    
                
       
                     夜光の英雄      
       
                
                 
       
       
       
            闇が火炎に照らされ、コンビナートの光が流れる。 海は黒く、波間は死んだ魚の腹のように時折瞬く。  
            何処かで鳴るサイレンが、湿風に散らされくぐもった余韻のみを運んだ。 
       
       
      こう云う映画があったな、と思いながらミカヤは、パイロンを退かすケンジを眺めた。 見張り小屋には、人影が無く、というより、そこに誰か居た為しは今まで無い。 いつだって、此処は、入り込める。 お金の無いカップルだの、酔狂な若者だの、そしてこうしてラッパを吹きに来る馬鹿も、入り放題であった。  
       
      ツクモ造園 のロゴ入りバン。 後部座席には、トランペットが置いてある。 角がボロボロになり、あちこち傷が付いた、やたら重たい黒いケースの中で、ソレは出番を待っている。    
      ・・・ ほら、御主人が戻ってきた・・・ 運転席にケンジが戻り、バンは非常灯の点滅する、埠頭の奥へと進んで行った。  
       
       
       
      ミカヤの家の斜め前。 ツクモ造園の次男坊、それがケンジだ。  
      父親の脱サラに引き摺られ、ミカヤの家族がこの、長閑な町に移って来た7歳の時からずっと、ケンジとの付き合いは続いている。 引越挨拶にタオル詰め合わせを持ち、母親がミカヤを連れて訪れたツクモ造園の、松の植え込みの下でケンジは泣きながら穴を掘っていた。  
      大柄な身体は、同い年とは思えず、坊主頭にギョロリとした眼もなんだか怖そうに思えたが、母親に促され、渋々ミカヤはケンジに近づき どうしたのか? と 問うた。 
       
      「こいつ、埋めないとなんねぇ」 
       
      ケンジは、ティッシュに包んだ金魚の死骸を指して言う。 それは、ぽつんと土の掛からない根元に置かれていた。 それきり、また穴を掘るケンジの傍を、何故か離れる気にはなれず、ミカヤはケンジの作業をしゃがんで傍観する事にした。 やがてバケツの底ほどの穴に金魚を入れ、躊躇いつつ土を掛ける。  
      ぽんぽんと地均しをするケンジが、初めてミカヤを正面から見つめた。 
       
      「お前、何処の子?」 
       
      そうして、二人の長い付き合いが始まった。  
       
       
       
      賢い長男、要領良い三男。  
      その間で、貧乏くじを引く次男とは、ケンジの事である。 ケンジは、要領の悪い子供だった。 知恵足らずというのではないのだが、何をするにも尽くヘマをし、またそれを誤魔化す悪知恵も持ち合わせず、結果、親に兄弟に、そして子供連中からもどやされ、大きな身体をちぢめて泣く。 ケンジは、泣き虫でもあった。 
       
      新参者のミカヤは『カッコつけの都会者』と、初めは子供社会に遠巻きにされていたが、持ち前の要領の良さと、口の上手さで程無く仲間として迎え入れられた。 そして、しばしば機転の利いた新しい遊びを提供し、ガキ大将のお気に入りにまでなっていた。 地主の息子のギア付き自転車の後ろに乗り、風を浴びるミカヤは、真っ赤な顔で兄のお古のボロ自転車を漕ぐケンジをいつも眺めていた。  
       
       
      その頃、子供達は『肝試し』に夢中であった。  
      初老の夫婦と40手前の出戻り娘が営むその駄菓子屋は、子供達の社交場であり、今は肝試しの舞台でもあった。 せいぜいグッピーラムネかフィリックスガムをくすねる程度の「イケナイコト」。 しかし、子供達はその緊張とスリルに夢中になった。そして此処でも、ケンジは厄介者である。 必要以上の挙動不審に、何もする前から出戻り娘に詰問されて、パチる仲間を呼ぶ事も無く、一人叱られべそをかく。   
       
      一方ミカヤは、ヒーローだった。 
      目玉の『ゲイラカイト』を持ち出したのも、仲間の分まで5本のホームランアイスをパチったのもミカヤだけの偉業だった。 ミカヤは、全く変わらぬ様子で振る舞い、時に老夫婦に愛想を振り、微塵も疑われず、涼しげな顔で大物を持ち出す。  
       
