<2>
結局、その日の授業はほとんど頭に入らなかった。放課後、茂と二人で話しをすることになってしまったのだ。それも、図書室で。
俺はできればほかの場所にしたかったのだけど、そこが一番落ち着くからと茂に押し切られてしまった。屋上なんかの方が人目もないし、ややこしい話には向いていると思うのに……。最も、俺にはややこしい話をするつもりはなかったんだけど。
「それで、工藤はとりあえず今のところ女と付き合う気はないんだよな」
図書室の奥まった場所。昨夜のあの夢と同じような位置で茂は聞いてきた。俺の横に座り机に頬杖をつく様子から、目を離すことができない。俺はその様子に見惚れながらも、こくこくとうなずく。
「……その相手のこと、そんなに好きな訳?他の奴とは付き合えないっていうほど」
俺はただうなずくだけしかできなかった。
「羨ましいね。……千里にそんなに思われてるなんて」
「え?」
今、名前を呼ばれたような気がしたけど、気のせいだろうか? 思わずじっと見つめてしまった目は、すこし沈んだ色をしている。
「話しは終わりだな。少し詳しく聞きたい気もするけど、工藤には話す気がないみたいだし。木田には適当に言っておくから」
ガタンと音を立てて、茂が立ち上がった。子供にするように俺の頭を何度か叩いて、帰ろうと促してくる。
俺は、釈然としないものを感じながらも言われるままに席を立つ。
茂が、余り突っ込んで聞いてこなかったことに少しほっとした。余り、どころか、これでは何も聞いていないのと同じだとは思ったけど、それで納得したのならそれでいい。詳しく話せることなんて何もないんだから。
「工藤?」
ぼんやり、考え事をしながら歩いていた。前を歩く茂の後ろ姿に見とれながら、ふらふらと歩いていたんだ。どうやって彼のことを心から締め出せばいいのだろう、などと考えながら。
「工藤 」
だから、茂の頭が少し下がったとき、彼が階段に差しかかったのだということには気付いた。ただ、だからその後ろを歩いていた俺もすぐ階段にたどり着くのだということには思い至らなかった。
足を踏み外し、階段を転がり落ちながら、俺は茂の叫び声を聞いていた。
珍しく箱庭の森は霞がかっていた。それでも木の実は鮮やかに実っていて、俺はその中で緑色をした実を口に含んでいた。
渋そうだと思った色に反して、その実は凄く甘かった。だけどそれがもたらした夢を、俺はどんなものだったかよく覚えていない。なんだかとてもいい夢だったようには思うけど……。
誰かが髪をかきあげているのが分かった。大きな、少し骨ばった手。自分の手じゃないことは確かで、その手がやさしく額を撫でてくれる。喉を鳴らしたいくらい気持ちよかった。
「千里、頼むから……」
茂の声が聞こえた。俺、また随分幸せな夢見てるんだ。何があったのかよくわかんないけど、茂が俺のこと心配してくれてるみたいだから。そんなこと、現実ではあるわけないから。こんなに切ない声を聞かせてくれるわけがないんだから。
「どうしようもなくても諦められない相手がいるなんて言って俺を落ち込ませた上に、こんなに心配させないでくれ」
茂は何を言っているんだろう? 夢の中の俺たちって、両思いじゃなかったか?
「……茂……」
やっとつぶやくように名前を呼ぶことができた。だけど体は重くて痛いし、まだ目も開けられない。
ぴたりと、俺の額を撫でている手が止まった。息を飲む音が聞こえる。目、開けたいのに、なんで開けらんないんだろう?
「千里、好きだよ。君が誰を好きでも……」
下半身を直撃するような茂の声と共に、熱い息が降りてくる。そっと、唇を被われた。
うわぁああっ。二回目のキスだ。嬉しくて逃がしたくなくて。俺は近くにあった茂の手を掴んでいた。それに、やっと目を開けられそうだ。
「…………え?」
目の前に、凄く驚いたような茂の顔があった。俺はどうやらベッドに寝かされているようで、しっかりと彼の片手をつかんでいる。
かなり、気まずい沈黙が流れた。茂の顔がすぐ前にあって、俺は彼の腕を掴んでて。どうも夢を見ていたって言うよりは現実だって感じで……。そのうえ俺、茂って名前で呼んだような……。いや、それよりもさっき茂は俺に……。
「階段から落ちたんだ。覚えてる?」
俺が掴んだ腕は振り払ったりせずに、茂はそばに引いてきた椅子に座った。
「覚えて……る」
ぼんやりと茂の頭を見ながら歩いていて、階段を踏み外したんだ。道理でからだが痛いわけだ。階段から転げ落ちたからだな。
「それで気を失ったから、とりあえず保健室まで運んできた。頭打ったみたいだから、一応病院に行った方がいいよ」
何でもないことのように茂は付け加える。そんな彼の声を聞きながらも、俺は随分と動揺していた。唇が、身体が熱い。さっきのあれは、本当にキスだったんだろうか? それに、夢うつつで聞いたあの言葉は、本当に茂がいったことなんだろうか?
