ネクタル

 バノッサは、噴いた。

 思わず手に持っていた、買ったばかりのペットボトルを振りかぶって地面に叩き付け、声にならない声を上げてボトルを靴底で踏み付ける。もったいねえ、という普段の彼なら一番に浮かんで来る言葉が遅れて脳裏に響いた。

 バノッサにとって、或いは「バノッサのような生活を送る者にとって」百五十円は安くはない。それでも彼は仕事の終わりに、現場近くの自動販売機で好みのドリンクを一本買ってその場で飲み干す。カノンと過ごす日々は潤い過ぎていて、ちょっと喉が渇くぐらいがちょうどいい気もする一方で、仕事上がりのドリンク一本は週に六本と決めているビールと同じくらいの価値がある。

 それなのにバノッサは、噴いて、投げて、踏み付けた。

 悔恨のいとまもなく、ムラムラと腹が立ってくる。

「ンだ……、これ」

 耳慣れぬ名前の新商品だった。此方の世界の広告戦術に、まださほど免疫がないバノッサである。「大人気!」と書かれていれば、まあそうなんだろうと思うし、じゃあ飲んでみようかという気にもなる。そして、大概はそれで間違いないのである。間違いだったことはこれまでのところ、なかったのである。其れがとても幸運な偶然の連続だったことを、バノッサは今日はじめて知った。フラフラと近くの公園まで歩いて、水栓から水を飲んで喉を潤しつつ、何だか呪わしいような気分になる。新発売のガス入り天然水は、バノッサの口には合わなかった。

 

 

 

 

 自動販売機の前で考える者と、歩きながら考える者、世の中には二パターンの人間が居る。大学の帰り道、駅と家との丁度中間地点に自動販売機が二台並んでいる。キールの恋人はポケットの中から取り出した小銭をちゃりちゃり鳴らして投入するやいなや、ほとんど何の迷いもなくボタンを押した。

「またそれ?」

 キールは少々辟易したように言う。「たまには違うのにすれば良いのに」

「いいんだよ、これで。だって俺これ好きなんだもん」

 ハヤトにそういうところがあることは、もう短い付き合いではないのだからキールには判り切っている。言ったってやめないことも了解済みながら、ハヤトが喉を鳴らして美味そうに飲む、甘ったるいことこの上ない砂糖たっぷりミルクコーヒー飲料を見て、複雑な気持ちになることは止められない。……虫歯になっても知らないよ。

 選ぶことだって、人生の楽しみの一つだろう。

 キールはそう考えて生きて居る。

 ハヤトに出会うまで、あまりに選択肢の少ない生を送って来たから余計「選べる」ことが嬉しく思えるのかもしれない。ファミリーレストランのドリンクバー、サラダバーの類はキールの大好物である。

「お前は? 何それ」

 もうボトルの大半を飲み干してしまったハヤトは、キールの買った透明な飲料に首を傾げる。

「お前、水なんて買うなよな、蛇口捻ればいくらだってただで出て来るんだから。色の付いたもん買えばいいんだ」

「ただの水じゃないみたいだから。……炭酸水」

「炭酸水。味のない炭酸水?」

「多分」

 開栓すると、快くガスの抜ける音が響いた。確かにボトルの内側には、ただの水にはあるまじき気泡が浮かび上がってくる。口に含んで見るとみれば、舌の上に細かな刺激、微かにほろ苦い気がするが、喉越しはとても爽やかである。美味しい。

「……一口飲む?」

 恋人がじいっと見ているから、キールはボトルを手渡す。食品については保守的なハヤトは、恐る恐るの顔でちびりと啜った。

「……酸っぱくて苦ぇな」

 気遣いなくはっきり顔を顰めた。

「そう?」

「うん、あんま俺の口には合わない」

 ガス入りの水は人を選ぶ。キールは割りと好きらしい。ハヤトは「やっぱ味付いてるのの方がいいや」とボトルを返した。

「スーパー寄ってく?」

 再び並んで歩き始めて、キールの方がずっと足は長いのに、気付けばハヤトが先に居る。もちろん、そのまま置いて行かれることはないと学んでいる。ハヤトは三歩先に行くたびに立ち止まって振り返るのだ。

