御覧、斯くも美しいこの国を              
      
       



久方ぶりの散策を試みたのは、余りに朝が美しく、余りに平和であったからだ。

わくわくする道すがら、目を奪われるのは、崩れたシェルターから網目の根を張る鮮やかな色。 引き抜いた花弁は、仔犬の頭ほど。 眠り菊の黄色い斑点を千切り、撒き散らしたソレが瞬眠させる半透明の虫や小鳥を蹴飛ばしつ、町の中心、眩暈の塔の広場へと俺は向かう。 

町は活気に溢れ、甘い菓子の匂いと香ばしい焼き物の匂いがした。 人々は皆微笑み、新品の義足や義手を身に付け、石畳に跳ね返り闊達に歩くその足元は、カシンタシンと打楽器に似た軽やかな音を立てた。 所々に、こそげた廃墟の痕跡。 燃え尽きた何某を覆い、愛らしい薄紫の蔓巻きスミレの群生が、繊細な渦巻きの花弁を揺らす。 正午のカリヨンは、短い旋律を繰り返し奏でた。 笑い出したいほどの平和。

しかしながら7年続いた殺戮は、至る所に余分な瘴気を残す。 

シュウシュウいう溜まりは町の至る所に点在し、瞬く間に瞼の毒気祓いは、鈍い青銅に染まった。 ヒリヒリする目玉の痛みは相当なものだったが、生憎スペアの持ち合わせはない。 三つ目の太陽が縦一列に並ぶ正午過ぎ、痛みと涙に霞む俺は、ようやくバザールに辿り着く。 

分厚く硬化した瞼は既に瞬きさえ難しく、もうまるで使い物にはならない。 なので俺は、大きな水時計のすぐ横、グンニャリした骨抜き猫が長々眠る、眼球屋の店先に足を向けた。 ずんぐりした店主の親爺は、硝子瓶に入った眼球だの瞼だのを、通りに面したショウケースに並べる。 透明な蘇生液に浮かぶそれらは、クルリクルリ、主無き視線を四方に巡らせていた。 

『いらっしゃい! 眼球かい? 瞼つきかい? 天然もマガイもんも、品揃えは町一番!』

―― 目玉は間に合っている。 毒気祓いが馬鹿になってしまったので、スペアを誂えて欲しい。

店主は身を屈め、暫し、俺の目玉を覗き込む。 店主の右目は薄茶の天然、左は焦げ茶のマガイモノ。 そこに映る俺の目玉は、涙に潤んではいるが大きく、瑠璃孔雀の羽よりも蒼く深い。

『あぁあ、やや、コレは初めて見るよ! アンタもしや王族の末裔だろう? いや、言わんでいい、下手に聞いても俺の足元が危ないし、アンタにも都合があるんだろう。 しかしそんな蒼は、俺達にはちょっと手に入らない。』

感嘆する店主は尚も俺の目を覗き込み、今にもほじくり出さん勢いだ。 意外に繊細な指先が俺の瞼に軽く触れ、目玉に張り付く毒祓いをぺりりと剥し摘み上げた。


『ん? こりゃアンタ、えらく暢気な毒気祓いを着けてらっしゃる! コレじゃ、ここらの瘴気は払えないさぁ!』

全く、平和なとこから来なさった! と、親爺は店の奥を指で示す。 丁度良いのが有るよと促され、俺は丸い小山のような親爺の背中を追った。 こじんまりした間口からは想像出来ぬほど、店の奥行は深い。 奥に行くほどごちゃごちゃと、得体の知れないパーツが硝子瓶に収められている。 

やがて最奥の壁際の薬棚、日除けを被せた小さな硝子瓶を一つ、親父は手に取り透かし、ほれ、コレよ、と、ショーケースの上にそっと置く。 琥珀色に薄い黄緑の偏光を施した、小さな一対の透通る薄い欠片。


『甲冑サメの鱗だよ、極上品だ。 アンタのその毒祓いなんかよかよっぽど役に立つだろうよ。 なに、マガイで良いもんも数多くあるけども、アンタのその目玉、そりゃぁ見事な天然じゃぁないか? ならば、それに見合ったもんを合わせねばなんないさ。』

親爺は興味深げに、再び俺の目玉を品定めした。 俺は、蘇生液の中仲良く並ぶソレを摘み上げると、パチパチ瞬きしつつ瞼の裏に収めた。 途端にすうっと、目玉の表面に冷たい膜が張る。 極僅か、琥珀色の紗が入った世界は涼やかで美しかった。 


『なぁあんた、万が一、それを売りたくなったら、一番に俺に言うがいいよ、誰よりも高く買うからさあ。』

―― いや、生憎これはそう売れるもんじゃない、手放せないものなんだ。


『まぁ、そうだろうよ、そうだねぇ、大事な綺麗な物は手放さないのが良いに決まってる。 あぁ、御屋形様も未だ、手放した痛みに泣き暮らす・・・・・・』

嘆く店主が仰ぎ見る眩暈の塔の天辺に、孤独な王は引き篭もる。 
誰もが愛した王は、今や誰もが哀れむ罪悪感の対象。 


7年前、二百年に一度の食餌の為、東の魔物達がこの国の空を覆う。 魔物は、美しい生き物を喰らい、その恐怖と苦痛に満ちた魂を飲み込み、次の二百年に備える。 遡る二百年前、西の国の王は、魔の長に二人の幼い娘を差し出した。 とりわけ高貴な血肉と無垢の魂を魔物に捧げ、西の国の王は国家の平和と安寧を約束させた。 