「……霧島……。さっき俺に何かした?」
それでも茂と呼ぶ勇気はなくて、俺はつい彼の名字を呼んでいた。だって、違ったらと思うと恐い。諦めようと思っていても、きっぱりと振られるだけの勇気はまだない。
「…………キス、したよ」
ぐっと、言葉に詰まる。こんなにきっぱりと言い切られるとは思ってもみなかった。
「……きり……」
「もう、茂とは呼んでくれないの? さっきそう呼ばれたからついうかれてしちゃったけど……」
声を出そうとした俺を押し切るような形で茂は淡々と告げる。
「それとも、誰か別の人を呼んでた?」
自重気味に笑う茂を、俺は始めてみた。いつも明るい笑顔を見ていたから、俺は彼がこんなふうに笑うなんて知らなかった。
「好きだよ、千里。今年になって、ずっと千里のことを見ていた」
言われたことを納得するのに、随分と時間がかかった。俺のこと、好き?
「……う、嘘だ……」
だって、いつも……。
「いつも、俺のこと睨んでたじゃないか。俺と話してるときはいつも不機嫌そうだし、笑いもしないし、無視するし……」
「それはっ」
言われたことが信じられなくてまくし立てる俺を、茂が荒々しく遮った。
「千里が俺のことをよそよそしく『霧島』なんて呼ぶからだ」
茂は吐き捨てるようにいったけど、俺たちは別にそんなに親しかったわけでもない。霧島って呼んだって、別に問題はないはずだ。現に茂だって、俺のことを工藤って……さっきからはずっと名前で呼ばれてるけど。
「夢では俺の腕の中で甘い声でないて、茂って呼ぶくせに……」
悔しそうに歯を噛み締めて茂はつぶやく。
だけど、ちょっと待て。
茂って呼んでるのはいい。だけど、その腕の中で甘い声でなくってのは一体なんだ。
「勝手だってのは分かってるよ。だけど夢の中では目一杯俺に甘えてくれる千里が現実ではまるで思い通りにならない。俺のことを見ようともしない。そう思ったら腹が立った。
それでも、見てることだけは止められなかった」
「ちょっと待てっ!」
勝手にずらずらとならべたてる茂を、俺はベッドを叩くことによって無理やり止めた。
「じゃあ、何か? 俺が茂とキスした夢を見たってだけで顔も合わせ辛い思いしてたっていうのに、お前は俺を、俺を……。そんな夢見て、平気で話しかけてたのかよっ 」
言い終わったと同時くらいに、抱き寄せられていた。髪を、頬を撫でられて、その指が唇に降りてくる。
親指がすいっと唇を撫でて、それに気を取られていると、いきなり唇をふさがれた。
気の遠くなるような、キス。唇を開かされて、舌を絡められて。何がなんだか分からなくなっていた。
「俺とキスする夢、見てたんだ?」
腕に抱えられて、ぼうっとしてしまった俺の耳許に、茂は囁いた。それだけで、さっと顔が赤くなる。
「好きだよ、千里。千里も俺のこと、好きだよね?」
囁かれて、何度もキスを落とされて。思考が溶けていく。だんだん頭が回らなくなってくる。
「千里、俺の名前呼んで……」
口付けの合間に、甘い声で囁かれる。もう逆らう気力も、何かを考える気力すらもなくなっていて、俺は乞われるままに何度も茂の名前を呼んでいた。その度ごとに、ご褒美とばかりに濃厚なキスを落とされる。
ゆりかごで揺られているみたいに気持ちよくて、大きな手に背中やお腹、わき腹を撫でられると、それだけで溜め息が漏れそうだった。
だけど。その手が胸元まで上がってきた所で、はたと気付いた。一体俺たち、何をやって……?
