狂って、新世界




世界は突然、真っぷたつだった。
正しく言えば、今までひとつしかなかったものが、ふたつに増えていた。
最初に気づいたのは朝、目覚めた時に見た時計だ。壁に掛けている丸い時計がふたつ並んで同じ時間を刻んでいた。歯を磨こうと思った時、洗面台に1本しかなかったはずの、青色の歯ブラシが2本になっていた。ついでにうがいをするプラスチック製のコップも2個に。
はじめは自分の眼球がついにイカれたのだと思った。ふたつになる前夜、遅くまでチリチリしたブラウン管に向かってテレビゲームで遊んでいた。目玉のせいではないことがはっきりしたのは、人間までもがひとりからふたりになっていることを認識した時だ。愕然とした。
前の日まで、この世でたったひとりだったノエはふたりになって、いつものようにアオキの部屋へやって来た。ごく自然に、はじめからそのようであったかのように、やって来た。
「どうしてふたりなんだ」
ひとしきり驚いた後はまず冷静に戻って、漠然とした質問をするしかない。アオキが訊ねると、ふたりのノエは互いに顔を見合わせてから同時に答えた。
「はじめからふたりだ」
「はじめからふたりだ」


ふたりのノエは同じ動きをしない。別々の人間のように、例えば双子の兄弟のように生きている。ノエ達は混乱して頭を抱えたままのアオキをよそに、いつもと変わらずに過ごした。こんな状態になった原因はつまるところ、どんなに考えてもわからなかった。
ノエを呼ぶとふたりとも振り返る。動作はシンクロナイズ。そこの、リモコンを取ってくれと言うと、ふたりはまず顔を見合わせる。数秒してから手前のノエが取る。その内にアオキが呼んでも、ふたりとも無視をするようになった。
アオキはふたりを「ノエ1号」「ノエ2号」と名づけた。もっとも、ふたりの姿形は寸分違わず全く同じなので、アオキには区別がつかない。どちらが何号なのか、ノエ同士でしばらく悶着した後、決まったらしい。1号、と呼んで振り向いた方が1号だ。
ふたりになったノエとセックスするのは戸惑った。俺は果たしてどちらの尻に突っ込めばいいのか?はたまたどちらのを突っ込まれるのか?答えは単純だ。したことがないスリーピースで、ありえない感じで交わった。これは結構良かった。
「なあ俺の、脳味噌は狂っちまったのかな」
裸のノエ1号、2号に挟まれ、アオキはこぼす。ふたりの手がアオキの体の上を滑った。
「狂っているのは世界だ。新しい世界になったんだ」
「狂っているのは世界だ。新しい世界になったんだ」
ノエ達は声を揃え、宙を指差した。
「おまえだって、ひとりじゃない」
「おまえだって、ひとりじゃない」
そしてアオキ2号が誕生した。煩わしいふたりになった。


新しい世界はひとつがふたつになる。
質量が増えてうんざりする。ひとつで足りる物は排除したい。
アオキ2号の存在はアオキにとって、邪魔以外の何者でもなかった。
鏡ではなく肉眼で、自分の姿をじっと見るのは異様な感覚だ。こんなに背中を丸めて歩いていたっけ。なんでそんなに肩が下がっているんだ。無性に腹が立つ。消したい、殺したい。自分自身を疎ましく感じたこと自体ショックだ。この世からいなくなれ。
どっか行けよ。おまえがどこか行け。消えろ。死ね。
ノエ達はキッチンのテーブルで不思議そうな表情をして、ふたりのアオキを交互に眺めた。何度かこそこそと耳打ちした後、アオキに言う。
「片目を瞑ってみろよ」
「片目を瞑ってみろよ」
アオキは言う通りに左手で左目を押さえた。指の隙間からアオキ2号が右手で右目を押さえているのが見えた。左目を塞いだ次の瞬間、アオキの右目の視界から2号が跡形もなく、いなくなった。
「消えた!」
「ふたつをひとつにするには、片目になればいい」
「ふたつをひとつにするには、片目になればいい」
ノエ達は揃って言う。高性能のステレオみたいだ。
「この世界でもうひとりの存在と生きていけないなら、目を潰してしまえよ」
「この世界でもうひとりの存在と生きていけないなら、目を潰してしまえよ」
アオキは左手を目から離す。右手を外したアオキ2号がふてぶてしくアオキを睨んでいる。再度、片目を瞑った。
「こんなのと一緒にいられるか、俺は俺だ、俺ひとりだ」
アオキは吐き捨てるように言った。耳に自分の声、アオキ自身ではなく、もうひとりの声が同時に入る。
「おかしい、どうかしてるね。自分から目を潰すなんてさ、馬鹿げてる。俺はしないよ、おまえを意識から黙殺して生きていく」
「俺はおまえの存在自体を消したい」
アオキは両目を開き、拳を握った。ノエ達が言う。
「おまえが隻眼になっても」
「おまえが隻眼になっても」
愛してるよ、左右から聞こえた。
指をきつく曲げて握る。俺もノエが、ノエ達がいるだけでいいよ。余計なものはいらない。
腕を頭上に振り上げた。左目を破壊するために、全身の筋肉が引き攣る強さで、下ろせ。自らの、眼球を潰すという行動を起こすために追い詰めなくてはならない。背骨がひん曲がっている、足の形が悪い、嘘をつく、裏切る、最悪な人間、ふたりも必要ないなら、片方を消去しろ。
狂ってる、自分のことを殺したいと思っているだけだ、おまえは、そういうことだ。俺はしないよ。
もうひとりの自分が、自分の右目に向かって手を突き刺す。両方の眼球が強烈な熱を放った。


新しい世界は、闇夜のように暗い。








> 一周年のお祝いなのに、目出度さの欠片もない話になってしまったのですが。
   欠落フェチのウメキュさんに捧げます。






   *  Usa さまより、(2003.07.12 メールにて)頂く。 
       「クレイジィ」よりずっと、取り返しがつかない「狂い」ですね。
       もしかして「ノエ」なんて人、存在しなかったら更に怖いです。 フェチをオオッピラにしてて良かった。