Big dog. Bravery dog. Only my dog.





      何しろおまえは躊躇がなかった。 


躊躇いの無いおまえは男らしい強面を崩し、邪気の無い笑顔を見せ、さも当たり前のように僕の傍らに立った。 そして僕の名前を呼ぶ。 僕の名前を呼び、あたかも長年の友の様に触れた。 腕に触れ、肩に触れ、昨日からの続きのような雑談を持ち掛け、呆気にとられる僕を余所に一人で納得して、楽しいだろう? と言わんばかりの表情で頷き、嬉しそうに僕を見つめた。 

何故こんなに、何故この男はこんなに無防備になれるのだろう? ガードを外した距離感の近さは子供じみて無邪気な分、胡散臭く鬱陶しく、僕を戸惑わせるばかりで。 なんて図々しい男だろう、なんて厚かましい男だろう―――つまり、おまえの第一印象はおおよそ最悪に近い。

けれどおまえはいつだって真っ先に、真っ直ぐに僕を見つけ、走り出し、弾む息遣いも隠さずに名前を呼ぶ。 用事なんか無い癖に、話す事だって無い癖に、おまえは大事な秘密を打ち明けるように僕の名前を呼ぶ。 


 あのさ、君、どうかしている。 
 ねぇ君、悪いけど、付き纏わないでくれるかな?


駆け寄る姿を目の端に留めても、僕はおまえを待たなかった。 混じり物が無い笑顔を惜しみなく振り撒かれても、その明るさが疎ましかった。 降り注がれる暖かな感情、偽りの無い好意。 それらはこそばゆく、実に誘惑的ではあったけれど、だけども僕は受取らない。 受取れない。 巻き込まれるのは御免だ。 ほっといて欲しい、巻き込まないでくれ。 だって僕らは違いすぎる。 僕らには、似ているところなんか一つだって無い。 

なのに、おまえは笑う。 正直、馬鹿じゃないかと思った。 何度注意しても上着の前をだらしなく開け、粗野な言葉遣いでどうでも良い話しをして、何が面白いのだかおまえは笑う。 大きな身体を僅かに屈め、覗き込むように僕を見て、太い眉尻を下げておまえは屈託無く笑う。 いつだって、笑う。 そして僕の名前を呼ぶ。 


 なんなんだろうね? ホントに君、どうかしている。 何が面白いの? 何で僕なの? 
 やだな、なんだかどこでも着いてきて、君、犬みたいだ。

怒らせるつもりで言ったのに、


 『じゃ、飼い主はおまえな?』

やけに嬉しそうに答えて、低く深い声で ワン と吼えた。 
試しに 『お手』 と命じたら両手で僕の手を握り、そのまま力任せに振り回すから堪らない。 


 『なぁ、お手の次はなんだ? お代わりか? 回れか? 伏せか? 俺としちゃぁ散歩が希望なんだが、』

そして、返事も待たずにおまえは歩き出す。 


僕は右へ左へ蛇行しながら、引き摺られるように大きな黒い背中に続く。 分厚い掌はしっかり指先までをも包み、容易には解けそうにない。 大きな黒い背中の、大きな黒い犬みたいなおまえの、大きな掌は片手になっても僕の掌から離れず、しっかと大地を踏み締め青臭い夏草を掻き分ける足取りは、その先に目的があるかのように揺ぎ無く、迷いない。 振り子のように正確に、走る手前の速度を落とさず空き地を抜け、民家の隙間をすり抜け、一体どこへ向かおうとしているのか? 

