待って、 ここだよ、 待って、 ここだ、 あぁ、 今行くから、 待って、 ほらほら、 私は、 此処だよ、 
            あぁ、 危ないよ、 走らないで、 あぁ、 危ないよ、 其処から先は、 
       危ないんだよ、 あぁ、 お願いだから、 待って、 待って、 何故だい? どうして、 私から、 逃げる?





                          虚廊ユキ螺旋マデ






                何で、 どうして、 離してしまったんだろう。



姉、サクヤは、18年前、名ある画家たる初老の父と、歳の離れた若い母との間に、望まれ、その生を受け、至福の2年後、弟ヒソカが、病床の母の命と引換え、愁う、この世に生を繋ぐ。


サクヤは、母の、情熱的な、燃え立つ魂を譲り受け、その容姿すらも大輪の花。 圧する者とし美しく育つ。 
ヒソカは、母の、移ろう浮世の生への儚さ、危うい容姿を譲り受け、静謐な沼の睡蓮の如く、好まざるとも、惹き付けた。 


父は、二人の、子を見て苦しみ、愛と同じく苦悩を抱いた。 

愛しい我が子、愛しい亡き妻、合わせ鏡はどちらかが欠け、それで諦め、つくものを、永遠に想い、続くは煉獄、合せ鏡の虚廊の果てに、親子は愛で、足枷を嵌めた。 そして、鉛の憧憬を牽き、父は山深い、庵へ篭る。

二人の子供は、その世話を焼く数人足らずの使用人らと、麓の屋敷に、二人で過す。 いわば隔離、いわば幽閉。通いの教師が知識を与え、二人の世界はそこより始まり、無比の完璧、そこのみ全て。

父の愛憎と裏腹に、サクヤとヒソカは、螺旋の如く惹き合い、重なり、愛しあい育つ。 パズルの破片が嵌め込まれる様に互いを欲し、互いに憧れ、互いを庇い、二人は育つ。 


炎の如く、業火の如く、触れれば、焼け付く、姉の激しさ。 

其れが我が身の破滅と知りつつ、滅ぶ愉悦は、逆らい難く。 奇矯、我儘、酷薄、其れすら、甘美で自堕落、蜜蝋の虜、形在る故、蕩かす誘惑、失って尚も、戻らぬ魂。 

その、姉の影に、その名の如く、ヒソカは、静かに密やかに育つ。 

儚い容姿と、憂いを纏い、しかし秘めたる気質は鉱石、触れれば鋭利。 漂う芳香、涼風の如く、昼尚蔭りゆ森林の奥、偏光に一縷、照らされる水面、浮かぶ睡蓮、旅人誘う、幽かに密かに、只、只、誘う、其れが戻れぬ道行きとても。



姉は、哀れな奴隷を操り、弟ヒソカに物憂げに語る。

『頼んじゃ、いないわ、勝手にするのよ、愛しています、そればっかりね、』

姉の黒髪、柔らかに梳き、静かに低く、弟は語る。

『幸いは、いつも、人それぞれに、身を滅ぼすのも、また、愉悦なのでしょ?』



姉の足元、累々と、躯の如く、愛奴の残骸。

そして、躯は、頭を上げて、薫る、慈愛と安寧を見る。

微笑む、ヒソカ、絡みつくのは、最果てに向かう、婉曲な誘い。 

屍達は、其れが、尤も、回避すべき罠と、何処かで知りつつ、あがらう事無く、至福の欺瞞に、その身を委ね、暗転の如く奈落へ向かう。


姉が惹き付け、弟が絡め、二人の遊戯は、危ういバランス、切っ先の上で、
踊るが如く、優雅にゆるりと、爪先で回る。
世界は球形、完結空間、二人で始まり二人で終わる。



男が、二人に邂逅したのは、春、まだ早い、桃香る頃。 
男は街より、全てを捨てて、父に師事乞い、庵を訪ねた。 

開け放たれた、テラスの窓より、仄かに漂う、裏手の桃の香、木立ちを縫って、射し込む陽光、巨人の如くの影法師、其れは次第に輪郭を持ち、一人の男の形を示す。


姉のサクヤは、いつもの如く、長椅子に凭れ、午睡を愉しむ。 
死せる、魅惑の、魔女の傍ら、夢見る精霊、弟ヒソカは、絵筆を走らせ、神話の世界に、想いを馳せつつ、スケッチブックに、姉に良く似た、狂女を描く。 
花に埋もれて水面に浮かぶ、死して艶めく、麗しの狂女。


