・・ ひとでなしの恋
頬を叩かれ、眠っていたことに気付いた。
「ボケッとすんじゃねぇよ」
あからさまに不機嫌な太い声。 ボンヤリした視界にボンヤリとした輪郭。 やがて浮き上がるディテールは広い額、濃い眉、見下ろす三白眼、
「無茶言うなよ・・・・寝てたんだよ。」
言い返した声が年寄りみたいに嗄れる。 肉の薄い瞼が返答返しに眇められ、殴られるかなと思ったが、分厚い手のひらは剥き出しの肩をすべり、薄っぺらな掛け布団の下、蒼白い腹の窪みの辺りに作為的に留まる。 喉がカラカラだった。 小さな舌打ちが聞こえた。 ソッポを向いた横顔の意外に高い鼻は四年前、江ノ島で地元のチンピラと殴り合って以来僅かに右に曲がり、肉厚な上唇の端にはその時八針縫った小さな盛り上がりが奇妙な陰影をつけている。
乱雑な六畳。 脱ぎ散らかした礼服と、鍋だか和菓子だかが入ったデカイ真四角の手提げ。 秋晴れの日差しに暖まる部屋は、主の匂いに混じって酒の匂いと雄の匂いと。
喉がカラカラだった。
「そこのウーロン取って。」
「・・・ねぇよ、」
「ねぇッて何だよ、半分以上残ってた筈だろ?」
「飲んだ。」
ガタのきたパイプベッドの並びに、かれこれ八年くらい開きっ放しのライティングデスク。 丸太みたいな腕が、今にも崩れそうな堆積物の端から空になったペットボトルを持ち上げ、そら見ろと窓辺の光に翳した。 ベッドが不吉な鳥みたいにギギギギギと軋む。 不意に失った重みと温みは離れ難く、多分俺は、酷く物欲しそうな顔で奴を見ていたのかも知れない。 捻った首筋の頑丈なライン。 奴なりに、飲み干したお茶の事が気不味かったのだろう。 こちらに向いていた視線が、不自然な軌跡で明後日の方向に流れる。
「・・・・・喉、渇いた。」
「うるせぇ」
「喉、渇いた」
「・・・・・」
ムキになって眺める窓の外は、何の変わり映えも無い町。
みっちり碁盤の目に並んだ、悪名高いウサギ小屋住宅。 今やありがちな過疎化の進んだホームタウン。
かつてここらはマイホームブームの波に乗り、都心から一時間以内を売りにした新興住宅地だった。 俺たちの親の世代だ。 安い小さな夢の一戸建てを手にした若い夫婦らは子供をつくり、育て、半径一キロ程度の狭い土地の中で、俺達はほぼ同じ時期に同じ過程を経て皆育つ。 小さな路地ではてんでに、いつだって何人かの子供たちが遊んでいた。 活気のある町には小さな商店が並び、主婦等の社交場にもなった。
だが所詮、小さな家は二代目が同居するようには出来ていない。 子供らが育った後、残ったのは子育てを終えた親たちと、地元の年寄りばかりだった。 そんな時期、少し離れた地域にある私鉄の駅に急行が停まるようになり、たちまち小さな駅ビルだのマンションだのがたち並び、ここらの中心はそちらへと移る。 主婦の社交場も移った。 打撃を受けた小売店はじわじわと店を畳み、いまや残っているのは味噌ッ歯のような数件。 瀕死のお茶屋と、自転車屋の二代目が道楽でやっているラーメン屋、賞味期限に些か問題のある総菜屋と、奴の両親が営むここ、酒タバコ日用雑貨を手広く扱うよろず屋のようなこの店。
「・・・寝てろ・・」
分厚い手のひらが、俺の頭を布団に押し付けて離れた。 薄い掛け布団を乱暴に跳ね除け、下着とシャツを身に付けながら、ずかずか階下へ行く背中を見送る。 素直に行ってくれりゃ礼も言いやすいのに、意地っ張りのガキ大将。 一つも変わらない奴という普遍が、俺にはときどき気が触れそうなほど苦しい。
間も無く、すぐ真下で奴を怒鳴る母親の声が聞こえた。
――― このバカタレは、またそんなカッコで店ン中ウロウロしてんじゃないよッ!
