ウィテキンド卿の醜聞
                                   
      



       灰白の切れ間に蒼、そして、黒かと見紛う染みは森。 
       小窓に細い影を成す、指先の持ち主は、柔らかな低い声。

 『フレッド、御覧、あそこに、わたし達の始まりが在る』


       一族は、森の民であり、其処より始まり、鉱山で財を成した。 森には、初代ウィテキンドが眠っている。 


 『わたしはね、あそこで、終わりを迎えたい。 あぁ、静かだろうね。 音も無く、光も無く。
  冷やりとした苔の上、暗闇に紛れて、終わるんだろうね。』



        幼いフレデリクには、わからなかった。 長兄は、何を想いそう語ったか? 
        ぱらぱらと弾けるような遊覧ヘリのプロペラ音に、兄の続けた言葉の先は掻き混ぜられ掻き消され、
        未だに、わからない。 

        薄い兄の口元が、言葉を発す形を作り、そして、曖昧な笑みを残す。 
        その笑みは目前のフレデリクを通過し、其処に居ない、誰かへと向かった。



        フレデリクの手の平に、キャンディが二つ。


                                      
* * *





 
                               
ぱらぱらと、プロペラ音。 

 
                   
いや、違う、今はもう。 これは、雨。



 腕の中の感触、首筋に触れる湿り気を帯びた赤銅の髪。 
 鼓動はどちらのものかわからず、降り出した雨に寒さを覚え、手繰り寄せたブランケットに互いの匂いを認める。 
 生暖かい吐息と、ノスタルジックな回想。 

 サー・フレデリク・ウィテキンドの白日夢を醒ましたのは、見遣る扉の向こう、必ず、其処にまだ存在する、醜悪でリアルな塊。


                 
                                      
***


 6年前、変わり者のサー・フレデリク・ウィテキンドは、大掛かりな一儲けをし、若い身での隠遁を決めた。 フレデリクは私財の半分を親族に振り分け、残りの一部により、その屋敷は黒い森の入口に建てられた。 若い跡取の愚行に一族の老人達はこぞって反対し、引き止め、激しく非難したが、ウィテキンド自身にとって心残りなぞ一つも無い。 もう充分。 もう充分に、人生の稼ぎは補った。 充分だから、残りは想うままに使う。

 では何故?  何故此処、この場所を、選んだのだろう。 森はそこで全てを見ていた。 あの日の幼い自分も、自分の知らない兄の心のうねりも、黒い森はここでただ、見ていた。  そこを終の棲家としたのが一族の墓守たる己を自嘲してなのか、或いは永遠の謎となった兄を紐解くそれ故か、フレデリク自身でも解せぬ所である。 

集落から、町から隔絶されたその屋敷に篭り、書物に埋もれ、時に黒い森を散策し、祖先の血肉を吸い上げたであろう樹木に触れ、無為に、過不足なくフレデリクは日々を過した。 穏やかで変化の無い、生きながら死に向かうような、緩い傾斜を滑る日々。

 時折訪れるのは、食料を搬入する町の業者と、順番でも決めているのか、版で押したように月初め訪れる身内の老人。 当初、町の屋敷に戻れの一点張りであった親族らは、フレデリクが三十を超えた4年目より、妻を娶れと方向を変えた。 あらゆる伝手を駆使したのだろう。 老人達は偏屈を懐柔すべく、あらゆる魅力を少しずつ持ち合わせた娘の写真を手に、森の屋敷を訪れ、快い返事をせぬフレデリクを強情な愚か者め、と罵り、屋敷を後にした。 そしてまた、月初めには、諍いの種を撒く繰り返し、それが皮肉にも、フレデリクの厭世感を煽る結果になろうとは、老人達は思いもしなかった。


 5年目の夏、フレデリクは森の鉱山後で油紙に包まれた爆薬を拾った。 

 鉱窟の土砂に半ば埋もれていたそれを、フレデリクは丁寧に拭き取り、異国からの船便の如く、誕生日のプレゼント宜しく、マントルピースの端に飾る。 破壊により富を得た、我が祖先。 失わずして利を得ることなど在り得無いのに。 それが真理であると、油紙の中、眠る残塊はフレデリクに示した。 フレデリクに異論は無い。 


 6年目の秋、フレデリクはヴィクトールと出逢う。 

 夏の名残、てんでに蔓を伸ばす野葡萄に絡められ、糸屑みたいな赤毛の青年は、手入れの悪い庭の主を濡れ落ち葉積もるポーチから呼びつける。 

 『旦那、旦那、 なぁ、アンタ、何とかしてくれよ。』


 午睡の途中、騒々しい来客はソバカスの浮く仄白い顔を薄っすら紅潮させ、野葡萄に掴まれた燃え立つ赤毛を持て余し、フレデリクに小生意気で魅力的な笑みを投げた。 青年は大伯母の寄越した仕立て屋の使いであった。 主人のマルセロは、手が放せぬ仮縫いの途中、代わりに自分が注文の合服を届けに来たのだという。

