The point
     
        


   摘み上げた感触には眉を顰めたが、暗赤の瘢痕には何の感慨も無かった。 


―― 美味いのかねぇ?

さぁ、どうだろうな。 

羽ばたきに似たスコールは生温く、俯き曝された項をばら撒かれた小石の感触で叩く。 ばら撒かれるのはなにも、雨粒ばかりではない。 掌ほどの木の葉、木片、油膜のように光る羽根の甲虫の屍骸、そして忌々しく貼り付いては僅かばかりの生気を吸わんとする、おぞましい下等な生き物。 肘に近い死角、吸い上げた血液に丸々と膨れたソレをティガルは引き剥がし、最後に己の腹を満たしたのは何時だったかと、あやふやな記憶を辿った。 



まず、想い出すのは粘膜を刺す腐臭。 

デルタ43、滞在二日目、蕩けた肉塊が泥濘に混じるイェローポイント跡地にて、無残に崩壊した宿舎の下、鼻歌混じりのアイザフは木片に埋もれた子供の頭ほどの麻袋を引き摺り出した。 名を呼ばれ、顔を上げたティガルの爪先で、捕虜らしき肉塊は折り重なり個の境界を失う。 名も知らぬ熱帯の木の下、歪に膨れ波打つ幹に背中を預け、アイザフは自慢の戦利品を高々とぶら下げて見せた。 

「見ろよ、御馳走だぜ」

縮れた黒髪が額に落ちる。 得意気な子供の目で男は笑う。 袋の側面に飛び散る、褐色の染み。 泥でない斑を気に病むまともな思考など、とうに二人とも持ち合わせては居ない。 

ガサゴソとザップから取り出したトレイは万能だけに、多くの出番に酷使され、今や原形をかろうじて留める有り様。 変形したトレイの底、アイザフは饐えた匂いを放つ袋の中身をぶちまける。 ティガルは水筒の蓋を緩め、慎重にそこへ注いだ。 水を吸い、灰褐色に崩れる漆喰のような代用ミール。 後は黙々と指先で捏ね、味気なく何が混ざってるか知れた物で無いそれを掻き集め、夢中で口に運んだ。 うっそうとした密林の奥、鳥だか獣だかが甲高く叫ぶ。 森は生の息吹に満ちていて、ここにそれは無い。 二人は言葉も無く貪る。 指先でトレイの底を丹念に舐り、掬い、ともすれば咽喉に張り付く粗悪な御馳走を、舐め取るように平らげて漸く、浅い溜息を吐く。 空腹が満たされた途端、咽返る臭気に溺れた。

家畜のような食事ですら、くちくなった腹を擦り、うろうろと肉塊を転がすアイザフは役立ちそうな何かを瓦礫の中から探していた。 やがて屈み込み、探り、きらりと光るそれを日に翳す。 瞬時、縮れた髭が僅かに持ち上がり、あの肉厚の唇は笑ったのだとティガルは察する。 手にしたそれをポケットに滑らせ、もう一度屈み込み、もう一つの何かを摘み上げたアイザフは、軽く上着で擦ってから、それもポケットに入れた。 

場違いな場所で聞く、ロマンティックな口笛。 近付く上機嫌なアイザフを眺め、ティガルの指は胸元を逡巡したが、目的の物はとうに無い。 煙草など、五日前に最後だった。 例え粗悪な支給煙草でも、口寂しさを紛らわす事は出来たのだが。 僅かの知覚を麻痺させ、不可逆的な現実から僅か数分の逃避をする。 ささやかな愉しみであったそれも、あの肺胞を満たす酩酊も、今やもう、望めない。 

「上の奴なんて、どこでも気楽なもんさ」

ぽんと放られ受取ったのは、これまた場違いなライター。 グリフィンの羽ばたきを刻み付け、山吹色に光るそれは多分、お飾り将校の場違いな持ち物。 殺戮の現場で、殺戮を監視し、金無垢のライターで紫煙を燻らすというのは、一体どんな気分だろう? 直接手を下す己と、命ずる彼らと、選り重罪はどちらだろうかと、ティガルはぼんやり思った。 まぁ、どちらでも大差ない。 天国には行けないだろう、皆、行けないのだ、だから悔やむ事も悩む事も無い。 神は、きっと公平だ。 皆、勢揃いで地獄へ落としてくれる、そして裁かれるだろう。 大賑わいな罪人の群れ、この数日で何人そこに加わった? 何人俺は、送り込んだ?