男は、暫し、立ち尽くす。その目が映した、鮮烈な美に、男は暫し忘我に沈む。


ヒソカが発した小さな声に、サクヤの瞼が幽かに揺れる、そして見開く四つの眼差し、男は、瞳に、射貫かれた。 持ちうる言葉も、手段も持たず、ただただ、男は立ち尽くす。木偶の如く、張りぼての如く、最早、男は魂を抜かれ、命ぜられるのを、待つのみの愛奴。


健やかな体躯、精悍な容姿、不器用な程の、率直な言葉。 
男は二人の、愛すべき玩具、翻弄されるも、突き放されるも、全て、歓喜と
甘美の戯れ。 そしてそれぞれ、満たされ、潤い、或る種、至福の形と云えた。


サクヤは、奇矯な難題を出し、艶やかな笑みで、男を動かす。
ヒソカは、苦渋に喘ぐ、男の耳元、欺瞞の慰め、しっとり囁く。
男は、至福と地獄を味わい、身を焦がそうとも、其処より逃れず。


程無く、男は、其れを目にする。

光射す、部屋、豪奢な長椅子、絡み合う、白い、美しい裸体。淫靡ではあるが、
崇高でもあり、何故か男はその光景に、微塵の欲情、すら、その身に覚えず。 
二人は、男に気付いて居ながら、殊更、白蛇の如くに絡ませ仰け反り、口元の
笑みは体液に濡れ、上げる嬌声、あざとい企み。


そうして、男と、二人の間に、新たな秘め事、新たな習慣。 

男は、白い、キャンバスの前、二人は白い、キャンバスの向う、男は其処に、
美を映さんと、鮮烈な其れを絵筆で現す。 
二人は、男の盲執を糧に、禍々しく馨る快楽に染まる。 


濃密な時間、甘露な残夢、果てる二人が重なり眠る。 
乱れ、絡まる四肢そのままに、枝垂れる足先、投げ出された腕。 


男は静かに絵筆を置いて、聖なる淫魔に、跪く。 


感謝します、祝福あれと、サクヤの指先、口唇、触れる。
崇拝します、どうぞ慈悲をと、ヒソカの爪先、唇、落とす。 



得てして、迷わず只、信ずる事、しかり、崇めて、愛を求める、男の其れは、
すなわち信仰、見返り無くして只それ唯一。



三人の時は球形の世界、歪に撓ませ、尚、未だ弾けず。 

危うい均衡、完全さを欠く、切っ先の上の、虚ろなダンス、旋回に乱れ、
砕け散るのは、如何なる所存か。


盲執、其れは、男のみ為らず、囚われの亡者、此処に、現る。 



肌蹴たローブに、見え隠れする、淫靡な翳りと衣擦れの音。 
互いを愛でつつ、視線を感じ、快楽に墜ちて、睦み合う二人。 
そして、瞬き、する間も惜しみ、鮮烈な美を、描き撮る、男。 

その、満ち足りた、歪みの中を、異質な者が、身を忍ばせる。 

残像の如く、亡者の如く、陰惨な影が、静かに歩む。 



二人が見たのは、降り注ぐ雨。  グレナデンの、降り注ぐ雨。

深紅に艶めく、飛沫に打たれて、二人は互いを抱き締め、目にする。 
切り裂かれた白。深紅に染まったキャンバスの末路。 

捩れた頭部の、奇怪なマネキン。 

その傍らに、屹立する父。 

口元に浮かぶ、曖昧な笑み、諦観、悲哀、苦痛と欲望。 
ゆらゆらした手に、握られたナイフ、銀の切っ先滴る紅蓮。
綺麗な、赤だ、と、二人は見惚れた。



『愛しているよ、愛しいお前』   夢の狭間に、男は囁く。
『もう、離さないよ、永遠に。』   醒めぬ、愛ゆえ、夢見て微笑む。



父の瞳は、大きく開かれ、瞬く様は、夢の端切れ、が、しかし其処には
現世は映らず、過ぎ去りし、甘い、亡き人の影。 
父は、ゆっくり両手を広げ、愛しい、影を、掻き抱かんとす。



砕けた世界、散り散り成る時、その完璧である、球体は落下。 

叩きつけられ、飛散した欠片、跡形すら無く、在るのは、虚無のみ。 
細く、連なる悲鳴を上げたは、姉のサクヤか、弟ヒソカか? 