繋がれた腕の内側に木漏れ日の斑紋。 時々振り返る黒い目は笑みのかたちに細い。 晴天の白日、大の男が手を繋いで歩く非常識に、いよいよ声を荒げようとすると、気配を察したようにおまえは振り返り


 『俺は良い犬だぜ? 飼い主に忠実で、どこまでだって着いて行くから、守るから、戦うから、なぁ役に立つだろ? 俺を大事にしろよ?』

自分で言ってりゃ世話が無い。 

おまえに守られるほど落ちぶれちゃいないよと吐き捨てれば急に足を止め、


『けどな、イザという時が俺なんだ。』

と、いつになく生真面目な表情で言った。 

茶化す訳でもなく、からかう色もない、初めて見るかも知れないおまえの真摯な表情に、僕は一瞬言葉を失う。 怒らせたのかと思った。 けれど、黒い瞳に鋭さはない。 おまえが僕にだけに見せる、柔らかな視線。 

そしていきなり走り出す。 

一目散に、水溜りを飛び越え、藤棚の下を潜り。 あぁ確かに犬だ、散歩を強請って走り出す、我慢の足りない大きな馬鹿犬だ。 全力疾走に息を弾ませ、小憎らしい背中に 『ポチ』 と叫んでみた。 即座に 『ワン』 と吼え返す声に、バーカと意地悪く唇を吊り上げてみせた。


だけど犬は嫌いじゃない。 馬鹿でも犬は可愛い。 裏切らない犬ならもっと可愛い。

だから、おまえは僕の犬。 大きくて黒い僕の犬。


                                  **


実際、お前は役に立つ犬振りを発揮していた。 どこにでも、どこまでも、いつでもそこにお前は居た。 おまえは離れなかった。 そしていざという時もそうでない時も、おまえは勇敢に戦い、例えば命を落としかねない場面であっても、無造作に信頼を投げ寄越し、勝利を収めた後のストンと気の抜ける小休止、おまえは汗ばんだ額を僕の肩口に擦り付け 「誉めろよ」 と、両腕を僕の背中に回す。 

お互い、あちこちがボロボロだった。 命こそ無事ではあったとしても、決して無傷なんかではなかった。 荒涼とした空間で、弱りきった犬と飼い主が抱擁を交わす。 おまえは、静かに長い溜息を落とす。 軋む痛みを背中に感じ、回された腕の強さと、己の脆弱ぶりを改めて知る。 暖かで厚みのある掌が、傷だらけの肩から背中をゆっくり擦った。 掌の熱、おまえの熱、僕は 『慰撫される』 という言葉の本当の意味を知る。 

癒され、慰められ、時に甘やかされ、僕は、そんな風に慰撫されていた。 けれど、それは傾く天秤のような力関係ではない。 僕らは対等だった。 確かに、戦いにおいては不本意ながらも守られる事が無い訳ではなかったが、しかし、僕は保護される弱者ではない。 僕は戦える。 僕はおまえの飼い主だ。 使命を果たし、奔走し、満身創痍で戦った忠犬を抱き締め、慈しむのは僕の役割でもあった。 凭れ掛かる頭蓋骨の重みを肩に受け止め、がっしりと広いおまえの背中を己の掌で感じ、時間にしたら10分にも満たないだろうけれど、そうして僕らは何よりも、誰よりも近く、密接に世界を共有していた。

やがて、おまえはもう一度深く長い溜息を吐く。 
そして躊躇うような数秒の間を遣り過ごし,ポンと僕の背を手のひらで叩く。


 『…… サンキュ、』

耳元に小さな囁き。 互いに回した両腕が緩々と解ける。 僕は熱の篭らない声で 『どう致しまして』 と返し、急に不安定になった自分を誤魔化すように、傍らにしゃがみ込んだおまえに、いつになく自分からとりとめの無い話しを仕掛ける。 おまえは未だ呆けたような顔をして、いつになく気の無い返事を返す。 けれど、どうだって良い。 とりとめの無い話に、とりとめのない返事。 落ちも結論もない話しを、僕たちは延々と続ける。 どちらかが不自然な沈黙を作り、どちらかが じゃぁ と切り出すまで、僕らはそうしてしゃがみ込み、肩を並べ、どこにでもいるありがちな二人の学生ように、噛み合わない会話を続けた。

果たして、僕らは何をしたかったのか? 