真上の陽光に眩み、立ち尽くすティガルの足元、長く深い息を吐き、アイザフが腰掛ける。 アイザフは新しいナイフを持っている。 廉価な支給品と違う、職人が念入りに手をかけた、もっと屠る事に適した、目的を果たす為のそれ。 ティガルは木漏れ日を弾く鋭利な刃先に手を伸ばし、そっと指の腹で触れた。 

「見ろよ、一つも使われないからまるで新品同様だぜ?」

ならばそれは、さっきのライターと同じ懐から出た物なのだろう。 他に考え様も無い。 ここで、そんな飾りをわざわざ身につける阿呆などそう居るものか、殺さぬナイフなど何の役に立つ? パチンと刃先を折り畳み、滑り込ませたポケット。 代わりに取り出したナイフを、アイザフは無造作に放る。 破棄されたそれが、最早使い物にならないのをティガルは知っていた。 居合わせたからだ。 

デルタ43、密林に点在し青・黄・赤と数珠繋ぎに連鎖する三つのポイントを、北から南に一つずつ壊滅させるのが、目下二人の任務だった。 だがそれは巨大な密林を横断するリスクこそあったものの、手際さえ良ければ、そう大した任務ではなかった。 二人には敢えて潜伏する必要が無かったのだ。 堂々と、赴けば良い。 何故なら、二人には肩書きがあった。 アイザフはゼラム第七連邦陸軍中尉の肩書きを持ち、ティガルに関しては中立国であるワラハトにて、少佐の階級にあった。 

長引く内戦に限界を感じたゼラム保守連を、協力の名の元に、密かにワラハトが抱き込む。 ティガルは腕の良い工作員であった。 そしてアイザフは、敵に寝返った裏切り者であった。 珍しい話ではない。 誰かが誰かを屠るのだ。 どちらの誰を屠ろうと、大した問題ではない。 その後己の進路があるならば、より有利な方を選ぶのは至極当たり前の事。 

アイザフ、ティガルは密林を4時間半歩き、難儀したよ、と先のブルーポイントを訪れる。 急なワラハト士官の訪問、付き添ったかを装うアイザフは、内密な話だと責任者たるトレゾ中将に囁く。 でっぷり巨漢を持余すトレゾは、二人に特別のブランデーを振舞い、自ら人払いした最奥の部屋で、たっぷり43ポンドの脂肪層を削ぎ落とした。 アイザフのナイフがスモモの皮のように、腹回りの一群を削ぎ落とす。 薄黄色い断面を曝すそれは、意外なほど出血を伴わなかった。 言葉を封じられ、激痛に引き攣る醜悪な肉塊は、ティガルによって投与される薬物の為、意識を飛ばす事すら叶わない。 

僅か三十分、トレゾは全てを投げ出す。 入手した全ての情報は連鎖の副作用として、数珠繋ぎの三つのポイントを網羅し、二人はいとも簡単に事実上デルタ43を手中に収める。 情報操作は完璧だった。 だから黄・赤の二つは青の壊滅を知らず、常に「異常無し」の偽情報を定期的に受信する、そして本部は在りもしない青からの報告を、「異常無し」と定刻に受信する。 後は、長閑なポイントを二人が訪れて、同じように破壊する、ただそれだけだった。 しかし、一切の交通機関が使えないこの密林を、二人は些か甘く見ていたかも知れない。 飢えと、体力の衰えが唯一のタイムリミットとなった。

「いよいよ南だな、」

腰を上げ、膝をポンポンと叩くアイザフに、南に50マイル弱、とティガルは答える。 

「まわれるのか?」

それにはティガルは答えない。 答える必要のない愚問だと思った。 そう命じられたなら、そうするしかないのだ。 遂行され無い計画は、即ち、死を意味する。 冗談ではない。 今更死ぬ訳には行かない。 これだけ犠牲を払って、うかうか死ぬ訳には行かない。 死にたくは無かった。 生きる為、生き残る為、それが叶うならばどんな下劣な真似でも卑怯な謀でも遣って退けようと思った。 例えば、それは、裏切り。 自ら壊滅させたポイントでの、浅ましい略奪行為。 

