優しい時間

 珍しい光景と言っていい。

 不器用な片付け方のせいで実際の床面積以上に狭さを感じさせるキールとハヤトのワンルームに、エプロンを巻いた少年の姿がある。黒いセーターに黒いジーンズ、エプロンも黒で三角巾も黒ければ全身黒尽くめであるが、三角巾から覗く髪はしっとりとした翡翠の艶を帯びている。秋頃にはどうしたことか、ハヤトと二人で競い合うように伸ばして居たが、今はすっかり切って以前の通り尖り耳が露出している。

 キールの横たわる布団には、まだ執念深く伸ばし続けて居るハヤトの茶色く長くて根元の黒い髪が何本か丸まって居た。

「ごめんね……」

 この少年に会いたいと思ったならば、此方が出向けばいいのだ。六人揃える場所は専ら少年が管理するあの部屋であり、それは単純に床面積が一番広いのが彼らの部屋であったり、彼らに交通費を負担させなくて済んだり、そもそもあの部屋のある街こそ六人にとっての「地元」であるという理由に拠る。

 わざわざ千円近い交通費を使って、少年、言うまでもなくカノンが一人でキールとハヤトの居る部屋までやって来ることなど、滅多にないのだ。

 もっとも、交通費はハヤトが出したのだと言うが。

「そんなの、気にしちゃダメです。久しぶりに電車に乗るの楽しかったですし」

 カノンはすぐそこの貧相なキッチンから顔を上げ、屈託なく言う。少年の台所技術にかかれば、コンロが一口しかなくたって十分なものが作れるらしくて、キールが身体のあちこちを軋ませつつルーフから梯子で苦労して降りると、卓袱台の上には梅粥と大根の煮物が並んだ。

 食欲なんてちっともなかったはずなのに、蓮華で一口啜ると、緩やかな速度はしばらく止まらなくなる。向かいに座ったカノンは盆を膝に乗せて、キールの食事風景を黙って見ている。

 ただの風邪だと思ったら、流感だった。

 不注意に基づく風邪はハヤトの専売特許である。その風邪に一番側で生活するキールは無力である。大抵、二人で合計一週間は寝込むのが常だ。

 しかし今回に限っては、風邪に関してはハヤトだけで済んだし、治りも早かった。嫌がるのを強いて病院に連れて行ったのが奏功したようだ。但し、その病院でキールがインフルエンザを貰って帰って来たのだ。

 当然、隔離せねばならない。と言って、病身のキールを彼らのホームタウンまで移動させるのは困難である。こういうときに、キールとハヤトが暮らす部屋から電車で三十分のところにトウヤとソルが住んでいるというのは都合がいい。ハヤトは夕べから其方へ避難している。結果として、三十九度の熱を帯びた身体のキールは一人でうんうん唸っているのである。

 カノンがやって来たのは、二時間ほど前のことだ。キールが流感を患ったという報をハヤトから受けたバノッサが、すぐにカノンを派遣したのである。カノンの鬼の身体の前には人間を苦しめるウイルスも無力でだから。

 粥を食べ終えたキールの前に、病院で貰った薬と水、ではない。カノンが途中の薬局で購入した、何でも病人の水分補給に適した塩分を含む飲料を置く。あまり美味いものではないような気がしたが、キールは黙って飲み下す。

「身体、拭きましょうか。汗いっぱいかいたでしょうし」

 カノンは元々人の面倒を見るのが好きである。あれほど面倒臭い男の側で長く過ごせばそうなるのも自然と言えた。椀や薬を手際良く片付けて、湯で温めたタオルを細腕に宿る自慢の握力で固く絞る。そういうときのカノンの横顔には、何やら悦びのようなものがちらほら覗けて、結局のところは「はぐれ」生まれの半鬼の子は人間の側で人間の役に立って生きることに心底から幸福を得ているに違いない。誰かの為に在る自分を意識したとき、その身体の価値はもとより低くなどないのに、謙虚な彼はやっと一人前になるように自覚するのかもしれない。

 痩せた裸をカノンに拭ってもらいながら、キールはそんなことを考えた。寒くならないうちに再び布団に包まった彼に「おやすみなさい」を言ったカノンが洗い物に取り掛かった気配がある。

 

 

 

 

 何処かへ買い物へ行って居たらしい。目を覚ましてルーフから見下ろすと、カノンが卓袱台でお茶を飲んでいて、みかんの皮が二つ剥かれて在った。キールの気配に顔を上げて

「お兄さんの分、林檎を買って来ました。後ですりおろしますね」と微笑む。

 窓の外はもう暗い。

「帰らなくていいの?」

 掠れた声で訊き、ゆるゆると梯子を降りる。相変わらず身体全体が膨らんでいるようにだるいが、直立していられないというほどではなくなった。あの塩水を、カノンの手を煩わせずに飲むことも出来る。

