    
               
       
                          町内チョモランマ 
                           
                
       
       
       
                      『何故山に登るのか?』        『そこに山があるからさ』 
       
                                                         ジョージ・マロリー 
       
       
                                        *
      * 
       
       
         それが名言かどうか俺には分からないが、人には抗い難いナンカってのが確かに在る。  
       
      理屈じゃないのだ。 そこに在る、そこにソレが在ったからそうするのだという何か。 人にはきっと、そういうのが在るに違いない。 例えるなら今ココでのソレ。 閑静な住宅地、夏蜜柑大量ナリの生垣、三叉路、電柱、そう、電柱にはさァ見てくれと言わんばかりのインパクト系落書きが一つ。  
       
              --  まんこ  -- 
       
      『ひらがなってとこがまた、センス炸裂だよな!』 
       
      そう感心するカサバは厳しい朝の冷え込みに耐え兼ね、パーカーのフードをキュウッとスッポリ被る。 なまじ形の良い卵形の頭蓋骨と貧弱な肩幅、こう言っちゃナンだがその様はゴムを着けたチンコ(カーキ色)に酷似していた。 足踏みする贋物ドクターマーチンの足元、置いた小汚いピンクのバケツからはポワァッと白い湯気が上がる。 ―― コレって、ババァんちの残り湯? ―― とか思うと手ぇ突っ込むのにタメが入りそうだったが、何しろ二月。 寒い寒い。 水よりはマシ。 カサバの後頭を眺めつつ、スーパー丸竹のビニール袋をガサゴソ漁り、俺はアスファルトに本日の必需品を並べた。 ボロ雑巾・ナイロンタワシ・空のペットボトル・ゴム手袋・紙やすり。 最早お馴染みの役に立つそれら。 
       
      『やるか?』 
      『おう。』 
       
      ここ2ヶ月、この電柱ときたらばインパクトMAX。 「ぱんつ」に始まり「だんご」「おなら」「おまた」「あんこ」「うんこ」、敵は深夜から未明にかけ本日の名文を記し、ババァの短い導火線に火を点ける。 ババァは、夏蜜柑実る角のアパート【オレンジハイツ】の大家だった。 そして家賃滞納常連の俺とカサバはババァの忠実な犬だった。 犬はババァの手となり足となり、年中無休の使いッパに明け暮れる。 そんな俺達がこの椿事に召還されない筈がない。 俺達はやった、消して消して消し捲くった。 時に二日酔いの身体にゲロを堪え、荒い作業のハードローテーションに親指・人差し指の指紋も溶け、シンナー除去後のヤスリ技などすっかりその道のプロとも言えた。 しかし敵は俺達を嘲笑うかの如く一筆入魂、消しては復活、気を抜けば新作登場とイタチゴッコは終わらず。 ついにババァはキィ〜ッとなり「行政はアタシらの味方じゃないのかよッ!」と数日前、単独区役所に怒鳴り込む凶行に出る。 どうにも止まらない怒りのオンステージは約一時間半続き、ついには禁断の応接室にアポ無しで通されるババァ。 
       
       ―― 区長に茶ァ出して貰ったよ―― と本人御満悦だったが、あっちは地獄を見たのだろう。 「善処する」と言った区長は二日後、もう勘弁してくれという意味なのか謎のスプレー缶を一ダース送り付けて来た。 【落書き落とし キエルワン☆】 ラベルには胴体が蜜柑でゴルゴみたいな犬が、ニヒルなカメラ目線で「コイツはまったく落ちるワン!」と言っている。  
       
      『・・・・・・キエルワン・・・カクノ、俺はこいつを信じてイイのか?』 
      『シンナーよかマシなんじゃねぇの?』 
       
      兎にも角にも、それをフルに使いこなすのが本日俺らに与えられたミッション。 俺は首に巻いたタオルで口と鼻をグルッと巻き、寒さに震えつつもハイテンションなチンコ野郎にスプレー缶を渡す。 いぶかしむカサバは取り敢えずスプレーを激しく振った。 ふと思う事有り、俺はカサバに尋ねた。 
       