アイザフが、麻袋の口を縛る。 残り五分の四のそれが、素直に四日以上もつとは思えず。 既に湿気を含み痛み掛けのそれは、恐らく二〜三日で完全に腐敗するだろう。 ならば、それがリミットだ。 南のレッドポイントをまわり、ここを脱出するのは長くて三日以内。 飲まず喰わずで川を下り味方に合流するには、ぎりぎり二日が限度だと思った。 尤も、生きるだけならもう少し猶予も有る。 しかし、動けるだけの体力は、温存させて置かねばならない。 動き、走り、妨害者を殺すだけの体力を。

「なら、急がなきゃな」

そう、促しつつ動かない長身を、逆光で影になったその辺り、まるで顔の無い巨人のようだとティガルは見上げる。 巨人は片腕を伸ばす。 と、首筋に荒っぽい五指を感じ、引き寄せられ間近に見る影には熱を孕む瞳。 見慣れて見慣れぬそれはティガルの動きを止め、瞼を掠め頬を滑る唇とこそばゆい髭の感触、身を竦める耳朶にアイザフは火のように囁く。

「リミットは、五日だ、」

言葉を認識する間もなく、ぽんと突き放され踵を返す背中を見送る。 ティガルは無意識に頬を撫でた。 アイザフは瓦礫と肉塊をリズミカルに踏みつけ、その背中は何も語らない。 あれは五日後、自分を抱くのだろうか。 叫ぶような鳥の声に促され、ティガルは歩き始める。 追いつかんと歩を早め、あの背中に腕を回し爪を立てる自分を思い浮かべれば、悪趣味な想像に我ながら薄ら寒くなった。 酷く、滑稽。 歪んだ笑みが浮かぶ。 が、それは奇妙なほど、この企ての最後に相応しい、理に適った結末のように思えた。 外道の終わりは外道らしく。 声に出した笑いは力無い呼気に混ざり、地熱に散されれば喘鳴のように消えた。



―― で、何日目だよ?

揺ら揺ら不規則に揺れるそれに、空っぽの胃壁がキュウキュウと縮むのを感じる。 魚より遅く水草よりは若干速く、川幅と水嵩に比べ些か心許無い手漕ぎボートは、緩慢に下流へと向かう。 濡れた衣服が、沸々と温度を上げ始めていた。 殴りつけるスコールの後は、容赦無い灼熱が皮膚を焼く。 ピチャリ、川面に浸す掌を泳がせる。 灰緑に濁る飛沫。 うんざりする生温い飛沫。

あれから。 あれからレッドポイントまでは、滞りなく進んだ。 一昼夜の強行軍の末、二日目の夕暮れ、暢気にボールを蹴飛ばす兵士たちに迎えられ、二人はレッドポイントへ入る。 「あぁ、日暮れ前で何より」そう言って二人を促した男は、土埃と無縁の濃緑の軍服を身につけ、その襟元には中将を示す日輪のモチーフ。 悪目立ちするそれを眺め、ここも容易いと踏んだのだが、どこにでも運の良い邪魔者は居た。 失礼致します、と敬礼もぞんざいに、男は中将と並ぶ二人に近付く。 日没間際の緋色の残光、何事かと静止するグラウンドの兵士達。 男は、アイザフを真っ直ぐに見てこう言った。

「ジョシュア・ルクーを御存知ですね。」

ティガルは、雑多な堆積群からその名を探す。

「ボルテカ08のモルグで、あなたが廃人にした軍医です。」

その言葉に、アイザフが、どんな表情をしていたかティガルは知らない。

占領直後、屍累々たるボルテカ08にて、アイザフはジョシュアに大量の薬物を投与する。 ジョシュアは頭の固い、生き残るに不利な男だった。 正義だの忠誠だの命だのの大切さを未だ信じ、それを貫こうとする、山羊のように穏やかな男だった。 そんな厄介な善人を、アイザフは懐柔しようと近付き、難航し、力技に出た。 しかしながら、男の信念は大したものだ。 ジョシュアは何一つ渡さず、抜け殻のみ残し、あちら側へ向かった。 おかげで、アイザフは追加で二人も殺める結果になる。 とんだツケを払わされたものだ。 