「うわあぁぁっ。ちょっとまったっ」
俺はのしかかってきている茂を必死で押し返した。
そう、ここは保健室のベッドの上で。茂はいつの間にか俺にのしかかってきていた。
それだけじゃない。制服のシャツはズボンから引きずり出され、ボタンはきれいに外されて、肩までぬげてしまっている。ベルトは外され、ズボンのフロントは開いてしまっているし……。
一体、こんな所でどこまでヤるつもりだったんだよっ。
おまけに、「ちっ、正気付いたか」ってのは、一体どういう意味なんだ?!
「キスしただけで夢の中よりいい顔するもんだから、押さえが利かなくなった」
そのうえ睨み付けた俺に、しゃあしゃあとそんなことを言う。
「俺はっ……」
茂のことが好きなんだ。そんな大切なことさえ言っていなかったことに気付いたのは、不遜なことをいう目の前の男を睨み付けている最中だった。だけど、向こうだって正気の俺にはっきりと言ってくれたわけじゃない。寝惚けてた夢だと言われてもしようがない状況だった。
だから、確かな言葉や証が欲しい。たとえ女々しいと言われても。
「好きだよ、千里……」
俺の考えを呼んでくれたかのように、茂が俺を抱き寄せて耳許で囁いた。俺も、と、小さく口の中だけでこたえる。だけど感動できたのはここまでだった。
「……だから、続きヤらせて?」
「ここじゃヤだって、言ってんだろ 」
放課後とはいえ、学校の保健室。いつ誰がくるか分かったもんじゃない。じゃなくて。お互い気持ちを確かめあったばかりだというのに、どうして一足飛びにそこまでいかなければいけないのか。
だけど俺のそんな気持ちをはかることも無く、茂の考えは決まっているようだ。つまりは、ヤりたい、という方向で。俺の口の足り無さも原因ではあったのだけど。
ここじゃ、ヤだって、それはここじゃなければいいって言ってるようなもんだったんだよな。もちろん、死んでも嫌だと思っていたわけではないけど。
「千里は結構人気があるんだよ」
意識がもうろうとして、ほとんど何も考えられなくなっている頃に茂はそう漏らした。あんな状態の時に聞いたというのに、彼の言葉たことは一言一句間違わずに思い出すことができる。
「だから俺は気が気じゃなかった」
そんなことを言いながら、何度も何度も彼は俺のからだを撫でさすった。そうされるだけで、どれだけ茂のことが好きなのかを思い知らされる。
「千里に俺のことを見てもらおうと思って、必死だった」
何もしなく立って、いつだって俺は茂のことを満てた。そう告げたいのに、疲れ切ったからだは声を出すことさえ億劫だった。俺は何とか茂にすりよることでそれを伝えようとしたけど、それすらままならない。
「俺とキスする夢を見たって言ってたけど」
俺の動きに気付いたのか、茂が腰を抱き寄せてくれる。目の前に見惚れるほどに男前な顔が現れ、ちゅっと音をたて頬に口付けられる。
「二度と見るなよ。現物が手に入ったんだ。もう夢で見る必要はないだろう?」
……何だよ、それは?
「……たとえ夢の中だって、千里が誰か他の奴とキスするのは嫌なんだよ」
俺の髪を撫で、視線を逸らしながら、茂は吐き捨てるようにいう。
「……他のって、相手は茂だよ?」
「それでもっ」
飽きれ口調で言った俺を睨み付けて、茂はきつく抱き締めてきた。
「嫌なんだから仕方ないだろう? とにかくして欲しくてもしたくても、目の前に相手がいるんだから夢なんてみる必要ないだろう」
言ってることは正論難だろうけど、夢にまで嫉妬している姿が、なんだかおかしい。こういう所を見ると、茂が、成り行きなんかではなくて本当に俺のことを好きでいてくれているのだと分かって嬉しい。
俺は睨むようにして返事を待っている茂の首に、怠くて動きにくい腕をそっと回した。
「?」
「……、してくれるんだろう?」
俺の行動に首を傾けた茂に笑いかけると、柔らかな唇が降りてきた。その問題の夢を一度しか見ていないことは、この際黙っていようと思う。
その夜。俺は久しぶりに箱庭の森の夢を見なかった。いったいどれくらいぶりだろう、まったく夢のない眠りだった。
そして次の朝。俺は痛む腰を抱えて学校に欠席の連絡を入れていた。
END
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