僕らは何かを隠そうとしていた。 何かに気付かぬ振りで、何かから逃げようとしていた。 
逃げ切らなければいけないと思っていた。 

けれど、イザというとき逃げなかったのはおまえだ。


                                  **


     いつからだったろう? 
     いや、最初からだった。 少なくとも、おまえは最初からだった。


犬と飼い主の関係は不自然なほど肌馴染みが良く、纏わりつくおまえも、おまえの熱も、おまえの視線もたいして気にならなくなった頃、僕はようやくそれに気付いた。 それは、ささやかで、小さな、けれど圧倒的な力を持つシグナル。 例えば、掠めるように触れた指先のハッとするような熱。 名前を呼ぶ声に混じるほんの少し切迫。 会話が途切れた数秒の間には喩えようの無い焦燥を感じ、ふとした拍子に突き刺さる視線。 そしてその先に、必ず存在するおまえ。 

おまえの黒い瞳は嘘を吐かないから、その瞳の意味を理解するのは怖い。 笑いもしない、反らしもしない、こうして目が合っているにも拘わらず何のリアクションも取らず、ただただ見つめ続け、絡め取り、魂まで侵略するようなおまえの目。 時に不穏な熱を孕んだ視線。

いつも、耐え切れなくなるのは僕だ。 

なんだよ? と、素っ気無く呟く。 気が散るんだけど、と故意に冷ややかに言う。 だけども、 『何で?』 とは訊けない。 視線の意味を僕は問えない。 僕は、答えを聞くのを恐れた。 だけども、おまえは逃げずに懲りずに繰り返す。 なんて役立たず、なんて馬鹿犬、自分一人で煮詰まれば良いものを。 ここぞとばかりに犬らしく、縋るような訴えるような目で。 語る饒舌な目で、うろたえる飼い主にこれでもかと揺さ振りをかける。 

そんな曖昧な日々が、だらだらと続いた。 一日一日は曖昧であったけれど、そこには幾つかの戦いが、小競り合いが相も変わらず存在していて、そんな日常の棘は僕らの居た堪れなさを一瞬だけ緩和して、一瞬だけ、もしかしたらこのまま誤魔化せるかも知れないと錯覚させてくれた。 

でも、棘は案外呆気なく抜ける。 多分、もう限界だった。


その戦いは、いつもより厄介で、いつもより梃子摺り、いつもの様にすんなりとは終ってくれなかった。 だからいつものような勝利の小休止ではなく、その日のそれは、戦い途中の息継ぎのようなひとときだった。 

僕たちは大きなポプラの木の下に足を投げ出して座り、荒い息を吐き、たいして太くもない幹に背中を預け、整わぬ呼吸を言い訳に言葉も捜さず、いつも通りの曖昧な落ち着きなさを、そのまままんまと遣り過ごそうとしていた。 遠くで甲高い鳥の声が聞こえた。 緩やかな風に、青々した枝葉がざわめきのようにそよぐ。 僕は、溜息を吐きたいのを堪え、息を詰める。 痛めた背中に幹の瘤が当たり痛い。 当たり所をずらそうと、小さく身じろいだその時、不意に、右手が暖かな熱に包まれる。 

咄嗟に引っ込めようとしたが、大きな掌はそれを許さず、柔らかな草の上、黒土の上に縫い止められた右手。
だけども僕らはてんでの方向を向いて、


 『…… これ……終ったら誉めてくれるか?』

声は飄々としていた。 

いつもと変わらぬ口調に励まされ、 いつも、誉めてるだろ? わざと素っ気無く返し

何を甘えてるんだか、弱音でも吐きたくなったか? 