「バノッサさんに、治るまで泊まって来るように言われてます。それに、いま帰ったらバノッサさんにお土産あげちゃうので」

 何でもないように言うカノンに、キールは胸を痛めた。最愛の人の側ではなく、こんな病人の側で過ごすことなどこの少年にはさみしいばかりのことではないのか。

 しかしカノンはキールの思いを見透かすように、「バノッサさんのところにはトウヤお兄さんが行っていますよ。だから大丈夫です」と言って笑った。

 歯を磨いて、「でも、僕と一緒に居たって」とキールは申し訳なさを拭いきれない。

「一人放って置く方が辛いということです」

 カノンは陰の何処にもない笑みで言う。

 この少年と二人きりになる機会など、そう多くはない。恋人はしばしばソルと一緒に遊びに行っているようだけれど。

 そして、それはもう愉快に遊んでいるようだけれど。

 嫉妬を覚えることなどない。行って戻ってくるたび、ハヤトはキールへの愛情のレベルが高まったような顔であり、それは事実として、キールの身体が知っている。

 布団に包まり直すと、間もなくカノンが梯子を登ってきた。それから窮屈そうに首をすくめて、「頭、ぶつけませんか?」と低い天井を見て言う。

 うつってしまうよ、と言いかけて、でもウイルスにだって耐性のあるこの子は大丈夫だろうか、そう考えて、でもより重たい「お土産」を背負わせることになりはしないか、……思考を転がしているうちに、結局言葉はキールの唇から出て来ることなく封じ込められ、隣には下着姿のカノンが横たわる。ルーフの下がハヤトの寝床で、はじめの一ヶ月ほどは、この位置関係は逆だった。ハヤトが昇降の度に頭をぶつけ、「これ以上馬鹿になったら困る。お前なら多少馬鹿になってもまだ大丈夫だから」と位置のトレードを申し入れられたのだ。慎重な人間だから、キールはいまのところはぶつけたことがない。

 そういうことを、カノンに教えようと思ったのだ。そして、ちょっと笑わせようと。恋人の不名誉な秘密を露呈することに気が咎めない訳ではなかったが、そういう普段通りのペースを掴んでおかないといけないような空気を纏って、カノンが隣に横たわっている。

「キールお兄さん?」

 カノンはいつもとさほども変わらない滑らかな声で「悪い子ですね」と、唐突なことを言う。布団を鼻まで上げたキールは少し怯えたような目を向ける。カノンは柔らかく微笑んで居た。

「僕がこんな風に、お隣に寝たら、他の皆さんはすぐにぎゅってしてくれるんですよ?」

 キールは布団の中に、「風邪を、ひいているから」と声を籠らせる。

 カノンの冷たい掌が額に載せられた。「まだお熱ありますねえ」

「そう、だよ……、だから」

 そういうことをする元気は、これっぽっちもない。

 少年の身体に強過ぎる性欲を抱える一方で、のべつまくなし誰彼構わず抱かれることを希うほど奔放なわけではないことは、キールも知っている。あくまでカノンかその肉を求めるのは五人限定。

 元はと言えばこんないびつな形ではなかったはずだ。しかしそれももう、記憶の彼方。いまとなっては六人が六十度ずつ持ち寄せ合って真円を描く。こんな風に、離れて居たって病めるときには飛んでくる。

 幸せな形ではあろう。

 しかし、体調不良のいまは閉口するばかりだし、本来キールは暇を持て余した休日にあっちこっち飛び回って愉しんで帰って来ることは歓迎する一方、自分が暇なときにはそうそう彼らのところへ行ったりはしないのである。

 だから、そう、二人きりは珍しい。一対一でそういう行為をしたこともない。

「……元気なときなら……、出来る、かも知れないね」

 キールはかさかさの笑みを浮かべて布団から細い腕を伸ばす。健康体なら何とも感じないタオルケットの肌触りが、妙にざらついているように思える。それでもキールの掌は、ハヤトが「すっげえやらかいんだ」と言っていた頬に乗る。

 まるで嫉妬していないかと問われれば嘘になる。僕だけのものだったハヤトが、いまは「みんなの」もの。

 けれど、占有面積が減ったとも思わないし、恋人と同じ気持ちになれるという事実は決して軽くはない。「ほんとうだ」と掠れた声でキールが呟くと、「はい?」とカノンが紅い双眸を丸くした。

「ひんやりして、気持ちがいい」

 カノンは嬉しそうに微笑む。「子供みたいなてのひらしてますねぇ。暑いですか?」

「うん……、今朝までは、寒いばっかりだったけど……、いまはちょっと暑いかな」

 横たわったままキールに寄り添い、布団の八分の一だけ身を潜らせる。「ほんとだ、お布団の中だけ真夏みたいですねえ」

 素朴な例えに、キールは柔らかく微笑む。カノンは心得たようにぴったりと、キールには心地よい温度の肌を寄せた。

「今夜は、ずうっとこうしててあげます。ずうっとこうしてると、僕は段々キールお兄さんにいたずらしたくなっちゃうと思います。でも、このお布団の中が、そうですね、九月下旬ぐらいの温度になるまでは我慢します。それが僕なりの、お兄さんへの愛情です」

「僕は」

 キールは、やや急いで言う。「君のことを、魅力的に思わない訳ではないよ」

 間近な童顔が優しく笑って、

「みなさん、そうおっしゃいます。もったいないくらいありがたいことに。でも本当は誰が一番魅力的なのかということぐらい、僕はちゃーんと判ってるんです。バノッサさんより綺麗で性的な人は、この世には居ません」

 でも、と付け加える。「僕たちは幸せなことに、みんな男の身体をして生きているわけです。寂しさも物足りなさも切なさも、僕たちは悲しいぐらいきちんと取り揃えて持っているんです。だから」

 カノンはキールの胸の中に顔を埋める。愛する男の弟に当たる人の体臭を、胸一杯に吸い込む。「僕たちが六人で居ることには、幸せな価値があって、それをもっともっと膨らましたいって思うのです」

 キールはカノンの髪に手を当てたまま、目を閉じる。

 早く良くなってください、あなたを愛する人が、心からそう願っています。

 そういう優しい声が、夢の中で甘く響いた。


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