ア  イ  ノ  カ  タ  チ 

 私は、ゆっくり、ゆっくり、落下していく。  ここはきっと夢の中。  確か穴に落ちたのだ。  何かを追いかけて。  珍しい。  私が何かを追いかけていたなんて。  見つめることが、主義で生き方で全てのつもりの私が。  落下する先を見やる。  闇。底知れぬ闇。  本当にこんな所にあるのだろうか。  自分を曲げてまで求めた何かが。  私が落ちたであろう上空へ顔を向ける。  遥か向こうに、ぼんやりとした光が射しているのが見える。  やわらかな光。私は誰かさんの笑顔を思い出す。  おかしい。追いかけていたつもりが、いつのまに追い越してしまったのだろう。  私は光の方へ手を伸ばしかけ、やめる。  ほんのわずかな後悔といつもの諦め。  そうして私は夢から覚める。 「――これのせいか、今日の夢」  枕元の二冊の本を手に取る。『不思議の国のアリス』と『鏡の国のアリス』。 「それにしたって、私がアリス?」  似合わない事この上ない。  アリスはやっぱり、はずむ君がふさわしい。賑やかな毎日、皆に翻弄されて。  私はチェシャ猫。周囲を眺めやり、ニヤニヤ笑いだけが残せればいい。    休日だけど学校に行く。  約束の本を携えて。昇降口から階段に向かう。  自分の教室のある階を通り越し、上へ、屋上へ。  重い扉を開けると、青空の下に緑が広がる。  緑の中に人影。まるで一枚の絵でもあるかのように植物達と調和する人。  植物達とのおしゃべりに忙しいその人に、私は声をかける。  さりげない笑顔を添えながら。 「はずむ君、持ってきたわよ。読みたいって言ってた2冊」  対して、本を受け取ったはずむ君は目いっぱいの笑顔を見せる。 「ありがとう!あゆきちゃん」  表紙を見て、はずむ君は目を細めて懐かしそうに呟く。 「……僕の持ってたのと同じ装丁だ」 「持ってた?」 本を抱きかかえるようにして、こちらに向かって苦笑混じりに話す。 「捨てちゃったんだ。小6の時さ『アリスは女の子の本だから、もう読まない』とか言っちゃって。 赤毛のアンとかも。勿体無いことしちゃったなぁ」 「『アン』もあるわよ」 「本当?じゃ明日また貸して」  最近のはずむ君は積極的だ。本の事もそうだし、料理も編物も。思い出作りも。  自分に残された時間がわずかだと宇宙人に知らされた日から。  毎日を精一杯に。未練を残さないために。  はずむ君が本のページをパラパラとめくる。その手を止め、呟く。 「――彼が目を覚ませば、お前はパチンと消えちまう」 「『鏡の国のアリス』、赤の王の夢のくだりね」 「うん。この辺読んでると何だか目眩がしちゃって。一寸ぞっとするっていうか。今の自分が誰かの 夢だったらとかさ」 「私――はずむ君の夢だったらいい」  ふと、もらしてしまった私の本音。慌てたりせず、いつものように冷静にフォローする。 「はずむ君だったら、きっと私の事だって悪いようにはしないでしょ?」  からかうような笑顔すら浮かべながら。  はずむ君がぽつんと言う。 「駄目だよ。そんなの」 「え?」  私の戸惑い顔も目に入らず、はずむ君は続ける。  「僕が夢から覚めてしまったら…ううん、僕が夢を見れなくなったらどうするのさ!」  自分の気持ちの動きを隠そうともせずに。  真剣な顔で、私のことを真正面から見つめてくる。  目尻から涙がこぼれていく。  はずむ君はそんな自分に気づいて、焦った様子で俯き涙をぬぐう。 「あ、れ。ご、ごめんね。なんか変だよね、今の僕。秋だからかな、はは」  失敗したな。はずむ君が動揺することぐらい、いつもの自分だったらすぐに気づけたはずなのに。 自分の思っていた以上に、私も平静じゃ無かったって事か。  激しい感情の高ぶりのせいで、涙はなかなか止まりそうにもなかった。  はずむ君の傍に近寄って、私は言う。 「ごめんね、変なこと言って」 「僕こそごめん。勝手に暴走して泣き出して。あゆきちゃんを困らせて。嫌だな、こんな自分」  言いながら、両方の手のひらで涙を拭い続ける。  私はもう一歩だけ近づいて、はずむ君の頭を優しく撫ぜる。 「そんなこと言わないで。あなたはそのままでいいから」  頭を優しくぽんぽんと叩いてあげる。  