風車――1まだ、やっと夜が明けたばかりの頃、少年は目を覚ます。 寝ていた場所は床だ。正確に言うと宿屋がついた酒場――朝には泊り客が朝食を取れる 場所ともなる――の床。寝室は父親が女を連れこんでおり、少年が寝る場所はなかった。 けれども彼は大して気にならない。もし女がいなかったとしても寝室の床に寝るのが常 だったし、その時に深夜に父親が悪夢にうなされて起きる事があれば、彼が八つ当たりの 標的になるに決まっていた。 それよりはここの方が数段ましと言えるかもしれない。 「うーん……よし、やろう」 一つ伸びをした後、彼は早速父に命令された仕事を始める。 この仕事がとりわけ好きな訳ではなかったが、誰に注意される事も無く集中する時間を 過ごせるのが彼には嬉しかった。 彼は布を手にただ無心になる。 「よお、何してんだい」 はっと振り返ると店の主人が立っていた。 主人は声が大きく恰幅もよいのに不思議と威圧感は無かった。 生来の性格によるものだろう。 しかし気さくに話し掛けられる経験の少ない少年はわずかに身体を震わせる。それでも 自分なりに精一杯愛想よく答える。 「あ、く、靴磨いてました」 彼の手元を見、確かに大人の靴を手にしているのを確かめ、思わず男は眉をしかめる。 「あの飲んだくれのか」 「……」 少年は恥らうようにそして幾分悔しげに俯く。 「と、悪い。親父の事悪く言われちゃ面白くないよな」 「あ、いえ」 「お前が小さくなるこたあねえさ、母さんは亡くなったんだって? 色々大変だろうけど 胸張って生きろよ」 ぽんと背中を叩く。 ちょっと待ってろ、温めた牛乳を出してやると言い残して主人は厨房に入っていった。 母が亡くなっている事を宿の主人は知っていた、少年は意外に思う。 客が噂していたのだろうか、それとも父が自ら母の事を言ったのだろうか――思い出話 ででも――少年にはそんな様子は想像できない。 牛乳は温かく、思っていた以上に自分の体が冷え切っていた事に少年は気づいた。 「又のお越しを」 主人の言葉を背に赤毛の男は挨拶を返すでもなく、片手をあげるでもなく、ただ立ち去る。 「お世話になりました」 少年が代わりに振り返り、丁寧に頭を下げる。 人並みの宿賃を払ったのか、無理に値切り倒したのか少年は知らない。 聞いてはいけないことだと思っていたから。 「何を考えてる」 きまぐれか、かつて兵士だった者の勘の鋭さか、男が声を掛ける。 「えと、別に何にも考えてないよ」 下手な返しだ。しかし少年の言葉に男は「そうか」と呟いた。 思えば男の問いに、気安い口調で返せ、なおかつ男を怒らせない者は最早、この世には少年 以外にいないのではないだろうか。 男は少年の頭に手をおき、乱暴に髪を撫ぜる。 「ちっ、俺とそっくりな髪の色しやがって、指も通らねえぐらいにくしゃでくしゃでよー」 それから少年も聞こえないぐらいの声で続ける。 「他はあいつに似てるか……顔や、てんで、戦闘のセンスが無い所や」 頭をがしがしと撫でる姿は傍から見たら仲の良い親子にも見えただろう。 少年はその勢いに戸惑い、薄目のまま見上げる。逆光だ、父の姿は輪郭しか分からず、 当然表情など確かめる術は無かった。
『Roman』に戻る TOPに戻る