ジャム



「ねぇ、知ってる?」
中庭のベンチでいつもの様にお弁当を広げたある日、彼女が言った。
「何を?」
「ココに誰が埋まってるか」
彼女が指差すのはのプラタナスの根元。
「知らない。あ、それ言うなら桜でしょ。やっぱり」
「…坂口安吾だっけ?」
「梶井基次郎。安吾のは別に埋まってる話じゃないから。で、誰が埋まってるの?」
カジイね、カジイ。彼女は小さく繰り返してからにっこりと笑って逆に聞き返す。
「誰だと思う?」
「一年の時ストーカー容疑で捕まったうちのセンセイ」
「あ、本当だったんだアレ」
「らしいよ。化学、だったかな。いや、数学?とにかく三年付きだったって」
「三年じゃ、一階には来ないよねえ。道理で見たことないや」
ふふふふ。何がおかしいのか、彼女は楽しそうに笑う。入学してすぐに逮捕されたその男性教師を私も見たことがなかった。事件が起こるまで顔どころか名前すら知らなかった。
「んで?誰が、埋まってるの?」



昼休みの職員室は生徒で溢れかえっていた。
「あ、すみません」
入り口で茶色いリボンの女子とぶつかった。茶色は三年生だと思い出し、私は慌てて謝る。生徒と教師と狭い机の間をすり抜けて森先生の席へ向かう。
「おおユウキどうした?」
担任の数学教師は、男子のほとんどを姓で、女子全員を下の名前で呼ぶ。女子の方が短くて覚えやすいなんて、どう考えても下手な言い訳だ。それでもセクハラだと騒ぐ女子はいない。誰も気にしていないのかもしれない。

「っと、テストで分からないところがあって」
「今回悪かったなぁ。どうしたあ?」
私の差し出した問題用紙とやり直しのノートを受け取りながら大きな声で言う。やめて欲しい。隣の古典の野沢までこっちを見るじゃないか。
「あの、問三の(2)が…」
「どれどれ」
赤ボールペンをくるくる回しながらノートに目を落とす。
「んー。ああ!」
なんだよそのわざとらしい声。大きすぎるよ先生。
「ほら、ここ。公式から違ってる」
「えー」
首を傾げそうになって、慌ててやめた。自分の出した声が予想外に高くなって慌てて咳をする。だって私は可愛くないから。
「…違いますか?」
「語呂合わせ教えただろう。はい、咲いた?」
「……咲いた咲いたコスモス咲い、た?うん?……ああ!」
「ユウキはケアレスミスが多いからなあ」
気をつけろよ、と笑われて舌を出しそうになって、また、慌ててやめた。


義務教育を受ける間に私が覚えたこと。
媚を売ってはならない。
何故なら、私は可愛くないから。
小首を傾げる、とか、失敗して舌を出すとか。
上目遣い、語尾を伸ばす、わざと高い声。
そうゆうのは、可愛い人がやればいい。不細工な女がやっても意味がない。
歪んだ顔は汚くて、醜くて、逆効果だ。


波が引くように職員室の中から人が少なくなって行く。
「おお、忘れていた。今日会議なんだよ。ユウキ今日部活は?」
「やってません」
「じゃあ、続きは放課後、隣な」
部活に入ってないと言っただけで予定がないとは言ってないのに。彼は勝手にそう言って、私の肩を極々自然にするりと撫でてから職員室を出た。ベストとブラウスの間に指二本を入れて。薄いブラウス一枚の上から、ブラのストラップをなぞって、職員室を出た。

三年前にクラスが一つ減ったおかげでこの学校には今、各階に一つずつ空き教室がある。うちのクラスの隣も多目的教室と名づけられ、普段は鍵がかかっていた。

そこで。
私は先生に数学を聞いた。
先生は私に数学を教えた。
最後に頭を撫でた以外、先生は私に触ったりしなかった。
撫でたり触ったりしなかった。

先生の膝は、時々私の脚に触れていた。
先生の肩は時々私の肩に触れた。
ノートを一緒に見たときにはおでこが触れた。
そこは違うと消しゴムを取ったとき、手が、触れた。
先生は私の頭を撫でて、やれば出来る、まだ間に合う、と言った。
ユウキはやれば出来る、と言った。
分からないことがあったらすぐ質問しろ、昼休みでも放課後でもいいから。
頭を撫でてそのまま頬、顎へと手を滑らせた。

窓からの夕日に照らされたおかげで顔の片側だけが熱い。
私は小さな声でさよならを言って教室を出た。
先生は大きな声でさようなら!と返す。
うるさい。
熱い。
頬が、熱い。

わざと大またで廊下を歩いていたら、同じクラスの佐藤さんとすれ違った。私を見てバイバイと笑った彼女の唇は、いつもより赤い。まるで、ジャムの色。足を止めて、振り向く。彼女は私が出てきた戸を開けているところだった。

赤い、唇。私には似合わない。だって、可愛くないから。
化粧なんかしても可愛くないから。
私には、私は。
佐藤さんは、何をしに、多目的教室に?