「うん、冷蔵庫の中、野菜しかないから」

「そっか。野菜しかないのはつまんないな」

「鳥の胸肉が安いってチラシに書いてあったよ」

 そういう細々したことをチェックして、二人の食生活を支えるキールを三歩先から振り返って、「またあのステーキ作ってくれんの?」と嬉しそうに笑うハヤトは、今日も可愛い。現実問題、十九の男に向けて「可愛い」という形容を選ぶことが正しいかどうかは判らない。

 キールが自分で決めれば良いことである。

 

 

 

 

 カレーに納豆を入れて食べる恋人であることは知っているから、別段驚きもしないのだけど、夕食後の台所で何やら作業をしているなと思って煙草を吸いながら背中を眺めていたら、「出来た!」と子供のように無邪気な笑顔でグラスを二つ持って振り返った。ソルの手には氷の入ったグラスになみなみと満ちた透明な炭酸水……、ではないな、と直感を研ぎ澄ませるまでもなくトウヤは判る。グラスの縁に刺さったレモン、氷の上に揺れるミントの葉、共に目にも涼やかである。

「それ、……葉っぱちゃんと洗った?」

「当たり前だろう、外で摘んできたやつだぞ、犬のおしっことかかかってるかもしれないだろ」

「よくそんなものを摘んで来る気になったね……」

 昨日、ソルが「これ美味しいぞ」と買ってきたガス入りの天然水を、トウヤは酷評した。余計なことを言うんじゃなかったといまでは後悔している。目の前の、調理と言うよりは「調合」の結果として出来上がったよく判らない上に外で摘んで来たミント(ではないかもしれない)の葉の乗った、カクテルのような何かを、飲まなくてはいけなくなってしまった。

 実際、ガス入り天然水はトウヤの口には合わないのだ。

 僕ら日本人にとっては縁遠い味なのだ。そもそも日本は世界に誇るべき軟水を常飲して生活して来た。硬水やガス入りの水を、わざわざ買って来るのは馬鹿馬鹿しいだろう、……と言うようなことを、彼は持ち前の理論力を動員してソルに説いてしまった。ソルが意地になるところまで予期できなかった僕が悪いのだと、トウヤは納得して居る。

「これならお前でも美味しく飲めるだろ」

 別に僕は飲まなくたって良いんだけどね、とは言わなかった。幸い、覚悟の決め方は比較的上手なトウヤである。レモンを絞って飲めば、ミント(ひょっとしたら、そうなのかもしれない)と相まって、まあ何かカクテルのように思えなくもないかも知れないではないか。

「……それで君は」

 一口飲んで、トウヤは訊いた。「この味が美味しいと思うの?」

 ソルは黙りこくって、信じられないと言う目でグラスを凝視している。一体どんなものが出来ると思ったのだ。こんなの、ただの薄い炭酸水じゃないか、レモンがちょっと嫌味に酸っぱいだけの。寧ろ酷くなっている。

「そんなはずはない……」

「でも事実として、こういう味のものが出来てるじゃない」

 何かの間違いだと言わんばかりの顔を、ソルはまだしている。トウヤは立ち上がり、戸棚からガムシロップを取り出し、グラスに注いだ。表情は全くの無色である。箸でかき混ぜて飲んだ其れは、相変わらずちっとも美味しくない。甘味のおかげで多少救われてはいるけれど。

 それでも、

「……君のことが好きだよ。だけど君の何もかもに僕が共感出来るわけじゃない」

 ほんの少しだけ微笑んで、トウヤは言った。

 

 

 

 

 バノッサが週に五日、カノンは週に四日働きに出る。

 この世界にやってきて三年が経ち、すっかりペースが出来上がっている。カノンとしては「僕が週に十日働いて、バノッサさんはずーっとおうちでごろごろ」でも一向に構わないと思っているのだが、自分の嫁を自分よりも多く働かせるということは沽券に関わるのだろう――そして多分、バノッサはカノンのことを「嫁」と認識しているのだろう――カノンの「旦那様」は、絶対にカノンよりも多い時間を働くと心に決めているようだった。仮令カノンの方がバノッサよりも余ッ程頑丈な身体をしているとしても。

