千寿大橋商店街奥中華の「千十軒」

 十一月にもなれば、帰り道に背筋を伸ばして裸の両手を振って歩くことも憚られるようになる。行儀が悪いと思いながらも気付けばズボンのポケットの中、襟にしっかり巻いたマフラーを口許まで上げ、自らの作り出す僅かなぬくもりに頼りながら歩くから、自然、背中は丸くなり表情も険しいものとなる。何処かの不良青年ではあるまいしと思いはすれど、衣替えの季節から一ヶ月遅れでまだコートをクリーニングに出していない自分が悪いのである。

 夕飯は要らないと、トウヤには昼過ぎにメールをした。しかし珍しくの残業を終えた午後八時の帰り道、ソルの腹はもうぺこぺこで、此処まで会社近くの牛丼屋、乗換駅の立ち食い蕎麦屋と、既に二件辛抱して居る。携帯電話の支払いに入ったコンビニではおでんが湯気を上げ、大いにそそられたのだけれど、動き出しそうな食指はすぐにポケットの中にしまい込んだ。

駅からの商店街にはカレーショップやら天丼屋やら、いちいち彼を誘惑し、ついつい足が向きそうになるのだけれど。

 今日の晩飯は、昼から決めていたのである。

 千十軒のラーメン、ライス、八宝菜。

 駅前商店街が終わりに近付き、アーケードの屋根が途切れたところに、その店は白地に赤文字、ゴシック体の無愛想な看板を出している。

初めて入ったのは、ハヤトが遊びに来たときだっただろうか。まだ蝉がしつこくじこじこと鳴いている頃で、「ラーメン食いたい」「こんな暑い日に馬鹿かお前は」「いいじゃん、ラーメン。食いたいときが美味しいときだ」、しかしソルとトウヤの住まうこの街は各種料理店が揃っているものの、ラーメン屋に関しては不作というのがトウヤの言で、西口すぐのところに一件、流行っている店が在るには在って一度彼と二人で入ったことが在ったが、申し訳ないがもう一度行きたいとは思わない。店員が妙に高飛車で、値段も矢鱈と高くて。

ラーメンなら、ハヤトとキールの街の駅前には美味い店が三軒も在って、金の在るときには迷うほどだとハヤトが言っていたのを、トウヤが珍しく羨ましそうに聴いていたのを思い出す。その夏の終わりの日には、そう言えば商店街のおしまいに一件あったっけと、気の進まないながらも暖簾を潜った。

「入ったことあるの?」

「ない」

 ソルが無責任なら、ハヤトも無責任で「まあいいや、不味かったらお前に払ってもらうし」、夕方の店内では、早くも春巻をつまみにビールを飲んでいる中年が二人も居た。席に水を持って来たのは面倒臭げな推定パートのおばちゃんであり、垣間見れる厨房では薄汚れた白衣にコック帽を被った男が店内のテレビを観ながら煙草を吸っている。早くも責任問題は沸点へと達したが。

 それ以来、ソルはこの店の虜である。

 出てきたラーメンは店の雰囲気を補って余りあるクオリティ。丼が運ばれてくるまでラーメンについて色々と偉そうな薀蓄を傾けていたハヤトが、一口食べるなり黙り込むほど。

 そして其れは麻薬的な魅力とでも言うのだろうか。その時も大いに満腹して、いい店見つけたなあと思いはすれど、まさか翌日にまた食べたくなるなどとは。

 千十軒を知ってから考えてみればまだ二ヶ月しか経っていない。にも関わらず、ソルはもう既に六度もこの店にやって来ていて、いい加減常連の扱いを受けてもいいように思うが、相変わらず水を持ってくるおばちゃんは愛想が悪い。それでもいい、おばちゃんの顔を見に来て居る訳ではないのだから。いや寧ろ、妙ににこにこ厚遇されたら却って味を損ねるような気さえする。

 お世辞にも美味そうには見えない蝋細工のイミテーションを横目に店内に入る。脂っこい匂いが鼻をついて、ソルの食欲は限界を迎えた。お好きな席にどうぞと言われるまでもなく、暖房の入った店の隅っこに腰をかけると、膝に何かがぶつかる。テーブル下の小さな棚に、競馬新聞が置き去りにされていた。今日は金曜日である。

 メニューは、開くまでも無い。昼から何を食べるか決めていたのだから。水を持って来たおばちゃんに「ラーメン、ライス、八宝菜」。

二十人も入れば満席という店内を見渡してみれば、ソルを入れて客は七人、その全員が男で、三人連れが一組、二人連れが一組、更に言うなら平均年齢はソルを覗けば四十半ばといったところか。瓶のビールが載っている卓が三つあり、何か其れは儀式めいた動きで、グラスに口を付ける横顔には澱んだ疲労感が滲んでいる。ソルは外ではアルコールを飲まないが、男たちのそんな顔を見て居ると、喉が少し、鳴る。

