トラヴィアータの顛末  




       −−−  紳士と淑女が、大慌てする


トイレ、軽食、喫煙 の三大欲を満たすべく、早い者勝ちの 30分。  エントランス奥、背の高い観葉植物に隠れるように、僕と先生は座っていた。 

グラスワインは赤と白。 パサパサのサンドウィッチには、瀕死の胡瓜とミイラみたいなハムが挟まっている。  手のひらみたいな葉陰から、右往左往の 紳士淑女を見物した。  僕は、隣の先生を、そっと見る。  銀鼠のスーツを着た先生は、一昔前の英国紳士のようだ。

先生は洒落た眼鏡の蔓を弄び、パンフレットに見入ってる。


『 プラスチック製のグラスもアレだし、赤は渋いし、白なんて、これ、シロップみたい。 幕間に飲むには、丁度良いけど、でも、味はちょっと頂けないよね。 』


「これが相場だ」 と、先生は、パンフレットのプリマ経歴から眼を離さない。 

眼鏡の向うで目が細くなる。 最近ソレをよくやるし、もしや老眼の兆候か? と、聴きたいけども、やめた。 どうせ、生返事で返される。  スツールの下、先生の膝を引っ掻いてやった。


『 最近のオペラ歌手って、そんなに太っていないんだね。 今日くらい、ほっそりしてると、『美しい人、貴女は・・・・・』 とか歌われても、違和感無い気がする。  薄幸って形容でも、ま、良いかなって。 』

先生は、忙しなく辺りを見回し 「ここじゃ止めなさい」 と 低い声で言う。 


僕は、もう一度、今度は膝から内側を撫で上げる。 
咄嗟に上がりそうな声を変な具合に吸い込んで、やっと、正面から僕を見た先生は怒った顔をしていた。  でも、無視されるよりはずっと良い。 


「場所を考えなさい。分別のない子供じゃあるまいし。」 

先生は、剥きになってパンフレットを読み続ける。 全身で、僕と自分を否定する。 


馬鹿だね、先生。 此処にこうして僕らが居る事の意味、これこそ無分別の極みだと思うよ。 まして、僕らは子供でもない。 渋いワインでパンを飲み込み、残りをダストに放り込んだ。 立ち上がり際、懲りない僕は、先生の耳を唇で掠める。 

無作法な音のブザーが鳴って、幕がまた上がる。 
どうせ、また睨んでるのだろうな。 振り返らずに、シートに戻った。



その女は美しく、それなりに満ち足りていたのだと思う。 その生活は、女にとっては都合が良くて、言ってしまえば天職だったのかも知れない。 

女は自分に自信があったし、その仕事振りにも、誇りを持っていたはずだ。  だけど、あの男は、それを一から否定する。 


なんて、傲慢な男だろう。 

女は娼婦だ。 しかし、賢く美しい。 心根も良い。   なのに、男は。 

あの男は、娼婦に惚れた自分に、我慢ならなかったのだろう。  始末の悪い事に、女は、男を愛していた。 娼婦の愛。 男は信じていたのだろうか。 信じちゃいない。 男は、女が娼婦である事を恥じた。 愛するものを、誰より恥じた。 すべて承知して、そして、その美しく賢い女に愛された自分を、男は誇れなかった。



『 ねぇ、もし、マルグリットが娼婦ではなく、下宿の娘とか花屋の娘とかだったらば、アルマンは、マルグリットに恋をしただろうか? 下宿や花屋の娘ならば、家事には長けているけれど、カードを楽しんだり気の利いた言葉遊びも楽しめない。 何しろ、見た目も大違いだよ。 そりゃいくら元が良くっても、垢抜け方が違うもの。 美しくあろう、見る者を楽しまそう、誘惑しようと常に気を這っている高級娼婦の魅力って、ちょっと、素人には太刀打ち出来ないと思わない? 』


僕らは、ひっそりとした、イタリア料理の店にいた。 オペラを観た後の、遅い晩餐。

先生は、予約を入れていた。   どこよりも目立たない、その席を。 


先生は、グラスのマールを舐めるように飲んでいる。 僕は、食欲がない。 囁くように発泡する緑の壜の硬水を頼み、魚介の前菜と軽いもので と、神妙な顔のシェフに伝えた。  多少の無理は通る。 おそらく先生の行き付けなのだろう。 程なくして、つまむ程度でもそれなりに、華のある何品かが運ばれた。 

先生は、旺盛に、ニョッキを食べる。 僕は、先生に話し掛ける。 

さっきのオペラの話し、ゼミの事、バイト先の犬の話。  先生は、それに応えたり、相槌だったり、無視だったり。  言葉は先生に届かない。 


ねぇ、先生はどうして、僕と居るのかな? 楽しい? 嬉しい?  でも、僕は、笑う。 楽しくて、嬉しくて、そして恋しているのだという顔で、先生に笑顔を向ける。 小さく大きく身振り手振りで、例え嫌な顔をされても気にせずに、先生のどこかに触れようとする。 触れたがっている。


『 あの、掘り起した遺体さ、ホントにマルグリットのだったと思う?
もしかして、皆、グルになって、アルマンを騙してたとか。 良く解釈すれば、あんなの見れば、諦めも付くって、親切で。 悪い方だと、アルマンに去られて悲嘆して暮らすマルグリットを、哀れんだパトロン達が、去った男を懲らしめに。  』


小海老は甘くて、美味しかった。 レモンを絞った生牡蠣は、先生の好物だ。


「君は、どうして、そう、安っぽいサスペンスにしたがるんだろうね。」 

この店で、先生が、喋った言葉の最長だった。 


そうだね。 まるで安っぽい。 三流の二時間ドラマって感じだね。 
ああ、まるで僕らと同じだ。

でも、先生、なのに、先生は、ちゃんとホテルも予約しているんでしょ? 
こんなに、僕らは、会話ひとつままならないのに、だけど、先生は、なのに、先生は、僕を抱くんだね。 


