こ の 世 界 に  

 あいつが生きている限り、私は煉獄に落ちたままだから……。  はかない笑顔を見せ、恵は船中に消えていった。  恭介は哨戒艇の中から、はっきりとそれを見た。 「ふざけるな……誰が行かせるかよ!また一人にさせるかよ!」  恭介はボートのヘリをつかんで叫んだ。 「船を戻せ!でなきゃ、俺だけでもここから降ろせ!聞いてんのかよ」  乗組員の男たちに向かって吠える、が、通じるはずも無く、錯乱しているとみなされ、 恭介は屈強な男たちに取り押さえられる。 「くそ!くそぉ!放せよ!」  押さえつける男たちの腕の隙間から、炎上する船を睨みつける。  と、思いも寄らぬ方向から叫び声が現れた。 「きゃー!!いやぁー!ここからおろしてぇ」  明乃が。 「やだぁー!どこに連れて行く気ぃ」  珠美が。 「なにするのよ!触らないで!」   可憐が。  次々と騒ぎが起こりだす。乗組員たちが一瞬対応に詰まり、恭介を抑える手が緩む。 戸惑う恭介に明乃が目で促す。「行け」と。乗組員がパニックに戸惑う中、恭介は海 に飛び込む。  その背中に明乃は声をかける。 「恭ちゃんならきっとできるから!信じてるからね。恵を、私の親友を必ず連れて帰っ てきて」  いざという時にストレートな言葉を出せるのが、明乃の強さかもしれない、と恭介 は思う。  ふと、恭介は振り返る。ちはや。本当なら一番に守らなければいけないはずの存在。 船へのはしごを上りながら叫ぶ。 「ちはや、すまん!」  いろいろな思いを心中に残したままで、恭介は船に乗り込んでいく。  ちはやは、その恭介の背に向かってそっと呟く。 「言い訳は帰ってきてから聞くからね。だから、お兄ちゃん――」  それから指を組み祈りを捧げる。可憐がちはやに声をかける。 「――あ、そうだ、ちはやちゃん、プラチナの指輪もらったでしょ」 「え、はい」 「あれ、わたしのなんだ。返してくれない」 「あ――はい」  もしかしたら形見になるかもしれない、そんな不吉な考えを振り払うように、急いで 指輪を外し、渡す。  可憐は軽く微笑んで受け取ると、自分の肩越しに背後へとリングを投げた、海の中へ。  ポチャーン。  騒がしいボートの上からでも、その音は皆の耳に届いた。 「え、えー!何してるの!?」  明乃が頓興な声を上げる。ちはやから取り上げたと思ったら、そのまま海に放り投げ てしまったのだから無理もない。 「ん、何かもう縛られるの、やめよって思ったの。それとついでにおまじないしたのよ。 肩越しにコイン代わりに指輪を水の中に投げ入れて『また二人に、恭介と恵に会えます ように』ってね」  可憐は胸を張り、得意げに答える。 「姉ちゃん、それ色々と間違ってる」  珠美があきれ顔で言う。 「いいのよ、細かいことは」  両手をひらひらとさせ、すっきりしたという事をアピールする可憐に、珠美が言葉を 続ける。 「それにだな、どうせなら―――婚約者に『指輪は海に投げ捨てました』って言うより も黙ってそのまま突っ返したほうがインパクトがあったと思うんじゃがの」 「あ、そうか、しまった!ねぇ、珠美、『海の中に落とした指輪を見つける裏ワザ』と か知らない?」  慌てて可憐は海を覗き込むが、見つかるはずもなく、あきらめて顔をあげる。  眼前には燃えゆくバジリスク号。その炎に少女たちの顔は照らされて…。  だしぬけに珠美が両手をメガホンのような形にして、大声を出す。今はもう船中に いる恭介に向かって。 「恭介ぇ、戻ってきたら、映画一回くらいはおごってあげるよー。ポップコーンは半分 こだけどねー!」  明乃も精一杯声を張りあげる。 「恵ぃ、夏物一掃セール、一緒にいく約束守ってよねぇ!」  他の娘たちも各々の思いを込めて、船に向かって叫ぶ。 「――恭介ぇ」 「――恵ぃ」  少女たちの声はいつまでも響き続けた。船中の二人に届こうが、届くまいが。   ***********************    船中で、悲壮な決心を固めた、そんな目をしている恵を、恭介は見つけた。 「恵!」  黒塗りの剣を手に駆け寄る恭介を見て、ほんの一瞬、恵は喜びの感情を目に宿す。  しかし、次の瞬間、その瞳はさらに悲しみの色を深めた。 「どうして…どうして戻ってきちゃったの!危ないのに!」 「そんな、母さんみたいに怒らないでくれよ」  とぼけた調子で返す。それでも恵の眉間の皺は取れない。仕方なしに恭介も真顔で 答える。 「奴の息の音を止めるのは、俺の仕事だ」  恵はその言葉にすがってしまいそうになる気持ちを押さえ込み、両手のこぶしを握 り締めて、叫ぶ。 「駄目!やっぱりあなたは手を汚しちゃいけないの!恭介に地獄を覗かせたくないの!」 