柳の骨
-- 紅林辰碁先生、十二月十六日未明、隣家の夫人訪ねし御宅庭先、
柳の袂にて新雪に埋もれ座して候。 夜着羽織りて草履無く、遠眼鏡手に眠るが如く没して候。 ―
背伸びする霜を踏みしめ、軋む足元を黒く湿らせ、僕らはその庵を目指しました。
長くN県境の山村に隠遁されていた紅林先生が、そんな最期を遂げるとは、些か信じ難いのですが、一面の新雪が白く光るその庭で、泣き柳に凭れる様に先生は、事切れていたそうです。
村外れ、裏手に小さなせせらぎを望む庵は、僕の母方の伯父の持ち物でした。 古物商を営む伯父と先生は、生前、松涛に在る伯父のアトリエに足を運び、物珍しい話を肴に酒を酌み交わす仲。 若い時分から世界中を回るボヘミアンな伯父と、無口でどちらかと云うと外へ出る事を好まぬ先生が、どのように知り合い、交友を深めたのか僕にはわかりませんが、夢想家である点では気が合ったのかも知れません。
時に伯父が持ち込む奇妙な古物に先生は感嘆し、決して安くない値段を払った事もしばしば有ったようです。 それらの価値なぞ、僕のような無粋の者には理解しかねるのですが、夜通し語り尽くすほどに価値在る、興味深い逸品だったのでしょう。
訃報は先週、母が受けました。 秋口、母が綿入れを誂え、父の名で先生に贈ったその宛名書きが丁寧に伸ばされ残っており、何処に知らせるべきか迷う村長は、それに宛て、葉書を寄越したのでした。 その4日後、先生の遠縁と思われる女性より、遺品の回収及び処分の依頼を受けた伯父は、帰省中さして役割も無く暇を持て余す、手隙の僕を猫の手として誘います。
僕がその庵を訪ねるのは、一昨年の春先、伯父に頼まれ、唐三彩の壷を届けに行ったその時以来。 あの日掻き分けた蔓葛は雪に覆われ成りを顰め、たらの芽ぜんまい青臭い野蒜の盛られた竹笊を手に、眼を細め笑う先生は彼岸の人となりました。 50半ばにして先生は、この山郷に何を求めたのでしょう。
『先生は、寂しい処に住んで居らしたんですね。』
『寂しいのは人の居る無しではない、拠り所の在る無しだろう。』
乗り継ぎ乗り継ぎ汽車は進み、いよいよ閑散とする田畑山谷に思わず問うた僕でしたが、伯父は普段の饒舌を見せず、言葉少なに返すばかり。 生涯妻を娶らず、かと云って寄り添う女性の影も無く、静かに穏やかに息を詰め生きた先生は、この山郷を終の棲家と定め、何を拠り所としたのか、僕にはわかりませんでした。
ざくざくと、僕らは玄関先の雪を掘り、幾分立て付けの悪い引き戸を開けました。 瞬間、不思議な芳香を感じたのですが、瞬く間に土と木の湿り気に霧散し、それに混じる墨の匂いは先生に染み付いた懐かしい匂い。 今しも、夢から冷めたような先生の顔が、筆を途中で休め、よく来たね、と 奥の座敷から覗く気がします。 たたきの上、干し大根と山芋が二本、隣家の夫人が届けたのでしょう、簡素な庵の質素な生活に僕は、孤独を感じずにはいられませんでした。
奥座敷、生前先生は古書を写し取り、御自分なりの解釈を加え、丁寧に分類をされておりました。 襖を開け踏み込む其処は、こざっぱりと整理され、広げられた蒔絵も其の侭に、置かれた筆は水気を失い、乾いた筆跡は神経質な細い撥ねを残し、衰退する豪族の終焉を語る途中。 伯父が、すいと手にした細長い筒。
『やはり、これか・・・』
細かな蔓を編んで、複雑な模様を浮き上がらせたその筒は、飴色。
『紅林が握っていたのは、これだよ。 もとは遠眼鏡だったが、奴は細工をしたらしい。 これは、』
