ブリーチアウト
   
        



 部屋の窓を開けると、ドブネズミ色の空がなだれ込んできた。ドブネズミ色の空気は、耳には聞こえない嫌な音を立てて、すぐ横に置いてあった白い油絵のキャンバスにぶち当たって砕けた。

 空と同じ色のスーツを着込んだ昨日の天気予報のおっさんは、今日一日、朝からずっと雨の予定だと言っていた。起きた時間がすでに午後だったので、朝から雨が降っていたのかどうか、本当のことはわからない。ただ、窓のサッシに溜まっている雨水から、やはり朝の早い時間から降っていたのだろうということは、なんとなく想像できた。

 そして雨はまだ続いている。開けた窓から手を出して雨に触れる。ドブネズミ色の空から落ちてくる液体は細かく、それほど勢いもない。霧雨よりも少しだけ重みがある程度だ。実際に手で触れて確認しなければ、霧と見間違うほど存在感がないくせに、ドブネズミ色の空から降ってくるものは、やはりドブネズミ色にしか見えないところが不思議だ。

 僕の頭が曇っているのか、空が曇っているのか。

 どちらにしても、ドブネズミ色の空から生産されるドブネズミ色の雨は、窓から中途半端に突き出した僕の腕に生えている毛に、透明の細かい卵を産みつけた。無数の卵は透き通るように透明で、親であるドブネズミ色の雨や空とはとても似つかないほどキラキラと光っている。他よりも大きな奇形の卵は、腕の毛を虫眼鏡で見るように拡大して見せている。

 なぜ僕は今まで自分の腕に生えている毛をよく見ようとしなかったのだろう。肌に密集している細いそれらは、まぎれもなくドブネズミ色をしていた。

 休日の午前を眠って過ごしてしまったことに対して、罪悪感などはまったくない。ただひとつ、ドブネズミ色に濡れる早朝の、じわりと肌を冷たく犯すような空気に触れてみたかったと後悔する。僕の世界を真っ白にブリーチアウトする機会を、またひとつ失っただけで、別にどうってことはない。今日のドブネズミ色は、黒よりも少しだけ白に近くて、少しだけマシなはずだ。明日にはそのドブネズミ色が、曖昧な日常で薄まって、さらに白に近くなるに違いない。そうやって一日、一日をやり過ごしていれば、いつか必ず白になる。一瞬にして起きるブリーチアウトのほうが強烈だろうが、気づいたときには白だった、というのもそう悪くはないだろう。

 僕は白い油絵のキャンバスをぼんやりと眺めながら、腕に産み付けられたドブネズミ色の雨の卵を思った。無数の卵がかえる瞬間に、ブリーチアウトが訪れるのだろうか。




                     * * * * *



『その瞬間、周りが真っ白になったんだ。何も見えないし、聞こえないしさ。はじめは何かと思って焦ったけど、あぁこれがブリーチアウトなんだなぁって気づいたら、ものすごく幸せな気分になったんだ』


 これは僕の先輩から聞いた。ちなみに射精の瞬間を描写したものではない。先輩はブリーチアウトを体験したと言って、朝のまだ早い時間、夜明け前に携帯で僕を呼び出した。僕はずいぶんと長い間、先輩のブリーチアウトへの憧れを何度となく聞かされていたけれど、薬でもやっていない限り、そんな事は起こりえないだろうと、いつも適当に聞き流していた。だから呼び出されたときは、正直言って先輩がとうとうやばいモノにでも手を出したのかと思って、少しだけ憂鬱な気分になった。

 先輩は一つ年上で、特に何ができるというわけでもない普通の高校生だったが、何も見ていないような虚ろな目が、なぜか僕を堪らなく惹きつけた。ほとんどストーカーのようにして先輩の後を付け、やっとその何も見ていないような視線の中に入ることを許された僕は、先輩が『遠くにある存在しない何か』を見るという、キチガイじみた行為に執着している事実を知った。そして先輩はその目に映ったものを、キャンバスに白い絵の具のみで描写し続けていたのだ。


『女や薬なんかいらない。オレは何も欲しくない。ただブリーチアウトを待っているだけだ』
 先輩はそう言って、『遠くにある存在しない何か』をぼんやりと目で追いながら、それをキャンバスに描き移していた。新手のカルトにすっかりやられてしまったような、やる気の削げた先輩の目が、さらに精気を失い、虚ろに輝いていたのを僕は良く憶えている。先輩のその目を一生忘れることのないように、じっと見つめ続けたから。