 『あぁ、旦那、俺が言うのもあれだけども、屋敷の手入れは早いとこ済ました方が良い。 この有り様じゃ、雪でも降る頃には始末に終えねぇ。』


 絡まる赤銅を苦心して解くフレデリクに、礼の代わりの非難を向ける。 見上げ、覗き込む瞳はハシバミの色。 焦れた青年は乱暴に頭を振り、汗ばむ首筋から仄かに体臭が昇る。 甘く艶かしい、それは端に安物の石鹸に過ぎないのだろうが、青年の骨ばった指先がフレデリクの胸に触れた。 そして、そっと押された感触に、フレデリクは身を寄せ合い立ち尽くす自分と青年に気付く。 

 『・・・・・・ ありがと、旦那。』


 するりとフレデリクの腕をすり抜け、ポーチの水盤の縁に所在無く背を預け、青年はフレデリクを見つめた。 
途端に鼓動が跳ね上がった。 そして早かったのは言葉だったのか、その腕を掴む己の指先だったのか。

 気付けばフレデリクは、外套と厚地のズボンを誂えたいのだと、俄かに後退りする青年の腕を取り、早口で命じる。 服など新調するつもりは毛頭無かったのだが、他にどうしようもなかった。 この青年を引き止めたかった。 いぶかしむハシバミに色に、うろたえ、魅入る自分は滑稽ではあったが、手段を選べぬほどに今この時は甘美であった。 

 『申し訳ないけど、俺はまだ使いっパシリで、そうしたのは手に負えねぇよ。』


 眦を下げ大袈裟に肩を竦めた青年は、近く主人を同行し、採寸と注文に応じる旨をフレデリクに告げる。 ならば用件は済んだとばかりに踵を返そうとする青年を、フレデリクは更に呼び止めた。 呼び止めたところで用事など無い。 そこで待つように告げて、外より寧ろ薄暗い屋内へフレデリクは足を向けるが、はなから用事などなく、ましてや使い走りを茶に誘うなど正気ではなく、さりとてこのまま帰す事も酷く躊躇われた。  もっとここに留めておきたい。 ここに留めて返したくない。 己のこの衝動と、青年への執着は不可解では在ったが、昂揚する胸の内は初めての遠乗りに似ている。 

 フレデリクは、咄嗟に掴んだ砂糖菓子を待ち惚けする青年に握らせた。 小さな子供でもあるまいしと、改めて、その行為に戸惑うフレデリクに対し、掌の砂糖菓子を見つめた青年は綻ぶように笑い、歌うように名を告げた。 薄い唇を潔く開き、ぽんと放り込まれた桃色の砂糖菓子。 同じくらい甘い響きをした、その名前。


ヴィクトール、ヴィクトール、ヴィクトール。  

 それはかつて無く、艶やかな光景。 そぞろな泡立つ記憶。 ハシバミの瞳、赤銅の髪、汗ばむ額の白、薄いソバカス、甘い体臭。 フレデリクの日常に細波が広がり、いずれ飲み込まれる淵は、まだ底を見せてはいない。 



 数日後、フレデリクはヴィクトールの旋毛を眺め、落ち付かない採寸をされる。 約束通り主マルセロを連れて訪れたヴィクトールに、先日単独で見せた、したたかで伸びやかな印象はない。 強張った表情、一文字に閉められた口元、主の影に隠れるよう佇む痩せぎすで赤毛の青年。 視線は正面から向けられず、隙をつくように合わされたそれは大罪を犯したかのような慌てぶりで外され、直後、青白い頬が微かに強張るのを真上からのフレデリクは眺める。 動揺。 怯え。 卑屈な不安。 恐怖。 フレデリクは、何故かヴィクトールにそれを感じ、真偽を問い質し、抱きしめたい衝動に駆られる。 愛すべき憐れな者と化した青年を、無性に甘やかし、その総てを庇護したいと願う。 それが滑稽で愚かな感情だとしても。

 白い指が、腰骨に触れ、広げた腕の幅に小さな数字を読んだ。 臥せられた瞼に静脈が透ける。  震える声の読み違えに、主の舌打ちが被さる。 厭味たらしい派手なチョッキを着たマルセロが、いまやフレデリクの敵だった。 マルセロは悪人そのものの皮肉と威圧を駆使して、ヴィクトールに採寸の続きを指図をした。 さほど広くは無い居間の中央、使い走りの青年に心奪われ、着衣の上、触れるや否やの指先に、耳鳴りするほどの緊張を強いられつ、腕を広げ、脚を広げ、棒立ちをする。 愚かしいとは思うものの、フレデリクは、苦痛であり悦びである採寸の終了を恐れた。 