御覧とさし出されたそれは、意外なほど軽く、覗けば細かな白い破片が、あたかも雪の結晶の如く、廻す手元の妙を示す万華鏡。 僕は白一色の其れに、しばし見入りました。 しかし、不思議です、先生は何故これを手に雪の庭に出たのでしょう。 そして、この万華鏡、白一色と云うのは珍しいではありませんか。
『何だろうな・・・石か・・・いやもっと軽い、何かを砕いたようだが。』
それは10年近く前、伯父が中国の寒村で物乞いの老婆から貰った物だと言います。 いざり寄る老婆の痩せ衰える有り様に、伯父は、持ち合わせの幾らかと乾パン角砂糖等を施したそうです。 去り際、老婆は質素なレンズの入った遠眼鏡を、伯父の手に押し付けて行きました。 柳の枝を裂いて編み上げ細工した、緻密ではあるけれど、田舎細工の域を出ない、ありふれたそれ。 伯父は、螺子式のレンズを捻り、中の白い破片を少量懐紙に受け畳み、東京で調べてみるかと懐に入れました。
『長い事、松涛の納戸に放って置いたのだが、ある時紅林が見つけてね。 暫く手にし眺めてから、これを譲ってくれやしないかと言い出した。 全く、こんなもの、あぁかまやしない持って行けと押し付けたが。 こんな細工をわざわざして居たとは、余程の思い入れが在ったんだろうか・・・。』
僕らは、それから日が傾くまで、先生の蔵書、著作物の幾つかを整理し、油紙に包み梱包して行きました。 この辺りの日没は早く、闇の深さは恐ろしい程で、得体の知れない獣の声が遠くに聞こえる中、有り合せの簡単な夕餉をとり、道中の疲れも出た僕らは随分と早く床に就いたのでした。 こんな寂しい闇を、先生は幾つ数えたのでしょう。 眠りに落ちる僕は、こんな風に死は訪れるのだとぼんやり思いました。
激しい怒号を聞いたのは、寒さに身を竦めた時でした。
凍りつく寒さに歯の根が合いません。 朽ちた木戸、開け放たれた向こうより、襤褸を纏う数人の男達が吹雪と共に雪崩れ込み、悲鳴を上げ何か懇願する女を殴りつけ踏み躙り、鷲掴まれ乱暴に引き摺られた黒髪はごっそりと抜け、男の指に絡み付き、吹雪く風に舞い上がるのでした。 瞬間、瞼がぴくぴくと痙攣しこめかみに痺れを感じ、ふわりと持ち上がる奇妙な眩暈に眩みます。 僕は、何故か天井に張り付いておりました。 ヤモリのように張り付き、眼下で繰り広げられる惨状を、眺めて居たのでした。
女は襤褸を剥がれ殴られ蛙のように押さえ付けられ、白い肌を開かれて、寄ってたかって男達に犯されていました。 切り裂く悲鳴は冷気に吸われ、大きく見開いた眼は焦点を失い、何も映さぬ虚ろでは在りましたが、女は、吃驚するほど美しい顔をしていました。 そして、部屋の隅、小さな影。 むしろを被りがたがた震える小さなそれは、子供、いえ、そうではありません。 子供のように痩せ細ってはいますが、もう少し上、十四 五の少年です。
白い骨のように痩せた足は汚れ、裸足の指先は寒さ故か赤黒く血を滲ませる痛々しさ。 まだ未分化な性は、少女地味た顔立ちを不思議な曲線で描き、美しい母に良く似た黒耀の瞳に母を襲う惨劇は映されているのです。 男たちの暴行は容赦無く、肉を叩き骨を打つぞっとする鈍い音に僕は震え、声をあげる事も叶わず。 カラカラと小さな物が少年の足元に転がり、それが肉片のこびりつく女の小さな歯であると気付いた僕は、獣の咆哮のような叫びを遠くに聞きます。 少年の握り締めた拳。 握り締められた、飴色の、