 二人の勤務日は二人の自由で決まるわけではないから、こうやってカノンが一人きりで留守番をする望ましくない日も当たり前のように訪れる。そういうときにはハヤトたちが遊びに来て、それなりに心は慰められるのだけど、彼らも今日はやって来ない。消去法的に家事に精を出し、家中をぴかぴかにしたら午後六時、そろそろバノッサが帰って来る。

 明日が仕事であろうが、暑かろうが寒かろうが雨が降ろうが風が吹こうが、バノッサがちゃんと家に帰ってくるというそれだけでカノンは幸せである。我ながらお手軽な生き物だとカノン自身思うのだが、バノッサの右手でひょいと担ぎ上げられるぐらいにはお手軽で居たいものだと思っている。実際の所、身長も体重もほとんど子供の其れなのだが。

 カノンの五感は、鬼のそれである。バノッサが帰ってくるのはアパートの部屋の中に居ても、百メートル以上先から判っている。その感覚は主に、バノッサが一気飲みする麦茶や風呂の支度に役立っている。このところ彼らの日々はとても平和であるから、今後もそういうことにばかり長けて居たい物だとこの生活者は思っている。剣を振るったり悪い人を追いかけたりするのは、役に立てて嬉しいと思いはすれど、やっぱり草臥れるしバノッサとのんびり過ごす時間が減ってしまうので。

 今日も、あの角を自転車で曲がってバノッサが帰って来た。ペダルを踏み込む足が、普段より少し重たいようだ。きっといつもより疲れている。それで居て、ブレーキのタイミングがいつもより遅い。どうやら何か嫌なことが在ったらしい、どうしたんだろう。

 あの通り無愛想で、いつも不機嫌面の恋人である。彼の影の中を自分の居場所と定めて以来、カノンはバノッサの精神状況に対しては常に敏感であることを自分に課した。

 バノッサのことを心の底から愛しているにしても、彼の同様に一から十まで付き合うのは却って良くないということがいい加減理解できているカノンである。愛しいが故の無関心とでも言おうか。一緒になって落ち込んで、ぶつくさ文句を言って問題が片付くのならばカノンだって喜んでそうするのだが、概ね考えたってどうにもならないようなことで頭を悩ませることの多いバノッサという恋人であるから、カノンが一番するべきは、いつもの自分で在ると言うこと。あくまで場に適した意味での「適当」な振る舞いである。だって、ねえ、そうでしょうバノッサさん、あなたの帰ってくるこのおうちには、ちゃんとあなたを待っている僕が居て、ちょっとくらい外で嫌なことがあったって、僕は何の代わりもなく待っているんですよ。

 バノッサがいつものペースを取り戻してくれることが、カノンにとっては嬉しく、バノッサにとってもきっと幸せに違いない。

「おかえりなさい」

 まだ暑さの残るこの季節には当然として、冬場も麦茶が冷蔵庫で冷えている家である。いつもバノッサはカノンの差し出すグラスを掴んで、一息に煽る。鳴る喉の音が、上下に動く喉仏が、男らしくて好きだとカノンは思う。一杯飲み干したところで、「……もう一杯」と暗い声で彼は求めた。

「はい」

 よく冷えたもう一杯をすぐさま用意して、バノッサは其れを途中まで飲み干したところで、「あとはテメェ飲め」と言い残すなり、憮然とした表情で部屋を横切り、仕事着に靴下、汗塗れのシャツ、乱暴な手付きで順に脱いで、洗濯籠に叩き込んで行く。二十代の男が屋外で一日働いた成果として汚れた衣類は、早速勢い良く洗濯機の中でぐるぐる回されて洗われるのだけれど、本当の事を言えば汗だくのシャツはカノンにとって大好物である。食べたりしては叱られるだけでは済まないのでしないだけ。

