出すことを目論見、そして実際にやって見せた」

 「ごめんね」とか「ありがとう」とか、そういう言葉をかけなければならない相手がまた一人増えるようだった。それでもその相手はもう既に消滅した「人格」というあやふやなものだから、多少気は楽だが。

「私の……あくまでも個人的な印象を言わせてもらえば」

 ヴィンセントは煙草を灰皿に押し潰す。一日に一度綺麗にしている灰皿なのに、二人で同じ煙草を平気に次々吸うから夕方には結構な有様になる。互いにこういう会話にはストレスを感じざるを得ないから、「こういう会話」さえしなければもっと健康になるのは明白だ。とは言え、俺の心は既に病気みたいなものだから、リハビリで身体を少し虐めなければならないようだ。

「『表層人格』と『少年』、……単純に善悪で言えるな。『少年』が善で、『表層人格』が悪。……あくまで私にとっては。『少年』がその人格を表したのは私と……、あとは、ユフィの前だけだったろう」

「……ユフィの」

「『表層人格』の方は、全員の前に『顔』を見せていた、というか、主だって『お前』を演じていたのは恐らく殆どが『表層』のほうだっただろう。『少年』はあくまで……、そう、暗躍していたに過ぎない」

 また、次の一本に火をつける。

「お前はあの少年の人格に感謝しなければならない。……いや、それは私もか」

 いくぶんの憂いを含んだ笑みをヴィンセントは浮かべて、少し俺を見た。憂いと共に存在する感情は例えば同情であったかもしれない。俺は俺の中にいたらしい、また違う「俺」に対してどうしたら肯定的な態度を取れるのか、まずそこから考え始めなければならないようだった。

「直截的な言い方をしてしまえば、ティファと性行為が出来たのはソルジャーではないことを自認していた悪の人格であり、……」

 ヴィンセントは少し目線を泳がせて、言葉を切って、困惑したような表情を浮かべた。それは珍しいことかもしれなかった。

「……リーダーシップを発揮し、苦難を乗り越えた人格が、要するに隠し事をしていたからこそ、悪の人格だと私は言うのだ」

 言おうとしていたのとは違う言葉が出てきたのだと、俺にでも判った。既に俺が得た情報の敷衍に過ぎなかったから。

「……もう片方の、『少年』か、その人格は、何だって? ……俺みたいに同性愛者だった?」

 ヴィンセントは俺を見据えて、すっと表情の色を消した。

「そうだ」

「そいつは自分でカミングアウトをしたのか」

「……そうだ」

「あんたに対して? へえ……、そいつも俺とは違う、見上げた根性の持ち主だったわけだ」

 何も言わないでヴィンセントは俺の顔を見る。同じ顔が『少年』であり『表層人格』であった訳で、ヴィンセントは彼の言葉に忠実に言うならば、俺と同じ顔の『悪』を憎み、『善』を信じたのだ。その両方でもない俺に対して、ヴィンセントはどういう類の感情を覚えるのだろう。プラス思考で考えるならば、俺を養う理由はやっぱり単なる責任感ではなくて、俺に対する何らかの愛情の介在を思いたい、願いたい。

「その『少年』っていうのは」

 ともあれ、俺は興味本位での質問を続けた。

「タチだったのか? それともネコ?」

 ヴィンセントには判らない言葉かなとも思ったから、すぐに言い換えた。

「要するに、男役だったか女役だったか。攻だったか受だったか。入れるほうだったか入れられるほうだったのか」

 ヴィンセントは黙っていた、少しあきれてもいるようだった。それからすぐに思い直したようにほのかに笑って、

「……そういう行為をしていればこそ、判るというものだろうが。……していて欲しかったのか? その少年とは即ちお前なのだぞ? お前が私と? ……私がお前と?」

 ああ、そう言えばそうか。

 俺も少し笑った。

「……そうだよな、そんなの、ノンケがちょっと見ただけで判るものでもないか……」

 けれど、ヴィンセントの言ったことは、俺に愉快な想像をさせた。ヴィンセントが俺を抱いている様。抱かれながら俺がヴィンセントを見上げてる様。ヴィンセントが童貞とは思わない。腹の立たないくらい、整った顔立ちをしている、もう少し明るければ引く手数多だろう。