ならば今度はあれを貰おう。  魔物の長は塔に降り立ち、慄く王に申し出る。
おまえの息子を貰ってゆくよ。 美しく清廉な、あの王子。 それで俺達は二百年を遣り過ごそう。 さぞや美味に違いない血肉を想い、魔物はうっとりする。 良い匂いのする魂を想い、魔物の唇は微笑を形作る。 

しかし王は応じなかった。 王は、一人息子を手放さなかった。 


『自分が行けば済む事と、賢くて綺麗なあの方は、御屋形様に懇願したそうさぁ。 けども、御屋形様は否と言う。塔の真ん中、魔除けに鉛で目打ちした小さな部屋に、五人の見張りをつけあの方を閉じ込めなすったよ。』

ならば、仕方ない。 十派一絡げの血肉、味気無いが数はある魂を勝手に喰らうまでと、魔物達は国中に散る。 そして、てんでに気侭な食餌が始まった。 

闇に紛れ白日の逆光に姿をくらまし、魔物はすぐ近くの誰かに成り代わり、じわじわと殺戮を始める。 国中至る所で人が消えて行く。 一夜明ければ家はもぬけの空になり、ただ、夥しい血の海がそこでの惨劇を物語る。 人々は愛すべきその人を疑わねばならず、時に、己を喰らおうとしたそれに向け銃を放つ。 疑心暗鬼に駆られ、まことの家族や恋人を焼き殺す者も、もはや後を絶たず。 運良く生き延びた者の多くは、身体の機能を幾つかを失った。

声無き悲鳴と絶望と、咽返る腐臭。 そんな或る夜、丘の上の神殿跡に一つの影が吸い込まれて行った。 

その日、妻と子供に似たそれを焼き払い、一人の見張りの気がふれた。 男は仲間に剣を向け、二重の扉を打ち砕く。 さぁ、お行きなさい と男は微笑み、王子は行くべき先へと向かう。 待っていたぞと無数の夢魔が、怜悧な魂に僅かに触れんと、纏わり浮かれて其処へと導く。


『まるでね、あの方は光の道を歩いているようだったよ。』


円柱の広間、柔らかな幼子の甘い精気を薬杯に満たす魔族の長は、その来訪に目を細めた。 

来たか、覚悟を決めたか、おまえはおまえを差し出すか?

薄絹の装束に身を包み、王子は蒼褪めた頬で魔族の長に対峙する。 問いかけの返事は言葉で無く。 流儀に従いつま先で数回地を蹴り、神刀で指先に小さな傷をつけ、贄の印である紋様を、王子は宙に指先で描く。 伏せた瞼は震えていたが、流れる所作は静穏で、死を恐れては居なかった。 長の振りかざす宝珠の杖が王子の装束を裂き、顕わになった白い肌には契約の文字が、子蛇の行列の如く記された。


そして、国は静穏を取り戻す。


結果として、王は、魔物に息子を差し出し、この国を殺戮から救った。 蘇る美しい国は代償として妥当であったのか、多分、王にはもうわからない。 ただ、確かに失ったのだという事実だけが、今は王の胸中に冷たい煮凝りを残す。


『だから、私らは感謝せねばなるまい。 しかしこの平穏をあからさまには喜べはしない。 なぁ旅の方、もう一度その目を見せてくれないか? あぁ、ホントにそうだ。 あの方の瞳も、こんな風に瞬いていた。 空より蒼く、水より澄み切り、瑠璃孔雀の羽よりも輝き美しかった。』

午睡を知らせるカリヨンが、高く低く、店主の嘆きに寄り添うように重なった。
踏み出した広場の石畳、ひと気の失せた白い町並みは暫しの惰眠に浸る。 

そう、確かに、大事な美しいものは手放してはならないのだ。

あれの血肉がどんなに甘露であったか、俺はきっと忘れないだろう。 断末の引き攣りと、己の内に溶け込んで行った高潔なる魂の涼やかさを、忘れる事など出来やしないだろう。 だから俺は、あれの瞳を、余りに美しいあれの眼二つ、己の二つと挿げ替えた。 

あれが最期に残した囁きが一つ。

―― 平穏と静けさを・・・・・・ ――


それは誰に? 死に行くおまえに? 喰らう俺に? 
それともおまえが何より愛した、このちっぽけな世界に願うか?

紗のかかる琥珀の世界を風に吹かれ、靴音高く俺は闊歩する。 蜜色雀の長閑な囀り、城壁に埋め込まれた胡蝶岩の弾ける粒子。 町を抜け小高い丘に昇る俺は、柔らかな涙草の青々した茎を踏む。

そら、御覧、斯くも美しいこの国を。
おまえの愛したこの世界を、
平穏と静けさに包まれたこの在り様を見るが良い。

そして、俺は、
所在の無い、この空虚な高揚が、つまり悲しみなのだとはじめて知った。













March 25, 2003





      
*  眼球屋の店先で噂話する旅人。