弟を慈しむ姉のように。   だいぶ落ち着いてきたはずむ君が、それでも下を向いて顔を抑えたままで私に言う。 「ねぇあゆきちゃん。前言ってた事、覚えてるかな」 「何だったかしら」 「肝試しの夜にさ『私は見てるだけでいい』って」  ドクン。自分の鼓動が聞こえた。はずむ君しか知らない私の信念。  あの時の私が出来た精一杯のはずむ君への告白。  動揺を悟られないように、必要以上にポーカーフェイスで答える。 「あれね。どうしたの突然」  はずむ君が顔を上げる。目の周りをまだ赤くして。はずむ君が口を開く。 「僕ね、見つめる事がそのままの愛だってこともあると思うんだ」  分かってくれるんだ、はずむ君は。  私の秘めた思いまではずむ君が知ることはないだろう。自分が選んだ道だ、後悔はない。  それでも言葉が届いた事、その嬉しさで私の感情は激しく揺さぶられる。  この人の前で泣いてしまえたら、どんなに楽だろう。ありえない仮定。自分の心の呟き。    ええ、そうよ。見続ける事は私なりの愛のカタチ。 「でもさ」   少しためらう表情を見せてから、言葉を続ける。  「それは幸せなだけじゃないでしょ」 「え?」 「逃げる事も終わらせる事も出来ないんでしょ、その恋は」  非難ではなくて、深い思いやりから出た言葉。  だから余計に心に鋭く刺さる。 「そうよ。いけない?」  踏み込んで来てくれたはずむ君を拒絶するように。意地悪な私。  私は髪をかきあげ、背中を向ける。  きっと、はずむ君は落胆した顔をしているだろう。それを見たくなかったから。 「いけないよ」  私の背に向かって、はずむ君が言い切る。驚いて振り返る。  両の拳を握り締め、まっすぐ私のほうを見つめている。 「辛いのは駄目だよ。あゆきちゃんが辛いままなのは――僕が嫌なんだ」  はずむ君の未練には私の事も入ってたのか…嬉しいなんて思ったらいけないのに。 「でもね。いつまでも、見続けたりなんかしないかもよ?意外にすぐに冷めたり、風化しちゃったり――」 「あゆきちゃんがそんな人を好きになるなんて思えない」  いつものどこか押しの弱いはずむ君じゃない。  私は私で『そんなの買いかぶりよ』と笑ってごまかすことが出来ないでいる。 はずむ君は知らない。生き延びる方法がある事を。次来る冬も春もこの世界にある事が出来るのを。  しかも、そのことを私達が伝えることもできないのだ。  はずむ君が知っているのは自分の運命因子の事だけ。 『今すぐ言って!あなたが共に生きたい人の名前を。お願い』  私は叫んでしまいたい衝動をこらえる。   違う、そうではない、私が今すべきなのは。  はずむ君は私の幸せを願ってくれた。  それなら。自分の本当の願いは何だろう。私は目を閉じる。 「……どうしたの?」  不安げなはずむ君の声がすぐ近くに聞こえる。  あった、出来る事。私はゆっくりと目を開けて言う。 「じゃあ、こうしない?」  私は普段通りの余裕のある笑顔を浮かべてみせる。 「はずむ君がとまりとやす菜への気持ちをはっきりさせて、選んであげる。そうしてくれたら、私もや めてもいいわよ『見つめるだけ』」  「僕の…気持ち」   急に問題が自分のことに移り、はずむ君は戸惑う。 「自分勝手ね、私。変わらないでいいと言ったのに。その端から『決めてあげて』なんて」 「二人のために?」  私を見つめるその瞳は曇りなく、一瞬、全てを見透かされたように感じる…そんな訳ないのに。  エゴイストな自分と迷い無くはずむ君を慕うとまりとやす菜の姿を私は心に思い浮かべる。  そして答える。微笑んで。 「ええ、そうよ」   はずむ君には聞こえない小さな声でそっと呟く。  「そうしてくれたら、次の恋を見つけてみせるから、きっと」      あなたが羽ばたく姿を私はまだ見つめていたいから。  そのためだったら、自分の生き方なんていくらだって変えてあげるから。  お願い。奇跡を起こして。    そんなはずむ君を見届けられたら、私も歩いて行ける。そんな確信を持って。

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