「るせぇなぁッ」
怒鳴り返す声がフツンと途切れたのは、容赦無い鉄拳制裁を受けたからだろう。 声が大きく手が早い母親は、奴そっくりだった。 が、彼女が誰よりもこの店を愛し、必死に働いている事を俺も奴も充分に知っている。 そして意外に子煩悩なのも知っている。 気が弱く病気がちな父親に代わり、この家を家族を支えて来た母親の苦労をも、みんな知っているから、奴は母親に敵わない。 逆らえない。
「ったくクソババァ・・・・・」
ダンとドアを蹴り、店からくすねたポカリのボトルを手にした奴が戻る。
水滴の浮くそれを、ムスッとした顔で投げて寄越した。そして御決まりの台詞を言う。
「・・・いつかこんな家出てってやるからな・・・・・」
冷たい薄甘い液体が、張り付いた喉をめりめり剥して行くのが心地良い。
「・どいつもこいつも・・・畜生ふざけんなッ、」
奴が拳でドア横を殴った。すると、すかさず階下の母親が 「家壊す気かよバカタレッ!」 と見事な連係プレイを見せた。
「絶ッ対出てってやる、ババア覚えてろよッ・・・・」
もう一度壁を殴りかけて、奴は拳を引っ込める。
こんな瞬間、奴は何とも言えない苦しい顔をする。 日頃直情型の極みと言われる奴が唯一それを押さえ込む瞬間。
去年の夏、奴の妹はこの家を出た。
昔から絵が上手かった妹は、美大の在学中に企業数社からヘッドハンティングされ、卒業と同時に大手アパレル企業への就職が決まる。 妹は、兄が家を出たがっているのを知っていた。 それだから 「今まで好きな事やらせて貰ったんだから、その後は私がここを継ぐよ。 だからお兄ちゃんも遣りたい事やってね」 と、妹は機会ある度に言っていたという。
なんて兄思いの妹。
だけど、奴こそ信じ難いほどの妹思いだった。
奴は妹の大成を手離しで喜び、心底自慢に思い、その門出を祝い、何も気にするなと不安げな妹を送り出した。 俺は長男だから、元々そのつもりだったんだよと、珍しく母親が感激する台詞まで言った。 八月終わりに開いた送別会には奴の招集により、俺ら馴染みのメンツが駅前の居酒屋に集合。 嵐の様なその会は、深夜をまわり店主に追い出されてようやく、生存者極少数の状態で御開きになった。
ところで何故、俺がそんな細かなエピソードまで知っているかといえば、全てに居合わせたからだ。
「・・・どいつもこいつも・・・・・」
舌打ちをしてボトルの蓋を捻り、奴が皺だらけの礼服を足で退けながら部屋を横断する。 途中、引き出物の角に足の指を引っ掛け、低くうめき声を上げる。 ドカリとベッドサイドに胡座をかき、パイプベッドのちゃちな足に広い背中を預けた。 ベッドの俺からは、寝癖のついた旋毛が見える。 「畜生・・・ 」 奴が呟く。 強張った無精髭の生えた頬に、そっと指先で触れた。 払い除けられるかと思ったそれは、奴の指に絡められ、引かれ、俺の剥き出しの腕は太い奴の首に巻きつき、顎は鍛えられた右肩に着地する。 触れる頭蓋越しに、小さな 畜生 を聞いた。 その 「畜生」 な 「どいつもこいつも」 の中には、恐らく俺も含まれるのだろう。
そして確実に含まれる二人は、昨日、長い春の末結婚した。
世の中には色んな才能があるもんだと、俺はソイツを見ていてつくづく思う。 ソイツのは才能だと思う。 人を苛々させ、ハラハラさせ、怒らせ、結果見ちゃいられないと手を出させ振り回す、傍迷惑な才能。 気付けば、皆、ソイツに振り回されて居た。 係われば確実に、ソイツを構わずには居られない状況に陥っていた。 幸いソイツにはお目付け役のような、ほぼ奴隷のような男が居て、男はソイツの家の居候だったから常々、日常全般の尻拭いをしていたのではないか?