 バノッサが風呂の入口で脱ぎ捨てた湿っぽい下着を、バノッサが風呂のドアを乱暴に閉めて、シャワーの雨音を立て始めたのを確認してからそっと嗅いで、「あー……」とにやにや笑いながら呟く。

 カノンはバノッサの匂いが好きだった。

 思うに、誰かのことを好きになって、その人と結ばれたいと思ったとき、何より一番に壁となるのは「匂い」ではないだろうか。別に何処の匂いだっていい、髪でも口臭でも、いざ行為に及ばんとしたときの局所の匂いであってもいい、……その人と切り離しようのない重大な要素である「匂い」を我が身が受け付けないと思い知らされるのは、相当にショッキングなことに違いない。そもそも誰かの家――カノンなら、ハヤトとキールの家、トウヤとソルの家でもいい――の匂いに対して、鼻はいつでも微かな嫌悪感を催すものだ。匂いという個人的でありながら、公衆に対して隠し立てすることが難しいものを、大好きな相手と共に抱き締めて生きて行かなければならない。

 その点、僕は幸せだなあ。

 カノンはバノッサの匂いも含めて好きである、更に言えば、味まで含めて好きである。変態と言われたってしょうがない、実際しょっちゅう言われている。日々の退屈や寂寥をハヤトやソルに慰めて貰っても、其れがやっぱり継ぎ接ぎの喜びに過ぎないのは、彼らがバノッサではない、ただそれだけの単純な理由が根拠だ。

 さて、バノッサに何が在ったのかは判らない、訊いたって恐らく教えてもらえないから、とっとと洗濯を始めなければならない。洗濯を行うと共に、炊飯器のスイッチを点けて、晩ご飯も作らなくっちゃ。今宵の夕飯はなすの味噌炒めと、いんげんの胡麻和え、ひややっこ。多少の悩みがあったって、美味しいご飯を食べればきっと元気になります、……僕が愛情篭めて作ったご飯ですよ? 元気になってもらえなかったら困ります。乱切りにしたなすをフライパンでじりじり炒めつつ、葱の白い部分をびっくりするぐらい薄く切り、冷蔵庫で冷え冷えの豆腐に、チューブのおろし生姜と一緒に乗せる。ぐらぐら沸騰した鍋に塩一つまみにいんげんをバラバラと投入、びっくりするぐらい鮮やかな碧に色付いたものを笊に上げ、よおく水を切ったらカノンの手に掛かればあっという間に細かくなる胡麻に出し汁と混ぜたすり鉢に放る。そうこうしているうちになすに火は通るので、味噌と酒みりん醤油他、バノッサが「美味しい」とは言わないまでも二杯お代わりをしてくれたときと同じ配合のたれを注ぎ、煮詰めてゆく。

 バノッサが風呂から上がってきた。

「もうちょっとで出来ますから、ゆっくり待っててください。あ、いいですよう、お箸とかは僕が出しますから」

 バノッサは「うるせえ」と小さな声で毒づきながら、まず卓袱台を丁寧に拭き、箸と茶碗を並べると言う優しさを発揮する。

 おや、とカノンは意外に思う。機嫌が悪ければそういうことを自発的にはしないだろう、と。……いや、機嫌が悪くたってするのだ。正確にはもう少し、動きに精彩を欠いているはず、あからさまに苛立ちのオーラを纏って動いているはず。

 カノンは呆気なく嬉しくなった。ほぼ完成しきった夕飯が、もっともっともっと美味しくなりますように、そんな風に願いを篭めて鍋を揺する。油断すれば鼻歌だって出て来かねない。