      しかし、ある時起こった。  
      杏棒を忍ばせ店を出ようとしたミカヤは、店先の陳列棚にシャツの裾を捕られ、よろめいた。  あら、大丈夫? と、出戻りが駈寄るのとケンジが叫ぶのは、ほぼ同時である。  ケンジは、図らずしてミカヤの動きを止めた。  
      そして、 どうして? という困惑顔の出戻りと対峙する、獲物を手にしたミカヤが残った。  誤魔化せる筈だった。これくらい、何て事無く遣り過せる筈だった。ソレをあの馬鹿が。  思わず、戸口で立ち尽くすケンジを、ミカヤが睨む。 そして、誤解された。 
       
       
      般若のような出戻りが、ケンジの耳を捻り上げ恫喝する。   
      アンタは、この子に、何を遣らせたのか言って御覧!!  元エリートで、今は塾講師という町のインテリを父に持つミカヤは、瞬く間に被害者とされ、好意で警告を発した罪無きケンジは窃盗を唆す悪童として裁かれる。 絶壁頭に汗を掻き、涙で顔を汚しつつ、ケンジは一言の弁明もしなかった。 そして、ミカヤも、一言も発する事は出来なかった。  
       
      ミカヤが己の卑怯を、自覚したのは、これが初めてである。 ミカヤはこの時、ある種の畏怖を感じる。  惨めで、薄汚れたケンジの姿が、酷く尊いものに見えた。 
       
       
      その晩、更に赤く腫上がった顔をして、ケンジはミカヤの家へ父親と訪れる。  
      すんません、すんません、坊ちゃんに馬鹿が、とんでもない事させて、すんません、すんません。 
      ケンジの父親がバッタのように頭を下げる。 ケンジは頭を押さえつけられ、謝らんか!と怒鳴られる。  母の影から見ていたミカヤは、ケンジの父親の腕に手を掛け言った。 
       
      あれは僕がした事です。 何だか遣って見たかったんです。 ケンジ君は悪くありません。 ケンジ君が怒られるのは辛いです。 ごめんなさい。 怖くなってしまって、すぐに、言えなかったんです。 
       
       
      拍子抜けしたような大人が、顔を見合わせている。  
      そして、何やら有耶無耶になった。 ケンジの父親は、ミカヤがケンジを庇っていると思ったか、 何かあったらおっちゃんに言いなさいよ、と ミカヤに言い残し帰って行った。  
      門柱の前、二人の子供の影法師。  
       
       
      ミカヤのソレは、真の告白何ぞでは無い。  
      弁明せず、責められるケンジを見兼ねての事ではあるが、語る謝罪はおよそ舌先三寸であった。 そう言っておけば、とりあえず事無きを得るだろうという企みのある告白なぞ、心があるものか。  
      ミカヤは、自分の小賢しさを恥じた。 そして、それを持たぬケンジを哀れみ、同じくらい羨んだ。  
       
       
       
      突堤の先、ケンジがラッパを吹いている。 首周りの伸びたTシャツが、風を含み膨らんでいる。 ミカヤは、当時のケンジを今ならばこう表現する。   
      あれは、殉教者のそれである。   
      3本目のタバコに背を丸め、火を点けた。 
       
       
       
      以来、ケンジとミカヤは、行動を共にする事が多くなった。  
      特に、何をするでもなく、はしゃぐような浮き立つ楽しさがある訳でもなく。 ケンジとただ、過ごす事がミカヤにとって安堵の時間ではあった。 そして、ケンジはミカヤと接近した事で一目置かれ、以前ほど周囲から冷たい対応をされる事が少なくなった。  
       
      二人は、小・中と、同じ学校に通う。 何事もそつなくこなすミカヤは、クラスの中心で笑い、ケンジは父親の強引な勧めで、嫌々リトルリーグに入り、万年補欠を通した。 それ以外では、二人は互いの家に入り浸り、時に家族と食卓を囲み、風呂を頂き、そのまま泊まって、早朝慌てて帰宅するという事もしばしばであった。  
       
      ミカヤは、宿題が出ると、まずケンジに遣らせた。  
      ケンジは、解る所だけに手を付け、それは全体の三分の二程度で、残り三分の一を、ケンジに叩き込むのが ミカヤの役目だった。 どうでも良い丸写し等は、殆どケンジが手がけた。  
      ケンジは今でも、ミカヤそっくりの字が書ける。 
       