多分、その男も何だかわからない内にそう云う役回りになり嵌ってしまったのだろう。 ご苦労なことだ。 が、何より始末の悪い事は、ソイツ自身に人を振り回し巻き込んでいる自覚が一つもないという点だった。 無責任な無自覚。 そんな風に、ソイツは無責任に奴を巻き込み奴を振り回し、全くの無自覚で奴を俺から取り上げようとしたのだ。 冗談じゃない。
もう止めろよと、何度奴に言っただろうか? もう構うなよと、何度奴に懇願しただろうか? けれど全部無駄だった。
「何が?」 「何を?」
奴もまた、全くの無自覚でソイツに振り回されソイツに構う。 何を言っても無駄だ。
さながら毛玉を放り投げられた猫の様に、奴は一目散にそこに向かい夢中になるばかりなのだ。
それは他愛もない子供の戯れであったり、些か暴力的なコミュニケーションであったり。 そこに俺自身が巻き込まれる事も無かった訳ではない。 けれど、俺は誰よりも早く、ソイツの変な才能を見抜いていた。 あぁ、恐らくきっと、そこに奴が絡んでいたからだろう。 俺は常に奴を見ていたから、奴の目を通してソイツを見ていたから、普通より距離が出来たのかも知れない。 だから、俺はソイツから奴を引き離す事を諦めた。 出来ない事を無理にしてもこじれるばかりだろう。
ならば、こうすれば良い。
ソイツにかまける奴から、俺が離れなければ良いのだ。
俺は奴から離れず、時に奴と共にソイツを構い、時に宥め、時に制し、時にハッキリした悪意を持って奴の手足となりソイツと係わる。 金魚のフンと言われようとも,邪険にされようとも、俺は一つも気にしてはいない。 元々根は寂しがりで大きな子供のような男だ、やがて奴は俺に依存するようになるだろう。 なった。 わかりにくいけれど、俺に甘えを示すようになった。
「なァ、昨日おまえが弾いたの、アレなんての?」
突然話を振られ、詰まる。
「・・・・・・・・バイオリン」
「ッじゃねぇよ、それくらい俺にもわかる。そうじゃなくて、名前・・・曲の、」
焦れた様子で奴がこちらに首を曲げた。
薄く開けた窓からの風に、変に立ち上がった天辺の数本が揺れる。
「愛のよろこび。」
「・・・なんか、やらしいな」
「馬鹿」
捻った体勢が苦しくて、ゆっくりベッドから身体を起こそうとした。 が、鈍い痛みに一瞬身体が縮まる。 眉根を寄せ、息を詰めた俺に、投げつけるような乱暴さで布団が被せられた。
「まだ寝てろ」
「もう、昼近いだろ?」
ふわりと奴の匂いが強くなり、抱き締められたような、単に布団巻きにされたような・・・
「おまえさ、バイオリン、止めなきゃプロになれたんじゃねぇの?」
ミイラの様に寝かされた頭上、無邪気な子供の顔で奴がそう言って笑った。
おまえが今更それ言うのかよ?