半刻後、自らの給仕でフレデリクは、仕立て屋に茶を振舞う。 そして同席せぬヴィクトールに歯痒く苛立ち、のうのうと茶を啜りおべんちゃらを言うマルセロを腹立たしく思う。


 それから数回に渡り、採寸、仮縫い、仕上げ直しと逢瀬は密やかに果される。 フレデリクは間近で動き、話すヴィクトールに見惚れ、ハシバミの瞳に出くわせば、そのまま小さな顔を押さえ付けて覗き込みたい己を始終押さえつけるのに苦心した。 けれどなんて甘美な苦痛。 やがて一仕事終えれば、主自らの給仕で茶を振舞うのも新たな習慣ではあったが、隣室へ引っ込む青年の為、フレデリクはこっそり菓子と飲み物を其処に用意した。 甘いものは食べないフレデリクが青年の為だけに用意した選りすぐりの見目美しい菓子。 滴る蜜、瑞々しい果実、温かで良い匂いのするお茶。 帰りしな、目配せすれば、綻ぶあの笑顔が漸く見られる。 けれど、帰ってしまえばすぐに湧き上がる、息苦しいほどの寂寥と渇望。


 フレデリクは、次の来訪までを気もそぞろに待ち侘びた。 愛しさに胸は高鳴り、焦燥に走り出してしまいそうだ。 落ち着かぬままに黒い森を徘徊し、その姿、声を反芻し、もしもずっと二人で過せたらどんなだろうか等と夢想しては、子供じみた己の空想に苦笑いした。 しかし、夢想せずにはいられない。 そしていよいよ仕上がりを持参したヴィクトールに、フレデリクは、またしても要らぬ新調を依頼する。 

 『旦那ァ、服屋でも開くつもりなら、こちとら、いよいよ商売敵だ。』


 愚かな男の気も知らず、ヴィクトールが軽口を叩く。 いつからか、ヴィクトールは、ふとした二人の瞬間に甘えた表情を見せた。 警戒を解き、軽口を叩く青年に、フレデリクは心を揺さ振られ、時に痛みすら感じる。 主人の居ぬ間であればこの青年は、こんなにも伸びやかで幼い。 怯えと恐怖と卑屈な不安。 マルセロの前で示すそれは、一体何か。 

 何か不自由は有るのか、良くして貰っているのかと、フレデリクは事在る毎にヴィクトールに問うた。 けれど瞬間、ヴィクトールの表情は強張り、曖昧な呟きを残し、質問の答えは常に沈黙だった。 以来、その問いは答えを得ないまま、宙に浮く。 そこにヴィクトールにとっての禁忌があるのは間違いない。  そして恐らくそれは、フレデリクにとって暗い淵のような何かなのだろう。  見えない禁忌の気配を感じながら、つかの間の逢瀬を二人は交わす。 二人の間に存在する土塊のような感情を、零れ落ちそうな不可解な感触を全て無視する事で、曖昧な均衡は辛うじて保たれていた。 


 その正体を解く引き金は、ヴィクトールの主、マルセロにより引かれる。  午後の陽光が部屋の中ほどまで舌を伸ばし、フレデリクは腕を伸ばし、足を広げ何着目かの礼服の新調の為、仮縫いのピン打ちを受ける。 ヴィクトールを間近に感じる、唯一の甘い苦しい時間。 そんな時間は長いようで短い。 最期のピン打ちを終え、小声で何か礼を呟き視線も合わせず隣室に消えたヴィクトール。 強張った関節を揉みつつ、名残惜しい後ろ姿を追視するフレデリクに、仕立て屋は下卑た笑みを浮べ囁いた。


 『・・・・・・・ アレが、気になりますかな、旦那様。 もし宜しければ、少し、残らせましょうか?』

 黙するフレデリクに、仕立て屋は続ける。

 『いえ、アレは慣れてますよ、えぇ全く。 もし・・・・・・ 宜しければですけれども。』


 頭蓋の内側が膨張し、弾けそうだとフレデリクは感じた。 拍動は地鳴りのようで、まだ続けようとする小男に身の回りは事足りていると返事をし、後は混迷の内、いつの間にやら仕立て屋とヴィクトールは帰って行った。 瞼に油膜が張り付いたよう。 帰りしなのヴィクトールの表情は、見る事が出来なかった。 


