告 白 以 前まだ、子供だった頃。はずむ君に出会う、ずっとずっと前の事。 日曜日、お母さんに手を引かれ、私は歩行者天国を歩いていた。 「はい、お嬢ちゃん。鳩さんの風船はこれが最後だ」 そこで風船を買ってもらった。 「ありがとう」 そう言いながら、風船売りの人から青い地に大きく一羽の白い鳩のシルエット が描かれた風船を受け取った。 「おかあさん、ほら!」 私は目を輝かせて、お母さんに見せる。 「気をつけなさい、すぐに飛んでいっちゃうから」 優しく言いながら腰をかがめて、風船を私の手首につけてくれた。 「わかった、大事にする!」 私の元気のいい返事に、お母さんは微笑みながら頷いてくれた。 風船を買ってもらって私は相当浮かれていた。足は自然にスキップをしていた ぐらいだ。 お昼時にはテラスのあるレストランに入った。少し肌寒かったけど私達はテラ ス席を選んだ。 『鳩さんは、きっとお外がいいって言う、だから、お外があるレストランがいい』 私にしては珍しいわがままだったけれど、お母さんはそれを許してくれた。 あまり自分の気持ちを言う方ではなかったから、むしろ嬉しく思ってくれてい たのではないだろうか。 「ご飯を食べてる時には外さないとね」 お母さんは私の手から風船を外すと、自分の椅子の背もたれに丁度あったでっぱ りの所に引っ掛けた。 「お母さん、ちょっとお手洗いに行ってくるけど」 「うん、じゃあ、私は鳩さんと一緒に待ってる」 頬杖をついて向かいの席の風船を見つめる。飽きることなく見ていた。 ただ、椅子の角に引っ掛けてあるだけで不安定そうなのが気になった。 椅子から飛び下りると、風船を掛け直そうと糸に触れる。 「あっ」 私はうっかり風船を外してしまった。不幸中の幸い。風船は近くの木の枝に引っ かかってくれた。枝はそれほどの高さではなかったけれど、それでも子供の私が いくら飛び跳ねても届かないぐらいの、微妙な高さだった。私は辺りを見回す。 お客さんはいない。 男の店員さんがテーブルを拭いている。男の、人。それでも、私は勇気を振り 絞ってその人に背後から声をかける。 「あの……」 「どうしたのかな」 多分その人の口調はけしてきついものでは無かったと思う。 けれど私の気が動転していたせいだろう、振り向いた男の人の顔はいつもにも増し て曖昧でのっぺりとして見えた。丁度ゴム風船のように。 「え、えと……なんでもない」 怯えた私は下を向いて、やっとそれだけを言う。 「そう」 お昼時で忙しいのだろう男の人は私にそれ以上問う事も無く背を向け、店内へと 入っていく。 お店のドアがバタンと閉まる。 その瞬間、ひゅうっと風が吹いた。 かろうじて木に引っかかっていた風船の糸がほどける。 上向きの風に乗って風船はどこまでも高く高く。 「あ、あ……」 『大事にする』と宣言した鳩は今は大空のものになってしまった。 私はただ仰ぎ見ていた。大事にしたいものがいかにあっけなく失われるのかを 目の当たりにしていた。 「やす菜」 戻ってきたお母さんが声をかける。 「お母さん……」 怒られるかもしれない、私は俯く。 私の前でお母さんがしゃがみこみ、私の頭を撫ぜながら言う。 「ごめんね、やす菜、もっとしっかりつけておけばよかったわね」 心底すまなそうに。 慌てて首を横に振りながら答える。 「……違うの、私がいけないの、私が気にして触ったから……」 そこまで言って私はやっと涙を流した。一旦流れ出すと、なかなか止まらず、 喉の奥から震えるような嗚咽まで洩れだす。 大事なものを大事なもののままに、変わらずに、手元に置いておく事。 その難しさを心に焼き付けながら、私はお母さんにしがみつくようにして泣いた。 再び空を見上げる事も出来ないままで。 * * * * * * * * 「ふう、ちょっと暑いな。体操服に着替えた方がよかったかな」 それでも昼休みに着替えまでしてるのも大げさだし。 僕は軍手をつけたままの手でネクタイを緩める。 「はずむ君、やっぱりここにいた」 振り返ると後ろに手を組んで微笑むやす菜ちゃんがいた。 「手伝うね」 いつものように茶色くなった葉を取り除きながら、おしゃべりをする。 僕はふと思いついて、脇に置いておいた鉢をやす菜ちゃんに掲げてみせな がら言う。 「そうだ。この鉢、持ってっていいよ」 「本当!?……あ、でも……」 一瞬喜びながら、それでも遠慮しようとするやす菜ちゃんに僕は懸命に話す。 「ちょうど株分けして根付いたからさ、他の部員の子達も友達にあげてるし、 平気だよ。日当たりのいいところに置いて、水はたっぷり目にあげたら大丈夫 だから」 僕はやす菜ちゃんの笑顔が見たい一心で、いそいそと手提げつきの透明なビ ニール袋に入れて渡す。 「はい、どうぞ」 「ありがとう……うれしい」 やす菜ちゃんは大切なもののようにそっと鉢を抱え込む。 その姿がいとおしくて、まぶしくて、僕は目を細めて彼女を見つめる。 いつまでもこの時間が続いてくれたらいいのに。 そんな事をぼんやりと考えながら。 * * * * * * * * 「なあ、物理の中尾、ひでーと思わね?俺がわかんねーのにわざと指すしよ」 「はは」 放課後、また、屋上。僕は今度は明日太の話を背中で聞きながら、水まきをする。 そっと目線を向かいの校舎に移す。 窓際の人影、フルートを奏でるやす菜ちゃん……。 「神泉ってさ」 「えっ!」 明日太が出した話題のタイミングの良さに、あるいは悪さに、僕はつい声をあげる。 多分、ギクッとするように両肩も動いてた。明日太はそんな僕の様子に頓着してな い様子で言葉を続ける。 「はずむとはよく話してるんだよな」 「うん、そうだね」 やす菜ちゃんはあまり男子と話すほうじゃない。用事があったら話すけど、自分か らはまずない。多分、クラスの女子と比べても、僕はよく話してるほうだろう。 二人でするのは別にたいした話じゃなくて、本当に他愛のない話、それが逆に嬉し くて。 「はずむってさ……」 「……うん?」 「神泉の事好きなんだろ?」 「ええっ!」 明日太の言葉に驚いた僕はホースを持ったまま振り返る。 「うわっ、冷てえ!」 「あ、ごめん!」 慌てて手元のノズルを『止まる』にしてから、フェンスに引っ掛けておいた タオルをとり、明日太に渡す。 「なあ、そうなんだろ」 タオルで濡れたところを拭きながら、僕の顔を覗き込むようにして聞く。 「……うん」 水をかけてしまった手前、ごまかす事もしにくくて、僕は正直に答える。 「やっぱりな、そうじゃないかと思ってたんだよ」 明日太がにっと笑うと、満足げに頷く。 別に僕をからかうネタにしようとか、そういうことを考える奴じゃない。うん、 やっぱり明日太っていい奴だと思う。 「神泉ってはずむといる時が一番楽しそうなんだよな」 明日太がタオルを元のフェンスに掛け直しながら言う。 「そうかな」 曖昧に答えながらも、僕には確信があった。 僕らは――僕とやす菜ちゃんはどこか似ている。 それは例えば、目と目を合わせて、何となく微笑みあう時に。 花たちと触れ合ってる時に。 屋上で二人、風に吹かれている時に。 きっと、同じことを感じている。 僕らはどこか深い所で通じ合っている。そう思っていた。 だからこそ、僕は、やす菜ちゃんの持っている不思議な力――植物達をも元気 にするフルートの力の事を誰にも、彼女自身にも、秘密にしていた。 僕だけが知っているやす菜ちゃん、それを自分だけのものにしておきたくて。 