甘美な過日と余白を繋げて

 コーヒーも紅茶も好きだがどちらかと言えば紅茶を嗜むことの多い288号である。ブランクの淹れたコーヒーがあるのに一人だけ紅茶を呑むようなことはないし、朝に濃い目のダージリンを喫しなければ一日調子が出ないということも無いが、やはり彼は紅茶を好む。

 ビビの口にはコーヒーより紅茶の方が合うようだ、という事実は288号にとっては密かに嬉しいことだ。だからついつい彼自らコンデヤ=パタに買い物に行く際には、頼まれても居ないのに高級茶葉を自分の財布の金で買ってきてしまう。ビビは基本としてどんな紅茶だって美味しい美味しいと言って呑む訳だが、その言葉が聴きたくてまたつい、高いものを買って来てしまう。もちろん本質的に浪費家ではない288号の、目下のところ唯一とも言える贅沢である。

「……うん、美味しいね。このマスカットフレーバー。東部沿岸の風にも似た、優しい香りだ」

 恐らく、そのせいなのだろう。やがてビビの舌は超え、紅茶に一家言持つようになる。

「朝は濃い目のダージリン、……昼下がりにはミルクをたっぷりと入れて……、そうでないと一日がなんだか引き締まらない気になる」

 そういうことを、目の前の青年は言う。穏やかな微笑みを浮かべた口元に、僅かな湯気を纏わせて。長い睫毛に優しい線で描かれた瞳など、確かに鏡のようによく似ているが、時を経て声は変わった。低くもなく、かといって高すぎることもなく、静かで安定した大人の男の声だ。

「……ええと……」

 288号は努めて視線をマグカップの中に落として訊いた。「幾つ、に、なったのだっけ」

 ソファにリラックスして座る青年は、そんな288号の態度を微かに可笑しそうに微笑みながら、「二十四」と答える。

「二十四……」

「まだ……、二十四だよ。でも、これでも二十四」

 微笑に悪戯っぽい煌きが伴う。その落ち着きは、なるほどそれぐらいの歳の青年でなければ身に付けられないものであろう。然るに相貌は、今の「彼」がそうであることを忘れさせないように、実年齢よりもずっと幼く見える。「……背が、伸びたね」と、他に言うことを見つけられなかった288号の内面を指摘することもなく、彼は立ち上がり、「そうだね。もう、ジタンよりも少し高いくらい」と銀色の頭頂に掌を置いた。

 痩せていて、物静かで。

 同じ黒魔道士で居ながら、こうまで違う形になるのかと288号が思うほどに二人の姿は違っても居なかったが。

「……訊かないんだね、……どうして来たか」

 座り直して、黒魔道士は柔らかな声で言う。288号は目の前の青年が、本当に自分の思うような存在なのかどうか、少しく疑いたいような気で、ちらりともう一度視線を送った。それから、小さく溜め息を吐いて、

「……どうして、来たの?」

 とその掌に問いを置いた。

「そう……、うん、ストレスの発散」

「ストレス?」

「……という言い方をすると誤解を招くよね。ただ……、うん。事細かに話すのは、自分の心の狭さを一緒に晒すような気がして嫌だな」

「……それは、つまり……」

 288号は無意識の内に、極端に慎重に言葉を選んでいた。「その、……敢えて他の三人、……いや、二人が居ないときに来たということから鑑みるに、……あの二人に何か言われたと、そういうこと?」

 青年は明確に答える代わりに緩く首を振って、

「僕が僕自身に嫉妬している」

 と言った。

「君が、君自身に……」

「前回、僕が此処へ来たときのことを覚えているでしょう?」

「ああ……、それは」

「『採寸』に来たんだよ。僕の、ね。十歳のときの僕の身体がどういう形をしていたか、僕自身も忘れていた。だから、計りに来たんだ。……それがあなたを含めての、三人の依頼だったって話はしたよね?」