 俺はヴィンセントの、綺麗な見た目は好きだ。そして今こうして俺に甘えることを許しているのも好きだ。俺は尻軽と思われるかもしれないが、ヴィンセントとセックスをすることを、リアリティと共に想像する。童貞ではないにしたって、男を抱いたことなんてないだろう。だから俺が教えるんだろう。けれど、途中からは、流される。俺もそう我慢強い方ではないし、セックスをするのは好きだから。頭を真っ白にして、ああ、何だ、この人、綺麗だな(若しくは、かっこいいな)、そういうことばかり考えて、男の性器で快感を得る方法を俺は知っていたから、ヴィンセントが俺を抱いていたとしたら、それを想像し、あるいは今後創造する機会があったなら、それは愉快なことだと思った。

「ただ。まあ、年齢的な面……、そして言葉の択び方や、……何と言えばいいか……物腰と言っていいだろうか、やはりどことなく柔かさと甘さを感じさせるような……ものだったから……」

 俺はそして、ヴィンセントと初めて笑ったまま会話をしている俺に気付いた。そして俺はその少年がヴィンセントに抱かれていなかったということを、多少なりとも残念に思う自分を、少しも疑ったりはしなかった。別にヴィンセントを好きになったという訳ではない。無論、彼に対して何らかの感情を得てもおかしくはない、それは……関係性の上では。だがそこまで安易に事が進む場合ばかりとは限らず、そもそもヴィンセントが同性愛者ではない以上、報われるとも思わないし、仮に彼が同性愛者だったとしてそこに一往復の感情が成立するとも限らない。俺は俺を最優先に守って扱ってくれるヴィンセントに恋をしているのかもしれないし、また俺の我儘で都合いいイエスマンを得た喜びだけを感じているのかもしれない、いずれにしても構わないくらいには、距離を保って側にいるのだという自覚がある。こういう考えがまた、俺らしく、狡猾で、卑怯で、弱いのかもしれないとも。

 けれどヴィンセントは、とにかく端正な顔をしていると思う。自分でもよく判らない言葉の択び方をすると思うが、静かで、貴く、鈍い光を秘めているように俺は思う。同じ黒髪でも、ザックスには全く似ていない、ルーファウスとも違う、強いて言えばセフィロスに少し似ているのかもしれないが、ジェノバのセフィロスの持っていた威圧感はないし、俺の知っているセフィロスの持っていた長閑さもヴィンセントにはないような気がする。

背の高い男は好きだった。俺が決して高い部類ではないから、憧れる。考えてみれば俺が抱かれた相手は三人とも俺より背が高い。自分で自分のひ弱さを知っているから、背が高い、自分より身体が大きいというだけで、俺にはありがたい頼もしさを感じることが出来るのだ。セフィロスやザックスに抱きすくめられたときの安心感には、涙が出る。

 もちろん、同じものを今、ヴィンセントに求めている積りはない。寂しいことは確かだ、心細いことは確かだ。それでも、今しがみつくべき相手ではないことはよく判っているし、しがみついたところで俺が彼の中に植え付けることが出来るのは、同情か慰めか。少なくとも俺のように、自分の為に安易に生まれる愛情ではないということは判る。そしてそこに愛情がなくっても、セックスをして得る快感は同じものだと思っている。

「あの『表層人格』、……の裏の一面、つまり私が幾度か『悪魔』と読んだ人格が、何故『悪魔』か。……話したくはないが、……話しておいたほうがいいかもしれないな。何故私がアレを憎むか、その理由を明確に示しておいた方が良さそうだからな」

 笑顔は消えた。

「……被害者は二人いる。一人は私であり、もう一人はユフィだ。私は『悪魔』とお前を同一視しないから、私のことは解決したと思ってもらって構わん、だから蒸し返すことはしないが。ユフィにも……伝えた。『悪魔』はクラウドではない、クラウドは今私の家にいて、一応は人畜無害にしていると。あの娘も許すと言っていた。だから、少なくとも今のお前を憎む者はいない、安心してから聞け」

