『 花 の 名 前 』花の名前を知ってしまったら、あなたはもうその花に興味を無くしてしまうのかしら。 私の病を知ってしまったら、あなたは……? * * * * * * * * * * * 念願の音大に無事に入学できて、新しい人間関係にもどうにか慣れてきたように思う。 同じ科の男の人たちへの対応も、必死に耳を凝らしてどうにかおかしな事のないようにし て日々を過ごしていた。 お昼休み。人気の無い校舎の裏側の小さな花壇。傍らにあるベンチに腰掛ける。 仲良しの子達と授業の時間が合わない火曜と木曜のお昼はいつもここでお弁当を食べる。 私の大好きな花が咲いている場所だから。 いつも通り一人でお弁当を食べ終え、今日は友達から借りたMDをカバンから取り出し、 聴いてみる。穏やかな、暖かな独りの時間……と、その平穏を他者に割って入られる。 「隣いいかな?」 声の方を見る。男の人、か。 「どうぞ」 そつのない返事をし、端に寄り席をつくる。ちらりと横を見る。コンビニの袋からパンを 取り出すのが見える。 お昼を食べ終わってからも何かスケッチブックのようなものを広げ、白い紙を睨みつけて いる。立ち去る気はないらしい。 けれどそれから特に話し掛けられることもなく。 私はただ花を見つめ、音楽を聴き、時を過ごした。 たまたまだと思っていたけれど2日後の木曜日、その人はまた、コンビニの袋にバッグを 携え、花壇に来た。 「隣いいかな?」 前と全く同じ調子で。 「……どうぞ」 私も変わらぬ返事をする。 そしてお昼のパンを食べ終え、スケッチブックを取り出す。 「……ここの人じゃないですよね?」 うっかり質問してしまった。彼はこちらを向いて返事する。 「本当は隣の芸大通ってる。ここの雰囲気好きでもぐりこんでるんだ。内緒で頼むよ」 「ええ」 それから後はまたそれぞれの時間。 ベンチでくつろぐ様子は自然で、もしかしたら彼の方が先にこの場所を見つけていたのか もしれない。そんな事を思った。 「神様の泉で神泉か……」 「久しく住むで久住さん、ですね」 「へえ、鹿縞高校だったんだ」 「男子校だったんですか」 「フルートやってるんだ」 「日本画、なんですね」 いつもだったら出会って10分もあれば自己紹介でしているような内容を、私たちはお昼の時 間を何度か繰り返し、やっと知った。同じベンチに座っていても大半の時間はそれぞれの用事 に没頭していた。 それでも違う分野を学んでいるという気安さからだろうか。 自分の内に秘めた思いを互いが口にすることもあった。 「俺はね、純粋に絵だけで食っていきたい」 「私も『できれば』なんて言い訳をしないで、このフルートともに生きていきたい…」 友達にはきっと青臭いと言われるだろうから、そう久住さんは言った。きっと笑いながら、 それでも真剣な目で、きっと……多分。 何となく、話をしている男の人のほうを見て話す、そんな動作も大分自然になったと思う。 以前は無機物の物に話し掛けるような気持ち悪さが拭えなかったけど、今は一人の人として 見れるようになって平気になってきた。 それでも久住さんの方を見て話をするのは辛くて出来なかった。 確かに私に向かって話し掛けてくれる彼の事を、自分は感情を持って接する事ができない ようで。それが切なかったから。 久住さんは私にとってもっとも近しくない異性、だからこそ一番よく話せる人となってい るという事、それを自分でも理解しているくせに。 スケッチブックを抱きかかえるような格好をして、ぼんやり花を見ていた久住さんが、独 り言のようにして呟く。 「あの青い小さな花、なんて言うんだろう」 「ネモフィラ」 反射的に私もまた呟く。 「え…」 「あ……ネモフィラ、です」 「そっか……」 独り言だったのだから無視してしまえばよかったのに、つい答えてしまった。 あの花には特別な思いがあったから。 はずむ君が私に初めてプレゼントしてくれた――やす菜ちゃんみたいだと思うからあ げるね――と言ってくれた花だから。 街中、新しい楽譜を抱え、浮き立った気持ちで帰路につこうとする私の肩を誰かが叩く。 振り向く。輪郭だけの人。その人は無言のままで。 だから私はただ身を硬くして、構えるしか出来ない。わずかの沈黙の時間の後、声が聞こ える。 「ちぇっ、覚えててくれないか……ほら火曜日の昼、花壇のところで会う…」 「あ……あぁ」 仕方なしに私は今思い出したような表情を作って見せる。 頭を掻きながらその人は言う。 「ま、普通の顔だからな、目が二つに鼻が一つで…でも、ここの目尻のホクロは結構特徴に なってると思うんだけどな、それに…」 「ごめんなさい」 会話が続きそうになるのがいやで、私は言葉の途中に頭を下げる。 彼は慌てて答える。 