 フレデリクを混乱させ支配する感情、これは、嫌悪ではない。 混乱が収まって残るのは、ひたすら焦がれる恋慕と、掻き毟られる嫉妬、抑えようの無い独占欲。 そし、湧き上がる怒りが向かう先、それは彼を物として扱うマルセロに対してなのか、従うヴィクトール自身に対してか、或いはかつて 「居残り仕事」 を依頼した見知らぬ誰かに対してなのか、定かではなかった。 




 間も無く細波は変じ、聳え立つような高波はやがて呆気なく己の全てを攫い飲み込むだろう。 そうして呑み込まれ引きずり込まれて尚も、暗い海底を這い回る己の浅ましさを誰でも良いから止めて欲しい、殴りつけ押さえつけて欲しい、さもなくば汚泥のように堆積する思いを執着をこの世の終わりの何処かに解き放って欲しい。 恋慕、焦燥を友とし、フレデリクはもがくような息苦しい日々を過ごす。 思うのは、彼の青年の事ばかり。 浅ましいほどに渇望する己の欲深さに、黒い森の中、フレデリクは咆哮する。 叫べどもこの腕の中は余りに空虚で、この虚ろに収まるあの愛しい生き物は、今も、何処の虚に収まっているのだろうか? それこそ、身喰いするように残酷な真実だと思えた。


 翌週、仕上げ調整の直しに訪れたマルセロは、採寸ミスを疑い、赤毛の使い走りを睨みつけた。  しかし陰鬱に窪む眼窩、容易に触れる腸骨の突起が示すのは、驚く程やつれたフレデリク自身であった。 


 『旦那、水中りでもなさったかね?』


 薄ら笑いの仕立て屋の問いに、フレデリクは答えず。 暗い情熱を孕む瞳は、僅かに伏せられたままだった。  しかし伏せた目の端は、光に滲む赤銅を捉え、再び伏せた瞼の裏側に焼き付けようていた。 が、決して真向かいより受け止める事はなかった。  ほぼ測り直しの採寸は長い時間を要し、書き込まれた粗方の数字は一回り小さく、採寸を直したマルセロが商売道具を手早く纏めたのは室内が滑る緋色を帯び、もう既に、日が傾きかけた時分。 そんな長丁場にもかかわらずフレデリクは仕立て屋に一仕事後の茶を勧めず、代わりに一言、ヴィクトールを此処に残すよう告げた。 

仕立て屋の表情など、見なくとも察しがつく。 下卑た嘲笑、ひねた優越感、大方そんなところだろう。 
けれど、ヴィクトールはどうだろう?
フレデリクは、かくも渇望した瞳、その日初めて間向かう青年の白い顔を凝視する。 
今は見開かれ、戸惑いに揺れるハシバミを凝視する。 
恐ろしいほどの沈黙。 緊張と弛緩がない交ぜになったフレドリクの表情は半笑いで強張る。
何時の間にか仕立て屋は出て行った。
嚥下した唾液はいがらっぽく苦い。
薄暗い緋色の部屋の中、縺れるのは視線のみ、その距離は縮めず、動けない二人が立ち尽くす。

どうしたら良いのか。

 フレデリクは、青年と二人の空間に動揺し、どうする事も出来ぬ己に戸惑い、求めるその行為に躊躇しつつも、卑怯な手段で推し進めようとしている嫌悪すべき自分の暗闇に脅える。 やがてヴィクトールが視線を外し、小さな溜息を合図に、シャツのボタンを外し始める。 息を飲み、咄嗟に目を反らすフレデリクに、青年は言う。


 『なぁ、早いとこ済ませようぜ、旦那。』


 放り投げられた言葉。 蓮っ葉な仕草と吊り上がった唇。 しかし、その語尾は僅かに震え、フレデリクを再び捉えた瞳は困惑と怒りと悲しみと、まるで怯えた子供の痛々しいそれ。 居た堪れない気持ちに言葉を探し、発しようとするフレデリクを遮り、ヴィクトールの掠れた声は続ける。

 『・・・・・・・あんまり悠長にはしてられない。  だから・・・・ 旦那、アンタはどんなのがいい?』


 薄い肩を滑り落ちた粗末なシャツが、床に広がる。 幽かな音が奇妙に大きく響いた。 薄く骨格を包む、日の当たらぬ白磁。 幾分その身より大きい質素なズボンが、突き出た腸骨に心許無く引っ掛かり、細く骨ばった指が臍の脇を逡巡し、下腹が呼吸に波打つ鮮烈に、フレデリクは衝き動かされる。 一歩、二歩、近づくヴィクトールをフレデリクはただ見つめる。 軽く半歩分の距離、ヴィクトールは視線をフレデリクから外さず、図らず洩れた溜息と、ズボンの縁に掛けられた細い指先と。 