 テレビからは、一体誰が観たいと思っているのか判らないが、時代劇。ただ競馬新聞を読むよりはと、頬杖をついて何となく見上げてしまう。

「はい、ラーメン」

 届くのは、変哲のない醤油ラーメンである。一応味噌や塩も置いてあるし、チャーシューメンやネギラーメン、ワンタンメン、五目ソバ、さらには中華丼天津丼といったあたりも揃えているのだが、ソルが頼むのはいつでもラーメンである。もちろんメニューの中ではラーメンが一番安いのだが、妙に冒険心を発揮して違うものを頼もうと思わないほど、このラーメンに満足している。男臭い店ではあるが、ボリュームは平均より一口半ほど少なめであろうか。単品で頼むときには大盛にするし、八宝菜にライスというメインに合わせても胸苦しいという程にはならない。

 黄色の縮れ麺に、チャーシュー、メンマ、海苔、それからネギ。酢を少し、胡椒をたっぷりかけて頂く。

昼に部長のお供で初めて行ったイタリアンが、部長曰く「今ひとつだな」と言う通り、満足とは遠い味だったこともあり、三時前にはもうこのラーメンが頭に浮かんでなかなか消えなかった。いつも栄養のある飯を作って待っていてくれるトウヤには悪いと思いながらも、夕飯をキャンセルしたのはこの丼の魅力に勝てなかったからだ。

 もちろん、恋人の作る飯は美味い。其れはソルも大いに認めるところだ。

 だが、栄養だけで食事が成り立つなら、この世からラーメンという食べ物は消えてしまうだろう。

 心の中で「いただきます」と呟き、麺を掬い取り、一思いに啜る。ほとんど噛む暇も与えず喉が欲しがって、飲み込む。

脳、僅かな空白を挟み、幸福で満たされる。

冷えた体の末端まで、早くもふわりと温かくなり、「……うめえ……」、息がそう語る、ソルにしては珍しく、いい加減な物の言い方になる。すぐに次の一口、次の一口、八宝菜とライスのセットが一緒にやってくることにも気付かない。冷え切っていた体、いつしか、額に薄っすらと汗も浮かんでいる。鼻を啜る。

 腹の半分までが並盛の醤油ラーメンで満ちる。メンマ、海苔、麺と共に道半ばで平らげ、厚切りでふるふると脂身を震わせるチャーシューはいつも最後に一口で食べてしまうのが癖で、そう言えばハヤトはどこのラーメンもさすがに上手に食べるのだと思い出す。上に載った具と麺と汁が、仲良く少しずつ減っていき、食べ終わりには丼が綺麗に空になる。あれも一つの才能だろうと思うソルは、気を使わないと麺ばかり残ってしまう。

 まだ、八宝菜とライスが残っている。行儀が悪いということは判っていながらも、蓮華で飯を掬い取り、残り汁に浸けて食べるのが好きだ。実家では出来ないし、部長こと深崎父の前で、こんなことをしたら何と言われるか判ったものではない。

 八宝菜の白菜、人参、慈姑に筍、大いに美味い。ネギの油が馨るのも、何とも憎らしいではないか。肉の量は多くないが、肉ばかりが宝なのではない全てがそうなのだと暗に主張するかのように、一つひとつの具材に手抜きが無い。餡、と呼んでいいのかソルには判らないが、それだけで飯が一口食えてしまう。このままではライスが先になくなってしまうぞと思って、数口八宝菜を集中して食べる贅沢よ。

 息継ぎに水を飲んで、店内を見回すと気づかぬ内に、店内は少し混み始めていた。昼前にオープンして、日付変わって明日の三時まで開けっ放しの店は、いつもこのぐらいの時間から徐々に居酒屋然としていくのがこの店の特徴で、商店街と言っても健全な店ばかりが軒を連ねている訳ではなく一本入れば物騒な側面もある。「お兄さんヌキどうですか」、「は?」、聴き返してしまったがために危うく店に引きずり込まれそうになったこともある。

 がわがわと音を立てて笑う集団が入って来た。慣れた風に無愛想なおばちゃんにアルコールと一品料理を数皿頼みながら席に着く。

 少し、トウヤを恋しく思ったりする。早く食べ終わってしまおうと思い決めた。きっと恋人を蔑ろにした罰を受けているのだ。ソルをちょうど鉤の手に囲む形で、出来上がった感じの六人組が座った。ソルは残りのライスに八宝菜を乗せて、そのまま蓮華で掻きこんだ。綺麗に平らげて顔を上げたところ、やはり店内は混雑している。こうなれば長居は無用、早々に退散し家に帰るべし。ただしトウヤにばれないように、途中でミント・タブレットを買っていかなくては、そう思い決めて、

