ウォーター・ヒヤシンス
  


コポコポコポコポコポコポコポコポ 
          ・・・・・・ ソレはそこから湧き昇る、低く、小さく、小さく低く。

濃緑の葉陰。 水面に漂う、儚い白。 淡い紅。 うつろう光。 哀れ、孤高の艶姿。

御覧、 ウォーター・ヒヤシンス。 アレは秘密を抱えてる。 それが、お前にわかるかい?


『 水盤に、船を浮かべてくるといい、ほんの少しの間だよ。お茶の時間には、呼んでやる 』

兄は小船の玩具を手にし、幼い弟に微笑みかける。 優しく、綺麗な笑みではあるが、そこに異論は挟めない。 兄は、弟の丸い頭部を包むように撫ぜ、そのままくるりと反転させて、そっと、頑なに、庭へ促した。

初夏の庭は、むせ返る湿った青い匂いがする。 その奥、一角にひっそりと水盤はあった。 先代が、道楽で独逸人の青年に造らせたという其れは、直径2メートル程度の円形で冷やり鈍く光るブロンズ製。 ぐるりの縁にはブロンズの、小鳥が4羽とまっている。 


弟は、其処に手を浸し、しばらく涼を愉しんだ後、水面の葉影にそっと小船を浮かべた。
手のひらほどの、小さな玩具。 英国製のその船は、留学帰りの従兄弟の土産。 赤い船体に黄と緑のラインが描かれ、手巻きのスクリューで勇ましく進む。 アイボリーの帆はキャラベルスタイル。 
セーラー服の水兵は、甲板に立ち、前途洋洋海原を仰ぐ。 
小首を傾げたブロンズの小鳥の間、その航海を、弟は見守る。 
凭れ掛かる水盤は、頬にヒンヤリ心地良い。 
カフスがすっかり濡れそぼっていたが、汗ばむ陽気にじき乾くだろう。 


コポコポコポコポコポコポコポコポ 
           ・・・・・・ ソレはそこから湧き昇る、低く、小さく、小さく低く。


何の音? 

    ・ ・ 此処には湧水が汲み上げられている。たいした量ではないけれど、
         こうして十分充たしてくれる。もう、ずっと、長い間も絶える事がない。 ・・  

老いた庭師がそう言った。


コポコポコポコポコポコポコポコポ 
          ・・・・・・ 幼い弟は、うっとりと目を閉じる。 これは、不思議な歌のよう。

コポコポコポコポコポコポコポコポ 
          ・・・・・・ 淡い花陰の残像が、これは夢だと囁くように。 

これは夢。 ああ、いつか、そう、夢を見た。 



書斎の奥のガラクタ箱を、王の砦となぞらえて、幼い王は空想の冒険に思いを馳せる。 
いつしかそのままウトウトしたものか。 細く高い、小さな声。 くぐもる囁きがふたつ。 
手繰られ、ドレープが幾重にも寄る濃緑の緞帳。 
そよぐ風に、帆のようなローンのカーテン。 
そのむこう。 マントルピースの、その影に。 羽音のような、幽かな何か。 
白い、白い。白い、白い、背が ゆれる。 波間に漂う、儚い花。 
花は、波間に沈んでは浮き、揺らめき、沈み。いつしか淡い、紅を纏う。 綺麗だな。 
夢の狭間に弟は想う。 どうか、あれが、波に攫われたりしませんように。  
夢の小人の誘うまま、幼い王は、また、目を閉じた。

濃緑の葉陰。 水面に漂う、儚い白。 淡い紅。 うつろう光。 哀れ、孤高の艶姿。

あれは、ほんとに、夢だったんだろか。 


小船は行く手を阻まれて、儚い花に囚われている。 

水面に漂う、儚い白。 淡い紅。 この花は、兄さんに似ている。 
ああそうだ。 
あれは、兄さんだ。
兄さんは、囚われていたのだろうか。 

それとも、小船を絡める花のように、何かを捕らえていたのだろうか。 



母屋で、兄の、声がする。 
テラスには、お茶と焼き菓子がある。 
兄の傍ら、従兄弟が手を振る。


『 まなじりが濡れている。あんなところで、眠ってしまっていたのかい? 』

幼い顔を覗き込み、綺麗に笑う兄が、頬をそっと撫でてくれる。 その様を、従兄弟はじっと見つめていた。 屈みこむ兄の襟足が、うっすら紅潮している。 

従兄弟の、大きな手のひらが、其処に一瞬触れ、離れる。 

兄は、短い息を吐き 『お茶が、冷めてしまうから』 と こちらに背を向け、茶器を傾ける。 

紅茶の香り、気だるい初夏の午後。 
庭の隅には、仄かな白。

弟は、従兄弟が差し出すまだ暖かい焼き菓子を、小さな口に頬ばった。



コポコポコポコポコポコポコポコポ 
         ・・・・・・ ソレはそこから湧き昇る、低く、小さく、小さく低く。


甘い香りと、蕩けるバニラに、小さな記憶は水面に沈む。


御覧、 ウォーター・ヒヤシンス。 
アレは秘密を抱えてる。 

それが、お前にわかるかい?








July 2, 2002