 だって、バノッサさんのご機嫌がいいなら、今夜もぎゅってしてもらえる。いっぱいいっぱい愛して貰える。この世にそれ以上幸せなことがあるだろうか。

 上下に下着一枚だけ身に着けた格好でバノッサが、窓辺で煙草を吸い始めた。その一本は人生に必要な時間をゆっくり焼き潰すためのもの。カノンはだから、なすの味噌炒めの完成を三分遅らせるために火を止めた。冷蔵庫から取り出した冷奴に、昨日かき揚げを作ったときに出た揚げ玉を載せて、狸奴にする。此れはトウヤが教えてくれたかんたんおつまみである。それから皿に盛りつけた味噌炒めには白胡麻を振り掛ける。ほんのひと手間掛けるだけで、ほら、こんなに美味しそう。頑張るあなたを応援する、僕の精一杯の愛情です。

 現金なものだ。贈った分だけ返って来ることをはっきり判っているから、存分に贈りつけるのであるからして。カノンはバノッサが煙草を灰皿に押し潰したのを背中に付けた目で見てから、「さー、出来ましたよー、食べましょう」振り返る。バノッサは無言で頷き、ぺらぺらになった座布団の上に尻を乗せた。

 バノッサの不機嫌の種ごと食べてしまえれば一番いい。心の底からの願いは叶った。元々口数の少ない人であるから、大概カノンが独り言のようにずっと喋り続けるばかりだが、カノンはそれで満足である。紅い鬼の目で恋人の表情を伺いつつ、少年はバノッサの中から苛立ちがどうやら全て消えてなくなったらしいことを察知する。きっと、大したことじゃなかったんだ、そう思ってほっとすると同時に、「大したことだったらどうするんだ」「大したことじゃなくたって」と考えもする。益々以ってこの身体で、愛しい人のことを慰め癒さなければ生きている価値だってないとさえ思いつめる。

「……で?」

 皿を洗う背中に、バノッサが声を投げた。

「はい?」

「……面倒臭ェよ、テメェは」

「何のことでしょう?」

 振り返って、首を傾げる。やっと触れてもらえた……、カノンはその頬の嬉しさを、まるで隠せない。丁度最後のお茶碗を洗い終えるタイミングで言ってくれたのだということはカノンだって判っているのだ。バノッサが卓袱台に肘をついて、本当に面倒臭くて仕方がないと言う顔で、うきうきと白いエプロンで手を拭きながら座布団に戻るカノンから目を逸らす。

「何がでしょう、どういった辺りが面倒臭いのか、具体的に教えて頂ければ改善出来るかも知れませんよ」

「……何もかンも面倒臭ェよ」

 バノッサは忌々しげに舌を打ち、煙を天井に向けて吹き上げる。後はそのまま眠りに就ける、無地のTシャツにトランクスという風通しよく質素な格好は、彼の男らしく均整の取れて、同時に高貴な肉体を一層際立たせて居る。

「ぱっと見面倒臭そうに思えても、一つひとつ片付けて後から振り返ってみれば案外そうでもなかったって思えるものかもしれません」

 そんな恋人の姿に胸ときめかせるカノンは、相変わらずの幼児体型、あっちこっち無駄にぷにぷに、と言っても太っているわけではなく、決して太っているのではなく。……そんな身体に纏って居るのが、バノッサ以上の風通しの良さを備え、防御力で言えば半分以下、エプロンの下の少年の身体は裸同然である。恐らく防御力ではなく、攻撃力で計算するのが正しい格好なのだ。

 煙草を灰皿に押し潰して、「テメェで説明してみろ」とごろん、畳の上に横たわる。

「ですからー……」

 カノンは卓袱台を部屋の隅に移動させて、布団を敷く。バノッサは百八十超の立派な体格だが、カノンがこの通り小さな身体であるので、二人が眠るためには一人分の布団が在ればいい。これ以上広いのは主にカノンが困る。四人が泊まりに来たときにはもう二枚布団を敷く訳だが、結果的には布団の中ばかりか部屋中がギュウギュウ詰めになる。そもそも誰がどの布団に寝ようが関係ないような状況になるのがいつものパターン。「お疲れさまです、という気持ちが篭もっているわけです、この格好には」