そこに居合わせなかったティガルが、その軍医を見たのは一度きり。 同じくボルテカ04のホスピタル、訪れたティガルは偶然、隔離棟の一室でジョシュアの最後を目撃する。 始めは凄まじい絶叫だった。 細菌室の二重扉を開くや否や飛び込むそれに、ティガルは何事かと研究員に尋ねる。 ぜんまい仕掛けに似た研究員はぎこちない動きでティガルを誘導する。 そして廊下の端、一室の強化ガラス越し、中を指差し言うのだ。 あれは元軍医だ。 精神に異常を来たし一時親元に返したものの、運悪く南国ならではの風土病に罹患し、最早打つ手は隔離のみなのだと男は棒読みに伝えた。

ガラス越し、拘束衣の男がベッド上で弓形に反り返る。 oとEの発音で固められた唇。 ぽっかり開いた咽頭の、赤黒い粘膜の爛れ。 穴倉のような一室、獣のように叫び、泡を吹き痙攣する痩せ衰えた男。 そしてその時、男は一際大きく撓り、強直後の身体をひくひく引き攣らせ、草笛のような呼気を甲高く長く吐き出す。 ヒュウと風音のような吸気、そして泡状に噴出す赤黒い吐血。 すとんと、身体がベッドに沈む。 それきり、疎ましいほどに静寂が残った。 男は、事切れていた。 死は、あっけない。

しかし、それも、半年も前の話。 

死など、そこかしこ、掃いて捨てるほどにある。 ティガルはその後、アイザフと合流し行動を共にする。 一人の男の凄惨な死など、日常的過ぎてとうに忘れかけていた。 そんな今更を何も、ここで、選りによって、

「わたしは、あの場に居たのです」

男は、あの場に居たという。 占領後の混乱と夥しい怪我人の列、収容すべき医療機関も皆無とあらば取り敢えず。 ボルテカは溢れた重病人の一部を死体と一緒、モルグへと収容した。 尤も運ばれたものの処置も受けれず、大半は死体として往来の役割通りにそこを出た。 が、しかし、あの日、男は生者としてそこに居た。 そして全てを見て、聞いて死の淵から戻る。

「あなたが、こちら側だとは思わなかった。」

知らず、息を詰める。

「あなたは、裏切り者だ」

男はゆっくり言い放つ。

「あなたは、ゼラム7を裏切った。」

良い加減な事を言うなとアイザフは声を荒げる。 覚悟は出来てるんだろう?と、頭一つ小さい男をアイザフはねめつける。 しかし、男の表情は、目は、正しいのは自分だ、裏切りものはあいつだと雄弁に語った。 誤魔化しなど許すまじと正義をかざし、その目で見た事実を後ろ盾に、男は目の前の卑怯を静かに糾弾した。 中将が眉根を寄せ、ティガルの表情を仰ぐ。 アイザフが恫喝の声を、もう一度上げようと息を吸う。 だから、ティガルはそうした。

パンと乾いた音が一発。 

一瞬見開いた瞳、言葉すら発せぬ音の無い呻き、崩れ落ちるアイザフの胸元、赤黒い溜まりが赤土に流れるのをティガルは見下ろす。 地に伏す背中はまだ小刻みに揺れ、、浅く微弱な上下を繰り返していた。 呆然とする生き残りの男に、簡単な礼を述べる。 そして、アクシデントにまごつく中将には、この男に煮え湯を飲まされるところだったと伝え、本部へ連絡・確認する為の通信許可をティガルは得る。 転がるアイザフを残し、ティガルは舎監内へと進む。 そして後は同じようなものだ。

人払いした通信室、中将は死を目前に、「一同食堂へ」と収集をかける。 ティガルは手早く成すべき事をし、呼びつけた強屈な兵士に遺体処理の為、便宜上これを運んで欲しいと、赤土の上のアイザフを示した。 担ぐ男と二人、ポイントを後にして数百メートル。 ドンと地鳴りを伴う轟音を背後に聞き、何事かと振り返る男は、額に冷たい銃口を知覚する。 「歩け」 「喋るのは許さない」 斯くしてティガルの数歩前、男はアイザフを担ぎ無言の行進をする。 休みは一切無かった。 真夜中の密林、心許無いハンドライト一つで、男は背後に死を感じ、死に近い荷物を担ぎ、引き摺るように重い一歩を右、左、順繰りに繰り出し、前へ前へと進んだ。 

やがて白みかけた空、靄のかかる川縁、瀕死の男がボートに落とされ、運んだ男が眉間を撃ち抜かれ死を迎える。 ティガルは崩れそうに消耗した身体を叱咤し、誤魔化し、力を込めオールを握った。 早く離れろ、早くここから離れろ、早く、早く、早く。 舳先に頭を変な具合に凭れさせ、ぐにゃりと足をのばし土色の顔で固く目を閉じる男。 ティガルの中で、小さな恐慌が混乱の連鎖を引き起こしていた。 

何故、連れて来た?
何故、ここにこれを連れてきた?