気にしないように、気にしないように校門まで歩いたところで、私は間抜けにも数学の問題集を忘れて来たことに気付いた。明日までの宿題が出ていた。佐藤さんはもういないかもしれない。先生ももういなくてあの教室には鍵がかかっているのかもしれない。そうしたら職員室まで行かなければと、そう思いながら入り口の前まで来た、私の耳に届いたのは、

ふふふ。

佐藤さんの、笑い声。密やかな笑い声。
戸は、ほんの数センチだけ開いていて、そこからもう薄暗い教室の中を覗けば、白と紺と肌色、赤。白いブラウス。肌蹴たブラウス。床に落ちた紺色のベスト。佐藤さんの白い肌と、そこを這う、先生の手のひら。
赤い、ジャムの色の唇。


静かに静かにそこから離れて、玄関から校門までは走って逃げて、私は次の日学校を休んだ。どっちみち、数学の授業を宿題ををやらずに受けるのは難しい。

母親と、買い物に行く。いずれ私もそうなるのだろうと容易に想像させてくれる、私そっくりの顔をした肉の塊。
「ああ、ジャム買うなら早く選んで」
母は言い残して贅肉を揺らしながら去って行く。
一番安い紙パックのジャムを手にとった。
一個98円。
イチゴ、ブルーベリー、オレンジマーマレード。
母も私も舌はちっとも肥えていない。ジャムなんて適当に甘ければいいと思っている。 でも、一段上の棚の、一個188円のガラス瓶に入ったジャム。
苺、ブルーべりー、林檎、いちじく、葡萄、チェリー、バナナ、ミックス。マーマレードが二種類。ミックスジャムの瓶を手に取る。イチゴともチェリーとも違う赤。まるであの色。 佐藤さんの唇の色。
口紅と、同じ色のジャム。

私は次の日も、学校を休んだ。
学校を休んでジャムを食べていた。
誰もいない昼間の台所で、安いジャムの紙容器にスプーンを突っ込んでそのまま口に運ぶ。
甘い。甘い。ああ、甘い。
人差し指を突っ込んで、舐める。三本の指で掬う。
甘い、甘い、安っぽい味の、イチゴジャム。
右手が手がべとべとになる。
顔にかかる髪が邪魔で、右手で耳に掛ける。
髪もべとべとになる。

べとべとの私がジャムの容器を空にする前に、チャイムが鳴った。
出る気にはなれなくて、そのまま食べ続ける。
ガチャリ、と扉の開く音がした。
てっきり鍵がかかっていると思っていた私は、慌てて玄関に走った。
ジャムを持ったまま。べとべとのまま。

そこには、佐藤さんがいた。
にっこり笑って。私の数学の問題集を持って。
彼女は、私が手に持ったジャムと、べたべたの私を見て、言った。
「そのまま食べるならもっといいのにしたら?もっと高いやつ」
「ああ」
「先生はね、あそこのジャムが好き。ほら   の」
佐藤さんは笑顔のまま、続ける。

先生。
気付くと、佐藤さんの腕を掴んでいた。ジャムで、べたべたしたままの手で。
彼女はそのままこちらに倒れこみ、自然と抱き合う形になる。
佐藤さんがぶつかった瞬間に思わず落としたジャムはカラカラと玄関を転がる。
けれど、でも、彼女はやっぱり笑ったままで。
「夏服で良かった」
「あ」
「洗濯機で洗えるから」
白い長袖のブラウスに赤い手形がついて。
「え」
触れ合った佐藤さんの脚とかお腹とか胸が温かくて。
「ねえ、大好き」
ぬるりとした温かい舌が、侵入してくる。
「さ、とうさん」
「ジャムの味だね」
ふふふ。
「玄関じゃ、ダメだよ」
佐藤さんが言って、唇を離して、言って。赤い舌がひらりと覗いて。
ついさっきまで大量の唾液で潤っていたはずの口の中が、もうカラカラで。
それでもやっと、私はまともに喋った。
「駄目って、人のうちで、何言ってんの?」
声が、上手く出ない。
ふふふと笑いながら佐藤さんは靴を脱ぐ。
「ユウキの部屋は?二階?」
  
遮光カーテンを閉めた部屋の中は、昼間でも薄暗い。
佐藤さんの身体は柔らかい。佐藤さんの肌はすべすべしてる。
佐藤さんは優しい。
「ドッキリ、とか?コレ?」
彼女は制服を脱ぎ掛けた手を止める。一瞬見えた白い肌が、また布の下に隠れる。
「何それ?」
「ビデオとか、恐喝とか、後でみんなで大笑い、とか?」
「全然違うよ」
ボタンを外し終えたブラウスを肩から抜いて床に落とす。
「だって、なんで?」
「好きだからでしょ」
「だって、なんで?なんで?」
佐藤さんのお腹は、白くて、すべすべしてる。
「だって、ユウキは可愛いよ。可愛くて、かっこいい」
部屋の中は薄暗くて、佐藤さんは柔らかくてすべすべしていて白くて温かくて優しい。
「大好き。ほんとに」
白いお腹の、おヘソの横にキスしたら「ありがとう」と笑って、髪を掻き回すみたいに頭を撫でてくれた。佐藤さんは、優しい。


