それは何気ない日常のひとコマ。しかし、運命を退屈な日々から激動の渦へと投下する衝撃的な出来事であった。
「ふぅ〜……疲れたなぁ……」
 授業も終わり、後は帰宅するだけとなった楠瀬慎一は、首を軽く左右に倒しながら廊下を歩いていた。
 何気ない日常。退屈な日々。
 もっと刺激的な日常でもいいかもしれないが、平和なことに越したことはない。
 海外にいる両親の元へ行けばそれなりに刺激的な日常が送れるだろうが、いかんせん海の向こうは事件が多すぎる。
 やれ射殺事件があっただの、やれハイジャックにあった飛行機がビルに突っ込んだだの、やれ自爆テロが起こっただの、碌なニュースを耳にしない。
 慎一も時々両親がそんな物騒な事件に巻き込まれやしないか心配するのだが、そんな物騒な事件に巻き込まれても目を輝かせそうなお気楽な考えの両親の姿を思い浮かべると、ついつい楽天的になってしまう。
 そんなこんなで、現状の自分に満足してしまうのだ。平和が一番、と。
 だからこの時の慎一の頭の中も、夕食のことで頭がいっぱいであった。
 最近はインスタントが続いてるのでたまには料理を作って食べようかなぁ、などと。
 そして曲がり角に差し掛かったとき。
「!?」
 不意に慎一は、胸の辺りに軽い痛みを覚えた。
「きゃっ!?」
 その痛みの原因は、かわいらしい声を上げながらニ、三歩後ろへと下がる。
 それが人にぶつかった痛みだと理解するのに、慎一は少しばかりの時間を要した。
「あっ……だ、大丈夫!?」
 慎一は慌ててぶつかってしまった相手に声をかける。
 ぶつかった相手は、かわいらしい顔立ちをした小柄な女子生徒であった。
「えっ……あ、あの……ゴ、ゴメンなさい!!」
 その女子生徒は顔を真っ赤に染めると、大げさなくらいに頭を下げて反対方向に走りだし、あっという間に姿が見えなくなってしまった。
「ちょ、ちょっと……」
 独りその場に残された慎一は、呆然とその少女の姿を見送っていた。
 幸いなことに、生徒の姿もまばらだったため、こんな衝撃的なシーンを引き起こしたのにもかかわらずあまり注目されていない。
「何だったんだ一体……?」
 慎一は首を傾げると、歩き出そうとした。
「なんだったのか知りたいですか?」
 そんな慎一の呟きに、反応する返事が返ってくる。
「えっ?」
 慎一がその声の発する方向を振り向くと、ニコニコ微笑んでいる女子生徒が立っていた。
「そっかー。先輩がつばめのね……ふんふん……」
 少女は慎一を隅々まで見回しながらウンウン頷く。
「君は……?」
「あっ、自己紹介が遅れました。私、1年B組の『氷鉋恵理子』って言います。さっき先輩にぶつかった人は、同じクラスの『二城つばめ』ちゃん。親友が粗相をいたしまして、大変申し訳ございませんでした」
 恵理子と名乗った少女は深々と頭を下げる。
「あ、いえいえこちらこそ」
 慎一も恵理子の調子につられて、ついつい頭を下げてしまった。
 すると恵理子は頭を上げて、クスクスと笑い出した。
「先輩って、面白い人ですね」
「お、俺が?」
「はい」
 恵理子は直も笑い続けていたが、やがて笑うのをやめると、慎一をじっと見つめた。
「先輩、さっきつばめの行動がなんだったのか知りたいって言いましたよね?」
「あ、ああ」
「それを説明するためには、場所を変えなければいけません。よろしいですか?」
「あ、ああ」
「それじゃあ、行きましょう」
 恵理子は一方的に宣言すると、歩き出した。
「あ、ま、待ってよ」
 慎一は慌てて恵理子の後を追った。
 まるで激動の運命に身を投じるかのように……
 しかしこの時、慎一はまだ運命の重大な局面を迎えようなどとは、夢にも思っていなかった。

