ブルー・マンデー


浴槽に自分の血が溶け出して、エジプトの赤くて甘いお茶になる想像をしていた。
 そろそろ、太陽が夜の船に乗って日の出の場所まで流れ出す時刻。
 夕暮れは一日でいちばん綺麗な時間なのに、何時も、直ぐに終わってしまう。
 アサミが置いて行ったビタミンカラーのポータブルプレイヤからは、バスドラムが心臓を打つイントロが痛い音楽が、エンドレスで流れ続けている所為で、動悸が一向に鳴り止まない。
 不整脈の律動を叩き出すバスドラムの振動で、心臓が崩壊しそうで、アサミはあたしを殺そうとしているのかも知れないと思った。
 本当にそうなら、そうと云ってくれれば良いのに。
 誰かが望んでくれるなら、あたしは何時でも、其の人の為に死んであげるのに。
 浴槽の熱を吸い上げて、血の昇り過ぎた頭の中で、幻覚の熱帯魚みたいな赤と青が交錯する。
 昨日の夜中にアサミがあたしに刺してくれた薔薇の花に、指で触れてみる。
 花弁は未だ散ってない。
 アサミがくれたのは、ブルー・ムーンという品種の、頼り無く淡い紫色の薔薇だった。
 別名ブルー・マンデー。
 ブルー・ムーンという呼び方よりも、ブルー・マンデーという呼び方のほうが、殆ど灰色に近い様な心細く透き通った花弁の色に似合っている気がする。
 凄く遠くの方で、あたしの名前を呼ぶアサミの声がする。
 目を閉じて祈りながら、アサミが浴槽の自分を見付けてくれるのを待つ。

「アンタ、ずっと浸かってたの?」
 アサミの呆れた声が降って来て、目を明けた。
 黙って頷く。
 帰って来たアサミがあたしを見付け易い様に、彼女が出掛けた時からずっと此処に居た。
 呆れた、と息を吐きながら、アサミの白い手が浴槽の中に潜る。
 波の起こらない原始の海洋ヌーに、深呼吸の様に緩慢な波紋が広がって、あたしの身体をくすぐる。
「殆ど水じゃない。風邪ひくわよ。」
 アサミは、あたしの二の腕を掴んで、殆ど熱を失った浴槽の中から引っ張り出そうとしたけど、ハリガネみたいなアサミの腕の力じゃ、あたしの身体は持ち上がらなかった。
 首を振って浴室の床に座り込んだアサミに問う。
「いちばん綺麗な自殺の方法は何?」
 天上から滴り落ちた雫が、アサミの剥き出しの肩を塗らす。
 彼女の、凄く丈の短いデニムスカートは、水を含んで濃い悲しい藍色に変色した。
 アサミは、少し考えてから「凍死。」と静かに答えた。
 そして、ちょっと強張った笑いを見せる。
「富士の樹海なんて如何?服は先に脱いで置くの。凍死って、最後には感覚が狂って暑くなって、服を脱いじゃうんだって。脱ぎ掛けで死ぬなら、綺麗に脱いで死んだ方が良いでしょ?」
 悪く無いと思ったけど、でも、あたしにはフジノジュカイが何処にあるのか判らないから駄目だ。
「拳銃で頭を打ち抜くのは?」
「脳味噌が飛び散るのよ?撃ち抜く瞬間だけはクールだけど、人の血は、皆が思ってる程、綺麗じゃない。」
「汚くて綺麗なのが良い。」
 あたしは思い付きで云ったのに、アサミは物凄く真剣な顔で考えてくれる。
「じゃあ、見晴らしの良い処で首を吊るのが良いんじゃない?アンタは汚いけど景色は綺麗。」
 そう云い終わった後、アサミは、少し苦しそうに浅く息を吐いた。
「それで?アンタが本当に自殺するんだとしたら、其の理由は何?」
 あたしは、何も考えないで答える。
「退屈だから。」
 あたしをじっと見詰めていたアサミの目が少し悲しそうに揺れた。
 彼女が俯いた時、ちょっと怒った顔に見えたのは、如何してなんだろう。
 さっき、アサミはあたしを殺したいのかも知れないと思ったのは、あたしの読み違いだったのかな?
 アサミが顔を上げた。
「ギリシャ神話では、左手の薬指は心臓と直結してるって考えられて居たんだって。だから、結婚指輪は左手の薬指にするんだって。」
 云うや否や、彼女は、だらしなく浴槽の淵に引っ掛かっていたあたしの左手を掴み寄せた。
 表情のない、凄く怖い顔。
 でも、アサミの其の顔は、人形みたいですごく綺麗。
 温くて甘い血の匂いのしないアサミは、あたしの薬指を口の中に入れ、歯を立てる。
 途端、薬指の根元から、心臓まで真っ直ぐに届く痛みが走った。
 恍惚とするような鋭い痛み。
 アサミの云う通り、薬指と心臓は、本当に直結してるのかも知れない。
 そして、あたしの心臓と薬指を結び付ける生命線を、噛み切ろうとしているアサミは、矢張りあたしを殺そうとして居るのかも知れない。
 薔薇の刺みたいに尖ったアサミの歯は、あたしの薬指の付根に、どんどん食い込んでいく。
 あたしは黙って其れを眺める。
 微温湯にふやけた皮膚の内側で、カルシウム密度の低い骨が軋むのが判った。
 アサミの小さな歯が、骨と骨の隙間にしっかり食い込んでいて、凄く痛い。
 だけど、アサミがどれだけ頑張って私の指を噛み締めても、結局、骨が砕けて永久に薬指の感覚を失う事も、皮膚に穴が空いて血が流れ出す事も無かった。
 アサミの尖った顎の力では、私の指は食い千切れないみたいだ。

 アサミは、口惜しそうにあたしの薬指から口を離した。
 そして、片手であたしの左手を握り締めたまま、もう片方の手であたしに刺した薔薇の花弁を弄って、短く溜息を吐いた。
 あたしも、がっかりして目を閉じる。
 目を閉じると、浴槽の壁を湾曲させるバスドラムの音が大きくなる。
 振動で天上が剥がれて、あたしの上に落ちて来るんじゃないかという気がした。
 アサミが小さく呟いた。
「ジョイ・ディヴィジョンの人達がイアン・カーティスの自殺を知ったのは、月曜だったんだって。だから、ブルー・マンデーなんだって。」
「何の話?」
「ブルー・マンデー。気に入ったんでしょ?」
 ポータブルプレイヤから繰り返し流れている曲の事だろうか。
 アサミが何を考えているのか判らない。
 不意に、手を繋いでいる筈のアサミがあたしから凄く遠くなって、心拍を酩酊させるバスドラムのイントロが、追悼の言葉に聞こえ始めた。
 あたしが死んだ時には、誰がどんな言葉を残すんだろう。




                        − 終 −




   *  白河彩 さまより、(2003.08.05 メールにて)頂く。 

    >   高周波返し低周波。雌電波。

    とのコトですが、いや、カッコイイです。  電波も書き手でホラ、素敵!! 
    彩様の♀話、読めただけでも凄いな、自分。
    海老で鯛を釣る …… 昔の人はイイコト言うなと八ピィに身を震わす盛夏の午後。
 アリガトウ御座います。