       
      二人の学力差は歴然としており、高校からの進路は別々となった。  
      ミカヤは地元では一番と言われる進学校に入り、相変わらず何でも要領良くこなし、入学早々小鹿のようなクラスメイトとデートの約束を取り付けた。  
      ケンジは中の下といった工業高校に入り、そこでブラスバンドに入部する。  
      そして、ラッパと出会う。  
       
      何故、ブラスバンドなのか、何故ラッパなのかは分らないが、ケンジは入部するなり『あれが遣りたい』と、トランペットを指差した。 その勢いに、てっきり経験者と思った上級生は、さして考えずトランペットのパートへ、ケンジを連れて行った。 が、まるで素人なのである。 しかも、楽譜が読めない。  
      この頃ツクモ家では、四六時中不快に響くケンジのマウスピースの音に、悩まされていた。 辟易し、ついに切れた父親が 外で遣ってくれ と怒鳴るまで、ケンジは特訓を続けた。  
       
      自宅を出されたケンジは、町外れの川縁で、ラッパの練習を始めた。  
      ミカヤは、土手に座り込み、それを眺めて過した。 時に、ミカヤは彼女連れでやって来た。 ケンジが辛うじて音階をマスターする迄に、ミカヤの彼女は3人代わった。  一方、ケンジに女っ気は皆無と思えた。  
      が、侮ってはいけない。 
       
       
      或る夜、そうしてミカヤはぼんやりと、ケンジがラッパを吹くのを眺めていた。  
      その日、ミカヤは、付き合っていた彼女と別れた。 
      ショートカットで綺麗な脚をしていた彼女は、 本当に自分を好きなのか? ただ、好きと言われたから付き合っているだけなのか? と、ミカヤに詰め寄る。  日頃 口が巧いと自負するミカヤなのだが、その時、即答する事が出来なかった。 彼女は、軽く息を吸い込み、ミカヤに別れようと告げた。   
      ミカヤは、それを承知した。   
      ミカヤは、彼女の容姿も、少しきつい所も好ましく思っていたが、それが恋であるのかは定かではなかった。  
       
      そもそも、恋とは何か。 
       
       一休みに、腰を下ろしたケンジに   
       
      「好きな奴いないの?」 と 問うた。  
       
      「いねぇ。」  ケンジは素っ気無く答えた。 それきり会話は終わった。 
       
       
      ケンジが、本格的に曲に取り組んだのは、高2の春からである。  
      しかし、相変わらず、楽譜を読むのは難航し、読めなくも無いが読んでると曲が終わるという有り様だった。 そこで、ケンジは、すべて暗記する方法をとった。 一つの曲を初めから最後までとことん暗記して、耳で覚えるというやり方である。 その為ケンジは、全てのパートを暗記する羽目になった。 御苦労な事だが、そうでないと自分が何処から入って良いのか止めて良いのか分らないのだ。  
       
      9月の校内コンサートまでの5ヶ月間、ケンジと共にミカヤもその曲を聞き、否応無く、先に叩き込まれたのはミカヤであった。 後半、ミカヤはケンジのセコンドを勤めた。 そして、相変わらず引っ切り無しにミカヤは軽い付き合いをし、ケンジに女っ気は無いままだった。 
       
      「なぁ、おまえ、彼女欲しくないの?」  ミカヤが問う。   
       
      「わかんねぇ。 俺、うまい事言えねぇし。  
                  居ても、どうしてイイか わかんねぇ。」   
      ケンジが土手に寝転ぶ。  隣に寝転び、ミカヤは続ける。  
       
      「でもよ、ずっと童貞ってのも、アレじゃねぇ?」   
       
      その時、ケンジが奇妙な表情をした。  
      悪さを見つかったような、そして叱られるのを恐れるような。  
       
      「おれ、やった。」   
       
      ミカヤは呆然とし、自分が聞いた事をそのままに理解しかねていた。 
       
       
      ケンジは、童貞ではなかった。  
      その相手というのは、驚く事に同じ町内のラーメン屋の女房であった。 その女房なら、ミカヤも知っている。 いつも、何かしら機嫌の悪い、愛想の無い ミヤガワハナコ に似た女だった。  
       
