グレナデン
――― イヌみてぇだな、
そこに向かう俺はどうかしていたんだと思う。 行ってどうしようというんだろう? 何をしようとしている? 俺はあの男に何を期待している? 7月の正午過ぎ、私鉄を二つ乗り継いだ俺は、急行の止まらないガラクタみたいな駅に降りた。 迷う目的のように入り込む裏道。 間口の狭い店がいくつもいくつも、互いに寄り掛かり支え合うような飲み屋の並び、ゴミ溜めみたいな一角に、その店はあった。
『オフクロさんの店らしいけどさぁ、』
クラブの錆びた階段に寄りかかり、眉の無い痩せた男が黄色い歯で笑ったが。 あの男に親が居るという当たり前が、意外だった。 あれは誰からも生まれず、最初から異質としてそこに居た。 俺はそんな風に信じ込む。 そんな、歪で不自然で不穏な男に何かを期待する俺というのは、俺というのは。
割れた看板、斜めにかかったクローズの札、紫に塗られた色ガラスのドアを押し開ければ、据えた匂いの夜が広がる。
『……昼間はやってねぇんだよ、』
気だるげな低い声。 スプリングの飛び出たビニールのソファーに、男はだらりと寝そべっている。 ランニングシャツが汗でまだらに染まり、ボタン二つ外されたジーンズの腹が吐き出す息に上下した。 裸足の両足がやけに白く、奇妙な蛾みたいに煤けた壁にへばりつく。 薄目を開けた男は、大袈裟に片眉を上げて俺を呼んだ。
『イヌ!!』
耳障りな哄笑。 笑う男の裸足の指が白い蛾に取り付く芋虫みたいに動くのを俺は呆けて眺める。
『イヌ!! 来たのかよ? 匂いがしたか? イヌ! オマエと同じ匂いがしたか?』
バネのように上体を起し、浅くソファーにかけた男がヒュイッと口笛を吹いた。 ヒュイッと。 まさに犬を呼ぶソレに呼びつけられた俺は、誘いかける節くれた指先の揺れから目を離さずに、男の足元にぺたりと座り込む。 座り込む俺の目の前に白い蛾のような男の足。 日に当たらない白い芋虫みたいな指がもぞりと動く。 イヌのように座り込む俺はイヌらしく、身を屈め、ソレを、舐めた。
『おいおい、どうしようもねぇな、美味いのか? イヌ、何の味がする?』
『……アンタの、味だよ……』
『俺の? 俺の味? わかるのか俺の味が?』
鷲掴まれた前髪が頭蓋ごと俺を引き摺り上げ、見上げれば対峙する、温度の低い爬虫類の目。
『……どうしようもねぇなァ……惨めで物欲しげで、どうしようもねぇだろう?』
噛み付くように合わさる唇が、惨めで物欲しげな俺への、褒美なのか罰なのかは定かではない。 安酒と吐瀉と煙草と屎尿の臭い。 色ガラスのドアの向こう白茶けた光の下、ちゃちなガラス一つ隔てたソコは酷く遠く、きっともう戻れないのだと俺は確信する。
『……イイコにしとけよ、反吐が出るほど可愛いイヌだぜ、』
目を閉じればグレナデンの赤。
俺は容易く飲み込まれイヌらしく鳴いた。
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