宿屋の浴室に、二人の笑い声が響く。
「やっ、あっ、じたっ、あつっ、あついっ」
足にしがみ付いて歓声を上げるビビに、ジタンは笑いながらシャワーをかけ続ける。42度、ジタンにはちょうど良い湯温、ビビはひょっとしたら、猫舌なのかもしれない。
何となく、解かる気もした。「よーし、ピッカピカにしてやるからな」
「ひゃっ」
ボディソープを手のひらにとり、その小さな体に塗り付ける。
「や、やだっ、つめたっ」熱いと言ったり冷たいと言ったり忙しいが、それでもビビは楽しそうだ。誰かと風呂に入る事、しかも、自分と割合年齢の近いジタンと一緒だから、余計に。調子付いたジタンと共に、どんどんテンションが上がっていく。
「一日中歩き回ったんだ、ホコリだらけになっちまってんだろ。だから、よーく洗わないとな」
「く、くすぐった……ひあっ」
手のひらで執拗に体を弄ばれて、ビビは涙を零しながらまだ笑う。ジタンは、そんなビビの様子を見ながら、密やかな心が、もう抑えられない程になっているのを、感じていた。こりゃあ、イカンな。
最初は、好奇心だった。他愛も無い好奇心。それが満足すれば、その瞬間で終わりを告げるはずだった。だから、今のように、……自分が犯罪じみた行為に及ばぬよう努める事など、 有り得ないことのはずだったのだ。
……あの三角帽の下、どうなってるんだろう……。
いつも深々と、あのぶかぶかの帽子をかぶっているせいで、ビビの顔はちょうど陰になっていて、どの角度からも窺えない。声やら言葉やらで、大体の年齢と、男の子である事くらいは把握しているが、解からない。あの帽子の下には、どんな素顔が隠れてるんだろう。……帽子とったら、何も無くなっちゃうとか……まさかな。フツーの人間だろう。
……だけど、フツーの人間だとしたら、どんな? ……どんな顔してるんだろう……。
そして、その好奇心を満たすのも、容易な事。その容易な事で、……そう、ひょいと手を伸ばしてやるだけで、終わるはずの事だったのに。その、ジタンがビビの帽子を取り去った瞬間、胸の奥で産声を上げた細胞の一群。その一群が今のジタンの悪戯心の背中を押す。
「うあっ、ジタン、返してよっ」
思わず、じー、とばかりに、見つめてしまった。ふわりとした髪に、少し帽子の跡がついている。銀色の目が、見る見るうちに涙ぐんで自分を見上げる。手を伸ばして乞う仕種が、支配欲に火を点ける。
「……あ、あ、悪い。ゴメン、いや、ちょっと……な」
ちょっとどころではなくなってしまった。手を伸ばした瞬間に、爆発が起こった。「もう……大事な帽子なんだから……」
いつものように、きゅきゅっと両手で帽子の位置を直す。
絶望的な何かが体中を駆け巡った。これは、ついこの間感じたものと同じで、そして、随分前に感じたものとも同じだ。ダガーに対して、そして、ブランクに対して。恋に墜落した瞬間の泣きそうな程にこみ上げてくる微笑み。
自分が世界でいちばんイイ男だと信じたくなる。
ビビに、その瞬間、「好き」も「仲間」も「友達」も越えた、「恋心」を抱いた。
抱いて、しまった。
「……ふあ、ああ」膝の上のビビが大きな欠伸をした。少し埋めた湯が気持ち良いらしく、ジタンに背中を任せて、居眠りモードに入っている。
「肩まで入んないと風邪ひくぜ」
「う……ん」
悪戯心は中途半端なままで放置されていた。うつらうつらと眠りかけているビビを見ていると、どうも、自分の中にあったはずのものが何処かに消えて、そのかわりに保護欲などという、生半な性欲よりもよほど性質の悪い物が芽を出す。
……だって、なぁ……こんな子のこと好きになったって、どうしようっていうんだ。
「……な、んか言った?」