『・エ・・・・・イジ、おい、起きろ、英嗣、おい、・・』
気付けば薄明かりの中、困惑した表情で見下ろす伯父の顔。 じっとりと湿った夜着に、うなされていた事を知り、あれは夢なのだ夢を見ていたのだと安堵し、どっと力が抜けました。 夢、やけに生々しく、恐ろしい凄惨な夢。 遠くに聞こえた咆哮は、僕自身の上げた恐怖の悲鳴であったようです。 余りの声と尋常で無さに乱暴に起してしまったよと、弁明する伯父に笑顔はありません。
『嫌な夢だったんです、親子が酷い目に遭っていて、そう、あの遠眼鏡を子供が持っていて・・』
『あれか・・・まぁな、紅林があんな死に方をしたその場所だ、お前も知らぬ内、気が昂ぶっていたのかも知れない。・・・さ、も一辺、寝直そう。』
明日も作業があると、伯父が灯りを消し再び潜り込む布団の中、あの夢が中国語で語られていた事に気付きました。 どこか中国での物語りです。 惨い物語、哀れな親子。
翌朝、すっきりしないものの作業は休む訳に行かず、僕らは朝食を昨夜の残りで済ませ、奥座敷の書庫を攫う難事に取り掛かりました。 膨大な量の蔵書冊子は天井裏の天袋に迄及び、もろくなった紙に冷や冷やし、時折、唸っては読み込もうとする伯父はしばしば作業を中途にし、一向にはかどらず午後を回ります。 不安定な足元を気にしつつ、天袋から伯父が引っ張り出した柳郡に、それは在りました。 古い渡航証明書と、それに挟み込まれた粗末な紙。 二つに折られた梳きの荒いその紙には、筆書きの拙い文字で 春天 と。
『先生は、渡航経験が御有りだったのですね? これ、何の意味でしょう?』
『・・・発効日は31年前、随分と昔だ、奴が中国を周ったと言うのは俺も初耳だよ。 中国ね、中国・・・ 「春天」は、中国語で「春」・・・そこ等の子にでも書かせたか? 酔狂な・・・』
春天、柔らかな声が聞こえた気がしたのは、些かノスタルジィに浸り過ぎでしょうか。 雪の撥ね返しで、座敷は晧々とあたかも麗かな春の如く彩度を上げておりました。 ぼた雪を絡ませて、緩い陽光に光る泣き柳が、半分開けた障子の先、道標のように屹立しておりました。
『あの村は、大きな町に挟まれた、飛び火のような村だったよ。』
柳郡の細々を、手に取り定めつ、伯父は語り始めます。 誰に聞かせる訳でなく、あの村とは恐らく、遠眼鏡を託した老婆の村の事でしょう。
『・・・北の村は商業に栄え、南の村は肥沃な土地に実りを得て、しかし、あの村は小さな谷に交通を阻まれ、少し掘ればゴロゴロと石ばかりの痩せた土地に、実りは苦労すれど少ない。 そんな貧しい寒村が二度も水害に遭えば、その貧困は想像もかくやだろう。 そこに、疫病が舞い込んだ。 碌な医者も居ない、栄養も行き届かないその村で、どうなると思う?』
『・・・病人が、多く出たのだと思います、その多くは死に至る不幸な有り様ではなかったでしょうか、。』
『俺があの辺りを訪れたのは、それから十数年も経った時分だったが・・・ 南町に宿を取り、其処の店主が語るには、村は一度、焼き払われたらしい。 疫病は北から遣ってきた。 北の村は死人が村の中央に山と積まれ、終日それを焼く腐臭と煙で、胸を患うほどの惨状だったらしい。 しかし、あの村は良くも悪くも交通を遮断され、隣に広がる疫病を、本来は免れる村だった、けれど村に疫病は遣って来た、運んだのは一人の男だったという。