 ヴィンセントは、また少し笑った。

「『悪魔』はユフィを強姦していた」

 笑いながら言うことか。

少なくとも彼の神経も十分すぎるくらい疲れている。だから俺は凍る思いで聞いた。

「待てよ、あんた、俺の知らない間に俺は刑事事件なんて」

「事件でも何でもないさ。知っているのがユフィと私しかいないのだからな」

「……そっ……」

「安心しろ」

 ヴィンセントは優しく微笑んだまま言う。さっき浮かべていた微笑とは全く趣が違って、俺は目を逸らしたくなる。

「さっきも言った通り、ユフィは許したと言っているし、私もお前の正体を知っているから妙な義侠心に駆られてお前を訴えたりはしなかったさ」

 心臓がちくりと痛んだ。俺は俺の中にもう二人俺がいたという事実を、これまでで一番しっかりと確認した。少なくとも、ティファと現在進行形で夫婦関係であるなどということよりも、また鼻を掠めたバレットの拳などよりも、よっぽど俺の腹の底は冷たくなったのだ。

「……どういうことだ……、どういうことだよ、だって俺は……『悪魔』の俺は、ティファと結婚までするんだろう? 少なくともその段階……、俺の知らない旅の段階で」

「あの段階……、ティファが『ばらばらになったお前のカケラ』をよく解らんがどうにかして再構築して、それ以降、私の目から見てティファとお前の関係がそれ以前と比べて大いに親密なものとなっていたことから推測するに、恐らくは一定以上の関係の深さにまで達していたことは事実だろうな。甘ったるい言葉を使うなら、お前たちは少なくとも『恋人』にはなっていただろう」

「それなのにどうして」

「だから」

 ヴィンセントの声は決定的な響きを持った。一緒に暮らしてから間もなく俺は、この人の声が低く澄んで通る質であることを知った。この人に怒鳴られたらたまらないだろうと想像した。

「私は、あの人格を、憎んでいるのだ……。裏で人に……ユフィに、或いは私に……迷惑をかけ、無礼な振る舞いをし、それでいて己が幸福だけは貪欲に追い求める様を、私とユフィは見た。……許しがたいとは思った。それこそ、な、出るところへ出てお前を破滅させる事だって出来ただろう。それでも今こうしてお前が戻ってくることを知っていたからこそ、私はそれが出来なかったし、ユフィも同様に。……何故お前が戻ってくることが知っていたかは、もう説明する必要もあるまい」

「……『少年』の人格、か」

 ヴィンセントは頷いた。

「あの少年が、『クラウドを守ってください。あの男の我儘から、クラウドを守ってください』、そう言ったからだ。その言葉を信じたからこそ、ユフィは、私は、お前を許し、そしてお前の帰還を知っていた、そして私は今こうして、お前を側に置いている」

 今日の話はそこで終わった。ヴィンセントが立ち上がって、冷蔵庫を開いたことで自動的に中断となったから。しかし嫌な余韻を、俺の腹の中に残して。

 カップの底に残った最後の一口を飲み干して立ち上がると、狭い部屋だ、電話が目に入った、そして、その脇のメモにも。上から、ティファ、バレット、シド……、そして、最後に、他のとは区別するように離して書かれた、

「ユフィ」

 の字。

 しかし俺にどんな言葉がある? 別人格とは言えこの体から生えた肉茎で強姦していた相手。

 俺はヴィンセントとこうして暮らすようになって経た一ヶ月以上で、何度もオナニーをした。当たり前のことだと認識している、まだ二十五歳で男だからだ。いつかは知らないけれどヴィンセントもしているはずだ。

 俺はヴィンセントが出掛けて一人のときにソファの上で自分の、穢れているだけのものとも思わない性欲を処理するときに、しかしそれは事務作業ではないから伴うのは、快感だ。想像するのは男の裸であり、俺を抱いた男の顔である。恐らく近い将来その男の偶像にヴィンセントの影も差す。

 俺は俺に快感を与える俺の性器を憎いと思ったことはない。

 けれど、切られて然るべき、忌まわしき肉の塊なのかもしれない。

 俺のような、社会的には屑に近い人間でも、強姦が悪いことだという認識くらい、一応は持つことが出来る。生者として今在る、理不尽な形で分断されてまた今在る、どうしたら俺に非の無いことを社会が認めるか、そればかり考える。ユフィが仮に「許した」と言って、あの娘の前に俺が男根をぶら下げた時、手近なところに刃物があったらどうしよう。


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