 もういいから、


 引き寄せ掻き抱いたその身体は思うより温かく、思うより華奢なつくりであった。 貧弱な骨格は、青年の薄倖を物語る。 湧き上がるのは、愛おしさと、抉られる如くの焦燥。 


 愛している、愛している、もろもろと崩れ落ちるくらいに愛しているのに、こんなにも渇望し、こんなにも囚われているのに、愛している、愛している、どうしようもなくてどうする事も出来なくて、もう離してやれない、この腕をもう振り解ける筈など無い、手放す事など出来まい。 

 フレデリクの懇願は祈りにも似て、しっとりした首筋に唇を落とし、その香りを厳かに吸い込む。 鼓動は今や早鐘の如く、どちらの物とも知れず。 だらりと下がった細い白い腕が、緩々と上がり、己の呼吸を圧する抱擁に、漸く戸惑いを見せる。 けれどフレデリクはその表情に気付かない。 ただ、腕の中に捕らえた愛しさに白日夢を紡ぐ。 恍惚とする男の背で逡巡した掌は、戸惑いつつも其処に落ち着く事は無く、引き寄せられた肩から上腕を緩々と滑り、合わせた胸に滑り込むと力無く押し返した。

 『・・・・・・・・でも、旦那・・・・・・ なぁ、それで、何が変わるよ?』


 非難する口唇は色を失い、哀願するハシバミ色は雄弁。 指先は言葉と裏腹に、きつくしがみ付く。


 『どうにもならない。 どうにもなんないだろ? アンタは、俺と、違う。 淫売の真似事で生きてる俺と、御屋敷の旦那様が、どうして並べるよ?』


 力を増した指先がふいに離れ、瞬きする間の沈黙。 フレデリクは落下する赤銅の奇跡をぼんやりと追う。 わからなかった。 何が起こったのか、何が起こるのか。 跪く青年の臥せられた瞼。 髪と同じ色の睫が震える。  青年の指先は器用にズボンの止め具を外し、ひんやりした指が下履きに滑り込みフレデリク自身に絡んだ。 滑稽なほど弱々しい制止の声。 他人事のように聞く己の声、手馴れた仕草で取り出した其処。 フレデリクは動けない。  巻きつく生暖かい感触と、近付く吐息が二度目の制止と、拒絶の動きを喚起した。 

 そうじゃない、

 押し退けられバランスを崩し、後ろに尻をつくヴィクトールが、冷たい炎の目をし、低く呟く。


 『・・・・・・・・ じゃ、どうしようってんだよ?』


 炎は儚く揺らぎ、溢れる雫を見たのは錯覚であったか。 

 青年は身を翻し、床に広がるシャツを掴むと、遁走する猫のように居間から消える。 
無粋な蝶番の音。 
残されたのは薄闇の部屋、寒々とした晩秋の嗚咽。


 では、どうしたら良かったのか?

どうしようと思ったのだろう。 フレデリクは冷えた床に蹲り、腕の中に、今しがた、一度きり収めた温みを思う。 肉体を手に入れるのは、いとも容易い。 しかしその先に、己の虚を満たす、甘やかな至福は有り得るのだろうか。 そして共に在ろうとする現実とは、如何なるものであるか。 

想いは奔流となり、溢れ出る渇望に溺れんばかりであった。 しかしヴィクトールと寄り添う己の姿を描けば、たちまちの空々しさが容赦無く刃を光らす。 およそ現実的ではない。 この想いは恋である筈なのに、この苦しさは愛である筈なのに、自分達に課せられるのは恐らく、惨めで、滑稽で、浅ましい醜聞。 笑い話にもならない、互いを貶める事しか出来ない結末。 けれど、思いは想いであり恋は恋だから。 これは愛である。 これこそ自分の、生涯に一度きりかも知れない、まごう事無き愛の有様である。 

フレデリクは、後戻り出来ぬ自分を確信する。 そこまで来てしまった自分を黙認する。
そして、これほど求めても実らぬ先行きを呪った。 愛する人以外の全てを呪った。



                                      
***



 連打される忌わしいドアの音。 東が白むまで注ぎ込まれたアルコールが、鈍い痛みと渇きを残す。 鉛の身体を起こし、厚みのあるカーテンを捲れば、外は既に日が高い。 玄関ポーチには七面鳥のように着膨れて、おかしな色合いの帽子を斜めに載せた、不機嫌な大伯母の姿があった。 

 のろのろと老女を迎え入れたフレデリクは、また、新しい月が始まった事を知る。 そしてまた、この小さく膨れた老女が飽きもせず、諍いの火種を置いて行くのだろうと、これ見よがしに取り出されたポートレートの飾り文字に鉛のような疲弊を感じた。 