「好きなら告ってみりゃいいのに」 何気ない感じの明日太の提案に、考え事をしていた僕は急激に我に返る。 顔を赤くし、両手を胸の前でブンブンと振りながら言う。 「そんな、僕なんか」 明日太はこともなげに返す。 「脈ありそうじゃん、俺だったらいってみるけどな、駄目もとでも」 「う……ん」 僕が感じていた幸せな時間。それをやす菜ちゃんも共有できていたのなら。 「そっか、そうだね……してみようかな……」 「よーし、それでこそ男だ!」 バシンと明日太が僕の背中を思い切り叩く。 「いたいなー」 ぼやきながら、僕はやす菜ちゃんの笑顔を心に浮かべる。 もし、僕の告白を彼女が受け入れてくれたら、二人の距離はもっと近づいて。 これから、もっと一緒にいられる。それはきっと……。 * * * * * * * * 男の人が女の人を呼び出すという事。 意味がわからない訳じゃない。それらしい手紙をもらった事は何度かあったから。 ただ、実際に書いてあった場所にまで足を運ぶのは初めてだった。 放課後の屋上で私に会おうとしている人がいる。恐らくは告白をしようと。 何のために私は屋上に向かっているの?……答えるために。 答えは出ている、の? 階段を上る。不意に屋上の入り口から強い風が吹き込み、私の髪を遠慮なく乱す。 私の心も乱れているの? はずむ君はもう、屋上に来ていた。こちらに背を向けて、そわそわとした様子で 植物達に何か話し掛けている。 キイッ 扉は開いていたけど、わざと扉を押して、音を立てる。 はずむ君が振り返る。 「あっ、やす菜ちゃん、待ってたよ!」 「ごめん、待たせちゃって」 「あ、いや、今の『待ってた』はそういう意味じゃなくて!」 赤い顔で慌てる様子がいつものはずむ君のようで、でもいつものテンションとは やっぱり違っている。 見ている私が分かる程の大きな深呼吸をしてから、はずむ君が私の方に向き直る。 「あの、やす菜ちゃん!……え、と、聞いて下さい」 「はい」 「僕は……」 はずむ君の告白。 戸惑いながらも、たどたどしいながらも、その言葉は誠実で、彼の真剣な気持ち が真っ直ぐに伝わってくる。 はずむ君はまるで早すぎる鼓動を押さえ込もうとするように自分のワイシャツを ぐっと握り締める。 「…だから、もし、やす菜ちゃんがよかったら……僕と……」 はずむ君は私にとってかけがえのない人。あなたさえいれば何もいらないほどの。 「……はずむ君」 私は口を開く。自分の気持ちを伝えられたら。全てを告白して、それでもあなたが 受け入れてくれるのなら。ううん、あなたならきっと。 顔をあげる。二人の視線が合わさる。 私の前にいるはずむ君の背後に広がるのは夕焼け色の空。 その空を一羽の白い鳥が横切る。 不意に忘れていたはずの情景が浮かぶ。空に一羽の白い鳥、それは本当は青い風船。 あなたへの思いが凍りつく。 大事だと思ってしまえば、自分のものにしたいと願ったら、いつか失ってしまう。 きっと自分の手で。あの風船のように。 「ごめんなさい」 私は気づいたらはずむ君にそう言っていた。 彼の動きが、言葉が、一瞬止まる。辛くて私は視線を下に落とす。 「――え、ああ、いいよ、僕こそ……」 俯く私の頭上をはずむ君の声が通り抜けていく。 私は気持ちに応える事も、自分の本当の気持ちを伝える事も出来なくて。 「……だから、本当に、気にしないで……」 はずむ君はそれでも優しくて。 それでも、私は。 「ごめんね……ごめんね……」 私は瞳をぎゅっと閉じた。瞼の裏に届く日の光すら消してしまうように。 ただ、泣きじゃくっていた。あの日のように。 他に、何が、出来たというのだろう。
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