・・・男は北の町に働きに出て、家族の生計を担っていた。 村では裕福な一家であったらしい、が、疫病を逃れ、村に戻る男はその疫病を連れて来た。 間も無く発病する男は恐怖と混乱、憎悪の対象となり、男が死んだ後続いて発病の兆候を見せる数人の出現に、大きな負の感情が村人の中湧き起こり、それは、・・・その妻子に向けられる。恨み所が、其処しかないんだよ、でなきゃ、遣りきれんだろう?』
背中がすうっと冷えました。 僕は、伯父の話に、あの夢の中の親子を重ね、眼の奥がチカチカする不快と恐怖を感じます。
『でも、あんまりじゃないですか。 その親子に何の咎もありやしません。』
『親子は、所謂、生贄だ。 貧困と疫病、どうしようもない危機に人は、一番の弱者を踏み躙るもんだ。 彼らにも、もう、ワカランのだろう、何が良いか、悪いかなぞ。 あそこらには神木信仰があってな、そこに、親子は埋められたらしい、これで、村の厄災を祓ってくれと、村人が親子を真の贄に使ったらしい。
・・・親子を神に奉げ、村人は、何らかを期待したが、厄災は依然猛威を奮い事態は深刻に陰惨を極めるばかり。 ついに、危機を感じた南の町の住人が、或る夜、村を焼き払う。 所詮、世間の眼からすれば、踏み躙られる弱者は、親子でなく村全体であったのだよ。 そうして、疫病は南より先に進まず、今日の栄華を南は誇る。
なぁ、それでも、生き残ってこそだろう。 俺は人のそうした姑息さや渋とさを、どうにも憎めず好ましく思う事すらある、が、紅林は、そうではない。 奴は、弱者が其処に存在する事が間違いだと言う。 人は平等だと言う、あぁ、全くの理想論、しかし間違いじゃない、しかし、そうは在り得ない。 生贄が必要なら、自分を差し出そうと笑う、自分じゃ駄目だと言うなら、ならば、その生贄と一緒に死んでやろうと言う、一人で死ぬよりましだろうと
馬鹿だ、あいつは、生きる為の犠牲を恐れる余り、自分の命を切り詰める真似をする。 臆病な優しさに、人と関わる事すら恐れて、こんな山郷で、影薄い一生を終える。 そんなだから、あぁ、あんな下らんもんに引き摺られて、あんな死に方をする。 』
豪胆な伯父は、拳を握り声を押し殺し、低く、低く嗚咽するのでした。 後にも先にも、弱事を吐き、涙する伯父を見るのは、その時きりです。 僕は、伯父と紅林先生の関係が、単に酒を酌み交わす物好き同士等ではない、もっと根の深い所で繋がっていたのだと知ります。 紅林先生が儚い者、弱き者に心砕き、引き摺られていたように、伯父もまた、そんな生き方をする先生に、引き摺られていたのではないでしょうか。
その後作業は坦々と進められ、伯父も、僕も、先生の話題を意図して語らず、気詰まりな沈黙を払拭するかの如く作業に没頭し、図らずも夕刻までに予定を終了する結果となりました。 からんとした部屋は寒々して、主の死を語ります。 すっかり梱包された諸物に混じらず、ポツンと座卓に置かれた飴色の遠眼鏡。 僕も伯父も、何故かそれには手が付けられませんでした。
夕暮れ、隣家の夫人が雪を掻き分け訪れて、一塊の鹿肉を置いて行きました。 亭主が撃ったのだと云うそれを、有り物の野菜でこっくり煮て、僕らは久方の安堵を鍋の暖かな滋味に感じました。 美味しい美味しいと舌鼓を打つ僕らはきっと、この家の中、残り香のように立ち込める不穏な何かに、気付いて居ながら知らぬ振りして居たかったのかも知れません。