あの日から私は佐藤さんと一緒にお弁当を食べる。時々一緒に帰る。
時々彼女は私に言ってくれる。
ユウキは可愛い。ユウキはかっこいい。

佐藤さんは、綺麗で優しくて、佐藤さんの唇は、時々ジャムの色。
ある日また、授業で分からないことがあって先生に聞きに行った。
先生は私の二の腕を少しだけ触って、これからうちに勉強しに
来ないかと言った。他の誰にも聞こえないように小さな声で。ユリカも来るから、と。
ユリカ、佐藤ユリカ。佐藤さん。


はっきり言って、佐藤さんが、可愛いといってくれれば、もう、他にはいらなかった。
内申書、調査書、なんて大学受験にはほとんど関係ない。高校じゃあるまいし。
部活で活躍なんてしてない代わりに、私は事件なんて一つも起こしたことがない。
そもそも調査書用紙で一番大きい欄は成績だ。おまけに学年主任、教頭、校長まで目を通す書類にあることないこと書ける訳がない。
テストの採点は、他のクラスの分と混ぜて数学科の教師全員で行われる。
私は推薦受験なんて一回も考えたことがない。
だから先生。先生は、もういい。


佐藤さんは、多目的教室の鍵を持っている。
知っているのは先生と私と彼女の三人だけ。
佐藤さんは、先生を待つとき以外でも時々この教室に入る。
佐藤さんは、時々私もそこに入れてくれる。

教室に中から鍵を掛ける。グラウンドから陸上部の掛け声がかすかに聞こえる。

ブルーベリーとイチゴと林檎なら、林檎ジャムが一番好き。
先生と佐藤さんなら、今は、佐藤さんの方が好き。
佐藤さんが、指定校推薦で受験するつもりなのも知ってる。
だから。

「ねぇ、佐藤さん」
邪魔な長い髪を耳に掛けて、そうっと唇を近づける。それまで髪に覆われていたそこは汗ばんでいる。
耳たぶに唇が触れる。
「くすぐったいよ」
そう言って身をよじる彼女が逃げられないように腕を掴む手に力を込めて、囁いた。
「角の本屋でプリット糊」
びくりと、動く、体。なんて分かりやすい。
「ローソンでグロス。セブンで脂取り紙。バス停前のスーパーでT字カミソリ」
佐藤さんがポケットに、トートバッグに、入れたものを一つずつ思い出す。
そっと、静かに、素早く。彼女がその行為を行うときの真剣で綺麗な表情を、思い出す。佐藤さんが音を立てて息を吸い込む。
「ガムとペンシルとカッター。消しゴム、替え芯」
ああ、夕焼けが頬に当たって熱い。そろそろ帰らないと。
左側だけ日焼けしそうだ。
でも、オレンジ色に照らされる佐藤さんは綺麗。
「ねえ、佐藤さん」
大丈夫だよ佐藤さん。だって先生は男の人だから。先生は大人で私たちは子供だから。先生は高校教師で私たちはか弱い女子高生だから。推薦しないなんて、脅されたら従うしかない弱い立場の未成年だから。
おまけに、私は何の見返りも受けていない。数学の成績は中レベルのまま。推薦の話なんて影も形もない
だから、大丈夫。私たちは簡単にあの人の被害者になれる。
だから、佐藤さんは、私を気にして。
全部知ってる私を気にして。
私は、佐藤さんの肩に顔を押し付ける。
ぎゅうっと抱きつく。
「佐藤さん、大好き」
ねえ、佐藤さん。佐藤さんの『大好き』は、どのくらいの好き?
全部、嘘の好き?本当は私のことなんて全然好きじゃない?
私に触るのは嫌い?私のこと、少しは好き?ほんの少しでも、
本当に好き?
それともやっぱりあの『大好き』は、全部嘘?
これからも、可愛いって言ってくれる?

ねえ佐藤さん。
「今日も一緒に帰ろう?」

寄り道しないで、一緒に帰ろう。






         終




> 不細工な女子高生の浅知恵、の話、の様です。

  

   *  オヅ さまより、(2003.07.14 メールにて)頂く。 
    ↑ のように、ご本人ミもフタもない事仰ってますが、切なくて綺麗なお話です。
    オヅ様は、こうした特別でない、ソレにジレンマを抱える女の子を書くのが
    とても達者でらっしゃる。 読後、こう、キュンとなるお話が素敵です。