      『それ、振ってイイやつ?』 
      『アァ?  ん〜〜なんだ、 -- 振らずにご使用ください -- ! ま、マジですかッ?』 
       
      不覚ナリ〜と、ズルズルしゃがみ込むチンコ頭。 全くだ。 泡消えるまでどうにもナランだろうと、手持ち無沙汰の俺はポケットを探り煙草に火を点ける。 すかさず手を出すカサバ。 仕方なくもう一本出そうとガサゴソ漁る俺に構わず、カサバは火の点いた一本目を指し「それでイイ、待てねぇよ」と言った。 咥え煙草は俺から離れ、幸薄そうなカサバの唇に挟まる。 そうして如何にも短気らしく浅く吸い込んだ煙が、低い位置から忙しなく流れるのを俺はぼんやり眺めた。 シケモク摘むみたいな指先は、余程寒いのか白を越して紫に近い。 紫がかった極端な深爪。  
       
      『なぁコレさぁ、やっぱ同一犯? イワユル連続落書き犯?』 
      『知らねぇよ』 
      『いぃや間違いねぇよ、奴ァ、己の欲求を三文字で表す事に生甲斐を感じている。』 
      『そうか?』 
      『読めたッ! 犯人はひらがなを偏愛する欲求不満の就職浪人28歳ッ! ズバリだろ? 冴え渡るプロファイリングッ! カタカナじゃさァ、この味わいは表現できねぇし』 
      『さっぱりわかんねぇよ』 
       
      俺にはただの懲りない悪戯者だと思える。 そもそもイワユルって括るほどに、【連続落書き犯】なる名称がメジャーなのかどうか。 尚も感心するカサバはチビケた煙草を側溝の穴に捨て、ヨッコラショと立ち上がり薄い尻を叩いた。  
       
      1.	使用面の大まかな汚れを拭き取っておく。 
      2.	キエルワンをむらなく塗る。 
      3.	汚れが浮き出たらスボンジかタワシで擦る。 
      4.	仕上げに、水で洗い流すか拭き取る。 
       
      スプレー缶の裏を読み上げる俺に、ラジャー!と右手を挙げるカサバ。 俺的にはサラッと書いている 3. が曲者だと思うのだが、例え汚れが浮かなくてもヤンキーテイスト満載なシンナーよりは百倍もマシ。  
       
      『さァ〜、頼むぞゴルゴ!』 
      『ゴルゴ?』 
      『あぁ、この犬』 
      『・・・・・・』 
       
      塗り塗りするソレは、ほんのりオレンジの香りがした。 そして待つ事二分。  
       
      『す、スバラシイ!』 
       
      うにうに溶け出した赤ペンキに感激のカサバ、しゃくしゃくタワシで擦る俺もその落し心地に感動が走る。 謎スプレーは落書き消しの救世主であった。 拭き取り後に薄っすら文字色は残るものの、それッくらい後から紙やすりで擦れば綺麗に誤魔化せるだろう。 何より、臭い・咽る・ラリる・・とヤナ事尽くめのシンナー作戦に比べればその効果は絶大。 
       
      『ビバ! キエルワンッ!』 
       
      ガッツポーズのカサバに俺も深く頷く。 
       
      『・・・カクノッ、俺ら、無敵だよなッ?!』 
      『おう、キエルワン様様だ。』 
      『だなッ! さァ〜消して消して消し捲くるぜッ!』 
      『や〜ソレは、』 
       
      メラメラしてるカサバには悪いが、別に敵が書かないで居てくれたらそれに越した事はないと俺は思っている。 けども、きっと奴は書くだろう。 消しても消しても欲望だか思い付きだか、きっとこの電柱を素通り出来ず、何やかやと書き続けるんだろうと思う。 
       
      『・・・・・・何故ならそこに電柱があるから、』 
      『へ? 山じゃねぇの? ソレ?』 
      『モトネタはな。 けど、コイツも同じな気がして』 
      『何ナニィ? わー電柱があったぁー書いちゃえーッてな訳かよ?』 
      『まァ、そんな感じ』 
      『却下ッ! 俺は許さねぇッ! ソコに山があるから登るだのソコに尻があったから触るだのソコに金魚が居たから掬うだの、そう云う安易は失格! オマエが認めても俺ァ絶対認めねぇぞッ!』 
      『いや、俺は別に、』 
       