 カノンの敷いた布団に二つ並べた枕の片方へ、這って行ってごろんと横たわったバノッサは「ふうん……」と大して面白くもなさそうに言う。

「僕のお仕事は、五感を総動員してバノッサさんを感じることだと思っています。そして同時に、バノッサさんの五感に対して魅力的な存在であり続けることだと思っています。つまり、目で見て、耳で聴いて、膚で触れて、その舌に、その鼻に、僕そのものを全て捧げて、バノッサさんを幸せにすることだと」

「ふうん……」

「ですから、差し当たり、お疲れさまのバノッサさんがドアを開けて見た最初の僕が、少しでも魅力的であればいいというようなことを僕は考えないわけにはいかないのです」

「……ふうん」

 バノッサは、相変わらず横たわったままでカノンの身体を見るような、其の向こう側を見ているようなぼんやりとした目で居る。

 草臥れ切っているのならば仕方がない。初めから、其れは覚悟の上のことだ、ペダルの音を聴いた瞬間から。今日の昼間彼に何があったか、……残念ながら其処まではカノンも知ることは出来ない。

「僕を見て、少しでもバノッサさんが元気になれるようにと祈って、僕はこういう格好をしているのです」

 カノンはエプロンを脱ぐ。バノッサはほとんど表情を変えず、横たわったままカノンを眺めている。今更カノンがどのような格好をしようと、さほどの新鮮味もないはずだ。だってこの少年は先述の通りの理論に基づいて、疲れて帰宅したバノッサを色々な格好で出迎える。裸にワイシャツ一枚だけのときもあった、裸エプロンのときもあった、今日のように、卑猥な輪郭の下着一枚だけで出迎えることなど、一体これで何度目か判らない。汗臭くなってはいけないから、随分早い時間にシャワーを浴びて丁寧に身体を洗ってから、サイドリボンを一人で結ぶ。もしバノッサが帰って来る前に、例えば宅配便が届くようなことが在れば、慌ててズボンを穿きTシャツを着るのだけど。

 帰宅後のバノッサが見る、夕飯の支度、皿洗い、一連の生活動作を遺漏なく行うカノンの臀部は、細いレースが挟み込まれ、縁を飾るレースが彩っている。色は純白。バノッサが見るのは今日が初めてのはずだ。だってカノンが一人で買いに行ったのだから。

 ハヤトお兄さんたちなら、このパンツ見ただけで大変なことになるんだけどなあ。

「……それで?」

 バノッサは溜め息混じりに訊く。「それで?」

「今日のバノッサさんは、元気がありません」

 カノンは仰向けに横たわる彼の隣に、こうして比べると随分短い身体で寝そべった。「どうしてかは、判りません。けど、僕のこういう格好を見て、ひとまず一部分だけでも元気になってくれればいいなーって。そうしたら、一部分だけじゃなくて全部元気にして差し上げることが出来るのになーって、そういうことを思うわけです」

「……別に、いつもと同じだ」

「何年もバノッサさんの影の中に居たんです、ちょっとの差でも僕はすぐに判りますよ」

 得意げに言うカノンは、バノッサが抱えて帰って来た乳酸の味だって欲しいと願っている。

 バノッサはしばらく黙りこくって、……やがて大きく溜め息を吐き出した。「……お前は、外で飲み物買うとき、どうやって決める」

 仰向けのままで、彼は訊く。

「……はい?」

「自販機で、……テメェだってそういうとこで買うことぐらいあンだろうがよ」

「ああ……、はい、たまには」

 此方の世界に来て各種のカルチャーショックを受けたカノンであるが、とりわけ「自動販売機」という不思議な機械の存在には、バノッサやキールたちと同様に驚いたものだ。お金を入れると、ジュースや煙草が出てくる。そういうものが、道端に幾らでも立っている。此方へ来てしばらくはあの中に人が居るんだろうと信じていた、だって「ありがとうございました」なんて声がする。

「そうですねえ……、僕はいつも同じ物を買ってるような気がします。自動販売機で買うときは喉が渇いて仕方がないときですから、青いやつを買います」

 要するにスポーツドリンクなのだが、メーカーや銘柄が良く判らなくても、大体は同じ味がする。もちろん細かな差を舐め分けられるカノンではあるが、味わう余裕もなくくぴくぴと飲み干してしまうので気にならない。