待って、 ここだよ、 待って、 ここだ、 あぁ、 今行くから、 待って、
 ほらほら、 私は、 此処だ、 あぁ、 危ないよ、 走らないで、 
あぁ、 危ないよ、 其処から先は、 危ないんだよ、 あぁ、 お願いだから、 
 待って、 待って、 何故、私から逃げる!?


甘い懇願、悲痛な嘆願、夢見心地のまま、踊るよな歩で、
笑みを浮かべて、父が近づく。
両手は、愛を、掻き抱く形、その身を紅蓮の飛沫に染めて、
哀願を叫び、父の影。


二人は、走る。肌蹴たローブが、所在を示し、咎無く死す、彼の、罪人の如く、
降り懸かる咎の、その意味も知らず、ただ、切迫する、恐怖に震え、
世界を失う憐れな、二人は、手に手を捕って、テラスを越える。 



『何故、置いて逝く?』

ヒソカの手首は父の手の中、静謐な父の、血走る瞳が、
テラスの縁より、二人を捉える。


『何故、一人にする?』


ヒソカは揺れる。 

ヒソカの右手は、サクヤの手首を、今かろうじて、把持して震える。 

喪われたもの、其れは、静かで、普遍の、甘い、球形の世界。 
姉と、二人で織り成した世界。 

そうして二人を見守る男、世界を傍観するベく男。 歪に、丸く、創られた世界。 
其れを喪い、生きられるのか? 

まだ見ぬ世界の、禍々しさとは。



『あたしは、厭よ! さぁ、離しなさい!』


鋭く、響く、サクヤの命令。 

業火に燃ゆる、奈落の瞳、屈せぬ魂、其れ故の美に、圧する力は、
ヒソカを惑わす。  

姉が、サクヤが、ヒソカを見つめ、ゆっくり、笑みを浮かべた瞬間、
ヒソカの右手は、制御を失う。



網膜に、今も焼きつく、最期の其れは、
大輪の花の、如くの、艶やかな、微笑。






何で、 どうして、 離してしまったんだろう。




その、部屋で、今も、美しい二人、後期印象派による、絵画の如く、
豪奢なゴブラン、猫足の椅子に、物憂げ、怠惰に、しなだれて座る。



ヒソカは、窓辺に額を押し付け、虚ろな目を彷徨わせ、
谷間に墜ち逝く、あの、笑みを想う。


『 姉さん、 どうして、 僕は、 あの時、 』

未だ、ヒソカに答えは、浮かばず、そして再び、姉を想う。



男は、至福の、笑みを浮かべて、両手を広げて、愛する名を呼ぶ。


『おいで、ミチル、愛しているよ』

呼ばれた娘は、艶やかな笑みで、男の腕に、抱かれて微笑む。 


娘は、一度は、命を捨てたが、命は残り、記憶が消えた。

娘は、その母、ミチルとし生まれ、男は亡き妻、ミチルと出逢う。



屋敷の裏には、男が眠る。 かつては、傍観した男。
男は、今も、傍観している、暗い地中で、樹液に蕩ける、


そして桃には悦楽の味、甘く滴る蜜を与える。
黄泉より出でる、禁断の桃、常世を繋ぐ、禁忌の果実。



愛しているよ、愛しているよ、ずっと、このまま、一緒に、離れず。


愛しているよ、愛しているよ、ずっと、ずっと、
ずっと、このまま、一緒にいよう。 






August 14, 2002






     
* 漱石の、虞美人草を、少し意識した。 で、まるで、違った。 まるでな!!