      突如憤るカサバ。 カサバは拳を作り「必然」だの「意思表明」だのと力説をする。 思い返せばカサバはそう云う奴だった。 人一倍流され易い癖に行き当たりばったりを嫌う。 常に行動の理由付けを欲しがって、「つい」とか「なんとなく」を許せない。 日頃ルーズで生き方大雑把なのに、何で変なトコ拘り屋なのか。 座敷犬の様に吼えるカサバはなんだかしょうがない感じで、思わずその脳天をポンポンと手の平で叩いてやった。  
       
      『バカヤロウ! 俺は小学生かッ?』 
      『ていうかポメラニアン?』 
      『ナンだとォッ?! 尻上がりで言うなッ! 筋肉質がてゆうか言うなッ!』 
      『そうやってつまんねぇ事キャンキャン拘るから、爪噛んじまうんだろ?』 
      『ウルセェッ!』 
       
      咄嗟にカサバが拳固を作る。 カサバの後ろ、電柱の表面はすっかり乾き、ならば仕上げに掛かろうと俺は紙やすりに手を伸ばした。 と、カサバが握った拳をパーに開き満面の笑みで手を振る。 俺に? いや違う。 視線の先、自転車に跨り、いざ出発しようとするショートカットにジャージの女子中学生。  
       
      『オハヨウ、マミちゃん!』 
       
      すかさず取って置きの二枚目声を出すカサバ。 
       
      『試合頑張れよ!』 
       
      負けじと「素敵な兄貴声」でエールを贈る俺。 だけども中学生はカサバの笑顔にも俺の声援にも応えず、俯いたまま自転車で通り過ぎて行った。 可愛いシャイなマミちゃんは中二。 信じ難いがババァの孫娘だった。 
       
      『イヤン無視ですかぁ? 畜生、てめぇがイカツイ顔で威圧したんだろ?』 
       
      ―― いいや、お前のチンコ頭のせいだ ―― 俺はそう確信したが、言うと収拾付かなくなりそうなので黙ってヤスリを掛ける。 サラサラと表面が削れ、マッサラな電柱は清々しい。  
       
      『イイぞイイぞ、問題は奴が次にココに何を書くかだな、』 
       
      妙に嬉しそうなカサバは、既に次なる敵の「名文」を期待している。 
       
      『俺の勘だと「さんま」か「ごはん」が有力。』 
      『ンなモノ書いておもしれぇのかよ?』 
      『バ〜カ、法則よ法則。 性欲→食欲→排泄欲 って奴ァ三大欲求に従って叫んでんだよ、ココに。 したら性欲=「まんこ」の次には食欲だろ? しかもひらがな三文字限定ッたら「さんま」か「ごはん」に決まりだろ? ククク、犯人敗れたりッ!』 
       
      無駄に得意げなカサバだが、急に真顔になると、後片付けする俺を覗き込み言った。 
       
      『なぁ、誤解すンなよ? マミちゃんは可愛いけどお前にだってカワイイ所は多分ある。 だからヤキモチ焼いてブルーになるこたァねぇぞ?』 
      『・・・・・・なってねぇし、』 
      『自信持てッ! 俺ァ、断然チンコ派だねッ!』 
      『もうイイって、』 
      『レギュラー万歳!』 
      『黙れ。』 
       
      斯くして朝っぱらの労働を終え、俺達は三大欲求渦巻く我が家へと向かう。 
       
      言い訳なら山ほど出来るんだが、恐らくあの時、「必然」の「意思表明」を俺達は示した。  
      ソコに俺が居たからか、ソコにカサバが居たからか、抗い難いナンカがあったのか、ハタマタ流されて成り行きなのか。 ハッキリしているのは、何度塗りつぶされても消されても、きっと俺らは同じ事をするだろう。 俺達の関係は不可解なまま、小懲りなく、まだ見えぬ山頂へと続く。  
       
      ところで三大欲求に排泄は入らない。 三つ目が睡眠だと気付くのは、少し後。 
       
      散らかし放題のカサバの部屋、三つを満たして泥の眠りから覚め、ようやく俺らは気付くのだ。 
      「寝る」より「眠る」 「出す」より「眠る」 アリガタキ睡眠に感謝。 
       
       
       
       
       
       
       
      2/15/2004 
       
         
      
           
           
        
       * 文中の『キエルワン』なんてのはフィクションですが、『ケセルワン』ってのは実際あるらしい。 
          天然オレンジ成分で安全に落とす(らしいですよ)。    
                                                  
             
       |