店を出てすぐタクシーを拾った。 よろけた振りで、先生にしがみつく。 
首筋に、先生の吐息がかかる。 そのまま、唇を合わせる。 どうか、応えてよ先生。 ほんの一瞬、背中に先生の手を感じたけれど、ほんの一瞬で離された。 というより、寧ろこう云うのに近い。

僕は、突き飛ばされた。   


口元を拭う先生の目は、反射するレンズで見えない。
泣き出したい、僕の姿も、先生には見えないだろう。



数日後のゼミの後、先生は僕を呼んだ。 
今日のゼミは、先生、散々だった。 言葉も絡まり、段取りも滅茶苦茶で。  
資材室に入るなり、後ろ手で鍵をかけ、先生が怒鳴る。 


「君が軽率だから、こんなものが。」  

内ポケットから、取り出した封筒を、先生は僕に突きつけた。 


「なんて事だ、もう、・・・」 

先生は、外した眼鏡をぞんざいに掴んだまま、何度も何度も、掌で額を擦った。 自慢のロマンスグレーも、乱れきり、充血した目は、眠れぬ夜を経た為だろう。 


「台無しだ、もう、何で、誰が・・・」 

忙しなく、体を揺すり、呪詛のような呟きが続く。  封筒には、数枚の写真があった。 


ワインを手に、歓談する僕と先生。  耳元に、唇を寄せる僕と先生。  薄暗い店内で、食事をする僕と先生。 夜の路上で、抱擁し、口づけを交わす僕と先生。  そして、先生に促され、ホテルの一室に入る僕。  

隠し撮りとはいえ、ピンともはっきりと、綺麗に撮れている。 
うまいものだ。  

おかしな事に、写真の僕と先生は、酷く幸せそうに見えた。


「これが、昨日、家内宛に送られてきた。」  
「家内は、離婚を考えている」
「近く、弁護士に呼ばれる」  
「どう云う事なんだ?お終いか?何の為に私は、此処まで。」  
「君なんかに逢わなきゃ良かった。」  
「君なんかに逢わなきゃ、こんな事にならなかった。」  
「君が、そうやって嫌がらないから、それが当たり前のように誘うから、それだから、私は踏み外してしまったんじゃないか。」


先生が、泣いていた。 僕は、手を差し伸べたけれど、その手は激しく振り払われた。


「君のせいだ、もう、二度と私にかかわらないでくれ。」


最後に見たのは、写真を鷲づかみ、床に蹲る先生。



ねぇ、先生。 あの人は、僕に似ていたんだよ。

美人ではないけれど、凛とした美しいその人は、緊張する僕に 「あの人を愛しているの?」 と尋ねた。 気丈な瞳が、瞬く。 

「別れろって言われると思ったのね。」 
「違うのよ。寧ろ、あの人を貰って欲しいの。」  

その人の笑顔は、悲しい。 グラスを持つ手が震えてる。 

「私は、あの人が学生の頃から愛してた。」 
「でも、あの人は、私を愛してはいなかった。」
「あの人は、私の父の力を頼って私と結婚した。」 
「でもあの人は、そうした結婚を恥じ ている。」 
「あの人は、私を愛する振りをして、そうする自分を恥じている。」 
「愛されてると思い込んでる、私を恥じている。」 
「私はね、自分が恥ずべき人間だなんて思ってないの。 そう思われるのは、屈辱だわ。」 
「だから、もう、止めにしたいの。」 
「あなたがあの人を愛しているなら、どうぞお好きに。もう、気兼ねする事もないのよ。」
 

・・・・・・ わかりました。 

だけど、僕も、先生とはもう無理だと思います。 僕は先生を愛しています。 心から、先生を愛しています。 僕と先生は、体の関係もありますが、先生はそれを恥じています。 自分に抱かれる僕を恥じ、僕を抱く自分をも恥じています。 僕は、愛する人の恥でありつづける事に、もう疲れてしまいました。 確かに、始まりは、僕の何かしらに、先生は愛しさを感じてくれたんだと思います。 でも、今となっては、性欲のみを求められているとしか思えないんです。

「それじゃ、あなたの精神的な支えをあの人が欲していたら? それでも、もう無理?」


僕らは、それから計画をした。 

ねぇ、先生。 あの、オペラの日、僕は写真を撮られてるって知ってたんだよ。  だから、あえて、僕らの関係がわかるように、小さな悪戯をした。 あの人は、あなたと別れるために、それを利用する。 僕は、先生、あなたと続けるチャンスとしてそれを利用した。 

写真と離婚を突きつけられて、あなたは僕に、何かを求めるだろうか? 地位も家庭も失って、そうしてあなたは、少しでも僕に縋るだろうか? 僕を、心を持つ、人として求めるだろうか?



そして、僕らは、離れる。  



あの時、先生が少しでも僕を求めてくれて、少しでも僕と共に在る事に安らぎを見出そうとしてくれたなら。  止そう、もしも、なんて、考えれば未練ばかりだ。  だけど、悪いばかりじゃあない。  


先生は、もう、恥じなくて良いんだよ。   

僕も、誰かの恥ではない。  

それは、とても、素敵だ。



『 マルグリットは生きてるよ。  今も何処かで、愛し、愛され、美しく笑ってる。  』









        July 2, 2002




     
* トラヴィアータ ・・ 道を外した女 邦題「椿姫」 高級娼婦と青年の悲恋。