「もう、とっくに地獄に落ちるだけの罪は背負っているさ。―――怠惰の罪を。犯す ためだけに人を殺し続ける男を、いや、狂った獣を、俺は檻に入れただけで満足して いた。怖いからと言うだけじゃなく、ただ、嵐を自分の身に受けるのを避ける為に…… 俺は、もう、逃げない。だからっ!」  パチ、パチ、パチ  拍手の音が聞こえる。階下から。 「なかなか面白かったよ、少年」  岸田が心底愉しんでいるかのごとく陽気な声をかける。 「このまま、挙式。それからあの世へハネムーンかい。君達が一緒のところに行ける とは思えないが」  恭介は岸田を見据えたままで、右手を恵へとのばして言う。 「恵、拳銃を俺によこせ、奴は俺が間違いなく殺す」  いかにも愉快そうに片眉を上げ、岸田が声を上げる。 「うるわしきは極限状態の愛の形か!だが恵、少年に渡すのはやめておけ。所詮彼に は人は殺せない。『お前』とは違う」 「恭介、お願い」  挑発には乗らず、恵は自分が持っていた銃を渡す。確かな重みを恭介は感じ取る。 「恵は帰り支度をしてな、こっちはじきにけりがつく。きっとこいつが救命ボートの 準備をしてるさ、自殺を望むほど愁傷な奴じゃない!」  恭介は一気に岸田へと駆け寄る。 「ほざけ!」  岸田が剣を振る。が、怒りに任した振りなどそれほど怖くない。しっかり、自分の 持っている剣でその一撃を受け止める。  ガチーン、チーン、ガチッ、ガッ、ガッ  何度となく剣を交わす音が響く。そして、つばぜり合い。顔を付き合わせる、と、 岸田が、不意ににっと笑い、恭介に言う。 「お前の妹の味も、存外良かったよ。未成熟なところが逆にな」 「…そんなのに引っ掛かるかよ」  ぐぐっと恭介がわずかに押す。 「まぁ聞け。妹はな、俺に犯される時『初めてはお兄ちゃんが良かったのに』って 叫んでいたよ、色男」 「な……!」  恭介は思わず動揺する。その隙を岸田は見逃さない。すかさず、恭介の手から黒塗 りの剣を弾き飛ばす。 「おしまいだ!この青二才!」  剣を岸田が振り上げる。  ドシュ  鈍く、それでいてはっきりした音が恭介の耳に届く。岸田洋一の腹に矢が突き刺さる音。 「くぅ、な、何だと……」  岸田が倒れ付す。恭介が上を見る、恵。あの時、恭介の手からはじかれたクロスボウを 携えて。恵が叫ぶ。 「恭介!ボートにキッチンの食料と水、詰め込んだから!ついでにアシストさせてもらっ たけど!」 「サンキュー。それじゃ、待ち合わせはボートの中な、先に行ってて、俺は止めを刺し てから行くから」  恭介はまるで恋人同士が放課後の約束をするような気楽な言い方で言った。  ほんのわずかの逡巡のあとこくりとうなずくと恵は走っていく。恭介は自分をにらむ 岸田に、遠慮のないけりをくらわせる。顔に、最も痛むであろう腹に。それからその腹を 思い切り踏みつける。 「ぐがぁ……」  やがて声を上げることすら岸田は忘れる。目に服従の色すら浮かべて。  恭介はあらためて銃を構える。  照準をしっかり合わせ、深呼吸を一回――ためらいではなく――狂気という言い訳を使 わないために。正気のままで確かにこの男を殺すために。  そして、恭介は引き金を引いた。 ***************************  救命ボートの中二人は揺られていた。恭介は恵の膝枕に満足げにしている、まるで昼寝 中の子猫のように。頭上から恵が話し掛ける。 「案外、私一人でけりはつけられてたかもよ。むしろ二人で救命ボートに乗ることになっ て、生き延びる可能性が減っちゃたかもね」  恭介が答える。 「それでもさ。もし、恵が絶対に大丈夫ってわかってても、俺はきっと船に戻っていた」 「何で?」  ごろん。恭介は膝枕されたままで背中を恵に向ける。少しふてくされたように。 「だって、言っただろ。『恵の事を守る』って。いつだって恵は言うこと聞いてくれない けど、覚えてくれてるかも、あやしいけど」   くすくすと恵が笑う。恭介は言葉を続ける。 「お前の背中はいつだって俺が守るから」  恭介は再び寝返りをうち、顔を恵のおなかに押し当て、呟いた。 「……だから、俺のいない世界なんか、もう選ばないで」  まるで、母に泣きながら訴える子供のように、そのまま、ぎゅうっと恵を抱きしめる。  恵はそんな恭介の髪を、ただ黙ってなでてやる。それから、やさしく微笑んで目を閉じる。    ブォー ブォー  船の汽笛の音が近づいてくる。二人はたゆたう夢の中でそれを聞いていた。                 ―― 了 ――

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