寝しなに勢いを増した積雪は、吹雪を伴い雨戸を叩き、幼子の泣く声に似た泣き柳の遣る瀬無い唸りに鬱々と、二日目の夜は更けて行きます。 奇妙な夢、先生の不可解な死、万華鏡の白い破片、それらは全く解明されず、ただ、忌わしい出来事として終るのでしょうけれど、其の侭でも、もうかまやしない、一刻も早く東京へ帰りたいと、気ははやります。 何か、強いものに引き摺られる予感が、それに逆らえない不安が有ったのでした。
手水に起きた夜半過ぎ、身震いして床に戻る僕は、自分の耳を疑いました。 不意に飛び込んだのは、柔らかな先生の声でした。 見回す闇は深く、吹雪く風の雨戸を叩く音ばかり。
―― シュンティン、シュンティン、ウォ ダイ イング ニィ・・・・
春天、春天、約束するよ・・・
何故だか、僕は、闇に紛れる飴色のそれを、手にしてそっと、眼を凝らす。 あぁ、なんてこと、やわらかな風、暖かい風、草原で笑う、二人が写る。 あれは先生、まだ艶やかな頬と黒い髪をした、若き姿の先生が笑う。 そして傍ら、見上げる瞳は深く愛らしい黒耀のそれ。 あぁ、あの少年、『春』と呼ばれる彼が微笑む。 白皙の頬に緑が映える。薄く開かれた口元には笑み、しかし言葉は、何故か発せず。 瞳は雄弁。 無言の意思に、先生は応え、静かにゆっくり、言葉を繋ぐ。
―― ジィヤォ ニィ ザイ ウォ シェン パァング ウォ ジゥ ガァンダオ シング フゥ・・・
君が傍にいるだけで、僕は幸せなんだよ・・・
先生の指先が、文字を綴る。 春天 少年の名を。 細い棒きれが、黒々とした土をおこし、神経質な撥ねを持つ先生の文字が、背丈程の草に囲まれたその秘密を語る小さな場所に、 春天 春天 春天 幾つも幾つも文字を綴る。 少年には、美しく、素朴な愛が満ちておりました。 そして僕は気付くのです、彼は、口が利けないのだと。 言葉を持たない少年は、言葉より訴える瞳で先生を見つめ、先生は、幾度も綴り、語り、邪気の無い無垢な愛は、静かに二人の内に宿ります。 粗末な紙に、少年の金釘流が、たどたどしく、震える筆先より綴られて。 幾度も綴られるそれは春天。 その一枚をはにかみ差し出す。 瞳は縋る。 そよぐ風にも攫われかねない細い身体を、先生が引き寄せ抱き締めた。
―― シュンティン、シュンティン、ウォ ダイ イング ニィ ウォ ブゥ フイ ワンジィ ニィ・・・・
春天、春天、約束するよ。 僕は、君を忘れない。・・・
先生が揺らぐ。 先生の面影は遠ざかり、少年の想いは野を走り、抱き締める腕の温かさもやがて冷え、ぬかるむ荒地に少年は立つ。 濡れそぼる少年の手に遠眼鏡。 旅立つ先生が残した飴色の遠眼鏡。 覗けば、きっと戻ってくるやもしれぬ面影を求め、少年の唇が音を持たず言葉を綴る。 僕はそれを知っている。
―― ウォ デン ニィ、ウォ シィアン ジャン タァ ・・ウォ シィアン ジャン タァ ・・・
忘れません、あなたに会いたい、あなたに会いたいんです・・・・
そして、少年の周りに累々と屍が積まれる。 母の髪はまばらにしか残らず、青黒く変形した顔は最早、美しかった面影を残さず。 歯の無い唇を大きく開け、獣のように叫ぶ母はとうに正気を無くしている。 少年は痩せ衰え、石つぶてに片目を失い、両膝の骨は砕け萎える。 しかし、皮肉にも、損傷を来たして尚少年は美しかった。 その瞳は今も、溢れ出る思いを叫び、色褪せた唇が形作る呪文は一つ、
―― ウォ シィアン ジャン タァ ・・ウォ シィアン ジャン タァ ・・・
あなたに会いたい、あなたに会いたい・・・・