 羽ばたきに似た、雨音が窓を打つ。 実りのない懐柔は穴開き柄杓の水汲みにも似て、幾度目かの嘆き脅しを中途に区切り、斜めに向けた鷲鼻が、大伯母の険しさを強調した。 翳る室内は蝋燭の消える如く、陰鬱な空気は雨の匂いと湿り気を帯び、顰め顔の老女は縮めた関節を緩々伸ばし、痛みはじめた膝と目の前の分からず屋に舌打ちをする。 風に煽られた雨粒が、羽ばたきのように窓ガラスを叩いた。 

 『おぉ厭だ! フレッド、車を呼んでおくれ。 道理で膝が軋む筈だよ。』

 辟易する拘束からから解放され、フレッドは、この老女を送り返す算段に協力を厭わない。 けれども俄かに崩れた空故か、愛想無い手配屋は鼻を啜り上げ、車は出払っている、戻るまで大分掛かる、それがそっちに向かう迄には更に掛かると、有に数時間の待機を告げた。 老女の不機嫌は更に増長していったがフレデリクとて数時間、また終わらない繰言にすり減らされるのは、まさしく拷問に近い。 次の手段を画策し、惰性で勧められた焼菓子を摘む小さな忌々しい老女。 命じられ、御茶を煎れ直し、何度目かの弁明を試みようとするフレッドは、窓の外で濡れそぼる幻のような姿を認める。 決して見紛う筈の無い、焦がれた姿。

 ポーチの円柱の影、水盤を叩く雨粒の紗を纏い、張り付いた髪は幾分赤を深め、対照的に蒼白く血の気を失った薄い肌。 心許無く細い姿は、ずぶ濡れで其処に所在無く佇む。 居ても立っても居られなかった。 何事かと声を荒げる老女の問い掛けもそのままに、フレッドは、早足で部屋を後にする。 

 何故? どうして? どうしてここへ? 

問い掛けは一つも言葉にならず、混乱を振り切るように開け放たれたドア、無粋な蝶番の軋みに虚をつかれたハシバミの瞳。 小さく動く唇は確かに己の名を綴ったか? 見上げる顔に浮かぶ安堵と不安。 張り付いたシャツが鎖骨の窪みに水を溜め、この季節にして余りに薄いジャケットはたっぷり水気を含み、くすんだ灰青の空の色。 ヴィクトールは小脇に包みを抱えている。 フレデリクの視線を読み、それは、夜会服、ケンドリー夫人に届ける筈の物であると青年は答える。 縋りつく表情、震える語尾には困惑。

 『それを届ければ、夫人は、俺に、残るよう命じる。 ・・・・ わかるだろ?  でも、だけど、 ・・・・ あぁ、そんな事、俺はちっとも気にしちゃいなかった。 気にしちゃいないし、寧ろ、もっと厄介な旦那方よりかは、綺麗で良い匂いのする御婦人の方がずっとずっとマシだと思っていた。 だけど、今日、俺は、厭だ。 なぁ、もう厭だ、もう厭なんだ。 なぁ旦那、アンタのせいだよ? ・・・・・アンタのせいだ。』


 冷たい雨が白い頬で弾け、流れる涙とないまぜに尖った顎から首筋を伝う。  静脈の青が浮かぶ手背が、哀れな蝶の様に閃いて、静かに、フレデリクの胸に安息を求める。 項垂れて傾ぐ小さな頭蓋を両の手で包み、温みを失う身体をきつく抱き締めれば、堪らず漏らされる淡く温かな吐息。 おずおずと男の背に回された細い腕。 重なり合う魂の半欠け。 

 けれども歓喜するのは束の間。 永遠と云う言葉を陳腐に墜落させるのは、開け放たれたドアの向こう、猛禽類の表情で金切り声を上げる老女であった。

 『何をしているの?! その子は誰なの? 答えなさい、フレッド!』


ヴィクトールを更に引き寄せ、怯えた肩を宥める。 大伯母の問いには答えず、濡れそぼる身体を己で隠し、抱えるようにしてフレデリクは暖炉のある居間へと足を進めた。 厭わしい金切り声。 両腕に抱え込む儚い冷えた身体。 早く暖を取らせねばならない。 くべる薪の予備は充分であったか? 適当な着替えは? それよりも湯を沸かすべきか? 何か甘いもの、そして温かい飲み物、

夢じゃないかと思えた。 これは現実か? 腕の中に愛しい者を抱き締め、保護し、愛する事が出来るこれは現実なのだろうか?

