グローリィ              
      
       


     霧の向こう、楡の木立の重なるその先、君と二人でどこまでも行こう。

履き古したラバーソウル、教会のバザーで取り合いになったツイードのコート、ぐるぐるに巻いたマフラーは、切ない道標のカラス瓜の色に。 右手に気の抜けた7UP、やたら硬いサラミソーセージ二本をポケットに、空いた左手で触れようかどうか迷う僕らは軽操状態で森の小径を行く。

夕べ降った雪はまだらに、急速に暮れる木立の暗がりで、ぼんやり青白く光を放つ。 たなびく臙脂の雲の欠片。 低い陽光が重なり合う枝葉を抜けて、僕らの進む先にスパター模様を描く。 椋鳥の滑走、踏みしだく小枝のハミング、君の背中は踊るようで、手を伸ばし躊躇する。 長く伸びた君の影法師、追い着かない僕の影法師が、雪解けの名残、ぬかるむ黒土に、まどろこしく揺れ  た。 


――― ねぇ、不思議だと思わない? 6000の夕暮れ、200の宵闇、たった5つの黄昏なのに、一つ欠けても今日は来ない。 全部でようやく、僕らは繋がる。 

群青の東、赤銅の西。 数を数え不確実に逆らう君は、誤魔化しようのない確実さに怯え、擦り抜けた時間、戻らない想い出と数に溺れる。 今じゃ、駄目。 今この瞬間では、君は安心できやしない、不安に駆られて、ほらまたそんな眼で。 

とろける夕日は飴かけの林檎、君の頬も、伏せた瞼も、強張る指先さえも煮溶かした赤い蜜に浸る。 それ、ほんとに、甘いだろうか? 確かめる僕を咎めずに君は、野ばらの枝折り、触れ合う僅かな一瞬に息を詰めた。 


――― 100と12・・・たったそれだけ?

いや、そんなにも。 

――― こんなにも? 

あぁ、こんなにも。


僕らの交わしたくちづけは、いつも、何より真摯に心を伝える。 君の不安も、君の望みも、君が恐れる発露の証拠も。 100と12の告白は無言、全部静かに皮膚から伝わり、溢れる想いの重さに戸惑う。 

ミタゾ、ミタゾ、ミタゾ、コノメデミタゾ!! 森の闇からカケスが囃す。 夜目の利かない嘘吐きカケス。 あぁ、見ただろう? それがホントだ。 先送りにする、ささやかな術と、僕らはそっと、もう一度触れる。 重ねた数字に想いを託して、揺らぐそれらを薄闇に溶かし、100と13事実を残す。


あの日、僕らはあの丘に昇り、真鍮の枠の星座盤を手に、蠍の軌跡をペン先で辿る。 カナリア色のブランケット、エメ叔母さんのブランケット。 すっぽり被った君は小さく、くしゃみをしながらコーヒーを啜る。 僕は浮つき、蠍を見逃し、軌跡は緩々君へと向かう。 ポットの温みを掌で感じ、見上げる空より君は遠い。 インディゴの夜に、想いは彷徨う。

緑のペン先、硝子のペン先、滑らす指は、僅かに震えて、オイルランプが夜風に瞬く。 その揺らぎゆえに、きっと、僕らは、互いに何かを見抜いてしまった。 カナリア色から覗く鼻先、覗き込みたい、突付いてやりたい。 そしたら君は、どうするだろう? 不意に剥がれたブランケット。 少し驚き、少し戸惑い、声を落として君は言ったね。


――― こんな事、きっと変だと思う、こんな事きっと間違っている。 だけれど僕は想ってしまう。 ねぇ、笑うかな? 今夜、こうして君と過ごして、君の声だの指だの目だの、20と4回君にかまけて、20と4回、僕は泣きたい。 僕は、君に触れてみたい。 僕は、君に触れて欲しい。