      その日、前日の皿を回収しに来た女は、 皿が汚れたままだ とケンジを怒鳴り、台所でそれを洗おうとするケンジに続いて家に上がり、 道理が全くわかっちゃいない と説教を始めた。 説教されつつ皿を洗い上げ、ケンジが皿を手渡そうとすると、 アンタ、他にもワカッチャイナイ事あるんでしょ? と 女はにじり寄り、あれよあれよとケンジの童貞を切った。 
       
      「なんでおまえ、されるがままなわけ?」 
      ミカヤは信じられないという顔で問う。  
       
      「止めてくれって言ったけど、女に恥じかかす気ね?!って凄まれた。」 
      ばつの悪そうなケンジが小声で言った。   
       
      よりによって、あの、ミヤガワハナコ に。  
      他人事ながら、溜息が出そうなミカヤだった。   
       
      「で、どうだった?」 
       
      返事はない。   
       
       
      顰め面で転がるケンジを見つめ、ミカヤは、言いようの無い焦燥が僅かに何処かで燻るのを感じていた。  ケンジが、自分より先に童貞を切った事に焦りを感じているのか、或いは別の何かがミカヤを焦らせているのか。  
       
       
       
      埠頭の海風は、冷やりとしたが、湿った空気がべたついて不愉快であった。  
      先刻、フロントに しめ縄モドキ を吊るした白い改造車が入ってきたが、ミカヤとケンジに気付くと、回れ右で出て行った。 自分は、そんなに人相が悪いのか? と ミカヤは首を傾げたが、見遣るとケンジがTシャツを脱いでいる。 それで、合点が行く。 ケンジの背中には、雷神の刺青がある。 
       
       
       
      高卒ですぐ、ケンジは隣町の部品工場で働き出した。  
      最初の一年は、女性工員に混じっての、手先中心のパーツ部署に配属された。  不器用というより手が鈍いケンジは、贔屓目にも芳しくない仕事振りだったが、擦れていない分おばちゃん連中の受けも良く、それなり良い職場であった。  
       
      休みに帰省したミカヤは、失敗談を話しながらも穏やかなケンジの表情に安堵した。 ラッパの音色も、何処となく余裕のあるものだった。 しかし、やはりケンジには力仕事が良かろうと、二年目に配置換えがあった。  
      そこは、仕事は向いていたが、職場は向いていなかった。 
       
      図体がデカイ割に、押しが効かず、要領の悪さは昔からのケンジは、すぐさま工員達のターゲットとなった。 ドヤされこずかれ 難癖つけられ、それでなくとも覚えの悪いケンジは、畏縮し益々つまらないミスを重ねた。 時に、行員達は、わざとケンジに嘘を教え、そしてそれをミスとして工場長に報告し、窮地に立つケンジの様を笑った。  
      そんな時も、ケンジは弁明しなかった。 ただただ項垂れ、拳を握り、唇を噛み締めるばかりであった。  
       
      そしてある時、工員の一人がケンジの運ぶ素材ケースの取っ手を緩め、ケンジは十キロ近くあるケースの重みを右手の指のみで受け、痛みに声を上げた。 中三本の指は、急な負荷に筋を痛めたか、見る間に脹れていった。 数人の工員が、嘲笑する。   
      もう、指が、駄目になった。 そう思った瞬間、ケンジの何かが外れた。 咆哮をあげ、ケンジは工員達に殴りかかった。 やがて、工場長が恫喝し、数人がかりで押さえ付けられるまで、ケンジの激情は収まりはしなかった。 
       
       
      ミカヤが、都市の大学から帰省して来たのは、ケンジが二週間の謹慎を受けた直後である。 事のあらましを家族から聞き、ミカヤはケンジの部屋へ向かう。 乱雑な部屋で、ぼんやりテレビの画面を見ているケンジは、憔悴し切った表情をしていた。  
      幸い指は、炎症を起こしているだけだったのだが、それでも2週間はラッパを吹けない状態である。 ケンジにとって、それは何よりも辛かった。  
      ミカヤは工員達の卑劣さに憤り、全てを上司に話すようケンジに勧めるが、ケンジはそれに同意をしない。  
       
