耽溺ロジック
      
       



      昨日、行きずりの男と、寝た。


何しろ俺はボロボロで、饐えた匂いの湿った路地で、どっかの親父のハズレた演歌を、子守唄にして転がっていた。 抱かれる腕も埋める胸も思いを語る言葉も無くて、『スナックさくら』の電飾看板、ひび割れたソレを抱き枕にして、只 -- もう終い -- と、眼を閉じた。


『おい、』

少し向こうで声がする。 
続く足音、蹴躓いたのか転がる乾いた壜の音。 今度は真上で声がした。


『起きれんのか?』

さぁどうだかな、どっちにしたって起きたかねぇよ、俺はこのままヘタレていたい。 閉眼したまま唇動かし、アッチへ行けと俺は言う。 潰れた喉から酷い声。


『なぁ、怪我してんのか?』

しつこいヤツだね、寝たヤツ起こすか?  心配するなら介抱してけよ、 

薄く眼を開け、そいつに怒鳴った。 怒鳴ったつもりが腹から抜けて、なにやら瀕死の趣の声。 空気の温度が近づく気配、脇腹を辿り差し込まれた手と煙草と汗とシャツの背中と、眼下に『さくら』の看板を見て、俺はそいつに担がれ揺れた。


−−− ゆっくり歩け、でないと吐くぞ

『もう、すぐ其処だ、』

肩越しの声は頭蓋に篭り、なにやら酷く心地好かった。 その時、見知らぬ男に担がれ、俺はなにやら安心してた。 このまま担がれ揺れてたかった。 腹と頬とに伝わる皮膚温、暖かなソレは心地よかった。 何かが溶けるに充分だった。


二つ三つの路地を抜けて、うらぶれた家と崩れた塀と、カツンカツンと錆び浮く階段、踏み昇る音は、碌で無し達の冴えない咆哮、遣り切れなくなるもの悲しさで、  

ーーー なぁお前此処? 此処お前んち?  返事より先に、降ろされた。


何も無い部屋、殺風景な -- とりあえず居る -- それだけの部屋。 俺は薄暗い狭い台所の、黒ずんだ床に頬を押し当て、男の様を見物してた。 冷蔵庫の前、屈み込んでる男は意外と痩せていて、良く担いだなと今更思う。 やがて男は缶を手にし 飲むか? と俺の顎先に置く。 水滴のついたスポーツドリンク。

ーーー 酒 ・・・ ビールとか、此処無いの?

『今夜は、止めとけ』


見上げれば其処、触れそうな其処に、覗き込むよな男の顔が。 あっさりしていて特徴の無い、明日になったら忘れるような、そんな男の顔があった。  伸ばされた腕に反射で掴まり、オレはのろのろ身体を起こす。出来損ないのマネキンみたいに、体の継ぎ目がギチギチとした。 冷えた液体は喉に染み込み、注がれ通過し、急いて咽込む涙目の俺は、己の渇きをこの時改め思い知る。 

渇いていたよ。 あぁ本当だ。


『怪我、してねぇか?  喧嘩、したのか?』

痣だのそんなの、あちこちあんだろ? 喧嘩って云えば、そう言えなくもない。 一方的な負け戦だがな。



俺はね、そいつに惚れていたんだ、そりゃもう心底惚れていたんだ。 

見ているだけの恋だけど、そいつで全部が満たされていて、そいつの気持ちが俺には無くとも、充分俺は幸せだった。 育ちが良くってキラキラしていて、そいつの周りは空気も違って、それだから俺はくすんだ空気のその向こうに立ち、そいつを眺めて嬉しかった。 だからさ、俺は舞い上がったよ。 そいつと仲間に、誘われたのは。 


俺の隣にそいつが座って、俺に向かってにこにこ話して、見た事も無い喰いもん出されて -- あぁ夢みたいだ -- そう思ったよ。 ドラマみたいなでっかい家で、そいつの家に今俺は居る。 そいつと同じ空気に、混じる。  そいつの世界に、俺も入れた。 

な、わかるだろ、俺、有頂天だ。 

----- で、    夢、醒めた。 

何か、盛られた。 

色々、された。 


あぁ色々な、けど、ついてたな、ぼんやり虚ろで良くわからねぇ。 あぁツイテルさ、嫌な夢なら忘れちまわなきゃ、でなきゃ次また、うなされるだろ? あぁホントにね、最悪の夢、俺を見下ろし清潔な顔で、綺麗な空気のそいつが言うんだ、

コイツハ、コウイウノガスキナンダロ?  コイツモ、ケッコウタノシンデルサ 

な、ヤナ夢だろ、悪趣味な夢。 


それだから今夜、今夜だけ俺は、良い夢見たくて、見ずにいられなくて、このまま眠って色々忘れてどっかの阿呆が起こしに来るまで、放り出された知らない路地で、幸せな夢を見るとこだった。 



阿呆が拳を握ってる。 握った拳が震えてる。 拳がゆっくり綻んで、阿呆が俺に手を伸ばす。 伸ばしたその手が、俺に触れる。 

馬鹿だね俺は、何だってまた、覚える筈無い男だからか。 
これきり会わない男だからか。 
馬鹿だね、すっかり吐き出していた。


阿呆が伸ばしたその手に引かれて、阿呆に抱かれて俺は泣く。 その人肌は夢とは違って、鼓動を伝える暖かなそれ。  

・・・・・・あぁ駄目だ、駄目だ、これじゃぁ俺は、離れられない。 

世話焼きついでだ、同情してくれ、慰めてくれ、今だけ俺の傍に居てくれ


男は、応えた。 無言で答えた。 そっと俺はまた担がれて、隣室までを男に揺られる。 ふっくらとした布団の感触、傍らに座る男が言った。


『・・・・・・俺は、ずっと、此処にいるから。 一人じゃないから、ゆっくり休め。 話したかったらそれでも良いし、朝まで、お前の傍にいるから。』


暗がりの中、窓から洩れる質素な灯りで、男の眼がチカリと光る。 其れは瞬く誘蛾灯に似て、死にかけの俺は吸い寄せられる。 なんだい、不思議だ。 男の顔が、どうやらやけにリアルを増した。 

あぁ忘れない、俺はこいつを忘られやしない、きっとこの夜を忘れるものか。


傍に居るなら見てるくらいなら、話す事などあれで全部だ、だから、頼む、触れていてくれ、温もりは愛で、悪夢などでは決して無いと、お願いだから、俺に、身体に、解らせてくれ。


俺は男の瞳を見つめる。 嘆願している憐れな男が、男の瞳にぼんやり映る。
汗と煙草と男の匂いと、遠くで夜行の警笛音。




昨日、行きずりの男と、寝た。 

名前も知らない、出自も知らない男と二人、背中あわせで凭れて座る。 
捩れたシーツが踵で丸まり、カチリと、男がライターを弾く。


『なぁ、付き合わねぇ?』



答える代わりに、もう一度、した。





August 2, 2002





      * ミムラ様  「肉体からのめり込むくさった純愛(甘い味付け)」