喉が痛いな、と思った。
反射的に気分が沈んだ。これは、風邪だと。唾を飲み込むとき、一緒に何か硬いものを飲み込むような違和感と痛みが伴う。
それでも起き上がって、俺は長くうがいをして、風邪薬が欲しいなどと言えばつまらない心配をかけるに決まっているから、新聞を読んでいるヴィンセントの隣りを通り過ぎるときに、まだ眠いと呟いて、ベッドに入った。大人しくしていないと熱は呆気なく上がるだろうと思った。いや、大人しくしていても熱は上がるだろう。
ストレスに負けてしまう自分が下らない。こういう自分も好きではなかったと思い出す。どう足掻いたって太刀打ちできないようなザックスそしてセフィロスが側にいて、記憶している限り、彼らは風邪なんてひいたこと、一度もなかった。俺は、……そうだこんな風な、季節の変わり目に、だいたいは、鼻をぐずぐず言わせたり、咳をしたり。心配をかけていた。それが、自分ではどうしようも出来ない厄介な感情を生む。温かい扱いを受けるのは、それは嬉しい。しかし、強くなりたい少年が慣れていいような種類の温度ではなかったはずだ。
「……どうした」
ヴィンセントが椅子から立ち上がり、こっちへやってくる。俺は眠ったふりをした。まだまだ寝たりないのだ、ただそれだけだと。
「……クラウド」
「……ああ」
掠れ気味の声で俺は仕方なく、反応した。高いところに赤い目があって、それが俺を見下ろしている。
ヴィンセントは俺の目をじっと見詰めて、
「風邪か」
と断定した、
違う、とも、そうだ、とも言えないでいる。ヴィンセントは俺の額に手をあてた。
「まださほど熱はないな。……寝ていろ」
「……」
「気分は」
「……別に……」
「疲れが出たのだろうな。少し、無理をさせすぎたかもしれない」
呆気なく、俺の努力は無になった。面白くなくて、俺はでも、素直に目を閉じるしかないのだ。そういう立場にいるし、何よりそうしたかった。
冷たいタオルを持って来てくれて、すぐ側にいるから具合が悪くなったら遠慮せずに呼べと命じる。俺に背を向けて、戸棚を漁り始める。中から薬箱らしいプラスチックケースを取り出し、一つひとつ取り出しては、細かな字を追っている。やがて紙の箱の中からカプセルを全部取り出す。幾つ残っているか数えているようだ。
薬箱を仕舞う。台所へ行く。冷蔵庫を開けて覗いて、溜め息を吐きながら閉じて、くだものの籠からリンゴを取り上げ、包丁と俎板のぶつかる音が、一、二、三、四、五、六、七。丁度いい大きさに揃えられたのを、水と薬と一緒に盆に載せて来る。
「とりあえずこれだけ食べて薬を飲め」
「……どうして」
「薬を飲まねば治らん。……その声では大方喉が腫れているのだろう」
あんたが苦しむわけじゃないのに。
ベッドの上、座る。確かに、そうだ、唾を飲み込むだけで喉が痛い。
驚いたのは、リンゴに蜂蜜がかかっていたこと。酸っぱい種類のものなのか、或いはヴィンセントはリンゴをそういう風に食べるのか。甘いリンゴを、俺は黙って食べた。ヴィンセントは俺がリンゴを食べているのを、立って見下ろしている。
食欲はもちろんなかったけれど、それなりにすんなり、蜂蜜付きリンゴは胃に収まった。喉を、噛み砕いたリンゴが擦って通るのが、気持ち良く思えた。
ヴィンセントは黙ってカプセルを取り出す。それくらい自分で出来る、そう言おうとしたけれど、言うことすら億劫な俺は、甘えたほうがよほど格好がつくのだろうと思った。
カプセルを二錠、俺が水で飲んだのを見届けると、ヴィンセントはさっさと盆を持って、
「寝ていろ」
と命じた。
「……今さっき起きたところだ」
「眠らなくてもいい、ただ、大人しく寝ていろ」
「それは判ってる。……ただ、退屈だ」
「病人なのだぞ、お前は」
「判ってる。けれど、退屈は退屈だ」
ヴィンセントは溜め息を吐く。
ベッドサイドには、雑誌が数冊、重ねられている。どれも、あまり俺の興味を引かなかった。
「話が聞きたい」
無愛想な文字列よりも、今は生っぽく未知な言葉を聞きたい。
「……話……?」
「昨日の続きを。あんたからの質問でもいい。俺も、聞きたいことが出来た。だから」
「気分が悪くなっても知らんぞ」
そう言うヴィンセントが、俺の壊れることを怖がってるらしいことが判って、奇妙な嬉しさを覚えた時点で、俺は、