「……ちょっと待って、それは……、本当に? 本当に僕がそんなことを君に求めたの?」

 テーブルにマグカップを置いた288号は、微かな頭痛を感じる。目の前の「青年」に、そんなことを、本当に自分が言ったのだとしたら其れは何という失礼なことを、と。青年はしばらく首を傾げて、口元だけを微笑ませて、288号の顔を見ていた。

 やがて、

「……違うよ」

 平板な声で彼は答える。

「そもそも、……あなただけじゃない、あの二人だって、そんなことを求めては居なかった、……僕は、そう信じたい。実際、直接的にそう言われた訳でもないし、ただ僕自身がそうしようと思ってしただけのことだよ」

 288号は心底から安堵した。もし本当に自分が「其れ」を求めたのだとしたら、……最低だ、そんな男ならばこの黒魔道士の力で消し炭にされたって文句は言えない。

「ただ、ね。……あの頃の僕はとても幸せだった。何も考えなくて良かったし、ただ、あなたたちのことが好きなだけの愚かな子供で良かった。……いや、子供なりに色々考えていたと思うよ。どうすればみんなが悦んでくれるか、僕のことを好きで居てくれるか。考えて、僕なりに一生懸命、其れを形にしようと努力していた」

「そんな努力なんてしなくたって、僕は……僕たちは君の事が大好きだよ」

 言って、288号は慌てて言いなおす、「いや、その……、ビビの、ことが」

 目の前の青年は、ありがとう、と答える。そして「僕も、ビビだよ」と付け加えた。

「ただ、僕は随分変わってしまった。もうあんな小さな子供じゃないしね。でも、そのことを愁いている訳じゃないんだ。みんなは変わらずに僕のことを、とても大事にしてくれているし、だから今だって僕は幸せなんだ。多分、あの子供よりも今の僕の方が幸せなぐらいかもしれない」

 青年は、そこでひと思いにマグカップの中味を空にした。熱い溜め息をゆっくりと吐き出して、マグをテーブルに置く。両手を開いて、閉じて、……その指は細く長く、そして少しの傷も付いていない。

「ただね……、僕自身が。僕自身を認められない、……そういう勝手なことを思っているだけ」

 青年はビビ=オルニティアである。

 いま、十歳のビビ=オルニティアはジタンとブランクに連れられてコンデヤ=パタへと買い出し出かけている。雨続きが終わって、少々買うべきものが溜まって居て珍しく三人連れ立って出て行った。洗濯物の残っていた288号は一人家に残り、つい先程物干しを終え、一杯の紅茶を淹れてリヴィングのソファに座って寛ごうとしたところに、この青年が座っていたのである。

 咄嗟に288号の口から出てきたのは「イヴゼロ」という彼の仮の名だった。

「……実際のところ、いま僕の姿を見たって、あなたはあの少年にするようなことをしたいとは思わないでしょう?」

 イヴゼロは、真っ直ぐに288号の目を見て言った。答えに一瞬の迷いが生ずることを咎めはしないと言うように、依然、イヴゼロは微笑んでいた。

「……重ねた時間がそうさせるんじゃないかな」

 288号は何処までも慎重に、言葉を選ぶ。

「君と……、今僕の側に居るあの子と、今から十二年一緒に過ごして行けば、君は確かに、僕の『恋人』で、そう、だから……、いま僕らがあの子としているようなことを、することになるのだと思う、……君が望んでくれているなら。でも、……いま僕の目の前に居る君を、全く同じ気持ちで見ることが出来るかと問われれば、それは……、判らない」

 並べた言葉の一つひとつを丁寧に、しかし迅速にイヴゼロは解釈するのだ。「そうだろうね」と、あまり感動も無く彼は言った。

「そして……、そうだろうということは、僕も判っているつもりなんだ。だけど、単純に僕自身の問題として、不安にもなってしまう。いまの僕には、子供の頃出来ていたことも出来ないし、ね」