いつもの軽口だった。 
ありふれた、いつもの僕らしい軽口だった筈だが、


 『そうだな…… 』

掠れた声はいつものおまえではなく自嘲の笑いを含んでいた。 


 『そうだな……俺は、相当に弱っているらしい、』

覗き見る横顔の荒削りなライン。 無数の擦過傷。


 『…… 俺は相当に弱ってて、相当に甘えたいらしい。』

察知できたのは一瞬のぶれと圧倒的な質感、自分より高い体温。 

不意を突かれて引き寄せられ、仰け反った背骨の痛み、見上げる空の恐ろしいほどの群青。

何か言わなければ、何かこの場を収めなくては、

絡みつく腕から自分の腕を抜き、恐る恐る広い背中に回し、トントンと押さえつけてからゆっくりと擦る。


甘えろよ、甘えろよ、誉めてやるから、君がどれだけ頑張ったかは、僕が見届けてちゃんと誉めてやるから、

そうしてゆっくり掌を滑らす。 宥めるように、甘やかすように、誤魔化すように。 早鐘のような鼓動はごわつく布越しに触れ合う肌から肌へと伝わり、もはやどちらのものとも知れない拍動に、ただただ僕らは息苦しい。 胸苦しい。 なのに、こんなにも苦しいのに空はあまりに青く、鳥が長閑に鳴き、草原は緑、包み込む熱は現実なのに、ここはあまりにも偽者の匂いがして。
 

 『         』


不意に首筋を掠める吐息。 吐息は言葉だった。 


 『         』


ささやきは小さく、花弁が落ちるような、そんな幽かな吐息だけで綴られた言葉をおまえは発する。 それは名前。 音を持たない熱だけの名前に僕は縛られる、浮かされる。 僕の掌はおまえの背中の中程で固まり、おまえの左手は更にきつく、軋むほどにこの身体を引き寄せる。 

物理的な圧迫に、ほう と、溜息が洩れた。 肩から頭蓋の重みが消え、首筋から耳朶、頬からこめかみへと柔らかな感触がすべり、至近距離で対峙する黒い饒舌な瞳。 途端に逃げ出したい気持ちと、闇雲に叫びだしたいほどの恐慌。 けれど、役立たずな身体はおまえの両膝に挟まれ、強がる身体の震えは、じきにおまえにも伝わるだろう。 背中に回った掌が、熱い。 ならば僕の掌も熱いだろうか?

至近距離の瞳、長い沈黙、いっそ無作法なほどに語るその意味はわかりすぎるけれど、目を閉じてはいけない、いけない、閉じるな、閉じるな、閉じるな、おまえの掌が頬の輪郭を覆う、名前を呼ばれる、黒い瞳が近付く、


なんとも呆気なく溺れた。 



熱に翻弄されるのも、吐息を絡ませ肌で肌の感触を知るのも、互いの体液に塗れて身震いしながら快楽を極めるのも、実際、呆気ないものだった。 呆気ない。 こんなにも簡単。 こんなにも馴染むそれなのに、僕らは何を恐れていたのだろう? あれほど警戒していたおまえに、僕はこうして巻き込まれ、こうして互いに溺れるようになる。 荒れ狂う嵐の真ん中には穏やかな静穏があるように、飛び込んでしまったそこは穏やかで心地良く実にしっくり落ち着く場所となった。

驚くほど、違和感はなかった。 イレギュラーな行為への嫌悪感もない。 生き物として、男として、自分は道を違えたのではと懸念する気持ちは直前まであったが、そんなものはたいした事ではないと証明してくれたのはおまえだ。 僕らはあまりに飢えていた。 貪り合う僕たちには、それが必要だった。 寧ろ自分たちはそうあるべき、僕らにはそれが最も自然な形なのだと思えた。 


何も変わらない日々。 何も。 なんにも。


おまえは相変わらず忠犬振りを発揮して、飽きもせずに僕の名前を呼ぶ。 おまえは勇敢な犬だ。 勇敢で忠実な、大きな犬だ。 僕はその働きを誉め、ごくたまにおまえの名前を呼び、些か不本意な頻度でおまえの体温を感じる。 さほど、関係に変化はない。 僕らは何も変わらない。 触れ合う密度が濃くなっただけ。 互いの情報を五感で確かめ合っているだけ。 