「……そうか」

 バノッサはぼんやりと呟く。「それが、一番賢いンだろうな」

「褒められてるんでしょうか」

 それって、何だかすごく珍しいことだ。

「ハヤトお兄さんはいつも決まったのを飲むらしいです。でもって、トウヤお兄さんは缶コーヒー以外は買わないって言っていました。キールお兄さんとソルお兄さんはそのときどきでいろんなものを買うんだそうです」

 小さくバノッサが呟いたのは「血筋か」という言葉だった。してみると、バノッサもお決まりのドリンクはなくて、あれを買ったりこれを買ったりするらしいとカノンは学ぶ。そういえば、スーパーで買って来る発泡酒の銘柄も毎回違う。……けれど、あれはその日安くなっているものを買って来るばかりだろう。

「……炭酸の入った、変なミネラルウォーターみたいなの、あンだろ」

「ミネラルウォーターに炭酸が入ってるんですか?」

「そういうのが、あンだよ。……よく判ンねーけど……」

 忌々しげにバノッサは吐き捨てた。「あれは、飲むな。何かの毒だ」

 煙草に酒に肉体労働にストレス、ついでにセックス。あまり身体に益にならないようなことばかり選んでしているように見えるバノッサは言った。カノンはじいっとその白い顔を眺めている。眼元は、その「毒」の味を舌に甦らせたように青い。

「わかりました、……まあ、僕は元々炭酸の、あのしゅわしゅわちくちくしてるの得意じゃないので、進んで飲むことはないと思います」

 してみると、バノッサはその美味しくないものを呑んでしまったのだ。恐らくは、……よりによって仕事上がり、疲れているときに、一日に稼ぐお金の一パーセント近くのお金を使って。

 そんな些細なことで、と笑えはしない。カノンだって「新発売! 話題沸騰」というPOPに釣られて買った調味料がとんでもなく不味くて、味身をした途端「ギャ」って、普段滅多に出さないような声を出してスプーンを放り投げた。こんなものをバノッサに食べさせるわけには行かないと、慌てて作り直したときの惨めさは未だに酷い化学調味料の味と共に甦って来ては、カノンの顔を顰めさせる。一言で言ってしまえば「底辺」に属する生活者である二人にとって、百円玉一枚は一般の何倍も重たいのである。

 そして、その金は二人で稼いだものだ、二人でこれからも末永く生きていくために、身を粉にして働いて得たものだ。

「バノッサさん」

 冷んやりとした頬に、掌を当てる。つまりカノンの掌の方が随分熱っぽい。「このパンツは、安かったんです。いままで買ってたお店よりも、安く売ってるところを見つけたんです」

 カノンの穿く下着は二人の生活に於いて最も贅沢な買い物と呼べるかもしれない。ハヤトたちのようにホテルへ行こうと考えることもなければ、トウヤたちのように妙な玩具を購入することもない。結果的にもう結構な枚数が箪笥の中には収まっていて、始めの頃に買ったものはバノッサのトランクスよりもみすぼらしくなりつつあるが、まだ捨てない。そのうち時間を作って、レースの生地でも買って来て、リフォームしようと思っているぐらいだ。

「ですから、気に病まないで下さい。忘れてください。僕の身体はもっと美味しいです、……たぶん」

 頑丈な身体、片手で僕を担げるくらい強い身体、知って居ながらカノンは体重を掛けないようにバノッサに身を重ねて、その頬に唇を当てた。バノッサは依然として無表情でカノンを見ている。自責の念をそう簡単に捨ててなるものかと、意地になっているようにも見える。そういう人だということは、もちろん判っている。

 堅い皮を剥くのも、カノンの仕事の一つである。

 痛みを与えないように優しく、優しく、バノッサのことを裸にして行く、……心も、身体も、この唇で、舌で、順々に。あなたの身体にとって甘美なものとして在りたいという、純粋なる願いを篭めて。

 


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