 『 フレッド! 答えなさい! フレッド!』

これも、事実だった。

 容赦ない現実は追いかけ、甘やかで切実な計画を台無しにしようと牙を剥く。 掴み掛かる手をフレデリクは無言で振り払い、よろけた老女は殊更口汚く罵リ、癇性に杖で床を叩く。 通り抜ける前室の姿見に、揉み合い通過するグロテスクな三つの影。 ブロンズのバッカスが、場違いな哄笑を上げる。 フレデリクの上着を鍵爪に似た大伯母の指が鷲掴み、怒りに歪んだ口元がとっておきの呪詛を紡ぐ。

 『フレッド! その子は一体何? あぁやめておくれ、汚らわしい、おぉ厭だ、そんな訳のわからないのを連れ込まないで頂戴! あんたはウィテキンドの人間なんだよ? それがどう云う事かわかるだろ? さぁ、おまえ、何処の使い走りかい? もうおまえに用はないよ、さっさとお帰り! 全く性質が悪いったらないね!何処で間違った血が入ったんだろう! アンタといい、ジェームスといい、兄弟揃ってウィテキンドに泥を塗るつもりかい? この恥曝し!』


 老婆の干乾びた掌が杖を振り上げ、虫でも払うように、ヴィクトールを掠める。 
仕損じた真鍮の先端は宙を切り、二枚の飾り皿を砕く。

 最愛の者に対する侮蔑、嫌悪。 網膜に焼け付くような痛み、耳の奥で反響する遠い遠い雨音。 

 いや、あれは遊覧ヘリ。 

 あの日、突然遊覧ヘリに弟を誘った兄は、遠い眼をして眼下の黒い森を見つめていた。 そして、その夜、兄は家を抜け出す。 平坦な見通しの良いハイウェイ、深夜の対抗車線を疾走した兄ジェームスは未明の屋敷に鉄屑と共に帰還する。 跡形無き肉塊。 幼い弟にはわからない大人達の怒号、葬列の末尾に項垂れ、灰白の墓石の前に崩れ落ち嗚咽した、あれは、兄の親友であった男。 そして喪も明けぬ内に兄の私物は全て処分され、兄は生きてきた痕跡すら失う。 兄の名は一族の禁忌。 思い出すのは、遊覧ヘリ、黒い森、遠い瞳をした兄の全てを諦めたような薄い微笑。


 『恥曝しが!』


 パンと、頭の中で大きな何かが弾けたのを感じた。

 突き飛ばした掌の乾いた感触、小さな悲鳴を上げクリスマスの道化宜しく、仰向けにもんどりうつ老女。 バッカスの足元、ブロンズの果実もたわわな其処に、驚愕する頭部は鈍い音を立てて着地した。 どろりと半眼は光を失い、磨かれた黒褐色の床板に、静かにゆっくりと広がる赤黒い溜り。 

 一つの現実は、この手で消した。
 大伯母であったそれは、もはや禍々しい物体。 

 そしてもう一つはここに残った。

 抱き締める身体はこんなにも温かい。 そっと、赤銅の旋毛に唇を寄せ笑った。 まだ、今がまだ続いている事をこの存在は教えてくれるのだから。 静寂に漂う、くぐもるヴィクトールの呻き声。 嗚咽する背中を撫で擦り、攫うように居間へ流れ込む。 チロチロと火の粉を散らす暖炉の炎が、寄り添う二人の緊迫を緩めた。 もう大丈夫だから、もう邪魔はされないから、許しを乞うように、或いは救済を求めるようにフレデリクの首筋に縋り付く腕が切なく愛しい。 性急に、初めて触れる口唇は氷のように冷たかった。  


 『 ・・・・・・・観念しなきゃ、ならないよ、旦那。』

 掠れる声が、濡れた口唇から発せられる。 

 慰撫する指先で、髪を、頬を、首筋を辿る。

真っ直ぐに開かれた、ハシバミ色に燃え立つ暗い情念。 ならばもう、後戻りなどするものか。 フレデリクは、屹然たる瞳に口付けを落とす。 暖炉の前、放り出されたブランケットの上、抱き締めたその身体をそっと、横たえた。 もはや堰き止めるもの等一つも無く、湧き上がり溢れ出る、何もかもに二人は溺れた。 溺れる以外に何も無かった。



                                           
***


 雨足は、尚、強く、雨音は、より静寂を意識させる。 

 行為はヴィクトールが導き、案ずるより異質なものではなく、直にフレデリクはそれに埋没した。 薄い皮膚に朱を散らし、その内に潜む美しい生き物のように、骨格が陰影を走らせる。 滑らかで、淀み無い行為。 悦ばせる事に熟知したそれを、哀れに想う。 そして彼の遣り方そのままを返せば酷く困惑し狼狽する、悦びに不慣れなその身体を哀しく想う。 