断続的な戦いは相変わらずで、僕らは生傷の癒える間もなく、怠惰な退屈に憂うこともなく、短い幕間を他愛もなく戯れて密やかに愉しむ。 


 『なぁ、』

自転車に乗った老人が癇症にベルを鳴らし、おまえのすぐ横を走り抜けて行った。 


 『なぁ』

平日の森林公園に人影はない。 

懲りずに話し掛けるおまえは、抜けめない目で切っ掛けを狙う。 真横に張り付くおまえは隙あらばと触れたがるが、生憎、僕は機嫌が悪い。 


 『暑いなぁ…』

三度目の無視を回避したのか、呟くおまえは手にしたペットボトルを傾ける。 じりじり照り付ける日差しは、木陰越しにあっても焼け付くように皮膚を焦がす。 噴き出す汗はこめかみを伝い、不快な軌跡を描いてキチリと止めた襟ぐりへと流れる。 小さな腹立たしさに思わず舌打ちをすると、真横でおまえがビクリと身を震わせたのを感じた。 


昨晩、噛み癖のある犬は飼い主の首筋に盛大な噛み跡をつけ、今朝方激しい叱責を受けた。 大きな図体で項垂れ、ゴメンと繰り返す姿は、まさに叱られた犬のそれだったが、僅か数時間しか経たぬ今、すっかり立ち直った駄犬は愚かにも、もう一度同じ轍を踏もうと躍起になっているらしい。 手を伸ばし掛けては引っ込め、ちらちら覗き見る目はチャンスを伺いつつも若干気弱な叱られ犬の目だ。 困惑し、眉尻を下げ、柄にもなく焦れたおまえを目の端に認め、少し気分を良くした僕は無視を決め込み木立をそぞろ歩く。


 『なぁ、』

腕を捕まれ一瞬、歩みを止める。 


 『・・・・もう、怒るなよ、』

掴まれた腕ごと歩き出し、 怒らせる事をした自覚はあるんだな? と、情けない男前に鼻で意地悪く笑ってみせた。
蒸し暑さは不快だが、気分は徐々に回復へ向かう。 

なのに、この犬ときたら。


 『…… けどさ、綺麗なもんとか美味そうなもんって、取り敢えず喰っとけってさ・・・』


何を馬鹿な。 

僕は綺麗でもないし、食い物でもない。 ましてや取り敢えずと言われるほど安い代物でもない。 再び気分は緩々と低いところへ向かう。 腹立たしさに、おまえの手からペットボトルを奪い、中程まで残っていたそれを無言で一息に飲み干すと、


  捕って来い!


青空に吸い込まれる半透明のプリズム。

走り出すおまえの無駄の無いフォームに暫し見惚れた。 振り上げる手足、素早く動く滑らかで美しい躍動。 馬鹿だね、綺麗っていうのはおまえのようなのをいうのに。 無駄がなく、生きる力に満ちたおまえこそが誰よりも綺麗。 誰よりも眩しくて、とても、綺麗。

縁石を踏み切り、芝生へダイブするダイナミックな跳躍。 落下速度をなんなく追い越し、伸ばした腕の先には光を弾くボトル。 そうして迷わず走るおまえは迷わず真っ直ぐ僕へと向かう。 得意満面の笑みで、誉めて貰おう気満々で、柴と土とで汚れた身体を叩こうともせず、体当たりで飛びつくおまえはペットボトルを放り出し、斜めに傾いだ僕を支えるように抱き締めて静止する。