 イヴゼロは其処まで言うと不意に「ごちそうさま」と立ち上がった。

「紅茶、美味しかったよ、すごく。……話したら、少しすっきりした。聴いてくれてありがとう」

 ソファの背に掛けていたローブを羽織る。何の答えも渡していない気で、288号はしばらく帰り支度を整える彼の姿を見ていたが、やがて意を決して立ち上がり、

「今の君は、……僕の知っている君だと思う」

 と。それから、……言葉をまた躊躇った。結局口に出すことが出来たのは、288号自身の勇気ではなく、ビビが笑うはずはないという単純な信頼に拠る。

「僕に、抱かれに来たんだよね? ……僕は君が誰かを知っているから。だからジタンやブランクが居ないときに、来た……」

「でも、あなたに僕は抱けないよ。だってあなたはまだ、僕に出会っても居ないんだから」

「今の君と」

 勢い込んで、つい声が大きくなりかけた。288号はそういうことには気付ける男だ。カップの中が空でなければもう一口呑む余白を挟むべきところではある。

「……今の君と、あの子と、僕にとっては同じ名前の同じ命だ」

 立ち上がって、彼は少しの計算をする。三人が出掛けて行ってから半刻しか経っていない。「僕は君を抱けるよ。僕たちは、もうとうの昔に出会っている」

 雪色の肌をした黒魔道士の頬は仄かに赤らんでいた。言葉を発する288号は彼自身とても覚束ないことを言っていると判っていたし、聴くイヴゼロは逡巡を超えて言う288号のことを判っている。暫し、彼ららしからぬ張り詰めた糸を弾くような音がしていた。288号ははっきりとその音を聴いていたし、恐らくイヴゼロの耳にも届いていたはずだ。

「僕は……、確かに、あの子に向かう性欲を持っている。其れは否定しがたい。だけど、それはあの子の身体にのみ向かうものじゃない、……決してない、……と思う」

「……『思う』んだ?」

「今君が、君の時間で幸せなら、……それは事実だと、思う」

 暫し、イヴゼロは探るように288号の眼を見詰めていた。同じ色の髪、同じ色の眼をして、同じように赤らんだ頬を持つ。288号がイヴゼロの相貌を見て思うのは、何も変わるところなどないのだという、平凡な事実だ。二十四歳、随分と大人びたように見えて、ビビは何も変わらないし、変われないのだ。

 そのまま、そのまま。僕らは。

「綺麗になるんだね、君は」

 288号が搾り出した言葉に、イヴゼロは判らないという顔をする。

「元々が、……君は、信じられないくらいに可愛い顔をしていた。大人になった君の姿を見て、驚いた。……すごく、その、綺麗で。それでいて、……うん、やっぱり君は、可愛いね」

 少年ならば、どんな反応をするだろう。唇を尖らせて「可愛くなんかないもん」と拗ねてしまうだろうか。

「そんな……」

 そのまま。

「……僕は、……別に、可愛くなんかなかったし……、今だって尚更、綺麗なんかじゃない」

 そのまま。

「なら、……きっと僕も変わらない」

 288号は微笑んで言う。ビビの銀色の髪に手を伸ばして、触れた。少しの癖がある、柔らかく滑らかな髪はほとんど変わらぬ手触りを与えた。子供にするような甘やかしを、ビビが「向こう」で受けているのか判らない。純真そうに真っ赤になった青年を、そのまま抱き締めてみる。抱き応えはやはりまるで違う。こう言っては失礼だが、という前置き付きで、……君がこんな風に立派な身体になることが出来てよかったと。白くて細くていかにもひ弱なビビは288号がこの家に来てから今まで風邪の一つもひいたことのない健康な少年だが、それでも小さな身体の少年が、自分と頭一つしか変わらない大人になれたのだということは、心から寿ぐべき事実である。

「……三人が……、帰って来ちゃうよ」

 腕の中の青年が、そんな声を出した。ビビの中にある計算を、既に自分が終えていることを告げるために、彼はくしゅくしゅとビビの銀髪を撫ぜる。何もかも変わらないし、変われるとも思えないし、そもそも変わる必要もない。

 ただ、気のせいか。ビビはほんの少し甘えるように、288号の腕を掴む、その手は288号が知るよりもう少し、幼い力が篭められているように思う。


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