 『あぁ、ずっとってあるのかな? アンタの横に居るのに、俺は、これがホントとは思えない。』


 行為の合間、荒い息に途切れつつ、うわ言のようにヴィクトールは囁く。 

 ずっと、永劫、フレデリク自身それを言葉で肯定しつつも、根底では信ずる事が出来ずに居た。 重なり合う身体はこんなにも密着し、隙間無く一瞬を共有している。 幾度か追い上げ、精を放ち、尚も求めるのは尽きぬ渇望、そして払拭出来ぬ不安。 想いに、愛に、一つ足りと偽りは無い筈なのに、埋まるべき空虚がまだ、グラスのひびほどに、しかし誤魔化せぬほどに、存在し続けている。 

 フレデリクはヴィクトールでなく、ヴィクトールはフレデリクではない。 
 その当たり前が、酷くもどかしく、遣る瀬無い。 


 放り込む新たな薪、崩れた一束が火の粉を上げ一瞬の激しい瞬きをした。 傍らの身体が小さく震え、身じろぐ。 幾分しゃがれた声のヴィクトールが、すいと腕を上げ、床の一角を示す。 其処に投げ出された、雨染みの浮く包み。 届けられなかった夜会服。 包みの合わせから、血を思わせる赤が覗く。 フレデリクは母親の年に近い彼の夫人を思い浮かべ、余りに華やかな夜会服の色合いに苦笑する。 そして、もう一つの未完についても思い出す。 いまだ結末を見ないそれを、フレドリクは囁くようにヴィクトールに告げた。 ヴィクトールは睦言の続きのように、フレデリクの告白を聞く。 そして、そのようにしてくれと、戸惑うフレデリクの頬に、汗ばむ己の頬を摺り寄せる。


 観念はしている、覚悟も出来ている、それでお前は、後悔しないのだろうか? 

 フレデリクの問いかけに言葉は無く、代わりに、もがくような息苦しいくちづけが返された。 暫し貪る体液は余裕がなく、甘い。 解放された口唇は、凭れかけた胸、汗ばむ其処に願い事を囁く。


 『アンタと一緒でいい。 そうしたい。』


 フレデリクは立ち上がり、マントルピースに向かう。 手にしたそれは、そっと床に置き、いぶかしむ青年に笑みを返した。 
まだこれは、先のお楽しみだ。 

 向うの床に投げ出された包みを拾い上げ、破り、深紅が幾重にも折り重なる豪奢なドレスを手にすると、フレデリクは波打つ裾を大きく引裂く。 引裂けた羽根のような布きれ。 驚くヴィクトールの右手首にそれを巻き付け、そしてもう一辺を自らの左手首に巻き付けた。 件のご婦人より、この深紅は自分達に相応しい。 まるで羊水に浮かぶ二人の胎児に絡みつく臍帯の如く、もしくは墜ち逝く果ての目印にならんと、しかと二人を繋ぐ。  くすくす笑い出すヴィクトールがフレデリクに習い、深紅を一辺引裂くと、足首に結んだ。 悪戯で、したたかで、伸びやかなヴィクトールの笑顔。 足首に、首筋に、指と指、幼い子供の戯れのよう、二人は互いを深紅で結ぶ。  

 離れぬよう、ずっと、永劫の為。 
最期の一括りは、胸を。 
鼓動が溶けあうほどに、ぴったりと合わさり、重なった、二人の胸に、深紅が二周した。 



              ぱらぱらと、雨音。 遠い日の、記憶。 

 黒い森の染みの一部となるに、異論は無い。 もとより破壊から生まれた一族だから。 ならばその末裔の最期としては、これが似合いであり、こうなるべく宿命とも言える。 

 無ではない、生まれるのだ。 
 成就する為に失う事を、恐れはしない。 
 寧ろ僥倖である。 

 重なる鼓動が、総ての答えを教えてくれた。 悔やむ事は、一つも無い。


               ぱらぱらと、雨音。 

 その向こう、掻き消されず、次第に近付くエンジンを聞いた。


 さぁ、はじめよう。 


 フレデリクがヴィクトールを抱き締める。 
 ヴィクトールがフレデリクを抱き締める。 

 一つだって漏らさぬように、何一つ残さぬように。 
 吸い込む香りを、吐息を愛しさを余す事無く全てこの身体に満たそう。 

 深紅の端切れが二人を繋ぎ、そして、フレデリクは古のウィテキンドより受け継ぐ、由緒正しきプレゼントを暖炉に放り込んだ。




 絡みつく指、耳元の吐息、零れた言葉の欠片を、互いが聴き取る事は叶わず。






October 2, 2002




        * 佐伯様 5566リク

          『殺してしまいたいほど、愛してる』「エロの途中に自殺心中を試みる」
          「愛しているあまり、一つの魂と体になりたい」