 一足先に大学生になった先輩に呼び出されて、僕は夜明け前の湿った道路を自転車で急いだ。何度か遊びに行ったことがある先輩のアパートの部屋には、衣食住に必要な限られたものと、大量の白いキャンバスだけしかない。ごく普通の大学生が持っていそうな、テレビやステレオなどの娯楽用品が一切存在しないその部屋は、一種の異世界を思わせた。

 白い絵の具が不自然に重なっているキャンバスに、すべてのものが吸い込まれてしまったかのような何もない部屋の真ん中で、先輩はひざを抱えて床に座っていた。

「先輩、どうしたの?」

「ブリーチアウト。オレは今、ものすごく幸せな気分なんだ。だからそれをお前にも分けてやろうと思って」

 先輩はゆっくりとその場で立ち上がり、その腕を僕の身体に絡めてきた。じっと僕を見つめる先輩の目には、僕の戸惑った間抜けな表情が確かに映っている。先輩はもう、『遠くにある存在しない何か』を見てはいなかった。先輩はすでにブリーチアウトの中にいるのだ。

「たくさんの白い点が一箇所に集まって、それが広がっていったみたいな感じだよ」

 集まった点は一瞬に溶けて、先輩とひとつになったのだろう。緩やかに動く白い絵の具に包まれた先輩の身体は、僕の腕の中で小刻みに震えていた。

 その時点で僕はまだ、先輩の言うブリーチアウトが何を指すのかわかっていなかった。先輩の様子から、何かやばい薬をやっているようには見えなかったし、部屋の中には怪しげなカルトや宗教関係のパンフレットも見当たらなかった。一体何がそんなに先輩をブリーチアウトに駆り立てたのか。ブリーチアウトとは何なのか。ただひとつだけ確かなのは、『遠くにある存在しない何か』をいつも見つめていた先輩のその目に、初めて僕の姿が映ったことだけだった。

 ブリーチアウトを体験して、ひどく動揺していた先輩が落ち着いたところを見計らって、僕はアパートを後にした。帰り際に先輩は、

「これが一番ブリーチアウトに近いんだ」

と言って、大量にあるキャンバスの中からひとつだけを僕にくれた。脇になんとか抱えられるくらいの大きさのキャンバスは、自転車に乗るには大きすぎて邪魔になる。僕は片手で自転車を押しながら、脇にキャンバスを抱えて家路を急いだ。

 家族が起き出す前に何とか家に戻った僕は、その朝、体調が悪いと訴え、学校を休むことに決めた。一睡もしなかったせいか、実際に寝不足と精神的疲労で、ベッドから起き上がることができなかったのだ。ズル休みの疑惑を一応晴らした僕は、カゼ薬を無理やり飲まされた後、テレビのスイッチを入れた。


『次は飛び降り自殺のニュースです。今朝早く、男性が○○交差点にある歩道橋の一番高い地点から落下し、飛び降り自殺を図ったもようです。関係者の話によると、発見された時にはすでに死亡しており、遺書などは残されていませんでした。男性の身元は未だ不明です……』


 歩道橋から飛び降りたのは先輩だと、僕は一瞬で確信した。そして、僕が貰った白い絵の具が不自然に重なり合ったキャンバスは、先輩の形見となった。



                * * * * *



 ドブネズミ色の雨はまだ続いている。ドブネズミ色の雨が産み付けた無数の卵は未だかえらないままだ。だけど、開けっ放しの部屋の窓からなだれ込んできた空気は、少しだけ色褪せていて、白に近づいたような気がした。

 僕はすぐ横にある、白い絵の具が不自然に重なり合ったキャンバスと、ドブネズミ色が少しだけ褪せた空気を見比べてみる。

 キャンバスに描かれたブリーチアウトには、まだほど遠い。ドブネズミ色の雨が産み付けた無数の卵がかえる頃、きっとブリーチアウトは訪れるのだろう。


 僕は早く世界が白くなればいいと願った。






                    * 終 *





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    アイタタ……としか言いようのない、この作文。イヤ〜なカンジを思いっきり前面に出し切って書きました。

ちなみに使ったキーワードは、The Anniversaryの『All Things Ordinary』に出てくる、
「Painting without colors, it tends to make it better, it bleaches out the world」。
アイタタ祭りが成功するように願って、生贄として捧げます。


       

           不愉快でイヤァ〜〜〜んッ!!

  ーーー ということで、イキナリ仕上げて下さった佐伯様の脊椎反射に完敗 乾杯!!
        湿った感触が好印象。

      


                         目次に戻る    プラウザでサラバ!