「あ、いや、言ってみただけだから、また、火曜日に!」 その人は手を元気よく振りながら背中を向ける。 「えぇ……」 私もまた手を小さく手を振って答えた。 街で会った日から二人の会話はなお一層減ったような気がする。 私が普通であったなら、こんな事にはならなかったでしょうに。 自嘲の声が胸の中、反響する。 「俺の事、もうちょっとまともに見てくれてもいいんじゃないか…別に俺、神泉の事、 取って食おうとか思ってたりしてないぞ」 ある日彼は言ってしまった。半分軽口で、恐らくもう半分は真面目に。 私は下を向いたまま答える。 「……無理です」 「何で?」 「私ね、見えないんです。男の人はぼんやりとした人影としか」 何で私は言ってしまっているんだろう。友達にすらひた隠しにしている病の事を。 言葉が止まらない。 「そんな曖昧な視線を向けるのって、久住さんには出来ません」 そう、それにそんな視線を向けたら、すぐに心の内を見透かされそうに思えていたのだ。 「昔、一人だけ見ることが出来る男の人はいたけど…」 「あの…神泉、その話って本当の……」 久住さんが掛けてくれる言葉を私は強引に打ち切る。 「ごめんなさい、さようなら」 私はベンチを立ち、そのまま午後の授業に向かう。振り返らずに。 これからは違う所でお弁当を食べることにしよう。もう、ネモフィラのシーズンは終わっ てしまったのだから。 火曜と木曜のお昼を空き教室で取るようになってから3週間ほど経った。 少しずつ今のペースに私は慣れていく。 フルートの実技の授業が終わり、教室を出る。 生徒達の声、ざわめきの中、場違いな音が響く。 パチパチパチパチ……。 まるで一人スタンディングオベーションでもしているかのような、熱心な拍手の音。 「神泉っ」 その声は。 「――久住さん」 私の友達は皆、目を丸くし、小さく手を振ってこの場を離れていく。 「神泉の音、届いたよ、俺の耳に。凄い良かった!」 「何でここに?」 「あ、校舎もぐりこんだのに、騒いじゃまずいよな」 「そうじゃなくて……」 いつか私が彼の言葉を聞かなかったことへの仕返しのように、久住さんは無視して 言葉を続ける。 「俺さ、前に花の名前聞いたろ?」 「……」 黙って頷く。 「ずっと知りたかったんだ、でもさ、絵描きやってるくせに名前知らないのってなん か格好悪くてさ。でも何でか調べることもしなかった」 フゥと一つ息をつくと私のほうに顔を向けて言う。 「今ならわかるよ。俺、神泉に聞きたいと思ってたんだ」 「私に?」 多分、大きく頷きながら久住さんが言う。 「あぁ、絶対知ってると思ってた。神泉がその花を見る時はいつだって愛しいものを 見るように優しかったから」 「あ……」 そんな話、一言だってしたことはなかったのに。 「花の名前を聞いて、神泉にも出会えたような気がした、それで絵を描いた」 そう言って脇に抱えていた風呂敷包みを胸の前に掲げる。 「この絵を廊下に置いて、黙って出て行こうと思ってた。でもやめた」 「何で?」 「神泉の音楽聞いたから」 「私の――」 「初めて聴いた神泉のフルートの音が勇気をくれたんだ」 私の――あの人の顔が一瞬よぎる。私のフルートの音色が元気をくれるといってく れた、あの人の笑顔。 久住さんがこの言葉を言ってくれた事が嬉しくて、でも胸が苦しい。 「どうした」 胸を押さえて俯く私を、久住さんが気にするように上から覗き込む。 どうにか立ち直る私の目の前にさっきの風呂敷包みが突き出される。 「受け取ってくれるか」 「は……い」 風呂敷包みにレポート用紙が貼られ、そこにマジックで『神泉へ』と大書きで描い てある。 「開けてくれ」 久住さんがせかす。 私は風呂敷を解いて中を見る。 「あの花の、ネモフィラの…絵?」 「あぁ、でもこれは神泉だ」 「え?」 「俺はネモフィラの花は神泉だと思ったんだ…変に思うかもしれないけど」 何でこの人は言ってくれるんだろう、はずむ君と同じことを。 駄目だ…涙が…。 久住さんの真剣な思いのこもった声が頭上に響く。 「俺の顔が見えなくたって構わない、そんな事があったって俺の絵は見てくれるんだろ、 今はそれでいいから」 見えない生活を波風立てないように過ごそう、そんな事だけを考えていた大学生活。 見えることが全てじゃない。私は誰かにそう言って欲しかったのだろうか。 ポン。不意に久住さんは自分の右手を私の頭の上に置いた。他人の暖かさを私は久し ぶりに感じる。 「俺は待ってるよ、大丈夫。見えたことあったんだろ、いつかまた見えるよ。俺だけを じゃなくていいから……きっと神泉の世界はもっと広がる」 私は顔をあげ、久住さんを見た。 気のせいかもしれないけれど。 一瞬、幾分下がった目尻と泣きボクロが見えたような気がした。
『かしまし』に戻る TOPに戻る