      「どうして、おまえ、そうなの?何で、疑われたまんまなの?悔しくないの?」 
       
      「悔しいっつうか。  俺じゃねぇってチクったら、ソレは、やっぱり卑怯な気がする。」 
       
      ケンジは、もっぱら謹慎後の報復を恐れていた。  
       
      「 一人でアレだけ暴れたのだから、またやられたらやり返せるだろう?」 
      と ミカヤは言うが、  
       
      「あの時は、わけ判らなくて、やろうったって出来ない」  
      と ケンジは項垂れる。  
       
       
      ぐずぐず落ち込むケンジをミカヤが連れ出したのは、謹慎が解ける一週間前であった。 訪れたそこは、ミカヤの友人のアトリエだった。  
      その男は美大を中退した後、彫り師に弟子入りし、今もその助手として修行している。 男自身、それなりの作品を手がける事が出来るが、凝った物は、やはり新米の男より、師匠が指名される。  
       
      「キチンと彫りたいんだけど、じゃあ お願いってモンじゃないしねぇ」 
       
      ミカヤが、飲み屋で出会った時、男はそうぼやいていた。   
       
      「ああ、じゃあ、「その気」のが居たら連れて来ますよ」 
       
      そんな風に調子良くミカヤは言い、男から名刺を受け取った。 そして今、すっかり忘れていたその名刺を頼りに、此処に居る。 
       
       
      正直、ミカヤは本気ではなかった。  
       
      「そんなにビクビクすんな。 おまえ見た目は迫力あるんだから、最初にドカンと出とけば本来楽勝なんだよ。 ああ、そうだよ、いっそ彫りモンでも入れてみたらどうよ? チラッと見せて、睨んでやったら、大抵 カタは付くんじゃないの?」 
       
      ケンジの部屋で、缶ビールを飲みつつほろ酔いのミカヤがそう言うと、あっけ無いほど簡単にケンジはその話に乗った。 
       
       
      若い彫り師はケンジに問う。  どんなの、いい? 
       
      「迫力あるの、いいんだけど。 見たら、もう、なんも言わないでいいような」  
       
      彫り師は数枚の下絵を示し、ケンジに選ぶよう促した。 そうしてケンジが選んだものは、地上を睥睨する雷神であった。  
       
      男のアトリエで風呂を浴び、ケンジは二日掛かりで墨を入れた。  
      一日目、アトリエの別室でうつ伏せて疼痛にうめくケンジを団扇で扇ぎ、冷やしたタオルで額を拭う。  
      「すげぇよ、ケンジ、こりゃ、すごい迫力だ。 だから、もうちょっと、もうちょっとだから、頑張れ、頑張れケンジ、頑張れ」   
      予想以上の痛みに涙するケンジに、ミカヤは丸二日、付き合った。 
       
      ミカヤは帰省間際まで、ケンジの背を消毒し、かさぶたが化膿せぬよう手を尽くした。 かざした手鏡で雷神を眺めるケンジは、かつて無いほど自信に満ちた表情をしていて、もう、これで、自分がケンジに出来る事は無いのかも知れぬという、不安定な寂しさを、ミカヤは抱きつつ大学へ戻った。   
       
       
      そして、復帰した数日後の昼休み、ケンジは数人に囲まれ、金を強請られる。  
      何人かは、あの日ケンジが殴りかかった工員で、何人かは便乗しての慰謝料請求である。 当初、工員達も、ケンジの激情を目の当たりにし、恐怖を少なからず抱いていた。 しかし、復帰後のケンジは、それ以前の茫洋としたケンジであり、ならば恐れる事は無い。 工員達は、てんでに勝手な額を要求する。  
       
      一人がケンジを軽く突いた。 すると、それまで俯いていたケンジが顔を上げ、その工員を睨みつけ、ゆっくり作業服を肌蹴る。 
       
      「黙れ。 うぜぇんだよ。」    
       
      低く発するケンジは、その背を工員達に曝した。 
       
      「俺に構うな」  
       
       
      息を飲む工員達は、気付いたろうか? ケンジの声が震えていた事を。  
      ミカヤは、帰省前、ケンジを特訓した。   
       
       
      「最初なんだ、肝心なのは。 かといって、おまえは長台詞でボロが出る。 いいか? 一度切りしか使えねぇから見極めろ。 奴等が手ぇ出そうとした時。 そうだよ、やられる寸でのトコでだよ。 睨め。 一番低い声、腹から出せ。 シャツはゆっくり脱げ。」 
       