村人が訪れる。 農具を手に罵声を浴びせ、母子を追い立て突付き、よろける二人は死臭の中を、憐れで陰惨な行進をする。 かつて羽振りの良かった少年の父は、随分と食料雑貨を彼らに差し入れ、彼らはそれに感謝し、微笑み、優しい旦那、有り難い旦那と口にしたものだったが、そのにこやかであった彼らの今は、鬼である。 不意に突拍子も無い方向へと這いずる狂女、憐れな母を一人の男が鋤で突く。 少年の上げる音の無い悲鳴。
―― ウォ シィアン ジャン タァ ・・ウォ シィアン ジャン タァ ・・・
あなたに会いたい、あなたに会いたい・・・・
やがて、深く掘り起された神木の下、突き落とされた少年が仰ぎ見る、久方振りの青い空。 あの日と同じ、どこまでも高く昇る、青い空。 蹲る母は、小声で何か呟き、空を仰ぐ少年に、母に、容赦無い土塊が次々と落とされる。 村人は、あの瞳を恐れた。 邪気の無い無垢な瞳を恐れた。 しかし、今、その瞳に暗い火が灯る。 ほの暗い、悲しみに満ちたその色は失望。
少年の細い腕が、空に向かって伸ばされる。 飴色の遠眼鏡は、天に向かって投げ捨てられる。 遠眼鏡は何も映さない、生贄となり土塊に埋もれ、少年は眠る。 無に還る肉体は柳の枝を遣る瀬無く揺らし、無念の想いは、やがて焼き尽くされる村の終焉を笑う。
―― ウォ ダイ イング ニィ 約束するよ
嘘ばっかり、
―― ウォ ブゥ フイ ワンジィ ニィ 君を、忘れない
嘘ばっかり、
指先に痛みを覚えました。けれども僕はそれを止める訳には行きませんでした。
僕はここを掘り起さねばならないのです、ここを掘り起し、あの少年を起さねばならないのです、もう、大丈夫、もう、一人にしない、もう、ずっと一緒だ、嘘など付いては居ないんだ、少し時間が掛かってしまったけど、僕は君を忘れちゃ居ないし、君と暮らすその為に、何もかもを投げ打つ覚悟は決めてある、春天、堪忍してくれ、春天、 これは、僕であって僕ではない、これは先生、柳の下を掘り起す、過日の紅林先生の念。
『もう、終ったんだ・・・』
伯父の声を遠くに聞き、僕はそれが実は間近、そして雪を踏む素足の痺れに膝が笑うのでした。 夜着のまま蹲り、僕は、未明の庭、柳の袂を素手で掘り返しておりました。 指先には血が滲み、何本かの爪は欠け、既に感覚の無くなった爪先は青黒く変色を来たしています。 伯父の手には、二つに折られた遠眼鏡。 泣き柳の嗚咽が風を切り、そして沈黙の闇。
『もう、終ったのだ。 紅林は、生涯お前だけを愛した。
お前は愛されていた。 誰よりも誰よりも愛されていた。』
年明け、伯父より短い手紙が届きました。
中国へ、あの村へ行くのだと。 そして、彼の地に、深く、遠眼鏡を埋めるのだと有りました。 あの白い小片は、人骨であったと言います。 しかし、それが彼の少年の物であるか、いえ、そもそも本当にそんな少年が居たのかすら何も、証拠は無いのです。
けれど、春の日に僕は想い出すでしょう。
美しい瞳、幸せな笑み、指先が綴る、優しい言葉。
先生、こんなにも春は暖かい。
December 9, 2002
* ひさかわ 様 >欲しくても手が届かない中国美少年。 美しく、残酷なでぎりぎりの…切ないやつを
――― て、これは無いだろうってスミマセン。 どうして、美少年とか聞くと死人にするかな、自分。
生身に興味ないんか?
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