 恵理子に連れられてやってきたのは、学園の敷地内の片隅にある、使われなくなって久しい図書館であった。
 今現在は新しい図書館が別の場所に建っており、こちらの旧図書館は半ば立ち入り禁止に近い状態になっている。
「さ、先輩。コッチです」
 その閉鎖された図書館の中に、恵理子は入っていく。
「コッチって……」
 戸惑いながらも慎一は恵理子の後をついていく。
 図書館の中は薄暗く、埃とカビの臭いが立ち込めていた。
 そんな中を恵理子は慣れた足取りで進んでいき、地下へと降りる階段を降りていく。
 そして恵理子と慎一の目の前に、大きな鉄製の扉が現れた。
 その場所にあるのが不釣合いなほど頑丈そうで、まだ新しい。
 すぐ近くにはなにやらコントロールパネルらしきものがある。
「先輩、ちょっと下がっていてください」
 恵理子はカードキーを取り出すと、そのコントロールパネルにさっと通して、番号を打ち込んだ。
 すると鉄の扉はギギギと鈍い音を立てながら動いていく。
 そして通路が現れた。
「こ、これは……?」
「さ、コッチです」
 面食らう慎一に恵理子は悪戯っぽく笑うと、更に先へと進んでいく。
 そしてしばらくも歩かないうちに、今度は木の扉が現れた。
「先輩、つきました」
 恵理子はニコニコしながら扉を開ける。
「えっ!?」
 そしてその先に現れた光景をみて、慎一は絶句した。
 まるで地下にあるとは思えないような、きちんとした部屋になっている。
 フローリングの床に、木目調の壁。
 それはまるでどこぞの店のような感じで、明るいライトに照らされた陳列棚には、様々な物が置かれている。
 部屋の隅にはカウンターがあり、レジまで置かれていた。
「こ、これは一体……?」
「ようこそ。あたしのお店へ」
「あたしのお店?」
「そうです。あたしのお店です。もっとも、先輩で二人目ですけどね。お客さんは」
「二人目?お客?」
「えっと、つまりですね……」
 頭の中が混乱する慎一に、恵理子はわかりやすく説明をした。
 この地下にある店は、自分が父親に頼んで作ってもらったこと。
 その父親が他でもない、聖丘学園の理事長だということ。
 何でこんな地下にこんな店を作ったかと言うと、どうやらそれが今の流行らしいということ。
 ここには店の外に、様々な部屋があると言うこと。しかも土足厳禁だということ。
 この店で売ってるのは、恋愛成就関係のものらしいということ。
 慎一が2番目のお客で、1番目のお客がつばめだということ。
 この店は会員制なので、会員しか買い物が出来ないということ。
 会員はこの店を他の人間に漏らしたりしたら、即退学になるということ。
 などなどなどなど。
 これらの突拍子もない話に、慎一は頭の中で整理、理解するのに、かなりの時間を要した。
「……で、どうして俺がこんなところに連れてこられたんだ?」
 ある程度の整理が終わった慎一は、真っ先に思い浮かんでいた疑問を口にした。
「もう。わかってないなぁ」
 恵理子はやれやれといった表情で大きく溜息をつく。
「いい?女の子が男の子にぶつかる時は、大抵意図的なの。つまり、つばめは先輩に気があるってことよ!」
「そうかぁ?」
 慎一はつばめにぶつかった時の事を思い出して、首をかしげた。
 あれはどうみても偶発的なもので、とても意図的だったとは思えない。
 しかし恵理子はふぅっと、大きく溜息をつく。
「先輩はぜーんぜんオンナ心がわかってないんだから。そんなんじゃダメ!」
「ダメって言われても……」
「というわけで。このお守りなんかどう?今ならサービスするけど。ペアルックのお守りなんて、ステキじゃない?」
「ステキかぁ!?」
 恵理子に勧められたお守りをみて、慎一は嫌そうな顔を浮かべた。
 どこからどうみても、神社で売ってそうな普通のお守りにしか見えない。
「もぅそんな顔しないの!!世の中持ちつ持たれつ、ギブアンドテークって言うでしょ!?会員になった記念に、何か買ってってよー!じゃないとつばめとの仲、取り持ってあげないんだから!」
 いや誰も頼んでないし……といいかけたのを、慎一はすんでのところで止めた。
 この様子では、何か買わないと返してくれそうにもない。
「わかったわかった……」
 根負けした慎一は、おとなしくそのお守りを買うことにした。
「毎度ありー」
 恵理子は笑顔を浮かべながら代金を受け取る。
「アフターサービスはまかしてね」と、不安な一言もつけて。

 そして宣言通り、恵理子はいらないおせっかいを焼いて慎一とつばめの距離を縮めていった。
 ある時は親友として。ある時は店主として。
 それから慎一がつばめ、恵理子と出会ってから、数週間の時が流れようとしていた。


戻る