       
      何度も何度も、ミカヤと練習した。 そしてその成果が実を結んだ。  
      以来、ケンジにちょっかいを出す者は皆無であった。 ケンジと関わろうとする者も居なくなってしまったが、ハブにされても困る事などケンジにはなかった。 日中、汗して働き、夕暮れには存分ラッパを吹く。 ケンジにとって、理想的な毎日が約束されていた。  
      理想的ではあるが、何か、隙間があった。  この欠落感の正体を、ケンジは知らない。 知らぬままに、一年が経過する。 
       
       
       
      その晩、ミカヤは深夜の来訪者に睡眠を中断させられた。  
      ドアの向こう、非常識な来訪者は、ケンジだった。  
      ケンジは、困惑し、切迫していた。  
       
      「俺、どうしたらいい? 親父にばれた。 行きたくねぇよ。 俺、奈良なんて」 
       
      ミカヤは、ケンジを招き入れ、飲みたいか? 食べたいか?と尋ねた。  
      そして、どちらとも答えないケンジに、まず最初から話せ、と促した。   
      語られたソレは、何とも馬鹿馬鹿しく、しかし笑い事では無い内容であった。 
       
       
      墨を入れてからのケンジは、ソレを家族にひた隠しにしていた。  
      透けないように、脱がないように、風呂は家族が眠った後で使った。 ソレは、案外簡単な事ではあったが、予測外な事は、何時か起こるのである。  
       
      泥酔した父親が、嘔吐で服だの身体だのを汚し、深夜の風呂場へ向かった。 そして、息子の背中との対面を果たす。  そこからは滑稽な修羅であった。  
       
      激昂する父親は、一気に酔いがリバースして脳貧血で倒れ、倒れついでに洗濯機の角で後頭部を切り、救急車まで出動する流血騒ぎとなる。 
      騒ぎに起き出し浴室を覗いた母、兄弟、祖父母らは、流血し倒れる父と彫り物を背負った息子の構図にパニックとなり、泣くわ 罵るわ 哀願するわ の大騒ぎ。 到着した救急隊員は、誰を収容すべきか一瞬、躊躇したという。  
      そして、翌日、家族は本人抜きでの会議をし、帰宅したケンジは 『奈良へ行け』 と父親に命ぜられた。  
       
      そんな身体の、半端な息子は、一から鍛える他にない。 母方の実家が郡山で金魚の養殖所を経営している。 話は付けたから、今の仕事は辞めて、明日にでも其処で使って貰え。  
       
      短絡的だが行動力のあるケンジの父親は、ケンジの奈良行きを半日でプロデュースした。 ケンジに、反対の余地は無く、思い余ったケンジは造園所のバンに乗り、深夜ミカヤを訪ねた。 
       
       
      呆れもした、脱力もした。  
      だけど、ミカヤはケンジが自分を頼ってきた事実が嬉しかった。  
      そしてケンジは、迷わず自分がミカヤの元へ向かった事に少し驚き、こうしてミカヤの傍に居る自分が随分と穏かである事に気付くと、あの欠落がなんであるか悟った。 
       
       
      翌日、卒の無いミカヤはケンジの自宅へ連絡を入れ、  
      ケンジさんと話し合いたいと思いますので、しばらく自分に任せて頂けますか?  
      と 伝えた。  
      しばらくとは 、と聞かれ咄嗟に一ヶ月と答えたが理由などは無い。   
      かくして、ケンジの滞在は一ヶ月と決まった。 
       
      ミカヤは、ケンジの所持品が財布とラッパだけであった事に、呆れた。 とりあえず、財布の12405円で着替えを購入させた。 が、ラッパには困った。 こんな住宅街で、ラッパなど吹く場所はそうそう無い。 そして、何時かサークル仲間と忍び込んだ場所を思い出した。 あそこならば、都合が良い。  
      翌日から、二人は夜の夜光へ通う。  
       
       
      昼間、ミカヤは大学へ行く。  
      ケンジは言われるがままに布団を干し、掃除をし、時々は散歩を愉しみ、都会の家並みにドキドキし、そうしてミカヤの帰りを待った。  
      一方、ミカヤはケンジの待つ家に戻るという事が、どうにも嬉しかった。  
      一度、ケンジはミカヤと大学へ行き、校内で時間を潰した事がある。 食堂、売店、生協と、退屈はしなかったが、此処に居る人間と自分は、何か違うようだと思い、居心地の悪さを感じた。 数時間後にミカヤが現れたとき、ケンジは例えようのない安堵を感じた。  
      ケンジは、此処に居る人間の中でも、上等のミカヤと居る自分を、少し誇らしく思った。   
       