「ご相席宜しいですか」

 立ち上がった処でひょろ長い影とぶつかった。

 無愛想おばさんがカウンターの一人席を指差すのを掌で制して、「買い食いはよくないねえ……」、少し汗ばんだソルの頬を指でなぞるのは、深崎籐矢である。くすくすと微笑みながら、硬直したソルの向かいの席に座って、「ラーメンと野菜炒めと半ライスを」。

 奥歯に白菜の残骸が引っ掛かったままであるのを自覚しつつも、

「どうしてっ……」

 トウヤは悠然と、取り出した煙草に火をつける。

「君のすることぐらい、何でもお見通し」

 天井に向けて、細く白い首を逸らして煙を吐き上げた。「デザート頼む? ……ここのアイスクリーム割りと悪くないよ。知ってるかもしれないけど」、椅子に尻を落として悄然と俯くソルの髪を撫ぜて、トウヤは何でもないと言うように笑う。

「……ごめん」

「ん?」

「……我慢しようと思えば家まで我慢できたけど……、でも、此処のラーメン、食べたかった……」

 煙草の火を押し付けたところで、トウヤの頼んだラーメンがやってきた。意図的にだろう、「食べてからね」、食事を終えるまでの十五分余り会話の無い中、再び徐々に空き始めた店内でソルは大いに居心地の悪い気分を味わうことになった。トウヤは上手に箸を使い、ラーメン、半ライス、野菜炒めをバランスよく平らげていく。トウヤが食べる野菜炒めを、ソルはまだ頼んだことが無い。キャベツにもやしにニラに木耳、それから豚肉の切れ端。あっさりと塩で味付けされている様子だが、トウヤの水の飲み方から察するに、案外濃厚なのかもしれない。

「……美味しかった……」

 箸をおいてトウヤは呟く、「幸せだね……。ええとそれで、何だっけ」。

「あの……、だから、俺が……」

「ああ、そうだった。うん、つまりね、僕は『四人』には嫉妬しないけど、ラーメンには嫉妬する、八宝菜とライスにも」

 食後の煙草に火をつけて、ゆっくりと味わいながらトウヤは微笑む。

「四人のことは、僕も大好きだからね。君の居ない寂しい時間を埋めて貰う代わりに僕の身体が彼らのために役立てるなら、其れは友情と愛情に基づいて何だってしよう。だけどね、美味しいことはもちろん美味しいけど」一度、声を潜めて「高々ラーメンに」、微笑んだまま、また元のヴォリュームに戻って「君を盗られて、寂しさからの解放を先延ばしにされるのは耐えがたい苦痛だ」

 いつもの通りの、……澄んでいるくせに底が全く覗けない眼をして、トウヤは言葉を其処で切った、頬杖を突いて、「判る?」、首を傾げて。

「……ごめんなさい」

 ソルはもう、素直に我が非を集めた身を認め、謝罪するほか無かった。

 帰り道は手を繋いだ。普段は外では恥ずかしいからやめろと言うソルだが、今夜に限ってはそんな我侭を口に出来るはずもない。夜で人通りもないのは救いだった。

「……おしおき、が、必要かな?」

「……え?」

「だって、……ねえ」

 指を四本立てて、一つずつ折っていく。

「美しいバノッサ、優しいキール、愛らしいカノン、楽しい勇人」

「……楽しい?」

「うん、勇人は楽しい。……彼らと過ごして寂しさを埋められるのに、君は自分のためだけにラーメン屋に寄って、一人で待つ僕の寂しさを埋めてはくれなかったんだからね」

 耳元で、「逆流しちゃうぐらいのおしおきしてあげるから覚悟してて」、甘く、少しだけ、苦い声、……どんなことされんだろう、寒さばかりではなく、震えが走る。ただ僅かにソルが思わないではいられないのは、……トウヤは俺の「夕飯不要」のメールを受けてから恐らくもう千十軒のラーメン・半ライス・野菜炒めを夕飯とすることを決めていたに違いないということだ。

 確かなのは、俺が千十軒に一人で行く気でいたことを、トウヤが判っていたということで。

 ソルの予想通り、台所のシンクには一滴の水も垂れておらず、皿も今朝方ソルが洗って片付けたままになっていた。しかし、振り返ったところには既に各種物騒な物を取り揃えてトウヤが笑っている。

 


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