五歳から習ってたバイオリンをやめたのは中学2年の時だった。
自分で言うのもなんだが、俺はそこそこ巧かった。 小さなコンクールで何度か入賞して、当時の先生が自分の恩師に紹介状を書いてくれると言い、向うからも快い返事を貰い、俺は中二の秋から週二回、都心にある大先生宅へレッスンを受けに行く寸法になっていた。 レッスンは水・土。 なのに、それを御破算にしたのは奴だった。
「部活が早く終る水曜土曜に、おまえが東京行くなら俺は暇でしょうがないじゃん、」 「どうしてくれる?」 「退屈」 「どうせ俺の事音痴だとか馬鹿にして自分は大先生に習うエリートだと鼻に掛けているんだろう?」 などなど、自分勝手な言い分を奴は並べ、悪態を吐いた。勿論、そんな勝手な言い掛かりを俺が聞く筋合いなんてない。
だが、俺はバイオリンを辞めた。 お袋はショックで寝込んだが、それ以上に失いたくないものが俺にはあった。 けれど、長年弾いて来た愛着もあり、ときどき取り出しては弾いてみたりしていた。 俺がバイオリンを弾くと、お袋は泣いたが、今回頼まれて弾いたのは、御袋にせがまれて弾く機会が多かった曲だった。 まァ弾けるだろうと引き受けたが、中々に良い出来だったと思う。 花嫁も泣いてた。 俺たちの幼馴染でもある花嫁は、うっとりするほど綺麗なドレス姿を披露して、最後は清楚な白無垢で会場を沸かした。 花婿になったソイツは仕事の大ポカで、来月、支店と言う名の離島に飛ばされる。 そしてお嬢で健気な花嫁は、そこに嫁として着いて行くと家族の猛反対を押し切って、見事、華燭の殿に漕ぎ付けたのだ。
緊張でシャチホコみたいに固まるソイツを巧い事リードし、どもった挙句落とした眼鏡を拾ってやったりしたデキる花嫁は、帰りしな、俺の手を握り、「ありがとう」ともう一度涙ぐんだ。
いや、ありがとうと俺が言いたいよ、ありがとう。
ソイツをどっか遠くに連れてってくれてありがとう。
ありがとう、感謝するよ、助かるよ、だから絶対ソイツを離すなよ?
そして、今更、こんな忘れてた事を無邪気に蒸し返す奴に俺は泣きたくなる。
なんで俺がバイオリンを辞めたか本気で知らなかったのか? じゃ、なんで俺が高校受験の推薦を蹴ったのかわからないだろう? 片道二時間半かけて大学へ通う俺の馬鹿さ加減なんてどうだ? そもそもなんで俺はおまえに抱かれてると思う? 最愛の妹が居なくなり、益々ソイツに固執しだしたおまえを、俺がどんな風に引き寄せたか、手繰り寄せたか、おまえは一生わからないだろうな。 わからない。 知ろうともしない。
だけど、それでも良い。 俺は、それでも良いと思っている。
怒涛のようだった妹の送別会の後、 俺だけココに置いてかれるのかよ! と怒鳴り散らす奴を宥め、あやし、数回殴られてから、俺は奴に抱かれた。 合意の上とは言うものの、快楽とか愛情とかとは程遠い、レイプと呼ぶに相応しい初めてのセックスを俺は奴と交わした。 それまでの間に、そうした、性的な色合いを見せる接触がなかったわけでは無いが、そうなってもかまやしないと奴を依存させていた俺にとってはしてやったりでもあるし、奴に至っては愛なんかじゃなくて、単に俺と云う分身を手放さないが為のヤッツケ仕事みたいな儀式。 独占欲と支配欲を満たす、手っ取り早い行為に過ぎないのだろうと思う。 だけど、後悔してはいない。
ソイツと彼女を纏めようと俺が必死で画策している間にも、奴は煮詰まると、イラツクと、腹立たしくなり寂しくなると俺を呼び付け、転がし、好き勝手に抱いた。 行為はソイツと彼女の仲が深まるのに比例して、執拗かつ頻回に行われた。 回を重ねればどんな稚拙な行為であっても、多少の上達はする。 じきに俺たちの行為は、それなりの快感を孕むようになり、それに関しては俺にも好都合だった。 でも、快楽があっても愛とかそういうのとは違う、
奴は、ソイツで頭が一杯だから俺を抱くのだ。
奴は、常に誰かの事で頭が一杯だから、俺を抱くのだ。
奴は、自分を満たす為だけに俺を抱くのだ。
もぞもぞ潜り込んで来た指が、丸めた俺の背中を撫でる。 子供じみたじゃれ合いのようなそれが、次第にセクシャルな行為に変わるに時間はそうかからないだろう。
「・・・・・どうしようもないな、」
溜息と一緒に、堪えていた呟きが洩れる。
「・・・って・・・なにがだ?」
問い返す奴の顔は、圧し掛かられていて見えない。
べつに、見る必要もない。
11/20/05
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