「自分のこれから生きなくちゃいけない世界があって、ついこの間までの俺だって俺だったつもりで……、でもまた、別の人間として生きてるんだ。そういう人間が自分の過去に興味を持つことは不自然じゃない」
自分の受け入れ態勢が整いつつあることを自覚する。
当たり前のように息をしているのだ。それが決して当たり前の行為とは言いがたい、例えば、無限に存在する細胞の正常作動の証明であったとしても、当の本人が当たり前と意識した瞬間に、それは少しの特別さも持たなくなる。俺が今こうして、喉が痛いながらも息をして、時折咳をする、ぼうっとした頭で、あまり考えが纏まらない状態で、けれど、生きている、そして当たり前のように明日が来ると思っているし、明日が今日とさほどの差もないと思っている。俺はこの世界の住民として当たり前の者の在り方を、模索しなければならないのだ。
当たり前が当たり前でなくなった俺が、当たり前のようにそんなことを考える。俺に替わって存在していた『元ソルジャー』の、明日を俺がまるで奪い取ってしまったような気もする。『彼』が不憫でもある。それでも俺は人間として当たり前のように、自分が幸せになってもいいのだと考えている。
「……何を聞きたいんだ」
「あんたの目で見たことを、聞きたい」
「つい昨日話しただろう」
「そうかな。昨日あんたが俺に話してくれたのは、あくまでティファの目から見た『元ソルジャー』の話だった。あんたの目から見た俺の話は、まだ聞いていなかった」
ヴィンセントは盆をテーブルに置いて、戻ってきた。
高いところにある赤い目が、俺を見下ろしている。どうも、多少の動揺を孕んでいる様子で。
動揺? あんたの問題じゃない。
けれど。俺のために怖がっているのだと思えば、悪い気はしない。しばらく生活を共にして、この男が俺の思っていた以上のものを、いくつも見せていることは確かで、それが俺に不快感を与えるたぐいのものでもないことも言える。俺を、どうしてか判らない、本当に好きに思ってくれているのかもしれないが、どうやら本当に大事にしてくれそうだということは、薄々判ってきた。
「……私の目線から」
「そう。あんたの見た『元ソルジャー』のクラウド=ストライフっていうのは、どういう男だったんだ? ……『立派な男』って、あんた言ったよな。でも……」
『ただ、それを私に聞くのは間違いだな。知りたいならティファに聞け。ティファは……、難儀な言い方になるが、今のお前ではなく、当時のお前に、強く惹かれてお前と結婚したのだからな』
ヴィンセントが元ソルジャーのことを、『立派』とは思っていなかった……、そこまではっきり言えなくとも、複雑な響きを孕んでいたことだけは、あの時気付いても良かった。
ヴィンセントはすっといなくなり、ベランダに出て煙草を吸って、戻ってきた。その間、五分で、何を考えていたのか。
「……気分が悪いな」
俺ではなく、ヴィンセントがそう言った。
「もちろん、私も言わねばならぬことは判っている。お前が興味を持つであろうことも判っていた。ただ、避けられるならば避けてしまいたい気もある」
「思い出すのが不愉快だからか」
「……そうだな」
ヴィンセントは、微笑んだ。
「不愉快か。確かにそうだ。だが、……それ以上に、羞恥心を伴うんだ。何故私がエアリスの命令を忠実に守り、お前の言葉を借りれば『お前みたいな』のを側に置いておくのか、その理由を言葉を変えて正直に説明するのと同じことだからな。羞恥心を不快感と換言できるのなら、ある面では不愉快と言っていい」
非常に婉曲な言い回しを、ヴィンセントは択んでしているようだった。俺はヴィンセントに捨てられては困るので、余計なことは言わず、黙って聞いている。
「ある面、では……?」
「そうだな、その他の面では、……ストレートな意味で、不愉快だった。非常に、不愉快だった」
彼はそう言って、まだ微笑んでいる。
「ただ……、私は、今は別に不愉快な気持ちがあるわけではない。決して愉快でもないがな。現状を嘆くつもりもないから、私自身の我儘を言ってしまえば、穿り返す必要のないこととも思う。ただ、……やはりお前には教えておかなければならないことだろうし、……お前と共有しなければならない問題なのだろうな」
もどかしい言い方、我慢して、俺は待った。ヴィンセントは、ずいぶんと俺が壊れるのを、まだ怖がってる。不安げに微笑んだまま。
煙草がないから、俺の気持ちを支えるものはあまり多くはない。