アイザフはしくじった。 アイザフはあの土壇場で、全て台無しになるしくじりをした。 そして、自分はその蜥蜴の尻尾切りをしたに過ぎない。 当たり前ではないか? それが、自分の任務、ミッション遂行の為の当然の行動。 でなきゃ、死ぬのは自分だった。 一体何の為にここまで遣って来た? 何の為に多くの命をも奪った? 目的の為。 目的を果たす為、それに間違いは無い。 しかしこの状況は何だ? 何で、この男を自分はここに運ぶ? そして、どこに連れて行こうと言う?



―― 俺は、どこまでも付き合うさ、

黙れ。

リミット五日はとうに過ぎ、六日目の今日、未だ見えぬ合流ポイントに、ティガルは焦りと不安を感じる。 いい加減、見えても良い筈だった。 いい加減、川岸の見張り台が見えても良い筈だった。 もしや朦朧とする深夜、見逃したのかと思えばゾッと腹の底が冷える。 度重なるスコールに打たれ、空腹も限界にあり、今更川を遡る気力はティガルには無い。 加えてここ数時間の間、動くと鈍い痛みが、こめかみを刺す。 向かい合わせ、投げ出され捩れた邪魔なブーツの足を避け、ティガルは背中を少し丸めて静かに目を伏せた。 

ぶんと虫が耳元で唸る。 船底を撫でるガタゴトいう水のうねりが、心地良く響いた。 が、瞼を覆う腕の内側、またしても忌々しいソレを見つけティガルは舌打ちをする。

―― よほどお気に入りだろう?

まだ白さを残す脆弱な腕の内側、引っ切り無しに貼り付く下等な生き物の貪欲さ。 この身体に、どれほどの滋養が含まれているのか知らないが、奴らを太らせるほどには蓄えが有るらしい。 結構な事だ。 実に、結構。 

引き剥がした後、醜い瘢痕に赤く吸い残しが滲む。 ティガルは粒状に持ち上がるソレを舐め取ろうか迷い、一瞬過ぎったのは穴倉のような一室、弓形に引き攣れ事切れた仄白い反り返った咽喉。 咄嗟にごわつく上着に擦り付け、今すぐ身体中消毒したい焦燥と恐怖にティガルは襲われる。 あんな風に終わるのは嫌だ。 そんななけなしの主張を笑うように、虫は勇ましく耳元で羽ばたいた。 しかし払い除けもせず、ティガルは半眼でまどろむ。 凭れた軍服は薄汚れ、奇妙に膨れた腹部はボタンが一つ二つ飛んでいる。 だらしない男だと思った。 

何も目的を果たせずに。 
そう、自分を抱く等と仄めかした癖に、何も出来ないで。 
この男は、なんて無様で、なんて、

バララと彼方で羽ばたきに似た音を聞く。 緩慢な動作で上体を起し、その方向を見遣れど、空は黒に近い青。 スコールの兆しは無く、代わりに近付く灰色の点。 点はみるみると姿を現し、そして仰ぎ見る上空、待ちに待ったワラハトの軍用ヘリは、熱帯の空に相応しいスコールを降らす。

あぁ、まるで、雨のように、

痘痕のような細波がバラバラ飛沫を上げ、帯状に迫るのをティガルはぼんやり見つめた。 雨はスピードを上げ、舳先から順に。 横たわる塊に、軍服を着た塊にぽつぽつ穴が開いたのを、パンと軽い音がして盛り上がり膨れた腹部、飛び出した腸壁から無数の蛆が飛び散るのを、ティガルは終わったなと眺めた。 

そうして両腕を大きく広げる。 

降り注ぐ鉄のスコールを迎え、抱きとめるようにティガルは腕を広げ、
仰ぎ見る灰色の影、緋色の星が並ぶワラハトの軍用ヘリ。


墓標の十字は己の身体で。


熱は痛みに痛みは混濁に、そして終わりとは、
裏切り者の終わりにしては上出来気なのではないかと、

やがて、肉塊に還る。



                                     The point


August 19, 2003