早口の君は震える声で、気弱な視線は天体を映す。 きつく握ったブランケット、爪の先まで白く強張る。 変じゃぁ無いさ、間違っちゃ居ない、君の頬だの髪だの喉だの、触れたいんだよ、僕だってそう。 転げたペン先、指先はここに、オイルランプの炎は膨らみ、夜風に急かされ僕らは触れた。 言葉に出来ないもどかしいそれを、触れ合い、重ねて、僕らは伝えた。 伝えた心は真実だけども、重ねた心は微かに軋んだ。


君、わかるだろう? 嘘なんて無い、全部ホントで全部正しい。 
君、わかるだろう? 触れたすべてが真実だって。
でも、何故だろう、
触れ合う今すら僕らは不安で、嘘など無いのに嘘にするのは。 


あの日、星座盤を手に、心で受けた本当の言葉。 その言葉を飲み込む僕らはまるで、逆回しのフィルムのように、何も起こらず伝わらなかった過去の日常を、なぞり、繰返し、語り、笑うんだ。 


週末、それぞれの時間、切り離すことを無理と知りつつ、僕らはそれぞれガールフレンドを誘う。 チェリィコークの甘ったるい息。 積み上げたビデオ。 カウチに寝転び、古い喜劇に腹を抱える。 柔らかで華奢な感触に触れて、抱きすくめて、尚も、そうじゃないそれを求めてやまない。 

そうじゃないんだ、そんなじゃないんだ。 

晴れた夜、丘に昇り、君は変わらず星を眺めて、カナリア色にすっぽり包まる。 僕は夕方コーヒーを挽いて、待ち侘びる君にそれを届ける。 星は変わらず僕らに瞬き、僕らは心を、言葉を、抑えて抑えて、ホントじゃないよな言葉を交わす。 これは、間違い、これは違う。 滑稽なほどにうろたえるから、僕らはもう、見つめることすら出来やしない。 

だから、僕らは溺れるように、くちづけを交わす。

困惑と気不味さを常に従え、渇望と焦燥を常に携え、日常の隙間を僕らは縫い、溺れるくちづけを慌しく交わす。 ほんの少し、触れ合うくちづけは間違いではない筈だけど、後ろめたく切ないそれは君の笑顔を容赦なく奪い、琥珀の瞳に怯えを宿す。 


あぁ、大丈夫、君は正しいんだよ、君は裁かれたりしないんだ。 
だけど僕にそれは言えない。 
僕自身すら、裁きを恐れ、君を君として見つめるのを拒むから。


愛している愛している愛している、愛している、決して言えない僕らの事実。



森の入り口、何かの予兆、黒アゲハたちの密かな航路、
追い駆ける君と追い駆ける僕。

正午過ぎの図書館、待ち合わせた書棚の奥、僕は君にすべてを委ね、君は僕にすべてを委ねた。 6505の朝を迎え、君の17年目が始まったこの日、僕らは二人、本当へと向かう。

沈み逝く夕日、末期の赤銅が君を染める。 小径を反れ東屋を抜け、光苔の生す朽ちた切り株に休み、沈黙の沼に浮かぶ睡蓮の蕾。 やがて開く花びらは多分、薄紫。 水底に沈む言葉は饒舌に、伝える先の無い告白を、やるかた無く囁く声で詠う。 

愛してる愛してる僕は君を君は僕を愛してる愛してる


言い尽くせない心の内、君は数に頼り数に溺れ、僕は数を重ね君を数で縛り付けるかも知れない。 それでも、僕は君を求め、君は僕を求めるだろう。 


始まりはいつも、旋回する仔犬のように、終わりの尻尾の鼻先を掠める。 触れそうなそれ、捕まえちゃいけないそれを、踊るように息を切らし、時にふらつき時に目を回し、縺れっ放しの浮かれた歩調で、僕らは諦めずに追い駆けるだろう。 

だからその時まで、一つになり二つになり、君と二人、どこまでも行こう。
霧の向こう、楡の木立の重なるその先、君と二人でどこまでも行こう。



やがて夜明けの光射す先、
僕らの本当が、きっと始まる。





March 1, 2003