ヴィンセントが、口を開く。
「私は、あのお前の姿を借りた悪魔を、何度殺してやろうと思ったか知れない。だが、お前の姿を借りた悪魔と同居する者、……こちらこそ忌々しい、悪魔だったのかもしれないが……、『それ』に、……エアリスと同じことを命じられたのだ、すなわち」
ヴィンセントは高いところで微笑んで、俺を、見下ろしている。
「『クラウドを、守ってください』、と」
怖い顔だ、と、少し思った。熱がなければもっと敏感に思ったのかもしれない。
一番大事なのは、過去ではない、そして不確定な未来ではない、俺たちの生きているのは何時か、ナンセンスすぎるその問いに、答えることは容易だ。しかし、「現在」は突発的なものではない。後から作られるものでもない。どうしたって後ろから連なってきて在るものだ。だから、人間は記憶を持つし、むずがゆい言い方をしてしまうならば、明日が今日と同じように、昨日までと繋がったものと思って生きている。それだけに、一番大事なのは今と思いながら、過去に囚われる。
「お前を含めた三人のクラウド……、あの当時、その事実を知っていたのは……、私と、……あの小娘だけだった。もちろんティファは知らぬ、他の連中も気付いてはいなかった」
ヴィンセントはベッドサイドに椅子を持って来て座って、微笑んで喋る。
その微笑みは、ずいぶんと優しげだ。過ぎてしまったことの話だから、それが仮令どんなに痛かった記憶であっても、それを如実に思い出せる訳ではないと、自分の神経を試すような顔で。
「ユフィ?」
「あの旅の……、お前の記憶が途絶えている間に気付いたのは私だけだな」
「話が見えてこないな」
「そんな簡単に見えてたまるか」
優しげな微笑みで、ヴィンセントは言葉を切る。
「……お前の『眠って』いた間に居たのは、『元ソルジャー』を自認し、ティファと結婚した……それがまず、一人」
どこか、なにか、俺を翻弄することが楽しいとでも言うのか。
「そして今一人……、いたのだ」
「へえ」
俺は枕に頭を置いたまま、言葉を待つ。もう驚かない。神経が太くなったのではなくて、風邪で回路が鈍くなっているだけと判っているが、いま事実を受け止めることだけを目的にするならば、好都合と言えるだろう。
ヴィンセントは心配している風だ。俺は、まるでもう怖くない。
「どんな奴だったんだ? そいつは。……『元ソルジャー』、あんた、憎んでいたっていうのはどういうことだ? もう一人のほうはどうだったんだ?」
何も知らない――「覚えていない」ことを、やっぱり俺は卑怯かもしれなくても、アドバンテージと捉えているのかもしれない――強さを、俺が最大限発揮しようとする。どこまでも弱者の在り方だろうと俺は思い始める、そして、弱者である自分を悪くない意識の仕方をし始める。極端なことを言えば、俺にはヴィンセントという存在がある。どういう理由であっても、どういう構造であっても、ヴィンセントは俺を守ってくれるわけだ、熱が出たならば看病をしてくれるわけだ。俺ならば捨てたくない人生がギリギリ指一本で引っかかっているところを、引き揚げるのを手伝ってくれる存在だ。
弱いことを自覚していても側に誰かがいてくれる、卑怯だろうか、でも、だけど、だから、俺は怖くない。
「……子供だよ」
「子供?」
「子供……なのではないかと思う。ただ、子供にしては、知識の多かった。まあ……、十代の半ばといったところか」
「……それにしたってまだ子供だな」
うん、とヴィンセント、頷いて、微笑んで、
「子供……だったな。だが、恐ろしく狡猾な子供だった。しかし、私はあの子供に、感謝している。ことによっては『元ソルジャー』のお前以上に、憎むべき相手だったのかもしれないが……、現時点では少なくとも、私は……感謝しなければならないと思っている」
後ろから前へ、辿らなければならない。弱いことは認めよう、しかし、それに伴う痛みも傷むことくらいは、俺は、乗り越えられる。頭がぼんやりと熱い、口の中が乾くし、唾を飲んでも喉が痛い、でも。
「いいよ……、教えてくれ、知りたいから」
俺は生きている、これからも生きていきたい、当たり前のように願うし、そういう権利が俺にはあると思っている。
俺が今生きている、俺の名前はクラウド=ストライフ、それ以外の何者でも無い。捏造されたものをすべて飲み込んで、俺は俺、単独体の人間として、これからを生きて行きたいよ。