汗ばむ身体はおまえの匂いがする。 乾いた空気の匂い、黒土の匂い、日向の犬みたいな匂い、あぁそりゃそうだろう、犬なのだから。 鉄錆の匂い、踏み締めた草の匂い、擦り付けられる髪からはシャンプーのメントールの匂い。 不快では無い、暖かい懐かしい、胸苦しく切なくなる、愛しいという名を持つ形容の出来ない匂い。


 『 …… なぁ、もっと頼れよ、もっと甘えろよ、俺は結構役に立つだろ? もっと俺を呼べよ、もっと俺のこと利用しろよ、もっともっと俺の傍に居ろよ、』


あぁ、本当に馬鹿だ、本当におまえは、おまえはなんにもわかっちゃいない。 僕がどれほど頼っているか、どれほどおまえに甘えているか、おまえはそれを知らないのだろう? わからないのだろう? おまえがどれほど役に立つかなんて、僕も誰しも充分に知っている、知っているけれど言わないだけだ、少なくとも僕はおまえには言わない、言うものか、言ったらもっとおまえを呼んでしまう、もっとおまえを利用してしまう、そうしてもっと、もっとどうしようもなく、僕はおまえを手放せなくなってしまう。 


  だから、僕はおまえに命令する。 
  飼い主たるもの、おまえが迷わぬように、おまえに唯一の命令をする。 

     走れ! 走れ! 走れ! 振り返るな! 走れ! 走れ! 
     真っ直ぐに、真っ直ぐに、走れ! 走れ! 走れ!

例えばゴールが見えなくても、例えば悲しみに囚われても。


おまえは役に立つ、おまえは勇敢だ、おまえはずっとと言う、僕を守ると言うけれど、世の中そんなには甘く無い。 思わぬ形で足元を掬う、罠みたいな何かがそこかしこに潜んでいるのが常だろう? もしかして僕は、おまえを失うかも知れない、おまえは僕を失うかも知れない。 だけれどそれを悔いてはいけない。 だけれどそれを、自分の所為だと責めてはいけない。 おまえがどんなに素晴らしい忠犬でも、僕がどんなに優秀な飼い主でも、どうにもならない事が世の中にはある。 抗い難い運命は僕らにとっても例外ではない。 

  だから、僕はおまえに命令する。 

走れ! 走れ! おまえの願いが叶わなくても、その先に僕が居なくても、おまえは立ち止まってはいけない、おまえは走り続けなければいけない、おまえは追い求めなければいけない、それが僕の命令だ。 決して口にはしない、僕の、唯一の命令だ。



     僕の大切な大きな黒い犬。 賢い勇敢な犬。 

     誰より愛しい僕だけの犬。



                                  * *






細めた瞼に紗が入り、太陽が雲に隠れたのを知った。 震えが走るのは気温のせいではない。 痛みは熱となり、痺れとなり、今はもうさほど感じなかった。 ただ、拍動に身体が流されるだけ。 その拍動も徐々に緩慢になり、そろそろ終わりが近付いたのを悟った。 

  終るのか。 

べつに、それほどの感慨も無い。 僕は、ここで終るのか。 予想が現実になっても、それが不可逆的であるなら悩む選択肢すらない。 怖い訳ではない。 今を後悔している訳でもない。 だけれど、惜しいなと思った。 名残惜しいなと思った。

  名残惜しい、

あの熱が、あの声が、あの瞳の強さが、酷く名残惜しい。

汗ばむ身体、乾いた空気の、黒土の、日向の犬みたいな、鉄錆の、踏み締めた草を掻き分けていった、振り返った黒い眼の、黒い髪の、メントールの、

  暖かい、

  懐かしい、

  胸苦しい、

  切ない、

  狂おしいほど愛しいという、







                             Big dog. Bravery dog. Only my dog.











June 3, 2006


         

        ジョジョ     承太郎×花京院      自分、 どのくらい外したのかも見当のつかない恐怖


           * 参考サイトはココ→  『enmn (管理人 モル様)』   http://2style.jp/trolls/menu.html