      二人は、幸せだった。 
       
       
       
      そして、夜光で、ケンジがラッパを吹く。  
      もう、かれこれ二時間以上、吹いている。 ミカヤのタバコは一箱目が終わった。  もう何度目か判らない、やたらと景気の良いフレーズをミカヤはラッパに合わせてハミングした。  そもそもケンジが吹けるのは、この一曲だけだ。 来る日も来る日も吹き続けるのは、最初で最後のケンジの舞台、校内コンサートでの演目。  
      タイトルを、『士官候補生』という。 
       
      ・・・ 士官候補生、ああ、そりゃおまえにぴったりじゃないか。 怒鳴られ、しごかれ、理不尽に泣き、いいように動かされる。 おまえ、そのまんまじゃないか。 ・・・   
       
      ミカヤは、笑いたくなった。   
      何故なら、彼らはいずれ、士官の道が用意されているが、ケンジにはそれが無い。 割に合わない、永遠の士官候補生。   
      夜光の士官候補生は、明日、奈良の郡山駐屯地へと出発する。   
      行けば、恐らく帰れないだろう郡山駐屯地。 
       
       
       
      「行きたくねぇ、俺、行きたくねぇ」  
       
      昨晩二人は飲んでいたが、ケンジは酔ってなどいなかった。酔えなかったのだろう。しらふで、ケンジは涙を堪え、低く呟く。   
       
      「奈良が、嫌だってんじゃねぇ。 金魚育てんだって、工場の仕事よか楽しいように思う。 ラッパだって、何処ででも吹ける。  けど、そうじゃねぇ。  俺は、ミカヤとずっと居たい。 奈良なんて行っちまったら、もう、簡単には会えねぇんだよ。」 
       
      ミカヤは、嗚咽するケンジを眺め、ああ変わらない、と驚嘆する。  
      冤罪を着た幼い頃から今日に至るまで、ケンジは飾らず、偽らない。  
      言葉に、含みや企みは無く、愚かしいほど真摯であった。  
      だからこそ、ケンジはミカヤの英雄であり続ける。  
      哀れみと憧憬と、庇護と安堵と、憤りと慈しみと、 
      この英雄に,ミカヤは全てを与えよう。  
       
       
      ラッパはいよいよ勇猛果敢、ラストのフレーズに突入する。  
      此処は、厭になるほどケンジが覚えず、腹が立つほど聴かされた。 さすがに今は、すんなり流れ、情感たっぷりに終了する。 ラッパをぶら下げ、近づくケンジをミカヤは見つめた。  
      ケンジは何と言うだろう? そしてどんな顔をするだろう。  
       
      今日、一日がかりでミカヤは画策した。  
      誰かの為に、生涯を賭けても良いと、そう思い、そう願った。 自分の持ち得る切り札全て、小賢しい頭と、よく廻る口と、卒の無い対応と。  
      持ち駒全てを動員して、それを画策した。  
       
       
       
       
      ・・・  なぁ、ケンジ、おまえ、後一年ちょっと頑張れ。  
       
      たったそんだけだ。 出来るだろ? 金魚好きだろ? ラッパだって吹けるさ。  たいした事じゃない。 休みには会いに行くし、おまえもできるだけ出て来い。 なぁ、おまえ、ほんとに、俺が賢いのに、感謝しろよ。 賢い奴は、貰い手が多いんだ。   
      一年ちょっとしたら、俺は奈良の研究所で働く事になる。 是非来て下さい、そう言われたよ。 そしたら俺は、近くに住めるし、何なら一緒に住んでも良い。 ずっと一緒だ。   
      俺はずっと、おまえがラッパ吹くのを眺めてやる。  
       
      だから、ケンジ、一年ちょっとだ。 ちょっとだから、頑張れ。  
       
             頑張れケンジ。   
       
             頑張れよ。  ・・・ 
       
       
       
       
       
      そうしてケンジの英雄は、頑張れ頑張れと、夜光で綺麗に笑った。 
       
       
       
       
       
           
           
       
            * 夜光 ・・・ 川崎の工場地帯。 忍び込み可能。 だけど花火は駄目(なんとなく)。 
                 ・・・        辛かった       ・・・ 
             
        
                            
       
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