「いや、別に」この、不思議な想い。……考えてみれば、別段、ビビの裸が欲しかったわけでは無いような気がしてくる。するとこの思いは、ブランクに対してのものとは形が違うという事になる。ブランクに対して「欲して」いるものは、言ってみれば、彼が与えてくれる――彼しか与えてくれない性的な快感だ。その快感を与えてくれる事に、言ってみれば「恋」をしているのだ。今のところは、ブランクに対してはそれだけ、それ以上のことは、これといって無い。逆にダガーに対しては、性欲云々よりも、もっと、違うものが欲しい。精神的な欲求と言えばいいのかも知れないが、よく解からない。少なくとも現時点で、それほどまで逼迫した欲求を、ダガーに対しては抱えていない。ダガーを抱きたいとか、そういう欲求を、ジタンは持っていなかった。そして、ビビに対しての欲求は、その何れの要素も含んでいるように思えた。
ブランクから与えられる性的快感と、ダガーから与えられる精神的快感、その何れをも。
とは言え、まさかこの九歳の「男の子」のどこから性的快感を得ればいいのかは、解からなかった。例えば、この……
「なっ、な、な……」
どう考えても一つの機能しか持っていなさそうなものをどうにかしろと言うのだろうか。
「ど、どこ触わってっ」
「あ……悪い。何となく…………」こういうことは、ブランクに聞けばいいのかもしれないが、生憎現在石化中である。
(ブランクは……十三歳の俺も抱いてたし、やっぱりショタコンだったのかも知れないな)
本人が石だと思って好き勝手な事を考えている。(だけど……ビビは九歳だ。絶対、犯罪だ……)
犯罪でなければ「抱いてもいいかも」と考える邪な心は確かに存在している。
「ジタン……、もう、出ようよ、のぼせちゃうよ」
ビビの声で我に帰る。純粋そうな少年の顔、そこから発される見えない気は、性感帯を素通りしてどこかへ消えた。
スタイナーはビビの言う事ならとりあえず聞いてくれる。ジタンが「風呂空いたぜ」と言ったら「貴様の事だ、おおかたスリプル草を入浴剤に混ぜて眠らせ、その隙に逃げ出すつもりであろう!」
などと有らぬ疑いをかけてきた。そのくせビビが「お風呂……空いたよ」と言うと「それはカタジケナイ」と敬礼をし、そそくさと浴室に入っていった。
「……本当にスリプル草入れてやろうか……」「だ、だめだよう」
「……冗談だよ」
確かにな……、ジタンは思う。確かに、俺と比べるまでもなく、ビビの目のどこにも悪企みなんて無い。おっさんの気持ちも、解からんでもない。
「ね、むくなっちゃった……。おねえちゃんも、もう寝てる?」
「……みたいだな。……俺たちも、寝ようか?」
こくんと頷く。その身体を、
「きぁっ」
「ひゅー……、やっぱ軽いなあ」
片手で抱き上げられるほどに。
手をじたばたさせて、やっと落ち着く。「な、ビビ。おやすみのキス、しようぜ」
「え……?」
「いいだろ。男同士なんだから、気にするこた無いぜ。それともあれか、ダガーとしたい?」
「そ、そんな……」
風呂上がり以外の理由で、ぼっと紅くなる。
そんな可愛いビビの額に、返答を待たずに……、それは、多分、とても純粋な拠り所から生じたものに押された行動だ、優しく、唇を押し付けた。びくん、震えて硬直したビビだったが、それでもすぐに収まった。ただ、鼓動だけが全身を駆け抜ける。ジタンの腕にも、それは伝わってきた。ジタンの中で歯車が噛み合った、回り始めた。ビビの中で、何かが弾けとんだ。お互いにそれを自覚はしなかった。「あ、あの…………」
「いいよ、ムズカシイこと考えんな。…………悩み過ぎるの、ビビの癖だな」笑って、空いたベッドに降ろしてやる。ビビの体からすると、普通のシングルもキングサイズに見えてしまう。
小さいことを気にしているらしいから、言いはしなかったけれど。
俺は悩んでない。ビビが、ただ単に、好きなだけ、大好きなだけ。悪いか。「じゃあ、灯かり消すぜ」
「うん。……おやすみ」
「おやすみ」何となく天井を眺めていると、すぐに寝息が聞こえてきた。
いい夜だ……、ナルシスティックにそう考えるジタンの耳に、スタイナーの調子外れな鼻歌が聞こえてきた。